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Un Cease (R15版)  作者: EMM
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Case3 老いた大神官のバックアップと大日本帝国龍脈の霊的依存性についての調査記録 第一部



 1915年8月、蒸気の霧が立ち込める大西洋の海上を、威風堂々とした飛行船が切り裂いて進む。

 その名は『輝ける始原』号——アメリカ合衆国大統領ローランド=シャイニーの専用機だ。

 豪奢な装飾に彩られた船体は、金箔の彫刻と宝石のようなランプで輝き、まるで空飛ぶ宮殿のようだった。


 だが今、その上部には不気味な影が覆い被さっていた。

 ぎじぎじと不快な羽音を立てる巨大な『蜻蛉』ーーその体躯は飛行船全体を覆うほどの大きさで、複雑に絡みつく脚を船体に食い込ませ、まるで寄生する異形の虫のように止まっていた。

 その複眼の内側には、生体機械としてその蜻蛉を内部から動かす者たち、蜻蛉の背には逆三角形に血走った瞳の紋章、【深淵を見返すもの】のエンブレムが刻印されていた。


 その足元からは襲撃を知らせるサイレンが甲高く鳴り響き、黒煙が渦を巻いて立ち上る。

 異常事態は明らかで、海風に混じる焦げ臭い煙は、内部で繰り広げられる混沌を銃声とともに雄弁に物語っていた。

 船内の豪奢な会議室は、今や拷問の舞台と化していた。

 パイプ椅子に固定され、手足を縄で固く縛られた恰幅の良い禿頭の男性——ローランド=シャイニー大統領は、額に汗を浮かべて焦燥を露わにしていた。

 彼の目は、権力者のそれではなく、追いつめられた獣の輝きを帯びていた。

 息を荒げ、必死に力を込めると、手足がゴボリと音を立ててタール色の粘液に変貌し始める。


「て・け・り……りぃぃ」


 大統領が唸りながら人外の力ーー神格を持つ冒涜的な生物としての片鱗で、拘束を溶かそうと蠢動する。


 だが、次の瞬間、何処からかチキチキキキと機械的な音が発せられ、空気が歪むような振動が部屋を震わせた。


 大統領の手足は強制的に時間を巻き戻され、人間のそれに戻される。粘液は逆行する泡のように消え、元の肉体が再構築されるのだ。


「ぎゃああぁぁ!」


 同時に、耐え難い苦痛が大統領を襲い、喉から引き裂くような悲鳴が上がった。 それは単なる肉体の痛みではなく、魂の深淵を抉るようなもの——神格の権能を強引に封じ込められる絶望だった。

 部屋の隅から、ゆっくりと足音が近づく。

 高山帽を被った男が、影のように現れる。

 彼の顔は広めの色眼鏡に覆われ、唇に薄い笑みを浮かべ、まるで古い写真から抜け出したような古風な装いにコートを羽織っている。

 男は舞台の上であるかのようにステッキをくるりと優雅に回し、向かい合うパイプ椅子に勢いよく腰を下ろし、親しげに、しかし嘲るように、言葉を紡ぐ。


「良いでしょうソレ、『複合神経融合型『審神者の瞳』拡張装置』……ただの神格持ちなら権能を即座に固定される便利な2035年の技術です……まぁ、流石に我々の機械技術で完全再現するのは限界があるので生体パーツにちょっとたよっちゃってますけどネ」


 男の声は軽やかで、まるで旧友に冗談を交わすようだったが、その目は深淵を覗くような冷徹さを宿していた。


「ぐううぅぅううう!!」


「あ、あ、あ、あんまり無茶しないほうがいいですよー、ソレは本来の未来で300tの『怪獣』を倒すために使われた技術だ、要は銀瞳と同じ理屈ですよ

銀瞳は単体で滅茶苦茶力強い相撲レスラー、こっちの装置は重機を使って可能性を抑え込んでるようなもんです

下手すると細胞核ごと潰れて、ショゴス・ロードとしてすら使えなくなっちまう?」


 装置の名を口にし、未来の年号をさらりと漏らす彼の存在は、このウィアードエイジの歪んだ法則を象徴するかのようだ。

 大統領は額に汗を吹き出し、息を荒げながら高山帽の男に尋ねる。


「何がぁ……何が目的だ、金か?」


「金!良いですねぇ僕も好きですよお金、あれは魔術に対する科学に通じる。

魔術が信用を兼ねた物々交換であるならば、貨幣の存在は無慈悲かつ能率的な力価のやり取りに他ならない、あとは『熱い』か、『冷たい』か、熱力学第一法則も第二法則も僕は大好きです……実にシンプルだぁ

あなた方ハイパーボレアの遺児たちもまた、その多くが『熱い』方を選んで生き残っている、実に洗練された生存戦略。 でも、それじゃあない」


 身分を熱量に例えて思う哲学を吐き散らかした男は身構え崩して喋る、喋る、喋る、まるでそれだけのために大統領を呼び止めたかのように。


「ローディ、ローラン、ローニー!決まりだ、君は今から死ぬまでローニーだ

自己紹介が遅れたねローニー、僕は……あー」


 色眼鏡の奥の男の緑の瞳に赤い点滅が素早く走り、男だけに見える視界に異次元の名簿がリストアップされる。

 男は自分だけに見えるそれを指でなぞり流していく。


「ダーレスはイマイチ、シュルズベリイはぁもう使われてるんだっけ?……あはぁ」


 男は気に入った名前を見つけたのか、いやらしく吐息まじりに嗤う。


「【深淵を見返すもの】上級魔術師、正確には科学者だけど形式的にね?

