親子喧嘩
河太郎親子の些細な出来事。
楽しくもなんともないです。完全なる、自己満足です。
これは、魔海で河太郎が魔界の(身体はちっちゃいけど)大スター・くらけんさんに甲羅にサインを書いてもらった日の出来事。
「ママ―!くらけんさんにサイン貰ったー!」
「まあ、よかったわね」
元気良く扉を開けて帰ってきた河太郎少年は、にこやかな笑顔と出くわし、そのまま母親から距離をとった。
「河太郎?どうしてママから逃げるのかしら?」
「ママが布と除光液を持っているからです!」
「どうしてママがこれを持っていると、河太郎は逃げるのかしら?」
母親はにこにこと笑っている。河太郎は背中を見せないようにじりじりと後退る。
「ママがマニキュアを使っていたとは思わないの?」
「ママの性格的にあり得ません!」
きっぱり断言されて、母親は苦笑した。それを肯定と受け取って、河太郎は逃げ道を探してきょろきょろとあたりを見回すが、最初に逃げ道を選択した時点で、部屋の中に飛び込んでしまったので後の祭りだった。
「じゃあ、河太郎はこれがなんだと思って逃げ出したのかしら?」
「それは…なんというか、ママの顔が魔王様のノリさんとかぶって見えたからです」
「あらあら、うふふ…」
「くっ、やはりか!ママ友ネットワークですべてお見通しだったのか!?」
河太郎は、自らの敗北を悟った。帰り際、魔王様に気をつけてと言われていたのに!
悔しがる様はどことなく日々魔界に翻弄されている勇者を彷彿とさせる。河太郎は、本人も気づいていないところで勇者の影響を受けていた。
「河太郎?背中に、いえ、甲羅に、なにを、隠して、いるのかしら?」
「なにも隠してないです!ママ、顔が怒った時のかぁちゃん様みたいです!」
かぁちゃんは魔具職人のきぃちゃんの兄で、魔界で一番恐れられている人だ。河太郎の使ったこの表現は、言うなれば鬼の形相という意味である。……鬼よりかぁちゃんのほうが怖いのだが。
「まあ。私なんて、かぁちゃん様の足元にも及びませんよ。あなたは本気で切れたかぁちゃん様を見たことがないから…」
「そう言いながら近寄ってこないでください!」
「ふふ、河太郎?いつまでそうしていられるかしら?」
母親は無慈悲に近寄ってくる。
「だってっ!くらけんさんのサイン…!」
「あなたは仮にも河童でしょうが!大切な甲羅を汚すのではありません!」
「やだー!ママの馬鹿ーっ!」
「あっ、こら!」
河太郎は母親の隙をついて逃げ出した!
「待ちなさい、河太郎!」
「ママなんか知らない!」
「……で、どうして家に?」
「もう、私どうしたらいいのかわからなくて…」
三十分後、河太郎が部屋に閉じこもってしまったので、困り果てた母親は子育て相談に来ていた。
「キュリー夫人、やっぱり河太郎と喧嘩したんですか?」
「魔王様…。ええ、そうなんです。もう、どうしてわかってくれないのかしら…」
友達の母親が来たと聞き、不安そうな顔をしてやってきた魔王に、母親は苦笑して答える。そこに、お茶を持って勇者が現れた。呆れ顔で。
「おい、魔王。お前今日の分の仕事のノルマ終わってないだろ?」
「だって勇者さん、河太郎が…」
「いいですよ、勇者。子ども視点で答えが見つかるかもしれませんし。でも、このお茶を飲み終わったら仕事に戻ってくださいね?」
「はーい」
「お前、魔王に甘過ぎるだろ…」
とか言いながら、茶器は人数分用意されているあたり、勇者も人のことは言えない。それに気づいてはいるが、魔王の側近は何も言わない。河太郎の母親に至っては、微かに笑うだけだった。勇者は親たちの温かい眼差しに気づかず、慣れた手つきでお茶を注いでいく。
「あ、僕おせんべい持ってきますね!」
「あっ、お前、こないだのせんべい隠したんだな?なくなったと思ってたら…」
「だって、おいしいから…」
「あほ、湿気ってまずくなってるぞ」
「えー!?そんなぁ…」
「ほら、トースターで乾かすぞ。どこやった?」
「あ、こっちに…」
とても魔王と勇者という敵対――――もとい、殺し合うべき存在同士とは思えないやり取りをしながら、勇者と魔王は仲良く部屋を出て行った。それを何とも言えない表情で年長者たちが見送る。
「苦労性ですね、勇者さん……」
