師匠
エレーヌがマルスからの真面目に取り合わないといけない告白をされ、他の新たな婚約者候補にも頭を悩ましている頃、エレーヌに医療を教えた師匠が帰国するという連絡があった。
エレーヌの医療の知識には、薬の宝庫と呼ばれるアスター侯爵領に生まれたため、身近であったことで身に着いた知識と、医療の師匠に基本からきちんと教わった知識がある。
その師匠とは、以前、アスター侯爵領の医療統括をしていた人物で、マルス第4王子の母方の叔父にあたり、ウィルダー公爵家の次男であった。
彼はもう三十路を超え、もともと体の弱かった妻のために医学を勉強し、アスター侯爵領で働いていたが、治療の甲斐なく妻は亡くなってしまった。
また、王妃となった姉までも続けざまに亡くなってしまい、その甥っ子までも病弱かつ暗殺の危機にさらされていたため、アスター侯爵領で、甥っ子が安全になるまで、ヘドリックの兄、ウィルダー公爵と一緒に、マルスの後見人として何よりも大事にマルスを守っていた。
名前はヘドリック・ウィルダー
エレーヌは、医療の師匠として本当の父親よりも尊敬していて、しかも、あの理解しがたい父親とも彼は何故か仲が良く、父親ストッパーとしても、とても頼りにしていた。
しかし、マルスの治療に必要な特効薬の成分の1つがアスター侯爵領では手に入らないことが判明し、エレーヌをはじめとする他の者達へ治療や仕事を引継ぎ、その薬草の栽培も含めた供給源作りのために長期に渡って隣国まで行っていた。
もちろん、その頃にはマルスの暗殺首謀者の第1側妃はとっくに捕まり、マルス暗殺の危険が大分少なくなったことも見計らってから隣国に向かった。
それから3年ぶりの帰国であった。
「叔父上!ヘドリック叔父上!!」と嬉しそうな声をあげて、マルスが出迎えたヘドリックに抱き着く。
「おおー!マルス!!随分、大きくなって、嬉しいよ!
元気そうだけど、具合はどうだい?」
「はい!薬が切れるとまだ鼻血がでたり、めまいがしたりするのですが、エレーヌの作ってくれる薬がよく効くので、公務にも支障がでないくらいには回復しました!」
「そうか。エレーヌの薬ならよく効くだろうね」
「はい!エレーヌの薬がアスター侯爵領で一番効きます!!」
「ね、エレーヌ!」とマルスが一緒にお出迎えに来ていたエレーヌにも声をかける。
「ありがとうございます。マルス殿下。
……ヘドリック先生。お久しぶりです。お元気でいらっしゃいましたか?」
「エレーヌ、久しぶりだね!
おかげさまで、向こうでは肉体労働もたくさんやっていたから筋肉もついて、元気だよ。
今ならアスター侯爵にも勝てるくらいにね。
エレーヌ、君も元気そうで何より。
随分、綺麗になったね。君もまだ子供だと思っていたのに、すっかり立派なレディだね」
「いえ。そんなまだ……」
「おいおい、帰って早々、私に宣戦布告かい?
何で私に勝つ必要があるんだい、ヘドリック?」と意味深に笑いながら、アスター侯爵も自らヘドリックを出迎えていた。
「アスター侯爵!お久しぶりです!!相変わらず、お元気そうで!!」
ヘドリックとアスター侯爵、マルス、エレーヌ達が話している間にもヘドリックを出迎えた他のアスター侯爵領の薬師など多くの者達がそわそわしていた。
「……みんなも元気そうだね?
お出迎え、ありがとう!」とヘドリックが周囲に声をかけると、みんなもわっとヘドリックに群がった。
「ヘドリック先生!」
「おかえりなさいませ、ヘドリック先生!」
「先生から引き継がれた薬草畑も順調です!」
「ヘドリック先生が帰ってこられて、嬉しいです!」
次々とアスター侯爵領で医療に関わっていた者達のほとんどが、3年ぶりの帰国にもかかわらず、ヘドリックを大歓迎していた。
そう、ヘドリックはこのアスター侯爵領での医療統括として、並々ならぬカリスマ性とその豊富な医療知識と患者への誠実な態度などで、誰よりも慕われており、それは3年も不在にしていても、いまだに衰えていなかった。
「……みんなの話や詳しい報告は、後でゆっくり聞くからね」とヘドリックから優しく微笑まれ、美少年マルスの叔父なだけあって、ヘドリックもやや渋みがあるが美形であることからも、周囲の者達はうっとりとする。
「じゃあ、大事な甥っ子の話を最優先に、ちょっと休ませてもらうね」と言ってヘドリックはマルスと一緒にその場を退出する。
「ええ~。まずは私のところに来るべきじゃない?」とぶーぶー文句をいくアスター侯爵を「お父様、いけませんよ」とエレーヌがたしなめる。
「ふふふっ、エレーヌ、このアスター侯爵領は相変わらずで安心したよ」とエレーヌに笑いかけるヘドリックにエレーヌも「ヘドリック先生が戻られましたので、ますます安心です!」と笑顔で答えるくらい、ヘドリックの帰国を誰よりも喜ぶエレーヌであった。
アスター侯爵領にヘドリックの屋敷もあったが、本日はマルスの利用する王族用の療養施設へマルスのために滞在することになった。
そこで、ヘドリックは、マルスと、マルスの侍従で、かつてヘドリックの部下でもあったディーダと3人で話し合っていた。
