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Un Cease (R15版)  作者: EMM
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Case2 ダンウィッチ・インシデントという悲劇への考察と展望 第四部

 ミスカトニック大学の威容は、夜闇の深淵に挑む巨人の如く蒸気の霧に包まれながらサーチライトの鋭い光を浴びて煌々と輝いていた。

 厳戒態勢の空気が、触手のように肌を這う冷たい緊張を呼び起こし、蒸気機関の低い唸りが魂の奥底を震わせる。

 結界の壁が微かな魔力の残光を放ち、巡回する機動隊の影が地面を這うように動き、大学の全貌を物々しい要塞へと変えていた。

 あの黒灰色の空の下、科学と魔術の歪んだ融合が、ウィアードエイジの夜を悍ましく美しく彩る。


 ライラは、ハイタと共に息を切らせて正門を駆け抜け、即座に違和感に気づいた。

 金髪が夜風に乱れ、色眼鏡の下の瞳が虚空を鋭く睨む中、周囲の空気がいつも以上に重く淀んでいる。

 執行時間はまだ先のはずなのに、学内の空気が焦燥の渦を巻き始めているのだ。

 彼女のステッキが地面を叩く音と、蜂の羽音の低く響く音が展開する。


「教授! ライラ教授!」


 民俗学科の学生が、息を切らせながら霧の中から駆け寄ってきた。

 学生の顔は青ざめ、制服の裾が乱れ、汗が首筋を伝うように熱く輝いている。

 彼はライラの前に立ち止まり、喘ぐ息を必死に整えながら言葉を絞り出す。


「何があった、執行時間はまだ先のはずだ」


 ライラの声は低く、教授らしい冷徹さを帯びる。

 学生は慌てて頭を振り、言葉を続ける。


「それがっ、ウィリアナ女史自身から執行を早めるように学長に申請したみたいで! 学長室の方で今、準備が急ピッチで進んでるんです!」


 その言葉に、ライラとハイタの瞳が一瞬、深淵の闇のように広がった。

 ハッとした二人は、互いに視線を交わす間もなく即座に駆け出した。

 ライラのミニスカートが風を切り、ステッキが地面を叩くリズムが加速し、ハイタの脆い体が必死に追いつこうとする。


「あいつ、会話を視てやがったのか!」


 ハイタの声が、軽薄な仮面の下から本性の苛立ちを覗かせ、低く唸るように響く。

 ライラは舌打ちをし、虚空の瞳を鋭く細めながら応じる。


「チ、例の千里眼的な能力か、羨ましいな全く!」


 彼女の言葉は苛立ちを帯びつつ、切実に間に合ってほしいと願う気持ちを感じさせる。

 霧の中を駆け抜ける二人の影が、大学のサーチライトに照らされ、深淵の渦中へと向かうのであった。



 学長ヌトス=カァンブルは、緑色のウェーブヘアを優雅に揺らしながら先頭を歩き、その後ろに数個の機動部隊が黒い装甲服を纏い、蒸気式ライフルを構えて護衛する。

 彼らの足音が、触手のような低く響く反響を廊下に生み、魂の奥底を優しく震わせる。

 中央に、虚ろな眼をしたウィリアナ=アーミティッジが、黒い髪を乱れさせながらゆっくりと進む。

 彼女の左目は焦点を失い、眼帯の下で隠された右目が微かな光を湛えかけるが、それは深淵の闇から這い寄る絶望を甘く嘲笑うように、涙の熱を帯びて輝いていた。

 細長い耳が微かに震え、白い肌が汗に濡れて彼女の体は父の喪失と血統の呪いが、優しく、しかし容赦なく蝕む渦に巻かれていた。


「第一から第十三隔離相壁、開門!」


 学長の合図で、最初の門が開く——蒸気式ロックのギミックが、歯車とピストンの複雑な連動を伴って轟音を上げ、錆びた鉄の扉がゆっくりとスライドする。

 内部の空気が漏れ出し、魔力の残滓が触手のように絡みつく不快な臭いが鼻をくすぐる。

 次々と、幾つもの門が厳重に開けられていく——各門は、蒸気管が蜘蛛の巣のように張り巡らされ、魔術符文が刻まれた錠前が輝きを放ち、霊子のバリアが薄い膜のように張りつめている。

