一人きりの京都
『京都ー、京都ー』
スピーカーから聞こえてくるくぐもった声に、柾人ははっと目を覚ました。新幹線を降りる人々がシートの間の細い通路をぞろぞろと歩いていく。柾人は網棚の上の荷物を慌てて下ろすと、自分もその波の中に入っていった。
柾人にとって京都に来るのは2度目になる。最初は中学の修学旅行でやってきた。金閣寺に嵐山、清水寺や哲学の道。京都の名所を朗や仲間たちと共に廻った。朗と家族抜きで旅行するなんて初めてで、他のクラスメイトが居るのにすごくワクワクしたのを覚えている。
修学旅行最後の夜は朗と2人だけで土産物屋めぐりをした。朗は両親や善朗の土産を買うと、自分用に何とかっていう名匠が作った木刀を買った。京都に来たら絶対これを買うと決めていたらしい。
それを持って夜の街を歩いていると、数人の不良グループに囲まれた。どうやら奴らも他県から来た修学旅行生だったようだが、朗が木刀なんかを持っていたので勘違いしたらしい。もちろん俺はビビッて声も出なかった。
「なんや、お前。男や思たら女やんけ。そんなもん持って勇ましい事やのー」
髪の先を金色に脱色した男が朗に顔を近づけてニヤリと笑ったが、朗は「行こう、柾人」と言って柾人の手を引いた。
「なんや、なんや。女に引っ張られな歩くこともできへんのか?情けないお坊ちゃんやねぇ」
「もしかしてこっちも女の子やったんかぁ?」
自分の事は何を言われてもいいが、柾人を馬鹿にされると朗は一瞬で目つきが変わった。
「ふっ。平野修幻作、黒檀木刀の切れ味。ここで試して見せようか」
(口調がやたらと時代がかっているのは、このころ朗が眠狂四郎シリーズの復刻版DVDにはまっていた事による)
朗は菖蒲染めの木刀袋から自慢の名刀を引き抜くと、殴りかかってきた6人の男達をあっという間に叩きのめしてしまった。
― まずい、まずいよ。こんな所で乱闘事件なんて・・・ ―
柾人は明日の新聞に“修学旅行中の中学生。京都で大乱闘!”と言う見出しが載っているのが鮮明に思い浮かんだ。
「朗、逃げよう」
なんで?と言う顔の朗の手を引っ張って柾人は走り出した。走って走って・・・。三条駅にほど近い三条大橋まで来てやっと柾人は止まった。
「もう、朗は。無茶するんだから」
激しく肩を揺らしながら、柾人は膝に両手を乗せて朗の顔を見上げた。
「だって・・・」
あいつらが柾人を馬鹿にするから・・・。そんな言葉を飲み込んで木刀を袋に入れると、朗は橋の欄干にもたれかかった。
「でも・・・面白かったね」
「何が面白いんだよ。おかげで大嫌いなランニング、やっちまったじゃないか」
まだ息を切らしながら答える柾人に朗は笑いかけた。
「又いつか来たいね、京都。今度は2人で来ようか」
「え?」
自分の心臓の音が体中に響くのと同時に、あたりに居たまばらな人影が途絶えた事に気が付いた。色とりどりのイルミネーションを背景に静かに流れる水音に耳を澄ましている朗の横顔は、とても大人っぽく見えた。
いつからだろう。こんな朗を見つめる時、胸の奥が痛くなるようになったのは・・・・。
「朗。写真撮らないか?」
携帯を取り出した柾人に朗は微笑んだ。2人で写る写真は何枚目だろう。柾人はあの夜の写真を見ながら寂しそうに笑った。今度京都に来る時は2人で来ようって約束したのに・・・。彼は小さくため息をつくと、占い師に教えてもらった住所の紙を取り出した。
「ここから烏丸線に乗って四条・・・そこからはバスだな」
呟くと柾人は歩き出した。
半日がかりでたどり着いた住所に建っていたのは、寺でも何でもなく普通の家だった。別段大きくも小さくもなく、和風建築でもない、郊外にあるのと変わらない作りに柾人は不安を覚えた。
