Case3 老いた大神官のバックアップと大日本帝国龍脈の霊的依存性についての調査記録 第二部
アーク灯の青白い光が、虚空から滴る蠟のように揺らめくロッジの奥深く。
赤絨毯は血の海を思わせるほどに深く沈み込み、足音一つ響かせぬ静寂が、部屋を支配していた。
壁には影が這い、彫刻された異形の文様が、息を潜めて見つめている——それらは、旧き神々の残滓か、それとも深淵のささやきか。
場所は明かされぬが、遠くから聞こえるような、幽かな鈴の音が、霧に包まれた島国の記憶を呼び起こす。
そこに、ステッキを優雅に回すアンブローズ=ビウスが立っていた。
瘦せた体躯に纏う赤褐色のコートは、光を拒絶するような影を落とし、顔には獣の嘲笑が浮かぶ。
対峙するのは、軍服を着込んだ細身の少女。
瞳は底知れぬ井戸の如く暗く、重い沈黙を携えていた。
空気は張り詰め、息をするだけで魂が削られる不穏な気配が、部屋を満たす。
「ねえ、ゆっきー……授業してよ。僕ぁ日本の魔術的風土ってやつがいまいち分かってなくってさぁ」
アンブローズの声は、甘くねばつく毒のように響いた。
ゆっきーとは、またもやその場で適当に思いついたあだ名なのだろう。
男性の眉が僅かに動く。静かな、しかし鋼のような声で答える。
「面白くない冗談……そのふざけふざけた呼び名はいつ辞める気?」
「僕が死ぬとき」
シンッ と、言葉の余韻が消えぬうちに、日本刀の刃が閃光のように空を裂く。
だがアンブローズは、蛇のように体を反り返らせてかわし、喉の奥から獣の唸るような笑い声を上げる。
それは、人間を超えた何かが、肉体を借りて嘲笑う音——部屋の影が、応じるようにざわめいた。
少女はため息をつき、刀を鞘に収める。余興に付き合うしかない、という諦観が、瞳の奥に浮かぶ。
「……帝国は、混沌そのものと云える
元より此処はかむろみの地、旧き神々の残りかが強く漂う神域の名残だった
そこへ大陸の知識を必要に応じて吸収し肥大化させてきた歴史と言っても過言ではない
文明開化以降、その性質は変わることなく西洋蒸気機械文化と合わさり大昌日本は大きく発展した……忌々しい機械国家へと」
アンブローズは足腰の筋力だけで反った体制を維持しながら、パン、と手を打ち鳴らす。
音が部屋に反響し、赤絨毯の下から何かが蠢く気配がする。
「サシミとスシ、だね。僕も大好きだぁ……
嘗て包丁のみで神饌として調理され捧げられてきたものを磐鹿六雁命が形式化した刺身文化が一般に流出し、海外から伝来した米と合わさり寿司の文化が形成された
だが今の日本は、ハンバーグを載せた寿司だ」
言い得て妙な例えに、少女は白手袋を顎に添えて一考する。
だが、すぐに反論の言葉を吐く。
「それは寿司として成り立たない」
アンブローズが起き上がりながら返す。
「っと、だが美味しい、その旨みを吸う連中がいるのもまた事実さ、君が救いたいのは……皿じゃなくて食卓の方、違う?」
アンブローズの言葉は、針のように刺さる。
少女の表情が軍帽に隠れ、突き放すように言う。
「私は誰とも交わらない、ただ帝都を滅する……邪魔はするな」
「あはぁ、良いよぉ僕は君を勝手に手伝うだけさ!
まずはグチャグチャに腐ったプリンを皿に置いて、西洋側の食欲を奪ってやるからさぁ?」
アンブローズの顔に、悪童のような——いや、深淵から這い上がった悪魔のような——笑みが広がる。
提案は、まるでたちの悪い悪戯。
部屋の空気がさらに重くなり、アーク灯の光が歪み、影が長く伸びる。
外からは、風のない夜に、遠い咆哮のような音が聞こえてくる……。
このロッジで交わされる言葉は、ただの会話ではない。復讐の渦を回す、冒涜的な予兆だ。
深淵の陰謀が、迅雷のごとく世界を駆け巡った——それが【深淵を見返すもの】の策動であるなら、何よりも迅速で、残酷なまでの狡猾さであったと言わざるを得ない。
ライラたちが乗る筈であった日本行きの便が、急遽取り止めとなったのだ。
その原因は、東京の青銅欄市の浜辺に、荒波の吐息に晒されながらいつの間にか突き立てられていた、古びた木製の十字架にあった。
そこに、神聖な銀の釘で磔にされていたのは、かつての栄光を嘲笑うかのような、無惨極まる死骸ーーローランド=シャイニー大統領の、解体された残骸だった。
その死体は単なる屍ではなく、冒涜の芸術品めいていた。
内臓を抉り出された腹腔は、黒く空洞の闇を覗かせ、四肢は無残に切断され、散り散りになった断端から、タールのような粘液状の物質が這い出そうとして、途中で凍りついたままの絶望を露わにしていた。
