異世界からの訪問者
次の日の放課後、昨日の遅れを取り戻すように朗は剣道のけいこに励んでいた。3年生の男子相手に一歩も引けを取らない朗を見て、先生も満足そうだ。壁際に下がって面を取ると、朗は一息ついた。だがその時、急に周りが薄暗くなったような気がして顔を上げた。
薄暗くなったというより、自分以外の全てがテレビの中に入ってしまったように遠く感じる。驚いたようにキョロキョロしていると、突然目の前に空気の渦が出来て、それが急に広がったかと思うと、中から2人の男が現れた。
2人ともがっしりとした体つきで、初冬だというのに薄い布の衣服しか着けていなかった。彼らの体は床から2メートルくらい上で浮いていて、風が吹いているわけでもないのに、右側の男の長い金色の髪がゆらゆらとたなびいている。よく見ると、虫のような半透明の4枚の羽根が背中に付いていて、それが小さく震えるようにはためいていた。
男達の深い緑色の瞳がじっと自分を見ているのに気付いて、朗は背中が寒くなった。周りの人達は先生も生徒も皆、何事もないようにさっきと変わらなかった。どうしてみんな何も気づかないのだろう。
「見つけた」
「我らの選定者」
呟いたかと思うと、男達はすうっと音もなく朗の目の前に近づいて来た。思わず床に置いてある竹刀に手を伸ばし身構えた朗の前で、彼等は床に足をつき跪いた。
「貴方を傷つけるつもりはない」
「ここでは人目がある。どうか我らと共に・・・」
一瞬先生や友人に助けを求めようかと思ったが、誰一人この男達の存在に気づいていないようだ。叫び声を上げても分かってもらえないだろうと考えた朗は、おとなしく彼らの後に従った。
男達は部室を出て、階段を音もなく上がっていく。どうやら屋上に行くようだ。途中何人もの生徒に出会ったが、やはり誰も彼等のことは見えていないようで、なんだか自分だけ別の世界に居るみたいで気味が悪かった。
屋上に上がると誰も居なかったが、周囲の薄暗さは続いていた。男達はさっきと同じように朗の前に跪くと名を名乗った。
「我らは妖精の国、パルスパナスの王聖女、アデリア姫の命を受け選定者を探しに参った者で名をマクベス。この者はアルテウスと申す」
左側の短い黒髪の男が言った。
竹刀を持つ手の力は緩めてはいなかったが、敵意は無いようだ。妖精の国と言うのだから彼らは妖精なのだろうが、確かに背中についている4枚の羽根はそれらしいが、こんな大きな筋肉質の男達が妖精とはかなりイメージが崩れる気がした。
話によると、彼らの世界には4つの領域があり、一つは彼ら妖精族の住む森の領域。森以外の地上が人族。空が天空族。地下は魔族の住む領域になっている。
4つの領域にはそれぞれ王が居るが、王の上にはさらに導主と呼ばれる人の世界でいう神のような存在があるらしい。妖精族には木霊王。人には賢伸。天空族には天帝。魔族には暗地王。
「この4つの領域には決して犯してはならない掟があります」
そう言ったアルテウスの声は、マクベスより優しい雰囲気があった。
― どの領域にも他の種族が決して踏み込んではならない ―
「この掟を破れば、その者に死が訪れます。何千年も昔から我らはこの掟を守り続けてきました。しかし・・・・」
そこでアルテウスは言葉を切った。
森の中に散ったおびただしい銀色の羽根。今この瞬間にも、たくさんの同族の命が奪われているのだ。一刻も早くこの方をお連れしなければ・・・。
「木霊王はあなたを我らの国をお救い下さる方と定められた。どうか我らと共にパルスパナスに・・・!」
「ちょっ、ちょっと待った!」
「えー?また待てかよ、風見。一体何回待ったをかけりゃ気が済むんだ?」
黒と白の碁石がたくさん並んだ碁盤の前で、囲碁研究会の仲間がため息をついた。
「いいじゃないか、ちょっとくらい」
そう言いつつ次の手を考えたが、どこに置いてもあまり優位に立てそうになかった。