「本当にここでいいのかな」
怪訝そうに近づくと門の中から夫婦らしい男女が出てきた。年の頃は2人とも30代半ばくらいだろうか。何故か妻は泣いていて、夫が肩を抱きながらやさしく言葉をかけていた。
ー 一体何なんだ? ー
余計不信感を抱きつつ、夫婦が去っていくのを見送っていた柾人は、門を閉めようとする男性に気付いて思わず声をかけた。
「あ、あの俺、暁照さんに会いに来たんです。えっと・・・」
誰々の紹介で・・・。と言おうとして、占い師の名前を聞いてなかった事に気が付いた。しまったという顔をしている柾人に20代前半の若者はにっこり笑うと、扉を開けてくれた。
「それは暁照と言うんです。仁科暁照。どうぞ。きっと彼にはあなたが何をしに来たかわかっているでしょうから」
そんなにすごい人なのか?期待に胸を膨らませながら男の後について門をくぐった。たくさんの植木鉢が並べられ、そこに寒さに強いビオラやガーデンシクラメンなどが明るく咲き誇っている。家の横にはウッドデッキがつけられ、その向こうには芝生がまだ少し青さを残して広がっていた。
「僕は田中圭祐といいます。助手みたいなもんですわ」
彼の名も本当に普通だ。占い師は坊さんと言ったので、名前も暁照だと思っていたし、家はこの京都にふさわしい寺だと勝手に思い込んでいた。
家の中に入ってすぐ右手にある12畳位の大きな部屋に通された。たくさん椅子がならんでいて夫婦が3組、独身らしい女性が一人座っている。ここで待つように言われたので、1組の夫婦の夫が座っている隣に腰かけた。
年代は皆バラバラで1組の夫婦は40代、2組目は50代、柾人の隣の夫婦は30代後半くらいだ。一人で来ている女性は柾人より少し年上に見えた。
田中がまだ戻ってこないようなので、隣に居る男性に声をかけた。
「あの、さっき出て行った女の人、泣いてたみたいですけど、何かあったんですか?」
男は不思議そうな顔で柾人を見た後、微笑んだ。
「心配せんでええよ。彼に会うたらみんな泣くんや」
さっぱり意味が分からなかった。
「あの、仁科さんってそんなにすごい人なんですか?」
「そうやなぁ。彼の瞳は人の深遠を見通す・・・と言われてるけど。でも修行してない人には、なんも言うてくれへん時もあるらしいわ」
修行?俺、何にもしてない・・・。
柾人が修行ってどんな?と聞こうとした時、田中が戻ってきた。
「すんませんなぁ。仁科はあなたは一番最後や言うてます」
「最後?」
「この後も色んな人が来るんですけど、あなたは一番最後まで待ってもらわなあきません。それでもよろしおすか?」
「はい。大丈夫です。いつまででも待ちます」
きっと修行してなかったから最後なんだ。それでもいい。会ってもらえるんなら。
それからも続々と人は訪れた。もう夕方だというのに人の絶える気配はなかった。
ここに来るのは老若男女、本当に色々な世代の人たちだった。皆じっと押し黙って順番を待っている。田中が呼びに来ると、みな緊張した面持ちで家の奥に向かって歩いて行く。たいていが30分以上話し込んで帰ってきた。そして大体女の人は泣いていたり、目を赤く腫らしている。男でも時々泣いている人が居た。
柾人にとって、それは奇妙な光景だった。なぜなら不思議とみんな泣いているのに、行く時より帰る時の方が晴れ晴れとした顔をしているのだ。どうしてだろう。怒られて泣いているのなら、もっと辛そうなはずなのに・・・。
外は真っ暗になり、柾人の腰とお尻は固い椅子のせいでかなり痛かった。携帯で時間を見ると、もう夜の11時50分だ。それでもまだこの待合室には若い男性が2人と老夫婦が一組、若いカップルが一組居た。
