第弍話 金色の狐
「ふぁ、あ」
初夏の陽気に思わず欠伸が漏れる。
今日は丁度ゴールデンウィークも中日、5月2日。数日分のテレビ欄が書かれた別冊子を隅へ追いやって、藤堂は涙目を擦りながら新聞を開いた。
今日付けの朝刊は、連休前なのか至る所に一面広告がある所為で多少分厚くなっている。彼は最後の頁を開き、とある記事に目を止めた。
(ほう…近い、な)
藤堂は何故か自嘲するかの様に鼻で笑う。何か…これから関わりそうな予感がする。
(まあ、良いニュースでは無いのだけれど)
彼はその記事を千切り取ってそのまま胸のポケットに押し込んだ。
その予感が当たっていた事を知るのは、その日の昼下がりのこと。
◇
「すみません」
からん、とベルが鳴り、薄暗い店内に一筋の光が差す。彼女は一歩中へと入ると、慎重に店内を見回した。
喫茶店の癖に人っ子一人見当たらない店内には、静かにピアノの音だけが流れている。カウンターですらただ雑然とサイフォンやコーヒーミルが置かれているのみで、人の気配はない。
(表にはちゃんと営業中って札が掛かってたよね…)
其れ位心配になる程。
「いらっしゃいませ、何のご用件でしょうか」
だから、いきなり側で聞こえた声に驚くのは当然のことだろう。
案の定、彼女はひっ、と短い悲鳴を上げてそのまま一歩後退った。
些か喫茶店には似つかわしくない営業文句を並べる彼は、困ったように笑う。
「驚かせてしまってすみません。そんなつもりは全くありませんでしたから」
彼は頭の天辺から足の爪先まで黒の衣装に身を包み、多少ツリ気味の其の黒の双眸の奥では、当人には不釣合いな金がちらりと輝く。彼はそんな目をす、と細めた。
「ようこそ、朧月夜へ。私は店長の藤堂と申します」
彼女は、名を阪口萌香と名乗った。
彼女曰く、ここ最近ー丁度市内で玉突き事故が起きたあたりーから、彼女の彼氏の容体、特に精神状態が良くないらしい。
「…それが、病院に行っても何の悪いところも見つからなくて。どうしよう、って時に知り合いの男の子に『それはたぶんツキモノの一種だから、そういう人に見てもらえ』と言われて来たんです」
そうですか、と藤堂は微笑むと、阪口に彼の写真を求めた。阪口は予め知っていたのだろう、何の驚きも見せずに写真を差し出した。
「…成程、これは確かに憑き物でしょう」
店主は軽く目を瞑り、その手を写真のに宛がいながら、そう呟いた。
「なら、払ってあげてください。お願いします」
と客は懇願するが然し、何故か藤堂は怪訝な顔をする。
「ただ、余り此処から悪念は感じません。寧ろ、守っているのかも知れない。…本当に、払ってしまっても良いんですね?其れが、例え良いモノであっても」
阪口萌香は何も言わずに頷いた。
藤堂はふと中空を仰ぐ。珈琲の薫りに混じって、微かに香の匂いがした。
「…判りました。其処まで仰るのならば、承りましょう」
貴女を殺す事になっても。
全てを察したかの様に藤堂は冷たい笑みを見せる。彼は最後のひとことを飲み込んだっきり、ついぞ言う事はなかった。
そんな店主に気圧されてか、客はごくり、と唾を飲んだ。
「では、始めましょうか」
店主はそう言い、居住まいを正す。其れに釣られてか、阪口も椅子に座り直した。
「結論から言いましょう。原因は貴女にある、と」
「…大変申し上げにくいのですが、貴女は、もう既に死んでしまっているんです」
◇
「狐の情はヒトの其れより細やかと言いますけれど、」
ふうわりと、黄昏の風が藤堂の髪を揺らす。其処から覗くのは、夕陽よりも更に輝く黄金の双眸。
結局、阪口萌香は自分の死を受け入れたのだ。彼女は此れ以上彼の迷惑にはなれませんよ、と切なく笑い、溶けていく様に消えていった。そんな客を見ていた藤堂は、それを思い出すと何とも言い難い気持ちになって、手に持っていた新聞紙をぐしゃり、と握り潰す。
『筿原インターチェンジ玉突き事故、最後の重体者、死亡』
そこには、先月25日に市内守形町筿原インターチェンジにて起こった玉突き事故の最後の重体者である阪口萌香が亡くなった、と小さく書かれていた。因みに、葬儀場は市内神影町三丁目は際念寺、丁度店の隣の寺である。
「誰にだって恋慕程、心苦しいものなど無いのかも識れませんね」
そう呟く彼の声は何故かひどく淋しそうで、其れは静かに流れる刻のなかにゆるりと溶けていった。
其の店は、とある学園都市の寂れた商店街の、其のまた寂れた路地裏にひっそりと建っている。ようこそ、朧月夜へ。ご用件は如何でしょうか。喫茶店とは表の顔、本業ならば憑き物落とし。依頼さえ有れば、何でも落として見せましょう。
但し、其れが幸か否かは貴方次第。