「悪ぃ、田中。ちょっとトイレに行ってくる」
自分の名前を呼ぶ友を残して、柾人は教室を飛び出した。ああでもない、こうでもないと碁石の行方を考えてみたがどうも今回は分が悪い。
「どうしよう。今度負けたら次のカラオケ、おごってやるって言っちまったしなぁ」
そう呟きつつ、頭を冷やそうと屋上まで駆け上がった。重い鉄製のドアを開けた瞬間、「キャア!」と言う女の子の叫び声がしたので柾人は驚いたように屋上に走りこんだ。
道着を着た朗が居たが、彼女の周りは激しい風が渦巻いて、まるでそれがボールのようになって彼女を包み込んでいた。風の勢いは目も開けていられないほどで、朗は両腕の中に顔を沈め、立っているのがやっとの状態だ。
その風のボールの外側に妙ないでたちの男が2人、銀色の羽根を震わせて空中を飛んでいた。その内の1人が両手を広げると、ボールは朗を包み込んだまま、ゆっくりと浮上を始めた。
「何やってるんだ、お前ら!」
柾人は猛ダッシュで走り出すと、風の中に飛び込み朗を抱きしめた。その瞬間、風がピタッとやんだので、柾人は朗を抱いたままゴロゴロと地面を転がった。
― この男、我らの術を破った ―
マクベスが腰の剣に手をかけたが、アルテウスがそれを押さえて首を振った。
「朗、大丈夫か」
「う、うん」
2人が顔を上げると、妖精達の姿はすでに消えていた。
なんだか気味が悪かったので、朗と柾人はそのまま家に帰ることにした。
「あいつら、一体なんだったんだろ」
帰る道すがら、柾人はどう見ても人間ではない不気味な男達の事を切り出した。
「分からない。妖精の国がどうのって・・・・」
「妖精?妖精がなんで朗を攻撃するんだ?」
「攻撃とかじゃなくて、何だか一緒に来てほしいって・・・」
そう言った後、朗は驚いたように柾人の顔を見た。
「あいつらって・・・柾人、あの男達が見えていたの?」
「え?もちろん見えたよ。やけに筋肉質の外国人みたいでさ。背中にでっかい羽根が生えてて気味が悪いったら・・・」
どういう事だろう。他の人は誰も見えていなかったのに、どうして柾人には見えたのだろう。
家の前に着いても気づいていないような朗を心配して、柾人は顔を覗き込んだ。
「大丈夫か?なんなら今晩・・・お前んちに泊まろうか?」
小さい頃なら当たり前に言えたセリフも、この年になるとドキドキするものだ。朗は笑いながら顔を上げると、竹刀を肩に担いだ。
「大丈夫だよ。私が強いの、柾人も知ってるでしょ?じゃ、また明日ね」
そう言うと、朗は何事もなかったように家の中へ入っていった。
夕食を終えると、朗は急いでシャワーをあび、自分の部屋に入って落ち着かないようにベッドの上に座り込んだ。弟の善朗がゲームをやろうと誘いに来たが、そんな気にもならなかった。もちろんシャワーを浴びる間も、竹刀はそばから離せなかった。
だがそれは恐れからではなかった。今日会った男達は確かに人間とはかけ離れていたが、朗に対して敵意はなかった。話があまりにもさわりだけだったので良く事情は呑み込めなかったが、とにかく困っているようだ。
助けて欲しいというのなら助けてあげたいが、どう見ても彼等はこの世界には存在しない人達だ。きっとあの激しい風の渦は、朗をこの世界とは別の世界へ連れて行く為のもので、そうなると朗はずっと一緒に生きていけると思っていた人と別れなければならなくなる。
それだけは絶対に嫌だ。柾人と離ればなれになるなんて・・・。
朗はベッドの脇に置いた写真たてを手に取った。まだ幼稚園の頃の2人が写った写真だった。
「今度あの人達が来たら、ちゃんと『ごめん、無理』って断ろう。きちんと話せばわかってくれるよね」
それから2日は何事もなく過ぎて行った。朗もいつもと同じように授業に部活に生徒会の用事にと走り回っている。それでも柾人は朗が心配で、囲碁研究会も休み、近くで見守ることにした。