一体いつまでこの人の波は続くんだろう。柾人は大きくため息をついた。午前2時を回ったころ、やっと人の姿は消え、柾人は部屋に一人きりになった。うとうと眠っていた柾人は田中に声をかけられ、はっと目を覚ました。
「お待たせしました、風見さん。どうぞ」
「は、はい」
慌てて立ち上がったので、膝の上に置いていた携帯を床に落とした。すぐに拾って田中の背中を負った。
「ほんまにすいませんねぇ。めったに一番最後にするなんて無いんですけど。それでも今日はまだ早い方なんです。たいてい土日は眠れませんから」
そういえば今日は土曜日だ。平日にすればもっと空いていたのだろうか。
「あの、仁科さんはお坊さんじゃないんですか?}
「彼はある会社の社長をしてます。僕はそこの社員でして。平日も会社が終わってから訪ねてくる人は結構いましてね。人はみんな道に迷うものです」
会社の社長にしては質素な家だ。それにそんなにたくさんの人が相談に来れば、お礼もたくさんもらえるだろうに・・・。
お礼の事を考えた時、柾人は自分がそんなにお金を持っていない事を思い出した。
「すみません。俺、金って交通費くらいしか持ってきてなくて・・・」
田中はポカンとした顔で柾人を見た後、笑いながら首を振った。
「お礼はいりません。これもすべて修行ですから」
修行?つまりボランティアって事か?これだけ自分の時間や労力を使って無償奉仕なんて・・・。柾人はますます仁科の事が分からなくなった。
廊下の先にあったのはリビングらしく、扉は開けっ放しになっていた。中に入ってまず最初に目に付いたのは、1人がけのソファーにけだるそうに座っている50がらみの男だった。楽な姿勢で座る彼は、ゆったりとした灰色のスウェットスーツを着ていた。やはり僧侶ではないようだ。本当にどこにでもいる普通の人に見えたが、なぜか柾人は黒縁のめがねの奥の彼の瞳を見ることが出来なかった。
田中に促されて男の前にある3人掛けのソファーの真ん中に座った。それでもまだ目の前に居る男の顔をまともに見れなくて、うつむいたまま黙って座っていた。
「長い・・・長い間、大変やったな・・・」
見かけよりずっとやさしく響く声が、柾人の胸の奥をぎゅうっと締め付けた。
本当に長かった。朗の居ない一か月・・・。一年にも二年にも感じられた。どんなに尋ねても誰も朗の事を知らない。どこにも彼女の痕跡がない。そんな日々の中、柾人は自分だけおかしくなってしまったんじゃないかと思った。朗という人物を勝手に作り上げ、自分の目にだけ朗が映っている。
ずっとそんなことは無いと自分に言い聞かせて、当てもなく捜し歩いた。辛くて悔しくて朗に会いたくて、毎晩朗の夢を見た。その一か月の思いの全てを、この人は知っている。
そう思った瞬間、柾人の目から大粒の涙がポロポロと零れ落ちた。胸の奥が痛くて、知らぬ間に嗚咽が漏れていた。
「よう一人で頑張った。そやけどなぁ、この世界でわしがあんたの為に出来ることは何もない。何もないんや」
柾人は驚いたように顔を上げた。
「どうして、どうしてですか?あなたなら出来る。朗に会わせてくれるって思ったのに!」
身を乗り出して必死に訴えた。やっと見つけたたった一つの希望を失いたくなかった。
仁科は眼鏡を外すと、指で眉間を押さえ、小さくため息をついた。
「わしは神でも仏でもないんやで。わしが出来るのは、あんたらの後ろに居はるえらーいお方が、あんたらが幸せになれるように一生懸命語ってくれることを伝える事だけや。この世の条理を曲げてまで己の願いを押し通そうとしたら、良い結果を生むことは少ない。それでもあんたはこの道を行く言うんか?」
朗に会いたいと願うのは、そんなにもいけない事なんだろうか。ただ側に居たい。それだけなのに、それさえも許してもらえないのか?