アンブローズ=ビアス、僕のことはそう呼んでくれたまえよ、ローニーぃ」


飛行船の外では、巨大蜻蛉の羽音が低く響き続け、銃声は止み制圧の終わりを告げる。。

シャイニー大統領の瞳に映るのは、ただの恐怖ではなく、目の前に嗤う『未知』に他ならなかった。


 恐怖の霧が立ち込める飛行船の会議室で、汗が止まらない額を震わせながら、震える声で希望的観測を口から吐き出した。

 いや、そうすることしかできない、絶望の淵で縋る最後の藁だった。


「アンブローズ……良いだろう、アンブローズ君。君はあれだろう、私の魔術排斥運動を手ぬるいと感じているのだな?」


 高山帽の下から覗くアンブローズの深緑の瞳が、嘲るように細められる。


「いや全然? むしろこのタイムラインにしちゃよくやってると思いますよ?

白魔術や市国の台頭を抑えつつ、アレイスターすら寄せ付けないこの歴史の防御力は感嘆に値しますよ、ローニー」


 大統領の瞳に一瞬の光が宿る。

 未知の深淵から這い上がるような、不理解の恐怖を押し殺し、彼は言葉を続ける。


「では私を君たちの仲間にしてくれ、同盟を結ぼうじゃないか!我々が手を組めばあの忌々しいミスカトニック大学の半神と成り果てた古き者すら科学の刃で打ち破れるだろう! それで……」


 だが、言葉は途中で断ち切られる。

 アンブローズが呆れ果てたように溜息をつき、指摘する。


「あー君、少し優しくすると勘違いするタイプか。」


 彼が軽く手を上げると、部屋の空気が歪み、衝撃波が大統領の左足を直撃した。

 グロテスクな音——ベチャリと肉が潰れ、骨が砕け散る音——が響き、足は一瞬で血肉の塊に変わる。

 赤黒い飛沫が飛び散り、絨毯を汚す。


「〜〜〜〜〜っ!!?」


 古い神格の絶叫が、部屋の壁を震わせる。

 大統領は本能的に再生を試みる。足の断面からタール色の粘液が泡立ち、肉体を再構築しようとするが、何処からかチキチキキキと機械的な音が発せられ、時間が巻き戻される。

 再生は阻害され、傷口は生々しく開いたまま。

 痛みの波が二重に襲い、魂を抉る絶望が彼を支配する。


「がはっ!はぁっ、はぁ……!?」


「なぁローニーローニ―……『神』の条件とはなんだと思ぅ?」


 立ち上がったアンブローズは痛みに硬直する大統領の肩に手を置き、耳元で囁くように問いかける。

 震え、涙と汗でぐちゃぐちゃになった顔で振り向き、大統領は必死に思考を巡らせ、絞り出した答えを出す。


「か……神は、神だろう?……神として生まれ、神として死ぬ……そういうもので」


「ざぁんねぇぇん、外れだ」


 獣の唸るような声で笑い、手を挙げる。

 続いて右腕。衝撃波が炸裂し、肘から先が爆ぜ、骨片と筋肉の糸が飛び散る。

 血の噴水が天井を叩き、鉄の臭いが部屋に充満する。


「ばああぁぁっ!! あがぁぁあ!!」


「神が神たる条件は多義にわたるが、それは受動的な神であったものの意見だろローニーぃ?

その中で僕が一番だと考えている一例を教えてあげよう、そこらの神よりよっぽど高貴な神たる条件それはーー『物語ログを描くこと』だよぉ」


 次は左肩——肩甲骨が砕け、肉が剥がれ落ち、露出した白い骨が血に塗れる。


 右足首はねじ切れるように粉砕され、足首の腱がビヨンと切れ、足が不自然に揺れる。


 破壊と阻害の連鎖が続き、傷の苦痛と再生の拒絶が、神格の脳髄すら耐えられない恐怖を呼び起こす。

 拘束はもはや意味を成さず、大統領はパイプ椅子から転げ落ち、芋虫のようにのたうち回る。

 血溜まりの中で滑り、舌の回らない声で助けを呼ぶ。


「たひゅっ、たしゅけ……たすけてぇ……」


 その哀れな姿を見下ろし、アンブローズは笑い出す。


「うっふふはっはっは! ローニー、ローニーやれば出来るじゃないか?