骨は露出し、肉片は引き裂かれた筋繊維が糸のように垂れ下がり、皮膚は剥ぎ取られた箇所から腐敗の臭気が立ち上る。
頭部は首からねじ切られた痕跡を残し、眼球は抉り出されて空の眼窩が虚空を睨み、口は歪んだままの悲鳴を凍てつかせていた。
あの神格を宿した男が、こんなにも惨たらしく解体され、肉の塊として浜に投げ捨てられるなど、誰が想像し得ただろうか。
さらに、空洞となった腹の内側、その湿った壁面に同じく銀の釘で貼り付けられた書状には、血のような墨で『人誅』の二文字が刻まれていた。
天ならぬ人の手で、誅を下すという意志の顕れ。
一般的な視点では、これは『日本からアメリカへの』の叛逆として映り、国際的な緊張を煽るに十分だった。
しかし、魔術師たちの視点で言えば、これは神話生物である彼を殺すことによる『人から神の眷属への』冒涜的な反旗でしかなかったのだ。
アーカムのような特殊な環境を除けば、世界の魔術バランスを取り仕切る市国が掲げる魔術隠蔽の掟の下、世界では魔術は厳に秘匿されねばならない。
この悲劇は、その仕組みを効率的に用いた、日米関係を極端に悪化させるための、計算尽くされた毒矢だった。
浜辺の波が、死骸の粘液を洗い流そうとする中、深淵の笑いが、遠くから響くように感じられた……。
だが、それで歩みを止めていられるほど、ライラ=シュルズベリイの復讐の炎と、ミスカトニック大学の探求の光は弱々しいものではなかった。
深海の闇を閃光と共に貫くように、何かが魚影と深海の潮流を切り裂きながら高速で泳いでいく——白く、せっかく装甲を纏ってシャープになった身体は空気を含んでまたブヨブヨに膨らみ、水面へ伸びる巨大なシュノーケルのような機材と酸素ボンベを備えた『ウィルバーの異体』。
それは、シュールでこそあれ、紫に光る神力のジェット噴射によって誰にも見つからずに航行できる、現状唯一の手段でもあった。
旧き血統の遺産が、こんなにも歪んだ形で役立つとは、ヨグ=ソトースの嘲笑が、深海の泡に溶け込むようだ。
異体の内部で、ウィルバーの進化によって増設された操縦席に座りながら、少年体のウィルバーは異体から齎される奇妙な触感に身悶えながら舵をとっていた。
「んんっ、くふっ、あっ……み、皆さんっっふ、くすぐったいから、あんまり動かないでっ!」
その声は、くすぐったさと羞恥の狭間に震え、狭い空間を満たす。
触手の如き神経のつながりが、異体全体とウィルバー自身を敏感に震わせる——まるで、深淵の生き物が、内側から擽り、撫でられるような、悍ましい感覚だ。
「狭いんだよお仕方ねえだろ」
ハイタが呆れた様に言う。
ハイタの言う通り、空間は風船のように膨らんだ肉壁に囲まれ、息苦しいほどの密着を強いる。
「ウィルバー、頑張り申せ!お姉ちゃん応援してるでござりまするよっ!」
ウィリアナの純粋な声が響き、ウィルバーはビクンと跳ねて「はひっ」と気の抜けた返事を返す。
ウィルバーは、ウィリアナに邪な欲求こそ抱いてはいない、だがウィリアナにかつて抱きしめられ、生きる活力を与えられた過去はウィルバーにウィリアナへの女性としての憧れをも抱かせるには十分でーー要は、彼はシスコンの気もあった。
銀瞳の少女の励ましが、神格の絆を甘く溶かすようだ……すこし倒錯的ではあるが。
「学長も無茶言うねぇ、アメリカから日本まで何万キロあると思ってんの?」
ハヤマのぼやきに、ウィルバーは異体の操作コンソールから時計と地図を表示して計算を始める。
「はぁっ……はぁっ……僕のっ、異体なら……残りおおよそっ……っひ、9時間っ!? ……はぁっ、っくう」
と、涙目で震えながらも舵を切る。残り時間の苦痛を思ってしまったのか、その姿は、切なげで、どこか卑猥だ。
そんな様子で各々思い思いに、狭い風船の中のような異体内部にぎっしり詰まって到着を待っていた。
生暖かい空気、どことなく湿った肉壁の脈動——それは、深淵の胎内を思わせる。
「……うぅっ」
ライラはハイタの胸に収まる形で丸くなっており、緊張していた
ハイタに覆ってもらっているため触れないで済んでいるが、教え子の兄弟の内壁に触れてしまったが最後、それはそれである意味『食べられる感覚』を想起してしまうのではないか、その恐れがあるためだ。
ただでさえ直前に、肉欲に溺れる醜態を二人に見られて数日である。魂の代償が、官能の記憶として疼き、ライラは縮こまりハイタに縋り付くしかなかった。
「元気だせ、そんなお前も好きだから」