「気を利かせすぎなんですよ、勇者も。ありがたいんですが、毎日の胃薬の調合が間に合いませんよ。最近やっと、普通のわがままを言うようになってきましたけど。魔界の道具にも慣れてきましたしね」
「ふふ。いい子、ですね」
「ええ。勇者も、河太郎君もね」
「魔王様も、いい子ですよ?」
「…そうですね」
河太郎の母親と魔王の育ての親は、見た目だけならば子どもの括りに入れられそうでありながら、どことなく年寄りくささを感じさせた。
「で、喧嘩ですか。やはり、あれで?」
「ええ。もう、甲羅は大切だって、生まれた時から言い聞かせているのに…」
「親の心子知らずとは、まあ、よく言ったものですが…」
「甲羅を大切にしないと、虐められるのに…」
「キュリー…。それは……そう、ですね」
「河太郎まで、あんな目にあったら、私…」
幼いころの記憶というものは、強烈であればある程心に大きな傷を負う。彼女の幼少期を知る者としては、そこまで酷いことはないだろうと思いつつも、下手なことは言えない。
「あ、こら、魔王!」
「勇者さん、早く!お茶が冷えちゃうよー」
「食べ物を持ったまま走るな!」
「大丈夫ー」
どたばた騒がしい声が聞こえてきて、二人が戻ってきたことを知る。
「あ、ただいまー。おせんべい持ってきたよー」
「ったく、こけたらどうすんだ?」
「ごめんなさーい」
「せんべいがもったいないだろ」
「心配そっち!?」
「当然だな」
賑やかに部屋に入って来たせんべいを持った魔王と、魔王のために扉を開けた勇者の姿に、悩める母親もつい笑ってしまう。
「あらあら、勇者さんもすっかり馴染んでるんですね」
「まったく、どこの兄弟ですか」
「えー?兄弟って、こんなだったっけ?」
そこで、勇者ははたと我に返った。
「…あれ?俺、なんか毒されてきてる?」
「…いいことですよ。そのくらい図太く生きるのが普通なんですよ、勇者さん」
「そうか?……う~ん、そうか…」
「私たちはなにがあっても勇者さんの味方なんですから、もっと我侭に自分を出していいんですよ?」
「……はい。ありがとうございます…。……ん?あれ、魔族に味方される勇者って…?」
若者を気にする年長者からの助言という心温まる構図から、自身の培ってきた常識ゆえに違和感を感じつつもほっこりしている勇者の横では、
「ねー、ノリ。兄弟ってこんなだっけ?」
「そんなんでしたよ。残念ながら、兄はいなかったので男兄弟はよくわかりませんが」
「……僕あんまり覚えてないや。ボケたかなぁ?」
「若者が何を言いますか」
どうでもいい話が展開されていた。
「で、話を戻すとして、だ。河太郎はなにがあって部屋に閉じこもったんだ?」
「あ、思考を放棄した」
「発言は挙手してからな、魔王。今は河太郎の話だろ?」
「はーい」
「どこの学校ですか…」
「はい」
「…むう。ここで挙手しますか、河太郎のお母さん。発言を許可します」
「はい。河太郎の甲羅を洗おうとしたら、逃げられました」
河太郎が甲羅を大切にしていることを知っている魔王は首を傾げ、勇者はなぜ洗われるのが嫌なのか分からず眉間にしわが寄る。説明不足な母親と、情報不足で混乱している二人を見て、溜息をつきつつ事情を理解している残り一名がヒントを出す。
「…ほら、今、河太郎君の甲羅にはなにがあります?」
「え?くらけんさんのサインのサインだろ?…あー。わかった」
「ああ、そうだった!やっぱり、洗おうとしたんだね…」
そんな周りの落胆がわからず、母親は一人首を傾げる。
「えっと、何か問題が?」
「問題っていうか…」
どう言えばいいのかわからない魔王一行。
「ええと、ですね。キュリー夫人には、甲羅が汚れていると酷い虐めを受けたことがありまして…」
「イジメ?魔界にもあるのか?」
勇者が意外だという顔をする。勇者の中で魔界がどれだけ美化されているのかが窺がえ、側近は悲しげに苦笑した。
「ありますよ。ごく一部の地域……というか、ある村でだけですけど」
「でもッ!河太郎にはあんな目にあってほしくないんです。可能性が少しでもあるなら!」
「いや、だけど。河太郎は消してほしくないんだろ?」
「なんでよりによって甲羅なんですか!?昔から、あんなに言い聞かせてきたのに…」
母親は悔しげに唇を噛む。魔王と勇者には、そんな母親が理解できない。なぜ、甲羅にそこまでこだわる?