僕がこうしてるのはねぇ、現代における神が現代における最高の熱を持つ、この熱の最高潮に位置するこの宮殿を君の神殿に見立てて……」


 金髪が揺れ、深緑の瞳が歓喜に歪む。


「その神格が僕に縋り落ちる『悲劇ログ』を見たいんだけど?」


 アンブローズの言うままに、大統領は這いずり、その口元に近づく。

 死に物狂いで彼の靴を舐め、なりふり構わず懇願する。


「だずけで、だずけでくだざい、なんでもじまず……」


 アンブローズは吐息を漏らし、その股間は屹立するーーだが……


「ふ、はは……醜いなぁ」


 と呟き、彼を蹴り飛ばす。

 立ち上がり、踵を返したアンブローズは、部下であるローブ姿の下級魔術師たちに指示を出しながらその場を後にする。


「代用品はダメだね、解体していいよ……あぁ残骸は予定通りに飾っといてー」


「は、話が違う!!」


 大統領の絶叫は、もうアンブローズの耳に届かない。

 様々な解剖道具を手にした下級魔術師たちが迫る。

 まず、鋭いメスが胸に突き刺さり、皮膚を裂く。

 ズブリと音を立てて肉が開き、肋骨が露出。

 血が噴き出し、魔術師のローブを赤く染める。

 次に、鋸が骨を切り、ガリガリと不快な音が響く。

 内臓が引きずり出され、心臓が脈打つままに床に転がる。肺が破裂し、泡立つ血が飛び散る。

 腸が引き出され、ねばつく粘液が絡みつく。頭蓋骨をハンマーで叩き割り、脳髄が飛び出し、灰色の塊が床を汚す。

 神格の残滓が蠢くが、装置の機械音がそれを封じ、肉片一つ一つが無力に震える。

 スプラッタな血肉の宴——臓器の散乱、骨の粉砕、血の川が部屋を埋め尽くす。

 断末魔の叫びが、喉を裂くように響き渡る。


「ぎいいいいああぁぁぁっ! やめろ、やめろぉぉぉ!」


 飛行船の外では、巨大蜻蛉の羽音が低く響き続け、アンブローズの哄笑が混じる。


「あはぁっ……やっぱり、待ちきれないよ……サチア、君の縋り、謝り、絶望に泣き伏せる姿ログをこの目にするのが……ああいや、正確に呼んであげないとね……良き羊飼いの守護者、ハスターぁ♡