軽薄な仮面の下に、邪神の優しさが覗く。
宥めるようにライラの頭を撫でる優しい邪神に、いつもなら恥じらいか暴力で答える彼女だったが、震える今のライラは「ぅん……」と借りてきた猫のようにおとなしく撫でられるのであった。
「おいおいこんなトコでまでイチャつくな馬鹿ップル!」
ハヤマの野次にも負けず、黄衣の王の仮面の下、憧れの人間性が優しく彼女を包む——復讐の旅は、こんなにも背徳的な絆で紡がれるのだ。
深海の闇を切り裂きながら、異体は東洋の霧へ向かう。
肉壁が湿った脈動を繰り返し、心音のような低いうねりが響く。
時折、シュノーケルから吸い込む水流が、ごぽごぽと気泡の爆ぜる音を立て、深海の圧迫感を一層際立たせる。
生暖かい空気は粘つく湿気で満たされ、息をするたびに肺に絡みつくような重さがある。狭い操縦席に詰め込まれた5人は、互いの体温と肉壁の脈動に押しつぶされそうな緊張の中で、それぞれの思いを胸に抱く。
ウィリアナは、子供らしい無垢さゆえか、深海の単調な揺れに睡魔を誘われている。
銀瞳を半分閉じ、ふやけた口調で呟く。
その声は、まるで水底で漂う泡のように頼りない。
「日本、楽しみでごりゃりますなー……」
「んっ、そ、そうだねぇ」
隣で操縦席にしがみつくウィルバーが、触手の神経に震えながら応じる。
「お前なぁ、遊びに行くんじゃないんだから」
とハイタが呆れたように言うが、ウィルバーが補足を加える。
「上陸後は帝都大学のエージェントが指定の場所に迎えに来るそうだから、温泉旅館に泊まらせてくれる予定だそうですよ。」
「あー、という事は迎えはケイコさんかぁ……僕あの人ニガテー」
ハヤマが辟易した表情で呟く。
金髪を揺らし、浴衣風ドレスが肉壁の薄暗い光に映える。
ウィリアナが「あっ」と声を上げ、純粋な瞳を向ける。
「忘れてたでありまする、ハヤマ殿も日本人でござりましたね!」
「そだよー、大和撫子」
ハヤマが軽薄に笑うと、ライラが鋭く突っ込む。
「それをいうなら女形でしょ。」
民族学者としての知識をちらりと見せ、彼女は肉壁に触れぬようハイタの胸に縮こまる。
「日本ねぇ……生きてるうちにまた行けるとは、ね」
ハヤマの声が一瞬翳り、目を背ける。
ウィリアナが自身の過去を思い出したのか、おずおずと尋ねる。
「あ、あの、何か嫌な思い出でも御座りましたでしょうか……?」
だが、ハヤマはあっけらかんと肩をすくめ、
「んにゃ全然? 家族には泣いて喜ばれると思う!」
と言ってアッハッハと笑い飛ばす。
彼は腕を組み、肉壁に背を預けながら続けた。
「死期を悟った猫って家から出るじゃん、僕も死体は見られたくないから遠くで暮らしてるだけだよ。
それも残んないとはおもうけど、一応ね」
「死期って……?」
ウィルバーが眉をひそめ、ウィリアナが不安げに身を乗り出す。
ハヤマは平然と、しかしどこか毒を孕んだ笑みを浮かべる。
「あぁ、双子は知らないよね。僕、25になったら死ぬんだよ。使役してるイオド様に呑み殺される、代わりにそれまで割安に使い放題、そういう生贄契約なの」
その言葉に、異体の内部は一瞬、凍りつくような静寂に包まれた。
心音と水流の音だけが響き、深海の圧力がさらに重くのしかかる。
「えぇ!?」
双子が同時に叫び、異体がごぼぼと息を吐いて大きく揺れた。
「うわわわわっ!」
ウィリアナがひっくり返り、「うぉっとっと!? 」とウィルバーが操縦席で跳ねる。
ライラはバランスを崩し、ハイタの顔に尻を押し付ける形で倒れ込む。
「いたたた!」
ハイタが呻く中、ライラは必死に肉壁に触れぬよう彼にしがみつく。
「ハ、ハヤマ殿!? そんな契約あんまりでござりますよっ!」
ウィリアナが青ざめた顔で訴え、ウィルバーが口元を抑えながら叫ぶ。
「そ、そうだよ! あと何年なの!」
「5ねーん、いやー久しぶりすぎて新鮮だわその反応、ライラ教授にもやられたっけ」
ハヤマは金髪を揺らし、楽しげに笑う。ウィリアナは狂気じみた契約に困惑し、ただ目を丸くするしかない。
「いたたた、そいつに何言っても無駄よ、こいつ生まれつきの快楽主義者だもの」
ライラが呆れ顔で言う。彼女はハイタの胸に顔を埋め、肉壁の脈動に怯えるように縮こまる。
「そうそう、今更契約解除してもこの先どうするか考えてねーし、若いまま美しく死ねるのも悪くないぜ?」
ハヤマは軽やかに笑い、深海の胎内でその声が不気味に反響する。
ウィリアナは理解しきれぬ狂気にただ震え、ウィルバーは操縦に集中するも、触手の感覚に身悶えしながら舵を握るのだった。
