菜種梅雨ー柊千夏②
客室へ案内されたあと。
千夏は窓辺に立っていた。
雨はまだ降り続いている。
細く。
静かに。
まるで世界の音を吸い込んでしまうような雨だった。
仕事のことを考えないようにしようと思っても、
気づけば考えてしまう。
明日の授業。
保護者対応。
提出期限の近い書類。
学級通信。
職員会議。
次から次へと浮かんでくる。
「はぁ……」
深く息を吐く。
その時。
控えめなノックが聞こえた。
「お食事の準備ができました」
朔弥の声だった。
食堂には暖かな灯りがともっていた。
暖炉の火がゆらゆらと揺れている。
テーブルには一人分の食事。
その香りを嗅いだ瞬間。
千夏は足を止めた。
「え……」
信じられなかった。
そこに並んでいたのは、
ハンバーグ。
ポテトサラダ。
コーンスープ。
そして白いご飯。
何の変哲もない家庭料理。
けれど。
千夏にとっては違った。
もう十年以上食べていない。
母の味だった。
「どうして……」
思わず呟く。
朔弥は答えない。
ただ、
「冷めないうちにどうぞ」
とだけ言った。
千夏は席につく。
箸を取る。
震えていることに気づいた。
ハンバーグを一口。
噛んだ瞬間。
胸の奥が熱くなった。
母が作ってくれた味だった。
忙しい日も。
部活で遅くなった日も。
試験で落ち込んだ日も。
いつも食卓に並んでいた味。
気づけば涙が落ちていた。
ぽたり、と。
皿の上に落ちる。
「……おいしい」
誰に言うでもなく呟く。
朔弥は少し離れた場所で、
サイフォンの準備をしていた。
ガラス器具の中で湯が沸く。
小さな音が静かに響く。
千夏は食事を続ける。
食べるほどに思い出す。
母の声。
家族の食卓。
笑い声。
そして。
教師になると決めた日のこと。
食事を終えた頃。
珈琲が運ばれてきた。
黒い液面から湯気が立つ。
千夏はカップを手に取った。
「先生になりたかったんですね」
突然。
朔弥が言った。
千夏は驚く。
「え?」
「子どもが好きだったのでしょう」
静かな声だった。
責めるでもなく。
慰めるでもなく。
ただ事実を尋ねるような声。
千夏は少し笑った。
「好きでした」
過去形になってしまったことに気づく。
胸が痛む。
「今は違うのですか」
千夏は答えられなかった。
しばらく沈黙が続く。
暖炉の薪が小さく弾けた。
「……分からないんです」
ようやく出た言葉。
「好きだったはずなんです」
「でも」
「頑張っても頑張っても足りなくて」
「失敗しないように気を張って」
「迷惑をかけないようにして」
「気づいたら……」
言葉が途切れる。
朔弥は黙って聞いていた。
千夏は俯く。
「何のために働いているのか分からなくなりました」
それは。
誰にも言ったことのない本音だった。
家族にも。
同僚にも。
言えなかった言葉。
朔弥は窓の外を見る。
雨が静かに降っている。
「雨は降り続けるように見えます」
ぽつりと言った。
千夏は顔を上げる。
「ですが」
「どんな雨にも終わりがあります」
暖かな珈琲の香りが漂う。
「今夜は、休まれてください」
朔弥は微笑んだ。
「答えを探すのは、そのあとでも遅くありません」
その言葉に。
千夏の肩から少しだけ力が抜けた。
何年ぶりだろう。
何もしなくていいと言われた気がした。
窓の外では。
菜種梅雨が静かに降り続いていた。
そしてその夜。
千夏は夜想館の中で、
忘れていた大切な夢と向き合うことになる。




