第参話 凸凹コンビと赫色の風
「は、や、く!起きなさいよー!」
5月半ば。ゴールデンウィークも明け、この時期特有の心身虚脱性症候群に陥りそうになっていた、いや寧ろもう既に罹患していた市野原哉灯は、襖越しに聞こえてくる二軒隣の幼馴染の怒声で目を覚ました。
「んあ?」
「『んあ?』じゃないッ!遅刻するわよ!私が!」
彼の幼馴染、辻北御拠は襖をバーン!と、壊さんばかりに勢い良く開ける。寝惚け眼の哉灯にとり、その姿はさながら修羅の様に見えた。それはそれは、その額から生える角が幻視出来るほど。
「ほらッ!早く着替える!」
「うぇ?あぁ…」
何処から入って来たのか、それ以前に何故入って来るのかを聞くか聞かないかのうちに、哉灯は蒲団ごと身包みーギリギリでパンツは死守したーを剥がされていた。そして、彼は息つく暇も無く着せ替え人形の如くTシャツとジーンズの中に押し込まれる。幼馴染の一連の動作は見事な程に迷いが無く、妙なまでに美しかった。
…うん、何故御拠が俺の着替えの場所を知っているかは聞かないでおこう。
尤も、当の本人は周りの状況に寝起き頭の処理速度が追いつかないらしく、微妙に見当違いなことを考えていたのだが。
◇
「あー、やっぱ車は楽でイイわ」
「それが目的かよ…」
大学へ向かう、信号待ちの車の中、哉灯は幼馴染の言動に思いっきり頭をハンドルに擦り付けた。…貧血でも寝不足でも無いのに頭痛が痛い。
あるぇ?おっかしーなァ。昨日の晩はレバニラ食ってサッサと寝たんだよなァ、俺。
「あっったり前じゃない」
軽く現実逃避している幼馴染を横目に、御拠は粒ガムを口に放り込んだ。
因みに、彼等の家から神山大までは10㎞程度距離がある。何だかんだで少し遠い。そして悲しいかな、筿原市は分類するなら田舎。つまり、バスなどといった公共交通機関が一寸足りないのだ。というか、何故か神影商店街界隈から神山大方面へ向かうバスは一本も無い。
ならばどうやって彼等が通学しているかというと、哉灯は自転車、御拠は原付。しかし、昨日は幸か不幸か日暮れ辺りから土砂降りの雨が降った為、それまでに帰っていた哉灯は兎も角、サークルで遅くなった御拠は車で来ていた友人に送ってもらっていたのだ。
と、いうことは。
「だぁら、原チャは学校に置きっ放しなの!いい?」
…何が良くて何が悪いのか一切謎だが、詰りはそういう事である。朝からハイテンションな御拠とは対称的な哉灯は、一つ溜息を吐いた。
因みに彼、今日は2時限目始まりの為、もう少しゆっくり寝た後自転車で家を出てもちゃんと授業には間に合うのだ。南無。
◇
赤塚浬。
辻北御拠の専らの関心事といえばこれである。彼は学内ではちょっとした有名人であり、名前だけなら知らない人など居ないのだ。しかし、不思議な事に誰も彼の顔を知らない。詰り、何処の誰も彼の事は噂でしか知らないのだ。
そして、噂には尾鰭が付き物である。彼とて例外ではない。
そういったゴシップ的な話題が好きな御拠でさえ呆れる程、赤塚浬の噂には立派な尾鰭が付いていた。例えば彼が学園理事長の息子、だとか、高校は海外に留学していた、とか。
芸能プロダクションからのスカウトを蹴ったらしい、というものまである。
とは言っても赤塚浬は得体の知れない人物であるのに間違いはないのだ 。学内に彼の友人は一人も居ないし、彼の声を聞いた人すら居ない。情報通の御拠でさえ、彼が昼時に食堂に現れた、などという話など聞いたこともないのだ。
「やっぱ都市伝説とかじゃねぇの」
学校帰りの車の中で、哉燈は半ば呆れたように呟いた。あの後、普通に2時限目から授業を受けた後、帰り際に偶々同じ頃合に授業が終わったらしい御拠に捕まり、何故か彼女の一存で彼女の原付バイクを後ろに乗せさせられ、ついでに運転までさせられているのだ。
「んー、でもさ…」
真ん中の座席に寝そべる御拠は、恋の予感とかしない?と言いかけて口を噤む。哉燈の眉がぴくりと動いたのをサイドミラーから見ていたからだ。
ところで御拠と哉燈の仲は、とても、などという有り体な言葉では表せない程良い。然し恋愛感情にはお互い結び付いていないようで、哉燈の車に乗る時は後部座席ないし、真ん中の列が御拠の指定席になっている。
言うなれば、限りなく恋人に近い、友達以上恋人未満。一時期同級生に茶化されたりもしたが、今は昔の話、進みも退きもしない2人の間柄にいい加減飽きたのだろう、もう誰も何も言わなくなっている。
「俺は、赤塚浬って奴自身はかなり迷惑してると思う」
赤信号に捕まっている間、ハンドルにもたれ掛かる癖のある哉燈は詰まらなさそうにそう呟く。
「そりゃそうだろうけど…」
御拠は何故かオトコとオンナの違いを痛感した。
2人がそんな話をしていた丁度その頃。
彼らよりも少し早く、矢張り同じ商店街界隈に向かう一台のスクーターがあった。
(確か、この辺なんだがなぁ…)
運転手はスクーターから降り、人気のない裏通りを見渡した。ヘルメットではっきりとは見えないが、彼は茶色の髪に黒縁の眼鏡を掛けている。背格好は有り体に言えば、よく居る普通の大学生。
ちらほら通る通行人の誰も、彼を気には止めなかった。
「あ、此処かね」
彼は目的の店を見付けたらしい。いそいそと店に近付き、其の扉を開く。アンティークと珈琲の店、朧月夜。からん、とベルが鳴り、店は客が何者かを知っているかのように彼を招き入れた。
◇
藤堂の最近の日課と言えば、洋菓子を作ることである。別に食べるつもりも無いのだが、無性に手を動かしたいときに丁度良い。
同じ様な材料でこんなにも違うモノを創り出す人間というのは、つくづく不思議な生き物だ、と藤堂は泡立て器を握り締めながら思う。何時の間にか、ボールの中にはスポンジケーキのたねが出来上がっていた。
丁度其の時。
ーからん。
店の扉が開く音。もう既に藤堂の姿は其の部屋の何処にも無かった。
◇
「来ちゃったんだけど、」
赤塚浬、と名乗ったバイト志望の青年は、徐に帽子だとか色々な物を外し始めた。藤堂にバイトを雇う気は無いのだが、其れとは別に彼の申し出を断れない事情がある。
黒い帽子に黒い眼鏡、茶髪のウイッグにカラーコンタクトレンズ。何時の間にか、店のカウンターの前には赤塚浬の荷物がごちゃごちゃに積まれていた。
そして。
カウンターの前で、藤堂と対峙する様に座る彼の姿は、最早ありふれた大学生のものでは無かった。人間の色素では有り得ない、燃えるような赫の髪と瞳をもち、何処か神々しい雰囲気を漂わせている。
其れも其の筈。何故なら…
彼もまた、ヒトでは無いから。
我々にだって、言葉に出来ぬ程不思議な縁が有るのだ。何とも面白い。赤塚浬を帰してから、藤堂は店の片隅でそんな事を思う。部屋にはケーキを焼く甘い香りが漂っている。
藤堂は其の日、赤塚に二つ返事で採用を言い渡したのだった。