深夜の砂浜は、文明の灯火から遠く隔てられた闇の領域だった。
波のささやきが唯一の調べを奏で、黒い海面は月光すら飲み込むように静かにうねる。
周囲は霧に包まれ、遠くの街の灯りさえぼんやりとした幻影のようにしか見えず、ただ潮の香りと湿った砂の感触が、訪れる者の五感を支配する。
そこは、ウィアードエイジの辺境——古き神域の名残が息づく、忘れられた海岸線だ。
闇を裂くように、白い馬の蹄が砂を踏む音が響いた。
馬は淡い輝きを纏い、まるで異界から召喚された幻獣のよう。
鞍上には、黒いウェーブのかかった長髪を夜風に揺らす女性が座す。
彼女の装いは巫女服——白地に赤い縁取りの衣が、闇の中で幽かに浮かび上がり、袖口から覗く肌は月下の白磁のように冷たく輝く。
馬は静かに止まり、女性は袖から小さな絵馬を取り出した。
それは古い木の札で、表面に謎めいた符文が刻まれている。
馬の輝きが、まるで魂の光のように収束し、絵馬へと吸い込まれる。光は一瞬、夜空を照らし、すぐに消え——残されたのは、静かな余韻だけ。
その時、水底から異様なものが這い上がってきた。
ごぼごぼと泡立ち、紫の神力がジェットのように噴射され周囲を照らし、巨大な影が回転しながら浜辺へ迫る。
ウィルバーの異体——進化した多脚の戦車めいた有機機械が、フラフラと傾きながら砂浜に降り立つ。
ガチャンと音を立てて脚を広げ、砂を四散させ、まるで深淵から吐き出された怪物のように息を荒げた。
女性はわずかに目を細め、驚きの色を浮かべるが、すぐに知的興奮がその瞳を輝かせる。
学府の徒らしい、好奇心の炎が抑えきれない。
「なんと、まぁ、ミスカトニックのヌトス学長からは虚船が来ると聞いておりましたが、天磐舟でしたか。」
彼女の声は、夜の静寂を優しく破る。
異体の口が、んべっと大きく開く。
そこから、疲弊しきった一行がなだれ落ちてくる。
「わああ……」
という呻きのような叫びが混じり、皆が砂浜に崩れ落ちる。
ライラは大地を恋しむように倒れ伏し、息を切らしながら呟く。
「や、やっとついたのぉ?」
彼女の声は、深海の旅の疲労を滲ませ、少女らしい弱さが露わになる。
ウィルバーは異体を異次元へ収納し、少年の姿に戻る。
疲れ切った顔で、子供らしい文句を垂れる。
「その筈ですが、暗ぁい、つかれたぁぁ……」
彼の言葉は、深淵の遺産がもたらす重荷を思わせる。
女性は穏やかに声をかけ、ハヤマと似たような式札を取り出す。
霊子の灯りを灯すと、柔らかな光が砂浜を照らし、周囲の闇をわずかに押し返す。
「お疲れ様でした、ウィルバー=アーミティッジ様と、ライラ=シュルズベリイ教授ですね
ハヤマ君と、生徒の方々も、遠路はるばるよくお越しくださいました」
彼女は微笑み、凛とした佇まいと流暢な英語で名乗りを上げる。
「帝国大学民俗学科准教授のケイコ=メカタです。ミスカトニック大学民俗学部の皆様方、ようこそ日本へ」
その微笑は、夜の花のように美しく、凛とした気品を湛えていた。
一行は、げんなりした表情を浮かべるハヤマを除き、皆その佇まいに目を奪われる。
暗い浜辺で、深淵の旅人たちを迎えるこの女性は、まるで古き神話の巫女——ウィアードエイジの新たな渦を予感させる、神秘の使者だった。
山中の闇を優しく裂く灯篭の灯りが、蒸気の霧に溶け込むように広がる。
『相馬温泉』——元々は古き神社が鎮座する神聖な土地に、後年、湯の恵みが湧き出でて増設された温泉宿。
その佇まいは、ウィアードエイジの灰色の空の下で、まるで深淵の底から這い上がる癒しの幻影のよう。
湯気が大地から溢れ、温泉の温かな息吹が霧と混じり合い、大気中に神気を放出する。
濃密な魔力と霊子が充満し、自然のパワースポットとして脈打つこの場所は、観光の華やかさだけでなく、魔術の深淵を覗く者たちに、魂を浄化するような予感を与える。
木々のささやきと湯のさざめきが、疲れた旅人たちを優しく迎え、復讐の炎さえ一時、穏やかな湯煙に溶かす癒しの宴を約束する。
「ほわわああぁぁああぁ、ぁ、ぁ、ぁ……」
ウィリアナの紅い左瞳が、眼帯で隠していない紅玉のように輝き、感嘆の息が漏れる。
「わぁ……」
ウィルバーも、隠れ気味の目をかがやかせ、姉弟の声がファンファーレのように山中に響く。
アーミティッジ姉弟の純粋な驚嘆が、宿の灯りをより温かく優しく照らし出す。
「おんせんっ! これが、ジャパニーズっ温泉宿ぉっ!」
ウィリアナのはしゃぐ声が、子供らしい無垢さを湛え、湯気の霧を躍らせる。
しかし、横でハイタが「うぐっ」と苦い顔をする。