 開くたび、蒸気の噴出が霧を濃くし、機動部隊の装甲がカチャリと音を立てて警戒を強める。

 奥へ進むにつれ、廊下は地下の深淵へと降りていくようで、壁に埋め込まれた古いランプが明滅し、影が優しく踊るように威容を強調する。

 ついに、最奥の部屋が現れる——そこは棺桶のような装置が幾つも供えられた、時空凍結房の間。

 蒸気と魔力のギミックが複雑に絡みつき、各装置は黒い金属の柩を思わせる重厚な構造で、表面に無数の符文と蒸気管が這い、内部から微かな霊子の唸りが漏れ聞こえる。

 幾つかの柩には、過去の重魔術犯罪者や異常存在たちの名が刻まれ、献花が備えられており、枯れた花弁が床に散らばり、埃っぽい空気が死の香りを甘く混ぜて鼻をくすぐる。


「……っ!!」


 ウィリアナは絶句する、これらが本当に『柩』として機能していることを、嫌でもわからせてくるからだ。

 一度入れば、干渉不能な一瞬の永遠に切り取られ、この世の終わりまで捕らえられる、深淵の牢獄。

 装置の周囲では、蒸気管がピストンを駆動し、霊子の結晶が微かに輝きを放ち、時空の歪みが触手のように空気を優しく震わせる。

 ウィリアナの足が止まり、彼女の体がびくりと震える。

 黒い髪が肩を優しく覆い、左目から涙が溢れ出し、頰を熱く伝う。


 学長と機動部隊の視線が、良心の痛みを帯びて彼女に向けられる中、ウィリアナは喉を震わせ、声を絞り出す。


「これで、ヘンリーお父様の守ろうとした世界を……守れるならっ……」


 その言葉が途切れ、彼女は泣き始める——純粋な嗚咽が部屋に響き、涙が玉のように床に落ち、蒸気の霧に溶け込む。

 周囲の者たちは、胸を優しく締め付けられるような痛みを覚え、機動部隊の装甲の下で息を潜める。


「子供の犠牲でしか、救えない世界か……」


 呟く学長の緑色の髪が微かに揺れ、彼女の瞳が微かな慈悲を覗かせるが、他の誰も口を開かない。

 ウィリアナはそれでも、震える足を踏み出す——細長い耳が涙に濡れ、白い肌が汗に輝く中、彼女の体は父の遺産と血統の呪いが、

 触手のように絡みつく渦に耐えながら、棺桶のような装置へと近づいていく。

 実質的な死が、彼女の運命を甘く、しかし残酷に待っているのだった。




 なりふり構わず、ハイタとライラは4型ビヤーキーに跨がりミスカトニック大学の講堂を疾風のように駆け抜けた。

 薔薇のような尾を持つ昆虫をバイクの形に歪めた異形の有機機械が、虚空の深淵から呼び起こされた羽音を蜂の群れのように響かせ、蒸気の霧を切り裂いて進む。 講堂の重厚な石畳が、機械的な甲殻の棘に抉られ、火花を散らし、ライラの金髪が乱れ、色眼鏡の下の瞳が虚空を鋭く睨む中、彼女の体は興奮の熱に震えていた。

 ハイタの脆い体が後ろから彼女を抱きしめ、死体の腐臭が甘く混じり、魂の渇望が触手のように二人の神経を絡め取る。

 学長たちが使用して既に下に下がり切った巨大地下エレベーターのシャフトを、無理やり通過する——蒸気管が蜘蛛の巣のように張り巡らされた垂直の深淵を、4型の棘が壁を抉りながら落下し、風が耳元を切り裂く轟音が魂の奥底を優しく震わせる。

