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夜想館  作者: 灯野 しおん
第二夜

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11/29

菜種梅雨ー柊千夏②

客室へ案内されたあと。


 千夏は窓辺に立っていた。


 雨はまだ降り続いている。


 細く。


 静かに。


 まるで世界の音を吸い込んでしまうような雨だった。


 仕事のことを考えないようにしようと思っても、

 気づけば考えてしまう。


 明日の授業。


 保護者対応。


 提出期限の近い書類。


 学級通信。


 職員会議。


 次から次へと浮かんでくる。


「はぁ……」


 深く息を吐く。


 その時。


 控えめなノックが聞こえた。


「お食事の準備ができました」


 朔弥の声だった。


 食堂には暖かな灯りがともっていた。


 暖炉の火がゆらゆらと揺れている。


 テーブルには一人分の食事。


 その香りを嗅いだ瞬間。


 千夏は足を止めた。


「え……」


 信じられなかった。


 そこに並んでいたのは、


 ハンバーグ。


 ポテトサラダ。


 コーンスープ。


 そして白いご飯。


 何の変哲もない家庭料理。


 けれど。


 千夏にとっては違った。


 もう十年以上食べていない。


 母の味だった。


「どうして……」


 思わず呟く。


 朔弥は答えない。


 ただ、


「冷めないうちにどうぞ」


 とだけ言った。


 千夏は席につく。


 箸を取る。


 震えていることに気づいた。


 ハンバーグを一口。


 噛んだ瞬間。


 胸の奥が熱くなった。


 母が作ってくれた味だった。


 忙しい日も。


 部活で遅くなった日も。


 試験で落ち込んだ日も。


 いつも食卓に並んでいた味。


 気づけば涙が落ちていた。


 ぽたり、と。


 皿の上に落ちる。


「……おいしい」


 誰に言うでもなく呟く。


 朔弥は少し離れた場所で、

 サイフォンの準備をしていた。


 ガラス器具の中で湯が沸く。


 小さな音が静かに響く。


 千夏は食事を続ける。


 食べるほどに思い出す。


 母の声。


 家族の食卓。


 笑い声。


 そして。


 教師になると決めた日のこと。


 食事を終えた頃。


 珈琲が運ばれてきた。


 黒い液面から湯気が立つ。


 千夏はカップを手に取った。


「先生になりたかったんですね」


 突然。


 朔弥が言った。


 千夏は驚く。


「え?」


「子どもが好きだったのでしょう」


 静かな声だった。


 責めるでもなく。


 慰めるでもなく。


 ただ事実を尋ねるような声。


 千夏は少し笑った。


「好きでした」


 過去形になってしまったことに気づく。


 胸が痛む。


「今は違うのですか」


 千夏は答えられなかった。


 しばらく沈黙が続く。


 暖炉の薪が小さく弾けた。


「……分からないんです」


 ようやく出た言葉。


「好きだったはずなんです」


「でも」


「頑張っても頑張っても足りなくて」


「失敗しないように気を張って」


「迷惑をかけないようにして」


「気づいたら……」


 言葉が途切れる。


 朔弥は黙って聞いていた。


 千夏は俯く。


「何のために働いているのか分からなくなりました」


 それは。


 誰にも言ったことのない本音だった。


 家族にも。


 同僚にも。


 言えなかった言葉。


 朔弥は窓の外を見る。


 雨が静かに降っている。


「雨は降り続けるように見えます」


 ぽつりと言った。


 千夏は顔を上げる。


「ですが」


「どんな雨にも終わりがあります」


 暖かな珈琲の香りが漂う。


「今夜は、休まれてください」


 朔弥は微笑んだ。


「答えを探すのは、そのあとでも遅くありません」


 その言葉に。


 千夏の肩から少しだけ力が抜けた。


 何年ぶりだろう。


 何もしなくていいと言われた気がした。


 窓の外では。


 菜種梅雨が静かに降り続いていた。


 そしてその夜。


 千夏は夜想館の中で、


 忘れていた大切な夢と向き合うことになる。

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