か、は、は、ははははは!」


 彼の哄笑と共に、『輝ける始原』号から蜻蛉が分離し、その尾の先にある霊子エンジンが点火する。

 爆発的な加速と共に蜻蛉は空に消えていき……『輝ける始原』号は爆発炎上した。

 海上へ落着する残された残骸は、深淵の渦に飲み込まれ、ウィアードエイジの新たな悲劇を予感させるのであった。




 ある日のアーカムは、相変わらず蒸気の紫煙で鬱屈とした曇り空を纏いながらも、退屈な日常を謳歌していた。

 ミスカトニック大学の教授宅では、階差蒸気式タイプライターの鍵盤がカタカタと響き、ライラ=シュルズベリイが学会用のレポートを作成中だ。

 白魔術と黒魔術の狭間で揺らぐウィアードエイジの歴史を、彼女の知性は鋭く切り取ろうとしていた。

 夏の入り口に差し掛かり、ラフなブラウスとスカート姿のライラは、額に薄い汗を浮かべながら打鍵を続ける。

 その後ろで、ハイタは退屈そうに飛行船の模型をいじっていた。

 指先で弄んだそれを、霊子を操って遠隔操作する。本来はゆっくりと旋回するだけのおもちゃであるはずのそれが、ラジコンのように部屋の天井近くを滑らかに飛ぶ。

 灰色の光が差し込む窓辺で、ハイタはため息をつきながら模型を操る——旧支配者の力など、こんな遊び道具に過ぎないのだ。


「その器用な真似の理屈をレポートにすればいいのに、工業科にすごくウケるぞ?」


 ライラの声が、タイプライターの音を割り込む。ハイタは肩をすくめて応じる。


「感覚でやってるからなぁ。」


 何気ない会話が、部屋の空気を柔らかくする。

 だが、ライラは目を伏せて打鍵する指を一旦止め、立ち上がり、夏の軽やかな格好で、ハイタの横にちょこんと座る。

 ハイタは不思議そうに彼女を見やり、笑みを浮かべる。


「なんだ、息抜きか?」


 そう言って、自然にライラを抱きしめる。

 ライラは甘えるように身を寄せ、吐息を漏らす。


「んん……ちょっと疲れたぁ。」


 ハイタは笑いながら、彼女の肩を揉む。

 細い指が、優しくも力強く筋をほぐす。


「まぁ最近は色々ありすぎたからな? ご苦労様です教授。」


 そんなハイタに、ライラは潤んだ瞳を向ける。

 上気した頰が、少女らしい脆弱さを露わにする。


「んん、ふ……ね、ハイタぁ……またアレ、シない? 私の胸から……」


 言葉に熱が籠り始める。

 誘うような視線が、魂の代償を匂わせる。ハイタも舌なめずりをしながら、目を細める。


「直飲みか、……確かに、休日を酔って過ごすのも一興かな?」


 ハイタは、ラジコンになった飛行船模型をテーブルに着地させる。

 静かに着陸する模型が、部屋の空気をさらに甘くする。

 ライラは可愛らしく笑みを浮かべ、ハイタの胸に頬を擦り付ける。


「んへへ……ハイタ、いっぱい味わって……」


 その瞬間、呼び鈴の音が襲撃のように響き渡る。

 ライラの表情が一気に顔を顰め、苛立ちを露わにする。


「まっ……たく! 休日はこれだからもう……」


「俺はいつでもいいぜ〜」


 ハイタはソファーから手を振るが、ライラは頰を膨らませて立ち上がる。

 玄関へ向かう足取りは、日常の苛立ちを纏っている。

 ドアを開けながら、いつもの文句を口にする。


「ハイハイ、教団の勧誘なら間に合って……る……ぞぉ?」


 だが、言葉は途中で詰まる。

 相手の異様な格好に、ライラの目は丸く見開かれた。


「あらあらあらぁ♡ ご丁寧にどうもぉ、黒き山羊の会ですぅ

お引越しの挨拶に伺いましたわぁ?」


 アーカムの灰色の空の下で、深淵の渦が再び、静かに回り始める予感がした。


 宗教法人『黒き山羊の会』は、ありふれたカルトの一つだ。

 だがその教義ゆえに邪教認定とグレーゾーンのスレスレを常に行き来している危ない団体でもある。

 アーカムの灰色の空の下、ミスカトニック大学の教授宅の玄関先に、その一団が現れた。

 付き添っている神父とシスターは、修道服という体を保ちながらも、通常のそれよりも肌を露出するデザインとなっており、性に対し奔放な『らしい』雰囲気を妖しく放っている。

 黒い布地が薄く透け、曲線を強調するように仕立てられた姿は、深淵の誘惑を象徴するかのようだ。

 しかし、極まっているのはその中央からライラに話しかける豊満な体型の女性だ。

 ビキニと呼ばれる露出の異様に高い水着一丁の上からエプロン一枚の出立は、どこぞの頭の悪い内容の官能小説から出てきたかのような出立ちで、紫の粘液状の髪がもこりと揺れてその異様な特徴にも関わらず、異様な母性を称えた顔立ちは美しさを損なわない。

 しかし、その姿はあまりにも……。


「へ、変態だぁ……」


 気の抜けた声をあげてドアを閉じようとしたライラの手を押さえて、安心させるように紫髪の女性は笑顔を向ける。


「あらあらぁ、ハスちゃん可愛いじゃないのその依代? 聞いていたよりずっと若くて頑丈そうじゃない、前よりちょっと慎ましやかにはなったわね?」


 まるで母親のように接してきながら、するりとライラに密着してその頭から腰にかけてを撫でる。

 柔らかな指先が、ライラの金髪を優しく梳き、背筋をなぞるように滑る。

 粘液状の髪が微かに触れ、冷たいぬめりを残す。


「ひっ、ふえ? や、ちょっと……何っ、ハスター? 違う、私はハスターじゃ、ないぞやめっ……やめてってば!」


 その手が胸を撫で、その先端をいやらしく撫ぞり過ぎる刺激にピクンと身体が勝手に反応し、羞恥に赤くなった顔でライラは抵抗の意を示し女性を押し返す。

 豊満な胸が押し返され、紫の髪が揺れる——だが、女性の目は好奇心に輝き、まるで玩具を弄ぶような楽しげさだ。


「あ、らぁ? 本当だわ、中身が違う……顔がそっくりだったからてっきり、でも匂いはするわねぇ?」


「何の用だよ、おふくろ。」


 ライラを後ろから抱き寄せて「んぃっ」とライラが小さく声を出してしまうが、構わずハイタはライラを守るように抱き寄せる。

 ハイタの姿で現れた彼の腕が、ライラの腰を強く掴み、彼女の体温を共有する。 その様子を見た女性は、徐々ににまぁぁといやらしい笑顔を広げていき、キラキラと輝く目でその様子を見やる。


「あらぁ〜あらあらあらあら! ハスちゃんその依代! そんな格好も出来るんじゃない、お母さん心配してたのよぉサチアの端末ボディ役割ロールが変質しちゃわないかもう……」


 サチア、その言葉が出てきたところでハイターーハスターの眉間に皺が寄る。

 黄衣の王の本性が微かに覗き、傲慢な冷徹さが、部屋の空気を重くする。


「あまり戯けるな! 母親というのも役割ロールとはいえその面も過ぎれば毒だぞシュブ=ニグラス!」


 声を荒げたハスターにその名を呼ばれた女性、シュブ=ニグラスは邪神としての冷ややかな顔を覗かせながらハスターを見やる。

 紫の髪が一瞬、触手のように蠢き、母性の仮面の下に潜む深淵が露わになる。

 千匹の仔を産む山羊の女神——その視線は、宇宙の果てから来た冷徹さを宿す。


「そうね。確かに言いすぎたわ、どうせその子には言ってないでしょうし

……ま立ち話も難だし、お土産も持ってきたから話しましょうよ、ハスちゃん、それとその彼女さん♡」


 冷たい言葉の響きが、一気にそれ以前の軽妙なそれに戻ると、『黒山羊饅頭』『黒き川蕎麦』と日本語で書かれた手土産を差し出し笑顔になるシュブ=ニグラス。

 饅頭の包みからは、甘い酒蒸しの香りが微かに漏れ、蕎麦の箱は黒く染めた普通の蕎麦だ——ウィアードエイジの異界の産物だ。


「やれやれ乗るしかないのかこれ、人間の社交辞令ってやつ……」


「……んん。」


 人前でハイタに抱かれ若干羞恥に顔を赤くしているが、彼女と呼ばれ嫌な気はしていないライラ。

 しかし、その眼は目の前の邪神シュブに向けられ、警戒を怠らない蜂の羽音が鳴り響き始めていた。

 