 ライラは1型ビヤーキーを放ち、拳大の有機機械の蜂が虚空から現れ、棘の槍を隔壁に突き刺してこじ開ける。

 金属の悲鳴が部屋に響き、蒸気の噴出が霧を濃くし、未知の構造が深淵の闇のように広がる中、並走する2型ビヤーキーが自動マッピングを開始する。

 長距離索敵用の異形が、蜂の羽音を低く響かせ、構造をスキャンし、ハイタがホログラムを投影——霊子の光がライラの脳内に直接インストールされ、未知の迷宮が触手のように彼女の神経に絡みつき、視界を甘く歪める。


「残る一直線だ!」


 ハイタの声が響き、ライラの脳が熱く疼く中、二人は機動部隊の群れに直面する。

 蒸気式ライフルを構えた黒い装甲の影が、サーチライトの冷たい光に照らされ、警告を発する。銃口が虚空を睨み、蒸気の唸りが触手のように絡みつく。


「止まれ! これ以上進むな!」


 機動部隊の声が重く響くが、ハイタは苛立ちを覗かせて叫ぶ。


「『フーン』をつけろ!」


 その指示にライラが念じると、4型ビヤーキーのバラ型の尾が優雅に開き、回転を始める。

 棘の花弁が虚空を切り裂き周囲に霊子が文字のような形をとって4型に乗るハイタとライラの周囲にシールドを形成、燐光を散らしながらチャージした霊子の爆発的な発光によって閃光のような速度で瞬時に加速、巻き込まれた大気の渦が深淵の嵐のように機動部隊たちを吹き飛ばす。

 装甲が軋み、銃が虚空に舞い、悲鳴が甘く混じり合う中、4型の羽音が蜂の咆哮のように高まり、ライラの体が興奮の熱に優しく溶け込む。

 学長は騒ぎを聞き、即座に指示を出す。

 緑色のウェーブヘアが優雅に揺れ、声が冷たく響く。


「隔壁を閉じなさい、早く!」


 ゆっくりと閉じていく隔壁のギミックが、蒸気管のピストンを駆動し、巨人の顎のように重厚な金属の扉が迫る。

 歯車の連動が轟音を上げ、魔術符文が輝きを放ち、時空の歪みが触手のように空気を優しく震わせる。

 ライラとハイタは共に4型にその身を寄せてくっつける。


「突っ込むんだよな、突っ込めよもう!どうにでもなれぇ!」


「うるさい……っん」


 間近に迫る圧死という邪神には似つかわしくない恐怖にヤケクソ気味に涙を流すハイタに、ライラはその重さと密着で軽い喘ぎ声を上げるが視線は真剣に突き抜ける隙間を見定める。

 その最後の隙間、中央を駆け抜けるーー風が肌を切り裂き、虚空の闇が甘く嘲笑う中、派手な破壊音が伴ってバラバラになった4型の破片が散らばり、ライラとハイタが棺の間に転がり込んでくる。