バスケをやっている朗を体育館の出入口から覗き見ていた柾人のところに、再び三宅と中村がやってきた。
「あーあ。見ているだけじゃあきあらなくて、とうとうストーカーになっちまったか」
「告白もできない男は哀れだねぇ・・・」
「だから!俺たちはそんなんじゃないって言ってるだろ?」
そんな征人や朗の居る体育館の全景が見渡せる大きな木の枝から、マクベスとアルテウスが様子を伺っていた。
「邪魔だな、あの男。ずっと選定者に張り付いている」
「なんとかせねば。姫さまの怒りが頂点に達しているぞ」
昨晩彼らは美しい湖を見つけ、水鏡で母国と通信を行った。
「一体何をしているの?お前たち。選定者を見つけたら、すぐに連れてくるようにと言ったでしょう!」
短気なアデリア姫は、水鏡の水面が揺れるほど大声を張り上げた。
「申し訳ありません、姫。ただ、我らの術が効かない人間が現れて・・・」
「言い訳はよろしい」
彼女は水鏡にその緑の瞳を近づけると、部下を睨みすえた。
「一刻も早く連れてくるのです。選定者、アキラを」
マクベスは、冷や汗を抑えるように額に手をやった。
「これ以上待たせたら、姫路自身がこちらにくるやもしれぬ」
「そんなことになってみろ。あの男のみならず、周りの者を皆殺しにしても、アキラ殿を連れて行こうとなさるぞ」
アルテウスは青い顔でため息をついた。
朗が剣道部の練習を終えて部室から出てくると、征人はほっとしたように微笑んだ。今日も何事もなく終われそうだ。征人の姿を見つけると朗は「征人」と呼びながら走ってきた。いつもながら3つも部活をやっているので朗の両手は荷物でいっぱいだ。いちばん重そうな道着の入った袋を持とうとすると、彼女は首を振った。
「大丈夫だよ。慣れてるから」
「いいから。かせよ」
いつもなら「そうか」と言うだけの征人が、少し強引に荷物をひきとって歩いていくのを朗はちょっぴり頬を赤らめて見つめた。初冬の空は遠く霞んで、もうすぐ訪れる本格的な冬の到来を知らせているようだ。だが、朗の心はとても暖かかった。学校から家までは歩いて15分程の距離だ。そのたった15分が私にとってとても大切な時間だって事、柾人は知らないだろうな・・・・。
そう思った朗は、もうすぐ家が見える場所まで来ると立ち止まった。
「柾人、覚えてる?」
「ん?」
「私、小っちゃい頃からお転婆で、幼稚園児なのにもう木刀もって走り回ってたよね」
「ああ、そうだったな」
そうなのだ。あの頃からすでに朗は強かった。いつも近所のジャリ連中引き連れて走り回り、俺はそんな朗を息切れしながら追いかけていたのだ。考えてみると、今とそう変わりがないことに柾人は益々情けなさを覚えた。
「幼稚園の年長さんになった頃なんか特にお山の大将でさ。その頃、先頭きって丘の上を走っていた時、石につまずいて土手を転がり落ちちゃったんだよね。他の子たちはみんなびっくりして泣いていたのに、柾人だけは急いで駆けつけて私を抱きしめて、一緒に転がり落ちてくれた。おかげで私は無傷で済んだんだよね」
その時俺は全身打撲と十数カ所の傷を負ってしまった。しかも情けなくも気を失い、気がついたのは朗が必死に俺を担いで歩いていた時だった。そう。あの頃から俺はドン臭かったんだ。再び苦い記憶が柾人の脳裏によみがえった。
「この間も同じだったね。あんな吹き飛ばされそうな風の中、柾人は飛び込んできてくれて私をかばってくれた・・・」
朗の瞳がじっと自分を見つめているのに気づいて、柾人はドキッとした。
「いつも私が危ない時、全身で私を守ってくれる。だから私、柾人が一緒にいてくれるだけで、すごく心強いんだ」
「朗・・・・」
体中に心臓の音が響いている。そうだ。これってどう見たって告白のチャンスじゃないか。そうだよ。今言わなきゃいつ言うんだ。言え、柾人。男だろ?言え!
