不吉の影:3
フォキスの町は、この地方第二の都市である。
500年前にはこの地にフォキス候国が存在し、先の大戦の以前までは、恐るべきアトラス王『人類皇帝』アキレウスが治めていた。
アキレウスはマケドニアに属するテッサリア公国の公子であった。その頃のテッサリアはマケドニアの南半分を占める広大な領土を持ち、更にその南半分。現代のデルフォイでいえば北半分に相当する領域がフォキス侯国だった。
有力な皇位継承者と見なされていたが、讒言によって無実の罪を着せられ、嘆きの門より虹の壁の向こう側に追放された。
後年、そのアキレウスが、流刑にされたアトラス王国をまとめ上げ、復讐のために二度目の大戦を引き起こした。
全てのヒトの王、『人類皇帝』を僭称した彼は、妖魔と呼ばれる、人と魔人の子孫達を率いて襲来し、皇帝ヘクトールを討ち取り帝国を滅亡寸前まで追い詰めたが、かつての部下であった初代イアソンの活躍によって討たれた。
大戦後、新たに首都として整備されたデルフォイが、イアソンを王に戴く新王国として発足したのだが、イアソンはコリントスの所領に移り住んだため、以後王国は四人の評議員の中から、選挙で選ばれた副王が統治する形態を取っている。
旧都であるフォキスは、町の中心を街道が通っていて今でも商人達の交流の場として賑わっている。
デルフォイはこの町を更に西に進んだ新街道の先にあり、南北から来た積み荷がかつての城があった町の中央の市場で取引されている。
「デルフォイに着いたら王宮に顔を出さなくてはね。その間フィオナのことをよく補けるように」
「承知しました。ヘリオス様」
「本来ならメディも連れて行かなければいけないのだけどね。フィオナを一人にするもの気が引ける」
強行軍の疲れを癒やすべく一人部屋を取ったヘリオスの部屋。
ここには二人だけと言うこともあり、ヘリオスは本来の貴公子然とした語り口で寛いでいた。
フィオナは併設された酒場でデメトリオスからリアムの思い出話などを聞いている頃だ。
「そういえばフィオナ先生の様子が何かおかしかった気がしますけど、ヘリオス様はどう思われます?」
「そうか。やはり気がついていていたか。あの沼地を見た時、いつもと様子が違っていただろう?」
「はい。いつもの先生なら真っ先に世界辞典で原因を探ったはずです」
「それについては、まだ確証が得られないので私の意見は保留しておく。ただ……そこまで動揺していたということは、フィオナも戸惑いがあるのだと思う」
「だからわたしが側にいた方がよいのですね?」
「そういうことだ。放っておくと一人であの山小屋まで戻ってしまうかもしれないからね」
わからないことは徹底的に調べる性分だとフィオナはいっていた。
そうならない保証はどこにもない。
「そこは任せてください。あの人はわたしにとって大事な恩人ですから」
「任せたよ、メディ」
さしものヘリオスも疲れたのかゆっくりと目を閉じる。
メディアは自分に任された責務を思い、グッと拳を握りしめていた。
一方、フィオナの方はというと、デメトリオスから様々な思い出話を聞かされていた。
「あの大滝の下の淵で水練をしておった時にな、こう二抱えもある大きなナマズを捕ってしばらくはナマズづくしでござった」
「へぇ。ケンタウロスでもナマズを食べるのですね」
「いや、内陸の方はまだ水が泥臭くてな。あのように美味なものであるとリアムに教えられて初めて知ったのでござる」
ナマズ獲り、キノコ狩り、鷲獅子の目を盗んでの山登り。
鹿狩りやイノシシ狩り。
採れた獲物を町で売って野菜や消耗品を買う。
それは雪割り谷となにも変わらない生活。
どうして彼は帰って来なかったのか?
