刑事の鏡
私は正義のヒーローだった。――少なくとも、そう呼ばれていた。
「えーパパまたおしごとなのぉ?」
「普通のパパがよかった」
「……私より仕事が大事なんだ」
娘の背が伸びるにつれ、家の扉が重くなった。
娘が小学生になると同時に、妻が死んだ。私が逮捕した大規模テロ集団、その残党による仕返しだった。
私は決断を迫られた。私の前には、二台のモニターがある。一つには、監禁されている妻と娘の姿。別のモニターには、数百人の顔も知らない市民。
数百人の命と二人の家族の命が、犯人によって天秤に乗せられた。天秤には豪華なネームプレートに『刑事』と刻印されてあった。
「刑事の鏡だよ」
スピーカー越しに犯人が残した言葉。妻と娘のモニターが真っ白になった。
奇跡的に、娘の命に別条はなかった。妻が覆いかぶさり、盾となったようだった。病院でそう告げられても、どこか物語を聞かされているようで、ただ頭を下げるしかできなかった。
「お前は正しいことをした。誇りを持て」
「犯人は必ず見つけ出し逮捕する」
同僚の沈痛な表情を何度も目にした。だが、そのたびに「刑事の鏡だよ」という声がせせら笑っていた。
「最期まで、立派な母親だったんですね」
助け出された女性から声を掛けられた時、悟った。私は、これでも本当に父親なのかと。
それ以来、犯人を追い続けた。仕事に明け暮れる日々だった。娘とまともに会話できないことを、仕事のせいにして逃げてきた。
真夏のある日。娘は学校指定の長袖ブラウスを着ていた。「体調が悪いのか」と久々に尋ねたが「そんなことも分からないんだ」と拒絶された。
問い詰めようとしたが、無機質な携帯の音色が二人の間に割り込んだ。
「了解」そう告げて「行ってくる」とだけを言い残し、錆びついた扉を体で押し開けた。娘の声は、ついに聞こえなくなった。
娘が攫われた。妻を失ったあの時とまったく同じ犯行声明が、郵便受けに届いていた。以前にはなかった、私と犯人以外知らない呪いの言葉が添えられていた。
車内で、私は無線を手にとり、助手席に投げ捨てた。すべてをなげうってでも、犯人は私が確保する。
廃墟の突き当たりで、あの日と同じ天秤が現れた。右の皿からは娘のすすり泣く声が微かに届いている。左の皿にはあの日と同じ、数百人の命と、犯人の逮捕が乗っていた。
『刑事』のプレートが、嘲笑うように鎮座していた。
後悔の日々が脳裏によぎる。
私は一方の通路に足を伸ばしかけ、反対側に引き返した。
私は、その扉をこじ開けた。
コートを羽織った、娘がそこにいた。
私は娘に――拳銃を突きつけた。
「なぜ……爆弾はどこだ」
「……爆弾ね。そんなの、あると思う?」
娘の鋭い視線に晒され、数秒後、理解した。銃口が自ずと下を向く。
「……パパ、私の自由研究、何だったか知ってる?」
「……そんなことより、早くここを」
「『お父さんの仕事』。パパが隠してた机の引き出し、開けちゃった」
娘に歩み寄ろうとした靴が、床に縫い付けられた。
「パパが一番大事にしてる『事件』に、私がなってあげたの。そしたら、やっと私を見てくれた」
娘はコートを脱いだ。下は半袖の制服だった。
私は息を上手く吐けなかった。暴行を受けたような青い痣が腕を蝕み、左の手首には無数の切り傷があった。
「おい、それは――」
――そんなことも分からないんだ。いつかの声が、耳の内側で囁いた。
「安心して。復讐しようと思ったけど、できなかったから。――ママに悪いもん」
娘の手に光る物体を認めたとき、履き潰された靴は地面を蹴っていた。娘は、迷いのない手つきで、それを腕から首へと向けていた。
一歩、一歩、娘へ近づいてく。事件のためにすり減らした靴底。この時だけは、娘のためだけに。
手を伸ばした。娘を助けるために、手を伸ばした。
――本当に、娘のためか?
「ほんと……刑事の鏡だね」
娘が冷たく微笑んでいた。
現場から這うようにして帰宅し、玄関の鍵を閉める。乾きかけた血が、指の隙間でひび割れていた。
カチリ、と金属音が響いた。
時計の針がゆっくりと進む音だけが、彼を迎えてくれた。
「おかえり。お仕事、お疲れ様」
幻聴が、静寂に溶けていく。
彼は壁に背を預け、人形のように崩れ落ちた。
警察手帳が、冷たい床に転がった。――『正義』のヒーローがいた。
窓の外では、赤い光を引いたサイレンが、見知らぬ誰かのために夜を切り裂いていく。その喧騒は、もう、この部屋の静寂を乱すことさえできなかった。
家の扉から、光が差すことは、二度となかった。