決意すると柾人は重い口を開いた。
「朗。俺ずっと朗のこと・・・・」
朗の胸が小さく高鳴った時だった。
まるで別の世界に来たように、自分と柾人だけを残して辺りが一斉に薄暗くなった。
いやだ。今は来ないで・・・・。
祈るように見上げた朗の目に、2人の男達が空に浮かび上がっているのが映った。そして柾人も朗の後ろにできた小さな空気の渦が、回転しながら大きく広がっていくのを見た。
「朗・・・?」
「まさ・・・」
それは一瞬の出来事だった。柾人の後ろから飛んできた男達は朗の両脇を抱えたまま、その空気の渦の中に飛び込み、その瞬間、渦は小さくなって姿を消した。周りの薄暗さは消え、柾人の手元には朗の道着の入った袋だけが残った。
「朗?あきらぁぁーっ!」
必死に辺りを探したが、彼女の姿はどこにもなかった。パニックになりそうな頭を働かせて考えたが、とにかく警察に行くくらいしか思いつかなかった。子供が行っても取り合ってもらえないだろうと思ったので、とりあえず家に戻り、台所にいた母に叫んだ。
「かあちゃん、大変なんだ。朗がさらわれた。一緒に警察に行ってくれ!」
だが母はきょとんとした瞳を柾人に向けた。
「あきら君って誰?柾人の学校のお友達?」
「はあ?何言ってんだよ。かあちゃんの親友の梨花おばちゃんの娘だろ?」
「あんたこそ何言ってるの。梨花に娘なんか居ないわよ。息子の善朗君だけでしょ?」
なぜ母がそんな事を言うのか、柾人には理解できなかった。だがとにかく、こんな所で押し問答をしている場合ではない。
「もういいよ」
柾人は驚いたような顔をしている母に背を向け、家を飛び出した。
朗の家まで走ると、インターホンを押して、すぐに玄関のドアを開け叫んだ。
「おばちゃん!朗が大変なんだ。おばちゃん!」
柾人の声に、朗の母はいつものようにニコニコしながら出てきた。
「まあ、柾人ちゃん、どうしたの?」
「朗がさらわれちまったんだ。一緒に警察に行こう!」
「それは、大変だけど・・・。だったらそのあきらちゃんのお母さんに知らせたほうが・・・」
「何言ってんだ?朗はおばちゃんの・・・」
ちょうどその時、善朗が中学から帰ってきたので、柾人は善朗の腕をつかんだ。
「善朗!お前、覚えてるよな。朗ねーちゃんのこと」
「あきら?何言ってるんだよ、柾人。俺にねーちゃんなんて居ないだろ?俺はずっと一人っ子だぜ」
何が何だか分からなくなって、柾人はそのまま朗の家を出た。一体どういう事なんだ?どうしてみんな朗の事を忘れちまったんだ?
次の日、学校に行っても朗の姿はなかった。それどころか、朗の座っていた机を指さして朗のことを聞いても、みんな以前からその席は空席だったと言うだけだ。朗の所属していた部や生徒会役員に聞いても、みな朗のことを覚えていなかった。親友の美嘉でさえも・・・。
なんだよ。一体どういう事だよ。
昨日あれから柾人は家に戻って、古いアルバムを開いた。まぎれもなくそこには、朗と柾人の17年間があった。2人で写っている写真を母親に見せたが、彼女は写っているのは柾人だけだと言った。
みんな朗のことを忘れている。写真を見せても見えていない。じゃあ、どうして俺にだけは見えるんだ?
柾人は授業を終えると、そのままふらふらとした足取りで家に戻った。誰もがみんな朗のことを忘れているのが辛かった。あんなにもみんなから好かれて、いつだってみんなの中で楽しそうに笑っていたのに・・・・。
柾人は昨日持って帰ってきた朗の荷物を開いた。彼女が使っていた道着や道具には諸伏という名前が刻み込まれている。彼女の名前に触れた時、朗の汗のにおいがして、柾人の胸はたまらないほど締め付けられた。
「朗は居たんだ。ここに、俺の側に・・・・朗は居たんだ」