第壱話 春をたづね行くは
其の店は、とある学園都市の寂れた商店街の、そのまた寂れた路地裏にただひっそりと建っている。ガラクタ手前の古道具が、所狭しと置いてある骨董屋の右隣。さして有名でもない、小さな寺の左隣。そこには、明らかに周りとそぐわない西洋風の建物ーどうやら喫茶店らしいーがあった。
店の名は、朧月夜。辺りには珈琲を挽く薫りがほんのり漂い、少し曇った窓硝子の向こうには、マイセンやらの磁器や、銀食器などが整然と置かれている。然し、ただ、それだけである。店には人気がないし、営業しているのかすらも判らない。
ふう、
窓辺の椅子に座り、彼は今日何度目かの溜息を吐いた。瘦身に黒のスーツを纏い、肩すれすれにまで伸ばされた髪は、毛先の方が思い思いの方向へ跳ねている。
窓の外では霞んだ空の下、春一番がこれでもか、と言わんばかりに強く吹いていた。彼は徐に窓を開け、枠に寄りかかって中空を睨む。
「御機嫌は如何で」
話し掛けているのは、無人の空間。しかし、何処からか女性らしき声が返ってきた。
「んもう、良い訳がないじゃ無い。折角春を連れて来てやったのに」
何時の間にか窓の外には明らかに此処にはそぐわない、中華風の女性が佇んでいる。肩に、小さな好々爺を乗せて
。
「唖々、お久しぶりです」
其れに気づいた黒スーツは軽く頭を下げ、小さな老人に手を伸ばした。女性は老人を手渡すと、私はもう帰るわね、と消えてしまった。
「今年はどうお過ごしで」
彼の掌で好々爺はほっほっほ、と笑う。
「嬢に此処迄連れて来てもらったが…ちと早う来過ぎたのう。これからはのんびりと一人旅でもしようかの」
そりゃあ彼女は一所にじっとしていられる性分では無いでしょうから、と黒スーツは口許を緩ませた。
「式でもお貸ししましょうか」
途端、部屋の中から心地良い風と共に一枚の紙が舞い上がって、彼の、老人がいない方の手に収まった。
「鴉では忍び無い。鶯は如何でしょう」
彼の掌の中で、その紙は形を変えてゆく。
「此にお乗りになれば」
鶯の形になった其れは、気持ち良さそうに一声鳴いた。まだ春には遠い鳴き声で。彼を撫でながら、老人は嬉しそうにほっほっほ、と笑った。
「有難う、陰陽師よ。御礼に良い物を見せてやろう」
好々爺は徐に、持っていた小さな籠に手を突っ込んだ。ふわり、と彼の手から解き放たれた白い粉ー恐らく灰だろうーが空を舞う。
「枯木に花を咲かしょうぞ」
好々爺がそう叫ぶと、其の灰はぱっと花開き、辺り一面に白い花が咲き誇った。はらはら、はらはら。其れはまるで梅の様に、桜の様に。しかし、其の花は夢、幻。常人には決して見る事のできない、春の訪れ。満足気に微笑む好々爺だってそう。彼は世界を旅する春の精。常人には見る事など出来やしない。
「ヒトの子よ、此処の土地神にも伝えておくれ。今年はちと早いが…春が来おったと!」
分かりました、とスーツがにっこりと笑うと、春を告げる小さな好々爺は鶯に乗ったままふわりと消えて行った。
「私は何時から人なんでしたっけ」
そう言って、眉をハの字にする彼の名は、藤堂素也。職業は小さな喫茶店の店長にして、しがない田舎の陰陽師。
ただし、其れは今だけのこと。