「ミダスのところに行ったのは素性を隠して働くためでしょうか?」
「そうかもしれんな。商売人だけあって奴も口だけは堅いようだ」
「とにかく、明日直接尋ねてみましょう。デメトリオスさんもご同行願えませんか?」
「そういうと思っておった。すでに先ほどヘリオス殿下と共同で使者は立てておいた。門前払いということはなかろう」
「ありがとうございます」
少し考え事があったために、フィオナはそこまで気が回らなかったのだが、二人は宿に着くなり伝馬士の手配を済ませていたのだ。
伝馬は元々街道に沿い町から町、国から国へ皇帝の命令を伝える軍制の一つであったが、時代が下ると市民同士の連絡手段として伝馬士や飛脚が用いられるようになっていた。
特に伝馬は内陸部では若い人馬族や統馬族の独占する通信・輸送手段であり、貴族や騎士。教会の書類や伝令などを行う職業である。
ちなみに島嶼や山岳地、海ではこの役目は翼人達の独壇場である。
これで相手も言い逃れはできないはずである。
どのみち今は身体を休めて、出立に備える時。
その後は目を覚ましたヘリオス達も加わり、山小屋では落ち着いて話せなかったこの2年のリアムの生活の様子やデメトリオスやヘリオス達の今までの旅の話で盛り上がった。
フィオナも不安な気持ちをしばし忘れて、三人の冒険談を世界辞典に書き留めるのだった。
そして翌朝。気分が少し上向いたフィオナは、朝食の材料を買うために朝市を訪れた。
フォキスからデルフォイは帝国の誇る大穀倉地帯。
麦の穂が沃野になびく黄金の大草原は、この地域の初夏の風物詩となっている。
豊富な穀物や野菜類を眺めていたフィオナは、意外な人物を発見する。
「あれ? リックさん随分早かったのですね。船を使われたのですか?」
そこにいたのは、昨日山小屋で出会ったリック・ヴィオラだ。
こちらを見て、相手は少し驚いた様子を見せる。
「これは……フィオナさんでありましたね。そちらこそとてもお早い」
「ええ、リックさんもご存じ有りませんか? リアムの師匠が送って下さったのです」
「リアムの……師匠ですか?」
何かを考え込むような表情、ほんのわずかにフィオナの心にざわりとさざ波が立つ。
「ええ、人馬族の騎士の方ですが」
「人馬族。それはぜひともお逢いしたかった。是非ともね」
ざわり。と、もう一度いいようのない不安の波が押し寄せる。
昨日話した限りでは、こんな笑顔のような怒りのような表情を浮かべる男だったか?
「私達は街道を来たのですけど、リックさんは船はどちらに?」
一度気になりはじめると、次々と不安はわき上がってくる。
街道で会わなかったから船で来たのだと思ったが、リックは船の話は一言もしていなかった。
だから尋ねてみる。
「ああ。そうでありますね。船は翡翠河の漁師にお借りしているのですよ。市場に魚を運ぶ馬車に同乗させてもらったわけです」
その言葉に矛盾は無い。
「そうだ、フィオナさん。あの沼地のことは何かわかりましたか?」
「い、いえ……なにも。なにもわかりません」
意図的に考えないようにしていた話題を振られ、フィオナは目を逸らす。
「果たしてあのようなものがわずか一月でできるものでしょうか?」
フィオナの答えに期待するようにリックは尋ねる。
「少なくとも、私と私の辞典が識る、いかなる事象とも違うものです。それは断言できます」
無性に会話を終わらせたい。
優しく見えたはずのリックの琥珀色の瞳が、今は猟犬のようにフィオナの喉笛に狙いを定めているように感じる。
「そうでありましたか。貴方であればあの意味をご理解いただけると考えておりましたがね」
早く、立ち去らなければ。
自分の顔面が蒼白になっているであろうことがわかる。
この男は彼女にあの光景を見せることが目的だったのではないか?
「随分ご気分が優れぬようですね。どのみちあなた方もデルフォイに行かれるのでしょう? 私もしばらく滞在しておりますので、またその時にでもお逢いしましょう」
「あ、あの……」
呼び止めようとフィオナが声を掛けようとしたとき、すでにリックの姿は無い。
こちらの気持ちを知ってか知らずか、リックはそう告げるとあっという間に雑踏の中に消えていた。
音も無く消えたその姿に彼女は不吉の影を感じずにはいられなかった。
2018/2/14
世界観の説明を補足し、ヘリオスとメディアの会話を改修。
2018/2/19
当初プロットにあったフォキスでのリックの登場シーンを追加。
今後の該当箇所も修正を行います。