 マンションの居間は、蒸気の霧が窓ガラスを曇らせるアーカムの灰色の光に満たされ、深淵の渦が静かに息づくような緊張を孕んでいた。

 テーブルの中央に広げられた『黒山羊饅頭』は、黒い皮に包まれた饅頭から甘い酒蒸しの香りが漂い、食欲を刺激する。

 片側にシュブ=ニグラスとその付き添いの神父、シスターが座り、反対側にハイタとライラが向かい合う。

 二組の視線が交錯する中、空気はウィアードエイジの二重構造を象徴するかのように、重く淀んでいた。

 ハイタはライラの耳元で、静かに警告の言葉を紡ぐ。

 黄衣の王としての冷徹な響きが、部屋の空気を震わせる。


「予め言っておくぞライラ、アレの母親面は役割ロールという……簡単にいえばシュブ=ニグラスたる『それらしさ』であり『本質の枠』だ。

親父の時にも言ってたように、邪神には無数の世界線チャンネルが内包され繋がっている、それでも俺がハスター『らしい』ように、やつもシュブ=ニグラス『らしく』振る舞う訳だ」


 ライラの目が鋭くなり、口元に手を当てて考察する。教授としての知性が、深淵の法則を切り取ろうとする。

「成る程、子供を愛したヨグ=ソトースがいたように、侵略の道具として生産し続けるヨグ=ソトースも存在するけどどれも邪神として等価

そうあり続けるための演技ロールってわけか。」


「正解、だから妙なことをし始めたら即殺して構わん。」


 ハスターがそう冷たく言い放つのは、邪神としてのロールか、それとも……。


『サチア、か……』


 心の中でそう呟く。その意味は不明瞭だが、おそらくはそれが彼の秘めた逆鱗と察したライラは何も言わない。

 だが、ほんの少しだけ彼を知れない寂しさを覚えるだけだ。魂の代償として結ばれた絆が、微かな棘のように胸を刺す。


「ご相談は終わったかしら?」


 シュブ=ニグラスが、紫の粘液状の髪を揺らしながら口を開く。

 豊満な体躯がエプロン越しに揺れ、母性の仮面が再び浮かぶ。

 ライラは冷徹な教授の口調で応じる。蜂の羽音のような警戒が、彼女の周囲にステルスで潜むビヤーキーを呼び起こす。


「ああ、問題ない。それで、邪神がわざわざハンターの家にわざわざ乗り込んできたのはどういう了見か、お聞かせ願いたい。」


 シュブの瞳が、ライラの周囲にステルスで潜むビヤーキーを映し、楽しげに歪む。

 千匹の仔を産む女神の視線は、深淵の喜悦を宿す。


「最近、何かと物騒なのよ。」


「物騒?」


 お前らがいうな、そう言わんばかりの怪訝な顔をシュブに向けるライラ。彼女の緑の瞳が、怒りの火種を灯す。


「【深淵を見返すもの】が本格的に動き出した、まず奴らはハイパーボレアの遺児、つまり過去の神格存在の名残を掃除し始めてるわ……」


 かの邪悪な科学者集団の魔の手が、神々の残滓に触手を伸ばす悍ましさを幻視する。

 冷徹な口調ののち、シュブは口元を隠し弱々しい女性の口調で言う。紫の髪が、触手のように微かに蠢く。


「困ったわぁ、お母さん産むこと殖やすことしか権能機能がないからぁ、アーカムのミスカトニックにお邪魔して守ってもうことにしたのっ。」


「ミスカトニックが、邪神を守るだと!?」


 ライラが思わず立ち上がる。テーブルが震え、饅頭の香りが部屋に広がる。

 彼女の理性が、深淵の不条理に抗う。


「見返りはちゃんと齎すわよ、学長も了承してくれたわ……私がここにきたのはね、主に貴女のためなのよ? ライラちゃん。

学長立っての願いでね?」


 にまぁとシュブの笑顔が品定めを終えたかのように広がった。

 母性の仮面の下に、神格の貪欲さが覗く。


「私のため……? なにを……っ!?」


 ライラの声が、居間を切り裂くように響く。

 ゾクッ! と、背筋を未知の感覚が奔り、彼女の身体が反り返る。

 反射的なライラの念を受け取ったビヤーキーの羽音が鳴り響き、ステルスで潜む棘の突撃鑓が発射される——それは、従者二人が質量を無視して取り出したハルバードに弾かれ、金属的な響きを残して散らされた。