 ハイタはその場に数回転し、ライラは1型を手に優雅に着地して声を張り上げる。


「ぐわぁえっ」


「学長、ウィリアナ、待ってください!!」


 棘の花弁が虚空に舞い、機械的な甲殻の残骸が床に転がり、二人の体が興奮の余熱に優しく震え、深淵の渦がさらに熱く広がっていくのだった。



 時空凍結房の間は、蒸気の霧が優しく這うように低く漂い、古いランプの明滅が影を踊らせる中、重い静寂に支配されていた。

 霊子の結晶が微かに輝きを放ち、時空の歪みが触手のように空気を震わせ、汗に濡れた肌を甘くしかし残酷に蝕む。

 転がり込んだライラとハイタの体が、興奮の余熱に優しく震え、破壊された4型の棘の花弁が虚空に舞う中、ハイタは急いで立ち上がる。

 ライラの金髪が乱れ、色眼鏡の下の瞳が虚空を鋭く睨み、ハイタの脆い体が腐臭を甘く混ぜて息を切らす。


「ウィリアナ! 邪神が来てやったぞ、ほら!」


 ハイタは立ち上がりつつ、軽薄な仮面を覗かせて叫ぶ——その声が部屋に低く響き妹の名を優しく、しかし必死に呼び起こす。

 ウィリアナの虚ろな左目が、涙の熱を帯びて微かに揺れ、眼帯の下で隠された右目が深淵の闇から這い寄る絶望を甘く嘲笑うように輝く。

 しかし、次の瞬間、機動部隊の蒸気式ライフルが一斉にハイタに向けられ、黒い装甲の影が虚空を睨み、銃口の冷たい光が彼の脆い体を刺す。


「動くな!」


 機動部隊の声が重く響き、ハイタは即座に手を上げて降参する——脆い指が震え、邪神の本性が一瞬覗くが、腐った血の臭いが甘く鼻をくすぐる中、彼の体は人間の脆弱さを優しく嘲笑うように屈服する。

 ライラにも銃が向けられるが、学長ヌトス=カァンブルが手を挙げてそれを制止する。

 彼女の瞳が微かな慈悲を覗かせ、声が冷たく、しかし重く響く。


「下げなさい……彼らは、味方よ」


 部屋の静寂が、再び深淵の渦を巻き始め、ウィリアナの体がびくりと震える。

 黒い髪が肩を優しく覆い、細長い耳が微かに震え、白い肌が汗に濡れて熱く疼く中、彼女の喉から蚊の鳴くような声が漏れ出す。

 それが徐々に泣き声に変わり、純粋な嗚咽が部屋に響き、涙が玉のように頰を伝う。


「なんでっ……何で来ちゃったので御座りますか! 二人が来ちゃったら、拙は……拙はぁっ……!」


 ウィリアナの声が喉を熱く引き裂き、左目から溢れる涙が床に落ち、蒸気の霧に溶け込む。

 彼女の体は、父の血統の呪いが触手のように絡みつく渦に耐えきれず、震えが甘く、しかし痛く広がる。

 ハイタは手を上げたまま、機動部隊の銃口に睨まれながら、脆い体を優しく震わせて応じる——その声が、低く、しかし兄としての決意を帯びて響く。


「迷っていいんだ、ウィリアナ。」


 彼の言葉が部屋を優しく満たし、ウィリアナの瞳が微かに揺れる。

 ハイタは続ける——邪神の本性が、羊飼いの金髪の青年の姿を脳裏にフラッシュバックさせ、ノスタルジーが甘く胸を疼かせる中、声が低くしかし強く響く。


「常に正しくある必要も、常に善くある必要もないんだ……それじゃあ人間である必要もなくなっちまう

昔はそれがわからなかったから、俺は邪神と呼ばれるようになっちまった」


 ハイタの脳裏に、金髪の羊飼いの姿が鮮やかに蘇る——あの暖かな笑顔、痛みにも負けない善き心、矮小で愛おしい人間の足掻きが、深淵の闇から這い寄る触手のように彼の魂を優しく蝕む。

 ウィリアナの涙がさらに溢れ、彼女の体がびくりと反応する中、ハイタは拳を握りしめ、声を張り上げる。


「だが、お前は違う……まだ5歳だろお前、正しくある必要がどこにあるんだよ!」


 その必死な説得が、部屋の空気を甘く震わせ、学長と機動部隊の視線が微かに揺れる。

 ライラは静かに傍らで、懐から木箱を取り出す。

 金髪が優雅に揺れ、彼女の声が低く、教授としての冷徹さを帯びて響く。


「これは、アーミティッジ教授の私室から見つけたものだ。

二人がかりでウィリアナにもしものことがあったら与える予定だった、プレゼントだそうだ、ぞっ」


 ライラが投げ渡した木箱を、ウィリアナが震える手で受け取るーーそれは複雑な組み木細工の箱で、『ウムル=アト=タウィルより』『ヘンリー=アーミティッジより』と、二人の名が連なって刻まれ、灰色の光に淡く輝く。