邪神の仮面の下に、微かな不快が覗く——無害ながらも、何か胸に刺さる棘のような反応だ。
「どうしたで御座りまするか、ハイタ殿?」
ウィリアナが純粋に尋ねる。ハヤマは揶揄うように笑う。
「あ、わかっちゃうかぁハイタ」
と毒々しい視線を投げる。
ライラも心配げに顔を上げ「ハイタ……どうした?」と尋ねる。
ハイタはぎこちなく笑みを浮かべ
「ま、まぁここなら霊子回復にももってこいだし、いつかの夜襲するような連中やシュブみてえな奴の襲来も阻めそうだなぁ」
と、褒め言葉を絞り出す。だが、その声には微妙な翳りがあり、無害な癒しの場が、彼の旧支配者たる本性に微かな違和を呼び起こすようだ。
ハヤマが補足するように、彼自身も微妙そうな笑みを浮かべる。
「ここ、元は『魔法使い』の本拠地だったのさ
温泉になってるのも魔法使いが魔法で齎した『白の新法則』が絡んでるから、古い法則の塊であるハイタには有害ではないけど、複雑な気持ちになるのさ。ここに連れてきた時僕のイオドも一回拗ねたからねぇ」
黒魔術師の言葉が、湯気の霧に溶け込み、微妙な対比を浮かび上がらせる——ハイタの邪神としての忌避感と、ハヤマの軽薄な達観が、癒しの予感に影を落とす。
魔法使い、魔術界を二分する白魔術の新法則の基盤たる超存在——彼らが旧支配者の天敵として現れ、新法則を振るい世界を守った遺産が、この土地に息づく。
神社を元とし、後から湧いた温泉が白の法則の影響で生まれたこの場は、無害ながらも、古き法則の者たちに微かな疎外感を与える。
ハヤマのイオドが拗ねたように、ハイタの反応もまた、黒魔術師の毒々しい洞察で明らかになる。
「ケイコ=メカタはこの相馬神社に祀られる魔法使い『平将門』の英霊を祀る巫女、白の中の白なのさ」
ハヤマの言葉が、湯気の渦に新たな深淵を予感させつつ、一行は癒しの門をくぐる。
しかしウィリアナとウィルバーはそんな過去とは無縁の存在だ、彼らの純粋に感嘆し、はしゃぎ回る声は緊張に固まった邪神達の心を温泉のように温かく溶かす。
しかしここは温泉宿、邪神の個神的な忌避感よりも、温泉の温かな息吹が復讐の旅を一時休める予感の方が勝るのだった。
相馬温泉の湯気が、灰色の夜空に溶け込むように立ち上る。
露天風呂の湯は、白濁した熱を湛え、深淵の底から湧き出る恵みの如く、疲れた魂を優しく包む。
長旅の疲労が、肌から染み出していくような感覚——ライラは肩まで浸かり、白い肌に温泉の息吹を染み込ませ、震える吐息を漏らす。
「ふぅ……ぁ」
その声は、官能的な余韻を帯び、復讐の炎さえ一時、湯煙に溶かす癒しの予感を呼び起こす。
温泉は室内と露天に分かれ、ウィリアナの希望で露天風呂を選んだ一行。
だが、脱衣所でウィリアナは直前に冷静になり、自らの異形の肌を晒すことに尻込みする。
「あ、あの……やっぱり拙は、後で……」
彼女の声は、銀瞳の奥に孤独の影を湛え、震える。
付き添いのケイコが、微笑んで巫女服を脱ぎ、シュルシュルと布の擦れる音を立て、白い肌を露わにする。
しかし、その身には怪異との戦いで負った複数の傷跡が刻まれ、痛々しい冒涜の証のように残る。
「貴方の事も、学長さんから伺っております……怖がらないで、さぁ」
ケイコが優しく手を差し伸べ、ウィリアナは息を呑み、バッと服を脱ぎ捨てる。
棚に置かれた衣が、静かな余韻を残す。
アオマツムシやコオロギの声が、夏の夜空に響く。
灯籠の柔らかな光が湯面を照らし、眼下に広がる文明の火が灯る街々の暖かな灯りと、夜闇の中で蒸気に覆われきっていない空の下、富士山の影が月に照らされ、優美な光景を織りなす。
「これは確かに、一見の価値があるな……」
ライラが素直に感嘆し、ウィリアナが「でしょお?」と顔を出し、ケイコと共に露天の場に現れる。
ライラに見られ、ウィリアナはオズ……と自信なさげな表情を浮かべるが、ライラの朗らかな笑顔に安心し、身を清め始める。
「さ、よく洗ってから入りましょうね」
「はいで御座りまする!」
子供のような元気な返事に、ケイコとライラは思わず笑みを溢す。
女湯は、癒しの湯煙に包まれ、女性たちの絆が温かく溶け合う——異形の肌さえ、優しい光に浄化されるような、穏やかな宴の場だ。
ちゃぷ……と、白濁した湯に晒された身体に、ライラは自分の汚れもすこし洗い流されたような、そんな気がした。
一方、男湯の湯面は、同じ湯気が立ち上るものの、テンションの低さが霧のように淀む。
「あー自信出せ、お前は綺麗だウィルバー、俺も依代は死体だし触手なんだから」