 紫の粘液状の髪を揺らすシュブ=ニグラスは、冷静に言い放つ。


「彼らは護衛、戦闘の意思はないわ。」


 その言葉を前に、ライラは両腕で胸を押さえつけて蹲る。

 震える身体が、熱く火照り始め、甘い疼きが下腹部から這い上がる。

 真っ赤になった顔を持ち上げ、苦悶と羞恥に染まった表情で、なんとか教授としての昼の顔を保ったまま問う。


「はぁっ……はぁっ! な、にを……したぁっ?」


 息が乱れ、声が震える。

 胸の先端が布地越しに硬く尖り、擦れるたびに電流のような快感が全身を駆け巡る。

 ライラの緑の瞳が、涙で潤み、理性が溶け始める。


「ライラ! どうした!?」


 ハスターが駆け寄り、その身を抱き寄せる。温かな腕が腰に回る瞬間、ビクン! とライラの全身が跳ねる。

 甘い吐息が漏れ、太ももが無意識に擦れ合う。


「きゃっ……ぁあっ!?」


 ビクビクと震えるライラの反応を見て、ハスターの顔に獣じみた怒りが溢れる。

 黄衣の王の本性が、冷徹さを失って怒りを母神へ向ける。


「毒婦がぁ、貴様ぁ!!」


 シュブ=ニグラスは、豊満な胸を揺らしながら、緩んだ口調で応じる。

 紫の髪が、触手のように微かに蠢き、母性の仮面の下に深淵の喜悦が覗く。


「無意味ないたずらでもないわよ? 私は豊穣と交わりの神、性的な干渉と魂の増強は私の本質……でーもっ、流石ハスちゃんの彼女ねぇ、私の直接接触からこんなに時間がかかるなんて、普段からよっぽどハスちゃんにゾッコンなのね?」


「言うなぁっ……ぁっ、ぁぁっ、ダメっ……クソォっ!」


 後半を緩んだ口調で締めるシュブの言葉に、身悶えるライラは涙を流しながら叫ぶ。

 心臓が高鳴り、どんどん発情し敏感になっていく身体に震え、ビクビクと痙攣する全身を精神で抑える苦痛に唇を戦慄かせる。

 股間の熱が、蜜のように溢れ始め、理性が快楽の渦に飲み込まれそうになる。


「ひっ……あ、ああっあああっ!!」


 助けを求めるようなライラの悲鳴にハスターは懐から非常用の対魔弾の込められた拳銃を取り出し、シュブに向ける。

 しかし忌々しげに目が細められる、脅しにもならないのは彼自身にもわかっている——仮にも神格相手だ。


「辞めろ毒婦! 俺の熟成させてきた蜂蜜酒をこんな手段で汚す気か!」


 シュブ=ニグラスは、にまぁと笑みを広げ、手を挙げる。

 指示を送ると、ハルバードを持つシスターがぬるりとハスターに近づき、その脆い体を後ろ手に拘束する。


「失礼します、ハスター様」


「ぐうぅっ」


 押さえつけられたハイタの下半身が、ライラの視界を支配する。

 布一皮剥けばそこにあるのは、魂の代償として馴染んだ形、普段の交わりで味わう禁断の果実。


「あっ……あぁっ……」


 それを目の前に見たライラの瞳は、自身の衝動への怯えに歪みながらも、ロードビヤーキーとなった時のように紅く染まり、飢えた猛獣のように瞳孔が細く締まる。

 下唇を噛み、蜜が溢れる下腹部を抑えきれない疼きが、彼女を苛み……そのジッパーに手を添える。


「ライ、ラ……乗るなっ」


「房中術、しましょっか♡」


 シュブの気楽な口調と共に、淫靡な儀式が強制的に始められる。

 居間は、甘い酒蒸しの香りと、肉体の熱気が混じり合い、深淵の宴の舞台と化そうとしていたーー



「ーーーーーーあいや、待たれぇいっ!!」



 ガギュン!! と、金属が閉じるような音と共に、淫蕩の宴は急にその熱を失った。


「あらんっ?」


 権能を途切れさせられたシュブの紫の髪を構成する粘液がビクンと跳ねて力を失う。

 マンションの入り口で息を切らせながら、銀瞳を輝かせていたのは……ライラの生徒、ウィリアナ=アーミティッジであった。


「『執筆級』神格、シュブ=ニグラス」


 ——その名を、二重に響く少年の声がが冷たく呼び止める。

 淫蕩の宴の余熱が酒蒸しの香りと溢れた濃密な蜂蜜酒の香りと混じり合う中、ジェット噴射のような轟音が、ベランダの観葉植物を吹き飛ばし、葉が散乱する中、『不可視の何か』から降りてきた少年が、軽やかにベランダに着地する。