「叔父上がお戻りになって、本当に嬉しいです!」
「そう?私もマルスが思ったより元気そうで安心したよ。
もう少しで特効薬が、安定供給できるようになるからね。
……実は、予定より早く戻ってきたのはエレーヌの婚約破棄の件を聞いてね。
とりあえず、すぐに戻って来たんだ。
エレーヌは婚約破棄されて大丈夫だろうかと、あと、もちろんエレーヌにはその後にたくさん婚約の申し込みが殺到しただろうから困っているだろうなと思ってね」
「はい!僕もそのエレーヌの件で是非、ご相談したかったのです。
エレーヌの婚約解消が正式にされるやいなや、僕もすぐに縁談申し込みをしました。
しかし、国王の父上に書いていただいた縁談申し込み書類ですらも、なかなかエレーヌには承諾がもらえず、どうもアスター侯爵には邪魔されているようで……」
「……前に教えた賄賂作戦じゃ、アスター侯爵は落ちなかった?」
「……はい、残念ながら。
一応、エレーヌには縁談申し込み書類を見せてはいたのですが、エレーヌの方では断るのが前提な言い方でしたし、結局、賄賂の品も返却されて、落ちませんでした」
「告白は?」
「できる限りの演出で、僕のエレーヌへの本気の気持ちを精一杯、伝えてみましたけど……。
もちろん、エレーヌには本気で取り合ってくれるように頼みましたが、まだ承諾どころか、可能性としては断られそうです」
「ディーダはどう思う?状況は?」
「はい。マルス殿下は、完璧なまでの告白をされましたが、エレーヌ嬢の方も承諾をもらう上では、なかなか冷静な性格をされていることからも、難しい状況かと思われます。
現在、外堀を埋める作戦を実行中でございます」
「そうか。外堀の対象はもちろん、アスター侯爵夫人と元アスター侯爵かな」
「はい、そうです」
「叔父上、アスター侯爵は難関すぎます。
でも叔父上が味方なら百人力です!」とマルスは期待で目を輝かせる。
「……そうだね。せっかく、エレーヌの婚約破棄までこぎつけたのだから頑張ろうかね」
そう。エレーヌとルーカスが婚約破棄に至るまでの、二人の間の邪魔をしていた真の首謀者は、何を隠そう、このヘドリックであった。
もちろん、マルス殿下自身の策も多々あったが、アスター侯爵領中の薬師達を統括し、それを動かすほどの力がある人間は、このヘドリックだけである。
マルスが幼くして策士になれて、「小さな悪魔」と呼ばれるまでになったのも、この叔父のヘドリックのやり方を間近で見ていたおかげでもある。
ヘドリックは、必要なものや欲しいものをきちんと手に入れるが、相手にその腹黒さを悟らせないで、多くの人心を掌握する手腕は見事なものであった。
だから、ヘドリックはマルスにとって、策士の師匠であり、いまだにかなわないと思われる人物でもある。
「ところで、叔父上は、エレーヌの婚約破棄の詳細はお聞きになりましたか?」
「いや。アスター侯爵から、相手の浮気が原因だったが、エレーヌも喜んで婚約破棄したとしか聞いていないよ」
「エレーヌを傷つけた元婚約者のルーカス・カルディナンへは何か報復しませんか?」
「ふふふ、エレーヌと婚約破棄した時点で、彼は失ったものの偉大さがわからない愚か者ということで、それだけの人間だったってことさ。
まったく。
エレーヌの価値もわからず、ちょっと邪魔されただけで、すぐに浮気のあげく、一方的に破棄とはね。エレーヌへの愛が足りないし、家同士の取り決めでもあった婚約の重要性もろくにわからないなんて、愚か極まりないね。
そんな奴にエレーヌを奪われないで本当によかった。
おそらく、エレーヌファンからもある程度、制裁をされているだろうし、公爵家の人間だから、そう簡単に手をだせないし、報復はもうあきらめなさい」
「……そうですか」
「不満かい?」
「ええ。
あいつ、婚約破棄の際、何の落ち度もないエレーヌへ、態度悪く一方的に婚約破棄を言い放ったあげく、謝罪もせず、浮気相手までその場に連れて行ってて、もう最悪な婚約破棄をしたんですよ。
エレーヌは喜んで受け入れましたし、その後にカルディナン公爵家一家総出で謝罪に訪れていましたが、許せません」
「……それは、エレーヌに可哀想なことをした。そんな状況ではエレーヌでも傷ついたかもね。
あのボンクラがそこまで愚かとは……。
でも、おかげで御しやすかったのもあるからね。
その分、そうなった原因のひとつである私達でエレーヌをフォローしてあげよう」
「……わかりました」
「さあて、次はエレーヌのところに行って、婚約破棄で傷ついているかも知れないから、慰めてあげないとね。
次の婚約者の相談もされたら、のっておこう。
大丈夫!マルスのこともきちんとアピールしておいてあげるからね」
「叔父上!頼りにしています!!」
「さすが、ヘドリック様!」とマルスはディーダとともに喜んだ。
「ああ、まかせておきなさい」
そういって、ヘドリックは、隣国で男前度をさらに上げた微笑みを浮かべ、エレーヌのもとに訪れるのであった。