ハイタの声は、半ば諦観を帯び、微かな不快を隠せない。
「鱗が生えてるくらいで気にすんなー? てか死体と一緒に入りたくねぇ」
ハヤマが半目で毒々しく返す。ウィルバーは、そんな二人に言いようのない不公平さを感じる。
「何で二人ともそんなやる気なさげなんです?」
男湯は、絶景を前にしてテンションをなんとか保っている。
ハイタの体は周囲の霊子を吸って生者のように活き活きとしているため、気にしないことになった。
その事実に比べれば、ウィルバーの異形さえどうと言うことでもない癒しのスパイスの一つにすぎないのだ。
女湯の朗らかな笑みと男湯の溜息——同じ湯煙の下で、テンションの対比が見えた頃、ハイタが立ち上がる。
「よし、覗くか!」「応よ!」「えぇえ!? むぐっ」
ハイタの発言にハヤマは悪戯そうな笑みを浮かべ、突然の宣言に驚愕したウィルバーは二人に口を押さえられた。
その瞬間飛来したビヤーキーによる亜音速の突貫がハイタの頭に命中し「え、はんっ!?」と奇妙な断末魔を残しハイタは錐揉み回転しながら温泉の外の木々へ放物線を描いて投げこまれる。
「聞こえてるぞ糞邪神……」
壁一枚隔てた向こうの女湯から、冒涜的な殺意が触手のように湯気の中へ伸びていく様子が幻視された。
「……やっぱり普通に景色を楽しむか」
「そうですねぇ……」
残った二人はおとなしく湯船に浸かるのであった。
湯煙の余韻がまだ肌に纏わりつく中、一行は相馬温泉の宴会場へと導かれた。
広々とした畳敷きの間は、柔らかな灯籠の光に照らされ、蒸気魔術の微かな唸りが空気を震わせる。
壁際には、和服を纏った女性的な式鬼——蒸気機関の心臓を宿した機械人形——が優雅に動き回り、漆塗りの膳を運んでくる。
彼女たちの顔は白粉を塗ったような滑らかな陶器製で、目元に妖しい輝きを宿している。
膳の上には、豪華な刺身の盛り合わせが並ぶ。
新鮮な魚介の薄切りが、氷の床に輝き、醤油の小壺と山葵の緑が彩りを添える。
異界の香りが、潮の匂いと混じり、宴の幕を開ける。
ハヤマは、馴染み深い作法で座卓に着き、両手を合わせ「いただきます」と静かに呟いた。
箸を手に取り、慣れた手つきでヒラメの薄切りを口に運ぶ。彼の表情は穏やかで、毒々しい嘲笑の影すらなく、ただ故郷の味を懐かしむように咀嚼する。
傍らで、ウィリアナは目を輝かせて膳を見つめた。古めかしい口調の少女は、この異国の食文化に純粋な好奇心を燃やし、ヒラメの透明な身を宝石のように鑑賞する。
「これは……まるで水晶の欠片のようで御座りまする。海の恵みが、こんなにも美しく輝くとは!」と感嘆の声を上げ、箸でそっと摘まんで味わう。
彼女の銀瞳が、味覚の喜びにわずかに揺らぐ。
ティム——紫色の小犬——は、犬用の小皿に盛られた刺身の端材に鼻を寄せ、貪欲に食いついた。
尻尾を振りながら、鋭い牙で生肉を噛み砕く姿は、宴の賑わいに無邪気な野性を添える。
ウィルバーは、箸をぎこちなく操りながら無知ゆえの純粋さで食材の新鮮さと美味しさに舌鼓を打った。
「これ、すごい……! 生なのに、こんなに柔らかくて甘いんだ」
と髪に隠れた目を丸くする。
ライラは、そんな彼に優しく微笑みながら教える。
「これは元々、神饌——神々に捧げる食事だったのよ。時代とともに、人々の食卓にも広がったんだって
知ってはいたけど……生肉を食べるなんて、少し抵抗があるわね」
彼女の声には、微かな躊躇が混じる。
金髪を揺らし、緑の瞳を細めて膳を睨む姿は、教授の理性と少女の繊細さが交錯する。
頭を若干凹ませたハイタは、率先して箸を伸ばし、余裕たっぷりに刺身を頬張った。
「ふむ、悪くないな」
ライラは眉をひそめて、ハイタを突っつきながら言う。
「お前はなんで食えるんだよ、そんな余裕で」
「俺ぁこれでも日本じゃ、爺いと同格の神として祀られてんだ。実際に食ったことはねえがな」
ニッと笑いながらいう彼の言葉は、神としてのマウントを帯び、ライラを悔しがらせる。
ハイタの笑みに負け、「えぇい、これも経験か」と意を決して箸を取る。
ヒラメの薄切りを醤油に軽く浸し、吐息と共に運んだ瞬間——一撃で、身が舌の上でとろけ、ご飯と混ざる味覚の渦が彼女を襲う。
「んふっ……ん!」
衝撃が走り、頬が緩み、恍惚とした表情が浮かぶ。
刺身を舌の上で転がし、時わいながら広がる甘みと鮮烈な海の風味に、本能的な官能が奔る。
体がプルプルと震え、理性の堰が決壊しかける。
「これが……神饌……! こんな食材になりたい……ぃひ」