 ウィリアナと同じ黒紫の髪をした、オーバーサイズのロングコートを羽織った少年——ウィルバー=アーミティッジは、冷徹な視線をシュブ=ニグラスに向け、静かに言い放つ。


「大人しく投降してください。僕も恩人の家を破壊したくはないから」


 その背後で、紫色の機械的装甲を纏った不可視の異体が、ジジっと紫色の放電を散らしながら、ベランダにしがみつくように姿を表す。

 怪物のようなその異体は、金属と肉の融合体ーーウィルバーの呪われた血統がもたらす、名状しがたき脅威を進化させた姿だ。

 ウィルバーはシュブを睨みつけ、ヨグ=ソトースの双子の片割れとして、父の血を引く冷徹さを露わにしながら、異体の内よりガシュンと展開した砲門を邪神に向ける。

 一方、ウィリアナ=アーミティッジは古風な口調でふんすと怒りを露わにする。


「ライラ教授とハイタ殿の『仲良し』をそんな苦しいものにしちゃ駄目で御座りまするっ!」


 純粋無垢な少女の頭上に乗ったティンダロスの子犬、ティムが、ガルルルと本気の威嚇をシュブに向け、ウィリアナの銀瞳の力が部屋の時空をわずかに歪ませる。

 冷めきった肉欲を、玄関の姉とベランダの弟が睨む重い緊張感の構図——それは、ウィアードエイジの灰色の空の下で、神々の血統が人間の絆を護る、奇妙な対峙だった。

 蒸気モノレールの無遠慮な金属音が、遠くから響き渡り、部屋の淀んだ空気をさらに重くする。

 

「ヨグパパの息子たちねぇ、ライラちゃんの心は早めに解放したほうがいいわよぉ?

確かにこれは精神をレイプするようなものだけど、楽しみだけが目的じゃないのは本当よ?」


 足を優雅に組み直すシュブ=二グラスは神父を手で招き寄せると、彼の身体に絡まるように立ち上りその初老の皺だらけの唇に舌を這わせて、空いた唇に舌を捩じ込み、唾液を貪るように啜る。


「んは……じゅる、んむ……はぁ、快楽と欲望には魔術的に様々な意味が付与されてきたわぁ、房中術はその最奥にあたる、その解放に精神と魂の次元を底上げする効能を得る儀式

つまりは魂の補強行為こそ目的なのよ……お母さんだって胸が痛むわぁ?」


 その淫靡な光景に、ウィルバーは顔を顰め、ウィリアナは「はわわ……」と顔を赤くする。

 ライラは急激に冷めた快楽の予熱に朦朧としながら、その言葉が逃げ道のように脳内に浸透していく。


「はぁ……はぁ……魂の、補強……?」


「半分以上は趣味だろうが」


 シスターに押さえつけられたままのハスターは未だシュブに対する怒りを露わにしていた。

 しかしその言葉は、ライラの中に秘めたさらに歪んだ悦びをフラッシュバックさせていく。


「ん、んんっ」


 びくっ、とライラの腰が跳ねる。

 シュブは裂けるような笑みを浮かべながら続けた。


「知らないとでも思った? 私はあなたたちの可能性チャンネル過去ログも含めて初めから知っているわよ?

ライラちゃん、生贄であることに逃げているけど……本当は気持ちよくて気持ちよくて堪らないのよね?

全身を這う邪神の舌の感触、魂を啜られる恍惚と、神の体を満たす支配感覚……それが全身を埋め尽くすその感覚が堪らなく愛おしい……

昂って肉体接触に及んだことも、一度や二度じゃないでしょうに! 綺麗ぶるんじゃあないわよ!」


 徐々に獰猛な獣性を露わにするシュブの言葉に、ライラは頭を抱えてその場に蹲る。


「あ、あ、あああっ!やめろ、やめてぇっ!!ここで言わないで……私を、曝け出さないで!!」


 ライラの顔色は、羞恥の赤ではなく苦悶の青に染まり始めていた。

 知っていたはずなのに、わかっていた筈なのに、人間のそれから大きく逸脱したその欲望がとっくに異常だと理解していた筈なのに、先の快楽で、その先に夢見た欲望で、ライラはシュブ=ニグラスの言うように戻れない一歩手前まで足を進めていたのだ。

 戸惑いも、躊躇もなくだ。

 そんなこの上なく悍ましい本性を、生徒と、愛するものの前で曝け出される恐怖が触手のようにライラの全身を蝕んでいく。


「嫌、やだよぉ……っ」


「……っ、ぁあ゛、ああ!!」


「ハイタ殿っ!?」


 ハイタは歯を食いしばり、脆い体が少し裂けるにも関わらずシスターの拘束を解く。

 すぐまた捕まえようとするシスターだが、ガギュりとウィリアナの銀瞳がその体を拘束する。


「……イイ加減にしろよぉ……シュブ=ニグラス!!

俺とライラの関係を、お前の古い法則で模るな!! 万死に煮詰めても足りんぞ貴様ぁ!!」


「あひひっ!甘いこと言わないでぇハスターっ!?これはヒトと神、どちらが生き残るかの最終戦争なのよ!?その支度なの!

