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夜想館  作者: 灯野 しおん
第二夜

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13/25

菜種梅雨ー柊千夏④

 目を覚ました時。


 千夏はしばらく天井を見つめていた。


 聞こえるのは鳥の声。


 昨夜まで降っていた雨音はない。


 柔らかな朝の光がカーテンの隙間から差し込んでいる。


「……朝か」


 久しぶりだった。


 こんなにすっきり目覚めたのは。


 頭の中が静かだった。


 仕事のことを考えていないわけではない。


 悩みが消えたわけでもない。


 それでも。


 昨夜まで胸に張り付いていた重苦しさが少し薄れていた。


 食堂へ向かう。


 窓から見える庭は雨に洗われ、

 若葉が朝日にきらきらと輝いていた。


 テーブルには朝食が用意されている。


 焼きたてのパン。


 ふわりとした卵料理。


 新鮮なサラダ。


 そして。


 サイフォンで淹れられた珈琲。


 ガラス器具の中で、

 最後の一滴が静かに落ちる。


 ぽとり。


 その音を聞いているだけで、

 心が落ち着いた。


「おはようございます」


 朔弥が微笑む。


「おはようございます」


 千夏も自然に微笑み返していた。


 昨日の自分なら考えられないことだった。


 朝食を食べながら。


 千夏は窓の外を見た。


 空は青い。


 雲の切れ間から春の日差しが降り注いでいる。


「晴れましたね」


 朔弥が言う。


「そうですね」


 千夏は頷く。


 少し考えてから、


「不思議です」


 と続けた。


「何がでしょう」


「昨日と同じ景色のはずなのに」


 千夏は笑った。


「全然違って見えます」


 朔弥は静かに珈琲を注ぐ。


 そして言った。


「景色が変わったのではなく」


 少し間を置く。


「見ている人が変わったのでしょう」


 その言葉に。


 千夏は昨夜の教室を思い出した。


 教師になりたかった頃の自分。


 子どもたちと笑っていた自分。


 失ったわけではなかった。


 置き忘れていただけだった。


 忙しさの中で。


 疲れの中で。


 少し遠くへ行っていただけだった。


 食事を終える。


 朔弥は宿帳を閉じた。


 静かな音。


 旅立ちの合図。


 千夏は鞄から一冊の本を取り出した。


 教師になろうと思ったきっかけの本だった。


 学生時代。


 何度も読み返した本。


 ページの端は少し擦り切れている。


「宿代です」


 朔弥は大切そうに受け取った。


「確かにお預かりします」


 玄関へ向かう。


 黒猫が階段の途中で丸くなっていた。


 千夏に気づくと、

 金色の瞳を細める。


「ありがとう」


 思わずそう言う。


 黒猫は何も答えない。


 ただ尻尾を一度だけ揺らした。


 扉が開く。


 眩しい朝の光。


 雨上がりの風。


 土と若葉の匂い。


 千夏は振り返る。


 夜想館。


 木造の洋館。


 琥珀色のランプ。


 静かな玄関。


 そこに立つ朔弥。


「行ってらっしゃいませ」


 穏やかな声。


 千夏は小さく頭を下げる。


「行ってきます」


 その言葉は。


 職場へ向かうためだけのものではなかった。


 自分の人生へ戻るための言葉だった。


 千夏が歩き出す。


 朝日を浴びながら。


 前を向いて。


 もう立ち止まらないわけではない。


 これからも迷うだろう。


 疲れる日もあるだろう。


 それでも。


 また歩き出せばいい。


 雨が上がるように。


 その頃。


 夜想館の書斎では。


 新しい一冊の本が本棚へ収められていた。


 背表紙には、


 『柊 千夏』


 と刻まれている。


 朔弥は静かに本を並べる。


 その時だった。


 黒猫が本棚の奥へ飛び乗る。


 そして。


 題名のない古い本の前で座った。


 金色の瞳が朔弥を見上げる。


 朔弥は少しだけ視線を逸らした。


「……まだですよ」


 そう呟く。


 だが。


 黒猫は知っているようだった。


 近いうちに。


 夜想館へ訪れる客が、


 朔弥自身の止まった時間を動かし始めることを。

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