「…ねえ、どうしてそんなにこだわるのか分からないけど、河太郎も同じ気持ちだとは思わないの?」
魔王はきょとんとしたまま、母親に問いかける。
「河太郎の気持ち…?」
「河太郎はね、今、すっごく悲しいと思うんだ」
そういう魔王のほうこそ、とても悲しそうな顔をしていた。母親は、それが理解できない。
「なぜです?河太郎に裏切られた私のほうが、とても悲しいです……!」
「言いつけを破ったから?」
「そうです!河太郎と、甲羅を大切にするって、約束していたのに…」
そんな母親の気持ちは、自分にも覚えがあるので思わず頷いてしまう側近。
「いや、河太郎はものすごく甲羅を大切にしていると思うぞ?」
思わず勇者はそう口を出していた。河太郎は基本じゃれついてくるので一緒にいることが多く、そのため、いつも汚さないように気をつけていたのを知っているのだ。しかし、怒れる母親には通じない。
「どこがですか!?落書きさせるなんて、大事にしているとは言いませんよ!」
「落書きじゃないよ、くらけんさんのサイン!」
「どう違うというのですか!?」
「全然違うよ!」
母親vs魔王。友情のために奮戦する魔王。
「あなたと河太郎、全部が一緒じゃないんだよ!河太郎の価値観を、どうして認めてあげないの!?」
そう叫んだ魔王は泣きそうだった。
昔、魔王が河太郎程のころにした喧嘩を思い出し、側近は胸が痛くなった。あの時は、結局魔王を泣かせてしまい、側近が折れたのだが、今ではそれでよかったと思っていることの一つである。それを思い出したのだ。
「価値観を認めてない…?なんですか、それ!私が間違っているというのですか!?」
母親のほうも泣きだしそうだった。彼女も傷ついている。けれど。
「間違っているわけではありません、でも、少し落ち着きましょうか。勇者、お茶のお代わりをお願いできます?」
「ああ」
勇者もなんとなくわかったようで、辛そうな表情を浮かべながらもお茶を注ぎ足していく。多分、勇者も子どもたちと同じ経験をして、苦しんだのだろうと察せられた。
「……なんで」
「落ち着きなさい。あなたも、一番大切なものを失いたくはないでしょう?」
「…え?」
このまま、我を通してしまえば、母親が一番大切なもの―――子供からの信頼を失うことは明白だった。仲のいい親子だし、絆も深い。取り戻せないことはないだろうが、きっと河太郎の心に消えない傷を残すのだろう。
「いいですか?あなたと、河太郎君は別の人格です。河太郎君は、あなたの分身じゃない」
「…わかっています」
「わかっていません。彼には、彼なりの価値観があります。大切なものも、好きなものも、あなたとは違うのです。もちろん、同じものもありますけどね」
そこまで言って、側近は苦笑した。かつては自分もわかっていなくて、危うく魔王を傷つけるところだったから。
「あなたにとっての落書きが、河太郎君にとっては大事なものだと、なぜ思えなかったのです?」
「…だって、ただの落書きだから……」
「あなたにとってはね」
「……河太郎にとっては、違うのですね」
それでも納得はできなかった。
「あなたに、河太郎君の行動を強制する権利はありません」
「…はい」
「……あの村で育てられたあなたです。難しいのはわかります。でも、あなたのその育て方は危険です」
「……」
「河太郎君は、河太郎君の思いがあり、それに従って行動する自由がある。人を傷つけることなら、どんな手段を用いても止めるのが親の義務です。でも、それ以外は見守り、支えるのが私たちのあり方です」
母親も、頭では言われたことが理解できた。けれど、心がついてこなかった。
「自分の思い通りに育ってほしい気持ちはわかりますよ。でもね、それは子どもの幸せにはならないんです。大丈夫、あなたたちは強いですから」
「……はい」
理解できる。でも、納得できない。したくない。母親は頭が痛くなってきた。すべてがぐちゃぐちゃだった。その様子を見ていた魔王が、悲しい顔のまま聞いた。
「あのね、河太郎と喧嘩したいの?」
「いいえ!」
「じゃあ、河太郎を人形にしたいの?」
「え?」
「あなたの思い通りになんでもする人形。あなたが嫌だと思うことは何にもしないで、あなたの喜ぶことは何でもしてくれるような子どもがあなたの理想?」