壊れてでも、彼女には力をつけてもらわなくっちゃ!」


 パン


 乾いた音が、部屋に響く。

 ハイタの手に持つ銃が、シュブ=ニグラスの胸に銀の弾丸を打ち込んだ音だった。

 当然、効果はないーー彼女のエプロンに穴を開けただけで、銃弾は彼女の柔らかいはずの肌の上でキュルキュルと回転するだけだ。

 しかし、それは邪神がヒトとして、母神に逆らう意思の発露に他ならなかった。


 先の狂気に塗れた笑顔が真顔になって、短く重いため息をつく。

 それは母としても邪神としてでもなく、執筆者としてのぼやきだった。


「はぁっ……こっちの世界線のレーティングじゃ、コレが限界かぁ」


 そしてまたすぐに母の仮面を被ったシュブ=ニグラスは降参するように両手を挙げた


「……あぁんもう、わーかったわよ、降参降参。お母さんやりすぎちゃったわ、ごめんね?」


 母性の仮面が、再び軽妙に浮かぶが、その目は深淵の喜悦を隠しきれない。


「こ、のっ」


 ハイタは、歯を食いしばり、立ち上がってズカスカとシュブに近づく。

 黄衣の王の本性が、漆黒に染まった瞳に宿り、その頬に鉄拳を叩き込む。

 ゴッ! と乾いた音が響き、シュブは珍しく驚いた様子で倒れ伏す。


「んぐっ!?」


 予想外の痛みが、千匹の仔を産む女神の顔を歪ませる。


「二度と……二度とするんじゃねえっ。」


 ハスターの声は、低く唸るように響く。

 漆黒の瞳に、ゾクリと恐怖を感じたシュブは身震いし、吐息を漏らす。


「ほんっとに、いい男に育ったわ、あなた。」


 母性の仮面の下に、神格の畏怖が覗く。

 それは、旧支配者の血統がもたらす、歪んだ賞賛だった。


「……っ!……っく、……ヒッ……ぅぁ……」


 その裏で、ライラは床に突っ伏しながら、静かに嗚咽しているのだった。

 魂の代償として結ばれた絆が、快楽の渦に汚され、理性の残滓が涙となって溢れていた。



 ガシャン!


 と、重厚な金属音がミスカトニック大学の独房に響き渡る。

 シュブ=ニグラスと黒山羊の会のシスター、神父を閉じ込めた閉鎖来賓室ーーつまりは豪奢な独房の扉が、次元分離結界を伴ってロックされる。

 ヒエログリフのような文様が電子的にドアを這い回り、神格であるシュブがそのノブに触ろうとすると、バチッと火花が走り、反射的に手を引く。

 ヌトス=カァンブル学長は、監視窓の向こうで諦めたように肩をすくめるシュブの姿を確認し、ため息をつく。


「すまない、見誤った……最近どうにも邪神らしからぬ邪神が増えすぎて、奴も抱え込めると勘違いした私のミスだ。」


「そりゃどうも。」


 ヌトスの謝罪と「邪神らしからぬ邪神」という皮肉が同時に刺さり、ハイタは眉間に皺を寄せる。

 それでも保護を行うには変わりない——シュブ=ニグラスはこの先大学に守られる来賓であると同時に、【深淵を見返すもの】を誘う生き餌として機能することになる。

 これは大学とかの組織の戦いにおいて、大きなアドバンテージとなるだろう。

 ウィアードエイジの深淵、世界的な渦を回し始める予感が、部屋の空気を重くする。


「ところで、ライラ教授はいつまで凹んでるの。」


 呆れたようなヌトスの言葉に、ウィリアナの背に顔を埋めるライラがビクッと振るえる。

 宴の余波が、彼女の魂をまだ苛み肩を震わせる、少女らしい脆弱さを露わにしていた。


「きょ、教授はかの邪神に乱暴されたのと同じでござりますし、大好きなハイタ殿には申し訳ないのでござります、ここが拙の大きい背中が適任に御座りますれば!」


「タノムカライワナイデ……」


 蚊の鳴くような声でウィリアナに懇願するライラに、憐れみ複雑な表情をしながら、ウィルバー=アーミティッジは続ける。


「現在、多くの学生エージェントと教授エージェントに動いてもらって世界中に封印中の、あるいは機能を限定した状態で活動中の神格に声をかけて回っています

黒魔術組織は反対するものも居ますが、その脅威を告げて返事をもらえるのは今の所半々ですね。」


「この機に民俗学科にも動いてもらうよう要請が入っている。凹んでいる場合じゃないぞ教授」


「う……世界中ね、どこから行くの?」


「お〜待たせ苛められっ子ライラちゃぁん!」


 その場へ軽快な足取りで姿を現す姿、軽快な毒のある皮肉に「う゛」とライラがの顔が引き攣る。

 染めた金髪に、いつものピンクのドレスではなく、浴衣をもとにしたデザインにフリルを組み込んだドレスを纏った毒のある笑顔を浮かべる美少年、ハヤマが高らかに宣言した。

 東洋の護符が、腰の帯に揺れる——それは、ウィアードエイジの渦が、龍脈の交錯する地へ広がる予兆だった。


「——大日本帝国、ルルイエと龍脈の交錯するかむろみの都、帝都東京さぁ!」


 アーカムの灰色の空の下で、深淵の渦が、再び静かに回り始める——帝都の霧が、復讐の新たな火種を灯す予感を、遠くに響かせるように。



Case3  第一部 Fin


アザトースのひとこと「シュブちゃんメタい事言わないの。でも超絶頑張った……ふぅ」

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