素直な感想が、震える声で零れ落ちる。
彼女の瞳は潤み、頰は紅潮し、まるで異界の快楽に囚われたかのように身をよじる。
ハヤマが咳き込み、箸を置いて軽くチョップを入れる。
「理性、理性」
「ぁっ!? いいい今私何ていったのよ!」
ハイタはライラを嗜めるようにいう。
「とぉってもエロいこと言ってたぞお前!」
と揶揄い、ライラは頭を抱えて机に突っ伏して身悶える。
「あぁぁぁもうっ、あの山羊のせいでっ!!」
ライラは叫ぶが、宴の空気は和やかに揺れる。
気づかれぬよう、ハヤマは微妙な表情で刺身をゆっくり咀嚼し、呟く。
「まったく、分かるのが悔しい……」
湯煙の余韻が宴会場の空気を柔らかく包む中、膳の残骸が式鬼たちによって静かに片付けられていく。
刺身の鮮烈な記憶がまだ舌に残るライラは、頰の紅潮を抑え、気を持ち直すように息を吐いた。
彼女の緑の瞳が、向かいのケイコに向けられる。
「はぁっ、さて……我々は、どういう待遇になるんだ?」
その声は、教授の理性を纏ったものだったが、微かな疲労が滲む。
異国の地で、復讐の渦に身を投じる一行にとって、この相馬温泉は一時の安らぎに過ぎない……だが、深淵の影は常に忍び寄る。
「外部に情報を漏らさなかったのは、理由があるな
大統領の亡骸が発見されたニュースこそ流れたものの、その詳細は日本から公開されていない」
ライラの言葉を先取りするように、彼女は続ける。
「されたところで、スキャンダルが過ぎますから」
ケイコの視線は、見た目よりも若いウィリアナとウィルバーに向けられる。
双子の姉弟は、純粋な好奇心と神格の知性を宿した瞳で応じる。
「少し、刺激の強い映像となりますが……よろしいですか?」
ケイコの声は優しく、しかし警告を孕む。
ウィリアナは、古めかしい口調で力強く頷いた。
「拙者、覚悟の上に御座りまする」
「僕も大丈夫だよ」
ティムは、尻尾を振りながら「ワンっ!」と鳴き、宴の空気に野性の賛同を加える。
一同の了承を得て、ケイコは式鬼の一体に合図を送った。
部屋が暗くなり、白い垂れ幕が降りる。
式鬼の陶器のような顔がカパッと開き、蒸気魔術の力で目を光らせ、映写機と化す。
微かな機械の唸りが響き、幕に映像が投影される——浜辺に傾いて刺された十字架に、磔刑にされた無惨な遺骸。
肉塊のような体は、解体され、冒涜的な芸術作品のように配置されていた。血の染みと腐敗の臭いが、映像越しに匂い立つかのようだ。
「……!!」
一同の息が止まる。ライラの瞳が拡大し、ハイタの軽薄な仮面すら引きつる。ハヤマの毒々しい笑みが凍りつき、ウィリアナの銀瞳が震える。
その猟奇的な死に様に、深淵の冷たい風が宴会場を吹き抜ける。
しかし、驚愕の渦中で、ウィリアナが声を上げた。
「これは……人間に、あらずや!?」
彼女の古風な言葉に、純粋な洞察が宿る。ウィルバーは、姉の言葉に頷き、静かに説明を始める。
「ショゴス・ロード。永い研鑽と知識によって魔術による完全な人間への変身方法を覚えた神格有機機械ショゴスの王格
ヌトス学長の故郷で生産され、創造主に叛逆してルルイエらクトゥル戦力と結びついた最初期生産モデル達の生き残りだと言うことは、学長もとっくに感知してたと言います」
映像の遺骸は、確かに人間の限界を超えていた。
溶けかけた肉体は、ショゴスの粘液質な本質を露わにし、磔の十字架がその冒涜を強調する。
ヌトス=カァンブル学長も今は旧神へと神化したが、元は宇宙生物である古きものであること——ローランド=シャイニー大統領はその当時からの因縁のある相手だったことは、少しでも魔術界隈に身を置く者には常識的な事実であった。
ハイタの瞳が、映像を睨みつける。ハスターの本性が、仮面の下でざわめく。
宴会場の空気は、映写機の余熱が残る重苦しさを帯び、深淵のささやきのように一行を包み込んでいた。
式鬼たちが、無音の優雅さで動き回る——一体が漆塗りの膳を片付け、蒸気魔術の微かな吐息を漏らしながら、畳の上を滑るように往来する。
陶器の顔に宿る妖しい輝きが、灯籠の光を反射し、まるで古き神社の影が蘇ったかのようだ。
紫色の小犬ティムは、そんな式鬼の一体にじゃれつき、尻尾を振りながら足元を駆け回る。
機械の脚に鼻を押しつけ、遊び心たっぷりに飛びつこうとするが、式鬼は微動だにせず、ただ淡々と次の膳を運び続ける。
その無機質な優雅さが、ティムの野性的な活気を引き立て、宴の余韻に奇妙な調和を加えていた。
ケイコは、白い垂れ幕を畳む式鬼の背中を眺めながら、静かに口を開いた。
