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夜想館  作者: 灯野 しおん
第一夜

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1/22

春雨 ー 雨宮 紗希

雨は、静かに降っていた。


 春の終わりを濡らす細かな雨は、石畳に薄い膜を張り、古い街灯の灯りを滲ませている。


 京都。


 観光客の姿も消えた夜の路地を、雨宮紗希は一人で歩いていた。


 傘を打つ雨音だけが、やけに耳に残る。


 スマートフォンの地図は、さっきから同じ場所をぐるぐる回っていた。


 ――帰ろう。


 何度もそう思った。


 なのに足が止まらない。


 紗希はコートのポケットの中で、小さな文庫本を握りしめた。


 何度も読み返した本だった。


 角は擦り切れ、紙は柔らかくなっている。


 彼が好きだった小説だ。


 もう三年も前に死んだ恋人が。


 その時。


 ふいに、黒い影が視界を横切った。


「……猫?」


 路地の先。


 濡れた石畳の上に、一匹の黒猫が座っていた。


 金色の目だけが、暗闇の中で静かに光っている。


 猫は紗希を見ると、ゆっくり立ち上がった。


 そして何も言わず、細い路地の奥へ歩き出す。


「ちょっと……」


 呼び止めても振り返らない。


 けれど、不思議と目が離せなかった。


 紗希は導かれるように、その背を追った。


 雨は相変わらず静かに降っている。


 見覚えのない石段を上り、古い塀の脇を抜けた時だった。


 ふわり、と。


 どこか温かな光が滲んだ。


 紗希は立ち止まる。


 そこに、一軒の洋館があった。


 木造二階建ての古い建物。


 深い色の木壁。


 雨に濡れた回廊。


 玄関脇のランプが、琥珀色に揺れている。


 まるで昔からそこにあったようなのに、今まで見た記憶がない。


 黒猫は玄関前で一度だけ振り返ると、いつの間にか姿を消した。


「……なに、ここ」


 呟きは雨に溶けた。


 玄関には、小さな真鍮のプレート。


 そこには、


 ――夜想館


 とだけ書かれていた。


 重たい扉を押し開けた瞬間、雨音が少し遠くなる。


 暖かな空気が、頬を撫でた。


「……ようこそ」


 静かな声だった。


 紗希が顔を上げる。


 受付の奥に、一人の男が立っていた。


 白いシャツ。


 黒いベスト。


 夜の色によく似た、静かな人。


「夜想館へ」


 男は穏やかに頭を下げる。


「ご宿泊でしょうか」


 紗希は言葉を失ったまま、小さく頷いた。


 男は古い宿帳を開く。


 厚い紙の縁には、蔦と月の模様が細く描かれていた。


「こちらへ、お名前を」


 差し出された万年筆は、ひどく冷たかった。


 紗希はゆっくりと、自分の名前を書く。


 雨宮 紗希。


 インクが紙へ染み込んでいく。


 その瞬間。


 なぜだろう。


 もう戻れない場所へ来てしまったような気がした。


「ありがとうございます」


 男は宿帳を静かに閉じる。


「私は、朔弥と申します」


 その名前だけが、不思議と胸に残った。


 ロビーの奥では、古時計が静かに時を刻んでいる。


 暖炉の火が小さく揺れた。


 そしてどこからか。


 ことり、と。


 ガラスの触れ合う音が響く。


 まるで、

 夜がゆっくり始まる音のようだった。

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