「あいつに会っちゃ駄目なんですか?あいつを取り戻したいってのは、俺のエゴなんですか?それでもあいつは・・・・」
こんな風に初めて会った人に無理を言って泣いて取りすがる自分はみっともないと思った。それでもいい。みっともなくても情けなくても、それが俺だから・・・。
「朗は・・・俺の一番なんです。俺の人生の中で・・・たった17年だけど、その人生の中で・・・あいつは俺の世界の全部なんです!」
零れ落ちる涙が膝の上を濡らしていく。多分こんなにたくさんの涙を落としたのは生まれて初めてだろう。
「そんなら・・・もう覚悟は出来てんのやな?」
静かに尋ねる声に柾人は一瞬ドキッとしたが、うつむいていた顔を起こして仁科の顔を見た。
彼の瞳はとても黒かった。本当に心の奥底をすべて見透かされているようだ。いや、きっとそうなんだろう。朗に会いたいと切望する裏側で、もし会って戻りたくないと言われたらどうしよう。それとも俺の事をすっかり忘れてしまっているんじゃないだろうかといつも考えている。そんな恐れさえもきっと彼は見抜いているんだ。
永遠の拒絶・・・。それをずっとずっと恐れてきた。だからあんなに側に居たのに、何にも言えなかったんだ。
覚悟って何だろう。何を覚悟って言うのか分からない。だけど今、俺が言う言葉はこれなんだ。
「俺は朗の側に行きます。たとえそれがどんな場所でも。朗の居る所が、俺の生きる世界だから・・・」
涙を拭きとって決然とした瞳を向けた柾人に、仁科は初めて笑顔を見せた。
「そやなぁ。あんたやったら、あのお人も会うてくれるかもしれへんな」
仁科はソファーの上にあげていた足を疲れたようにゆっくりと組みなおした。
「なにせ変わった人やからな。気に入らん人間には扉を開けてくれへん。それでも良かったら訪ねてみたらええわ。少々あてにならへん旅になるかもしれへんけどな」
あの人って誰なんですか?柾人が尋ねようとすると、仁科が先に返した。
「あの人っていうのは、わしも会うた事が無い人でな。知る人の間では狐童子と呼ばれとる。阿部清明の生まれ変わりや言われてるからそういうあだ名がついたんやろう。そやな。今日はここに泊まったらええ。・・・と言うても朝5時には起きてもらうから少ししか寝られへんやろけど。あとは明日や。おやすみ」
いきなり突き放されたように「おやすみ」と言われ、柾人は面食らったように仁科の顔を見た。ちょっと待ってくれ。まだ質問したい事はいっぱいあるんだ。
だが柾人が最初の一言を繰り出す前に田中が来て、部屋に案内するので付いて来るように言われた。疑問は山のようにあったが、今日一日の事を思えば仁科の疲労はピークだろう。とにかく明日になればいろいろ教えてもらえるのだから、今日のところは休んだ方がいい。
柾人は立ち上がって仁科に礼を言うと、田中の後ろについて部屋を出た。
案内されたのは2階の部屋で、部屋数は3つあり、その中の一番左側の部屋に通された。中は和室で、すでに部屋の真ん中に布団が敷いてある。朝5時に起こしに来ると告げて田中が去って行ったあと、柾人は力が抜けたように手に持った荷物を畳の上に落とした。
わけの分からないままここへ来て、益々わけの分からない状態になっている。それでも仁科を信じてみようと思った。上着と靴下を脱ぐと、滑るこむようにして布団にもぐった。疲れと緊張が解けたからか、すぐにけだるい眠気が襲ってきて意識が深く沈んでいった。




