菜種梅雨ー柊千夏④
目を覚ました時。
千夏はしばらく天井を見つめていた。
聞こえるのは鳥の声。
昨夜まで降っていた雨音はない。
柔らかな朝の光がカーテンの隙間から差し込んでいる。
「……朝か」
久しぶりだった。
こんなにすっきり目覚めたのは。
頭の中が静かだった。
仕事のことを考えていないわけではない。
悩みが消えたわけでもない。
それでも。
昨夜まで胸に張り付いていた重苦しさが少し薄れていた。
食堂へ向かう。
窓から見える庭は雨に洗われ、
若葉が朝日にきらきらと輝いていた。
テーブルには朝食が用意されている。
焼きたてのパン。
ふわりとした卵料理。
新鮮なサラダ。
そして。
サイフォンで淹れられた珈琲。
ガラス器具の中で、
最後の一滴が静かに落ちる。
ぽとり。
その音を聞いているだけで、
心が落ち着いた。
「おはようございます」
朔弥が微笑む。
「おはようございます」
千夏も自然に微笑み返していた。
昨日の自分なら考えられないことだった。
朝食を食べながら。
千夏は窓の外を見た。
空は青い。
雲の切れ間から春の日差しが降り注いでいる。
「晴れましたね」
朔弥が言う。
「そうですね」
千夏は頷く。
少し考えてから、
「不思議です」
と続けた。
「何がでしょう」
「昨日と同じ景色のはずなのに」
千夏は笑った。
「全然違って見えます」
朔弥は静かに珈琲を注ぐ。
そして言った。
「景色が変わったのではなく」
少し間を置く。
「見ている人が変わったのでしょう」
その言葉に。
千夏は昨夜の教室を思い出した。
教師になりたかった頃の自分。
子どもたちと笑っていた自分。
失ったわけではなかった。
置き忘れていただけだった。
忙しさの中で。
疲れの中で。
少し遠くへ行っていただけだった。
食事を終える。
朔弥は宿帳を閉じた。
静かな音。
旅立ちの合図。
千夏は鞄から一冊の本を取り出した。
教師になろうと思ったきっかけの本だった。
学生時代。
何度も読み返した本。
ページの端は少し擦り切れている。
「宿代です」
朔弥は大切そうに受け取った。
「確かにお預かりします」
玄関へ向かう。
黒猫が階段の途中で丸くなっていた。
千夏に気づくと、
金色の瞳を細める。
「ありがとう」
思わずそう言う。
黒猫は何も答えない。
ただ尻尾を一度だけ揺らした。
扉が開く。
眩しい朝の光。
雨上がりの風。
土と若葉の匂い。
千夏は振り返る。
夜想館。
木造の洋館。
琥珀色のランプ。
静かな玄関。
そこに立つ朔弥。
「行ってらっしゃいませ」
穏やかな声。
千夏は小さく頭を下げる。
「行ってきます」
その言葉は。
職場へ向かうためだけのものではなかった。
自分の人生へ戻るための言葉だった。
千夏が歩き出す。
朝日を浴びながら。
前を向いて。
もう立ち止まらないわけではない。
これからも迷うだろう。
疲れる日もあるだろう。
それでも。
また歩き出せばいい。
雨が上がるように。
その頃。
夜想館の書斎では。
新しい一冊の本が本棚へ収められていた。
背表紙には、
『柊 千夏』
と刻まれている。
朔弥は静かに本を並べる。
その時だった。
黒猫が本棚の奥へ飛び乗る。
そして。
題名のない古い本の前で座った。
金色の瞳が朔弥を見上げる。
朔弥は少しだけ視線を逸らした。
「……まだですよ」
そう呟く。
だが。
黒猫は知っているようだった。
近いうちに。
夜想館へ訪れる客が、
朔弥自身の止まった時間を動かし始めることを。