母親は考えた。もしそうなら、どれだけいいだろう。こんなことで悩む必要はなくなる。幸せだろう。
「でも、あなたの幸せでしょう?河太郎の気持ちや幸せは、あなたの理想の中にあるの?」
「それは…」
ある、とは言えなかった。想像の中には自分の幸せしかなかったのに、気付いてしまったから。
黙り込んでしまった母親を見かねて勇者が助け船を出す。
「あー。多分な、河太郎は甲羅が大切だから、サインしてもらったんだと思うぞ?」
「え?」
「大切なものの価値を、好きなものを飾ることで上げたかったんだな」
「…なんで、そんな……」
もはや、母親は息子を理解できなかった。それを察した側近は、困ったように母親の側に移動し、その頭を撫でた。
「理解しなくていいんですよ。当り前です。同じ存在ではないのですから、すべて理解できたらおかしいのです。ただ、認めてあげなさい」
「……」
「難しいですね」
「…はい」
親には親にしか分からない思いがある。
「河太郎を、否定しないで」
「…魔王様」
「河太郎、今すっごく悲しいんだと思うよ。お母さんに理解してもらえなくて、喧嘩して」
「…はい」
子どもには、子どもだからわかる思いがある。
理解してくれない、理解しようとも思ってくれない価値観の押しつけは、生きる強さ自体を奪ってしまうのだ。
「じゃ、仲直りしてらっしゃい。これも忘れずにね」
そう言って、側近は割烹着のポケットから、珍しくまともなものを取り出したのだった。
魔王とその側近、そして勇者の声援を受け、少しだけ立ち直った母親は、河太郎の部屋の前にいた。時折、しゃくりあげる声が聞こえてきて、河太郎も傷ついていたことを改めて実感する。
「河太郎、ごめんね」
「……」
「河太郎の気持ち、お母さんわかってなかったね」
「……」
「河太郎は、ちゃんと、甲羅を大切にしてたんだよね。約束、守ってたんだよね」
「……うん」
しばらくして聞こえてきた声は、ひどくかすんでいた。
「河太郎、出てきてくれる?ママと、ちゃんと仲直りしてくれる?」
「……そう言って、甲羅洗わない?」
河太郎から疑いの声が聞こえた時、母親は、信頼が揺らいでいることに気づかされた。河太郎から疑われたことなど、今まで一度もなかったから。
「しない。絶対にしないわ」
「……わかった」
そう言って、河太郎は酷く慎重に扉を少しだけ開けた。警戒されていることに悲しくなって、母親の目にも涙が戻ってきてしまった。
「ママ?大丈夫?」
母親の涙を見た瞬間、河太郎は慌てて抱きついてきた。心配してくれる事が嬉しく、ますますこの子を苦しめたことが心苦しい。
「大丈夫よ。ごめんね、河太郎」
「…ごめんなさい」
そう言って抱き締めると、河太郎はしがみつきながら謝る。
「どうして謝るの?」
「もしかしたら、お母さん嫌がるかなって、思ったのに……」
だから、魔王様にも気をつけるように言われたのだ。親と喧嘩になるかもしれないと、危惧したから。
「いいの。あなたがそうしたかったのでしょ?」
「…うん。でも、お母さん怒るから…」
「もう怒らない。ごめんね、怒らなくてもよかったのにね」
「……いいの?」
「いいのよ」
そう言って母親は河太郎の頭を撫でた。やっと、ほっとしたように河太郎が肩の力を抜いて、かすかに笑う。
「河太郎、お母さんね、いいもの借りてきたの」
「いいものー?」
「そうよ。でも、その前にごはん食べましょう?」
「…うんっ」
それから、河太郎は母親からデジカメで甲羅の写真を撮ってもらい、やっと自分の甲羅に描かれたサインを見ることができた。
「甲羅に書かれたら、自分でサイン見れないわよ?」
「あ!!」
というやり取りの後、母親の姿見の前で満足げに甲羅を鏡越しに見る河太郎と、デジカメ片手にそれを苦笑して見守る母親は、何気なく側近から借りたデジカメのデータを見てしまい、その内容を勇者と共有すべきか仲良く考え込むことになる。
データの内容は魔王の成長記録。
側近が魔具職人のきぃちゃんに親ばか扱いされる原因。
結局、デジカメ返しに来た親子と一緒に観賞会になり、なにも知らなかった魔王がしばらく立ち直れなくなりました。