「しかしこの件は、米国のみならず、我々日本の内部にもその影響を波及させております……皆様は、我が国の政権をご存知ですか?」
彼女の声は、巫女の穏やかさを纏いつつ、深淵の渦を予感させる響きを帯びる。
ライラは、映像の衝撃から気を持ち直し、教授らしい理性を呼び起こすように応じた。
「宮内庁と、内閣府ですね?」
金髪を軽く揺らし、緑の瞳を細めて問い返す。
ケイコは頷き、式鬼が運んできた新たな茶碗を手に取りながら続ける。
「現在国内で力を持つ二つの勢力は、常に力を拮抗させて、しかし実質的な力を持つのは近年の文明開花で技術力を持った正純重工を擁する辰宮内閣政権でした」
「あの木偶人形……式鬼たちの出所が正純重工ね、最近じゃ義肢や義体の開発までしてるって噂だ」
ハヤマの言葉に、ティムが別の式鬼にじゃれつき、機械の袖を軽く噛む姿が映る。
式鬼は無反応で、蒸気の微かな音を立てて茶を注ぎ、一行の前に置く。
正純重工はアーカムでも蒸気式モノレールや音響装置などで見るさまざまな高度蒸気機械製品にもそのエンブレムが刻まれている大企業だ。
ライラは情報を整理するようにこめかみに人差し指を置く。
「反して魔術的な権力を持っているのが、土御門陰陽寮を擁する大昌天皇の、あぁ……そういう事かっ」
ケイコの視線は、遠くの式鬼が畳を掃除する動きを追いながら、深みを増す。
「そう、土御門は日本の長い歴史の中で育まれた白黒の混ざり合った魔術師集団ですが、その完成された術式基盤故に外部の魔術文化流入に反対する勢力でした
今回の大統領暗殺の件の主犯という形にされかねないのです……ただでさえ四年前先代党首が亡くなって組織が揺れているところに……このままでは近いうちに陰陽寮が解体され、正純重工に統合されてしまうでしょう」
式鬼の一体が、ティムのじゃれつきにわずかにバランスを崩し、蒸気の噴射で小犬を優しく遠ざける。
ティムは楽しげに転がり、再び別の式鬼に飛びつく——その無邪気さが、部屋の緊張を一瞬和らげる。
ウィルバーは、そこまで知らなかった知識に目を丸くし、静かに尋ねた。
「四年前の事件?」
ウィルバーの声は学徒らしき純粋な好奇心を宿す。
ケイコは目を細め、疼く肩の傷跡を巫女服の上から撫でながら、ゆっくりと口にする。
「ーーある最悪最強の陰陽師による龍脈の超大規模操作、帝都転覆未遂事件……『加藤事件』と呼ばれる災害です」
その言葉が落ちる瞬間、式鬼の機械的な動きが一瞬止まり、蒸気の吐息が部屋に広がる。
ティムはじゃれつくのをやめ、ケイコの足元に座り込み、紫の瞳で一行を見上げる。
深淵の渦が、再び静かに回り始める予感が、宴会場の空気を重く染め上げるのだった。
紅絨毯の敷かれた子供部屋は、帝都の夜に沈む首相官邸の奥深く、赤い煌々とした灯りが幽かに揺らめく空間だった。
古めかしい書棚が壁を覆い、埃っぽい空気に混じるのは、インクの匂いと、遠くから響く蒸気機関の低いうなり。
卓上には、散らばった紙片が月光のように白く輝き、そこに記された数式は、複雑に絡みつく呪文のよう——地球と月の軌道を巡る計算が、幼い手で描かれたとは思えぬ精密さで連なっていた。
「セツコ、まだ勉強しているのかい?」
神経質そうな男の声が、部屋に響く。扉の隙間から漏れる影は、細く震え、まるで深淵のささやきのように。
少女は元気に振り返り、黒い長髪がサラリと揺れた。
「うん、パパ」
その声は無垢に明るいが、瞳の奥には、帝都の溟い空を映すような翳りが宿る。
男は、扉を少しだけ開け、部屋を覗き込む。
「……セツコ、そろそろ勉強はやめて私と遊びにでも行かないかい?」
その提案は、優しさの仮面を被った焦燥。
少女の唇が、微かに曲がる。
「お母さんにも、そう言ったのかなあ?」
鋭い言葉が、部屋の空気を刺す。
男は答えず、乱暴に扉を閉め、足音が遠ざかる。
少女はため息をつき、卓上の計算式に向き直る。
指先が紙をなぞり、数式の渦が、彼女の心を異界へと誘う。
窓辺に立ち、少女セツコは月を見上げる。
蒼白い光が、彼女の顔を照らし、せつなげな声が漏れる。
「いつ、迎えに来てくれるのかな……『加藤お父さん』」
その言葉は、帝都の夜空に溶け、消えていく。
首相官邸の赤い灯りが、少女の影を長く引き、伝奇の渦が静かに回り始める予感を残すのだった。
辰宮セツコ——その名は、魔術と科学の狭間で揺らぐ運命の鍵を握っていた。
Case3 第二部 Fin
アザトースのひとこと「温泉旅館でやることはやったね!(補遺資料はR18版へ)」