 ウィリアナの左目が戸惑いに丸くなり、黒い髪が肩を優しく覆う中、彼女はそれを手でいじり、多角的に見つめる。


「これは……? んゎっ……!」


 カチッと、何かのスイッチを押してしまったようだ。

 木箱はカチャカチャチャチャチャチャと自動的に加速しながら開いていき、質量を無視して何かの生き物を吐き出し、ウィリアナの胸の上にぽふりと収まる。

 部屋の空気が一瞬、深淵の渦のように淀み、学長の瞳が驚きに揺れ、機動部隊の銃口が微かに上がる。

 ウィリアナが戸惑いの声を上げ、黒紫の髪が乱れ、白い肌が汗に輝く中、彼女の体がびくりと震える。


「え、えっ?」


 紫色のそれは、顔をあげて「ワン!」と鳴いた——悍ましくも可愛らしい鳴き声が、部屋に甘く響き、深淵の牢獄に優しい風を運ぶ。

 ウィリアナの左目から涙がさらに溢れ、彼女の胸が興奮と戸惑いの熱に優しく疼く。

 学長は若干引き攣った顔で、その正体を看破する。


「ま、まさか、それ……ティンーー」


 学長が言い切る前に、特殊部隊の一人がライフルを床に落とし、懐から取り出した機械をその背中に当てていた。

 その機械には、逆三角形に血走った眼の刻印がされていた。

 それが無慈悲に押し当てられた瞬間、バチバチと激しい放電が虚空を切り裂くように迸り、彼女の体がびくりと痙攣した。

 深淵の門番たる古きものの瞳が驚愕に揺れる中、「ガッ⁉︎」と喉から絞り出される悲鳴が、部屋の静寂を残酷に引き裂く。

 電流の触手のような青白い光が彼女の神経を蝕み、時空の歪みが彼女の絶叫を触手のように絡め取る。

 やがて、機械から冷たい色をした三角形が電流に乗って溢れ出し、それがギュン!ギュン!と電子的な音を立てて学長を包み始め、彼女の体を固定していく。

 学長の体がびくりと最後の抵抗を示すが、虚空の闇から這い寄る絶望が彼女を嘲笑うように、完全に封じ込める。

 霊子の残滓が鼻をくすぐる異臭を放つ中、彼女の姿は氷塊のような深淵の牢獄そのものへと変わっていた。


「目障りなんですよぉ、古きもの……宇宙生物如きが自分にしか使えない技術をひけらかして地球の守護者なんて名乗るのはさぁ。」


 特殊部隊の男の声が低く毒々しく響き、唇が裂けるようにニタリと弧を描く。  フェイスマスクの隙間から覗く瞳が、邪神を憎む者の狂気を湛え空気を悍ましく染め上げる。

 機動部隊たちが一斉に銃口を彼に向け、蒸気式ライフルの銃身がガチャリと固定される。

 裏切りの特殊部隊員の体が微かに震え、人類には聞こえない『言葉』が発せられる。


「  。」


 それは、深淵の底から這い上がるような、無音の冒涜——空間的な歪みが触手のように機動部隊たちの鼓膜を破壊し、魂の奥底を優しく、しかし残酷に抉る。

 悲鳴すら上げられず、彼らの体がびくりと痙攣し、装甲が軋む音が部屋に響く中、一斉に無力化する。

 銃が床に落ち、蒸気の霧に溶け込むように倒れ込み、血の臭いが甘く鼻をくすぐる。

 裏切り者の瞳が満足げに細まり、深淵の渦がさらに熱く広がっていくのだった。


 ライラは聞き覚えのある声に眼を細め、色眼鏡の下の瞳が虚空の闇を鋭く切り取るように輝いた。

 裏切りの男は特殊部隊の装甲を脱ぎ捨て、ヘルメットにしまっておいたローブを広げて羽織り、優雅にお辞儀をした。

 黒いローブが夜風に翻り、逆三角形に血走った眼の刻印が灰色の光に淡く輝き、深淵の渦から這い寄る絶望を嘲笑うように、彼の唇が歪んだ笑顔を浮かべる。


「申し遅れましたライラ様、私は深淵を見返すもの……中層魔術師アルヴィン=トードと申します。お見知り置きを」


 トードの声が低く毒々しく響き、部屋の空気を甘く、しかし悍ましく染め上げる。

 彼の瞳が邪神を憎む者の狂気を湛え、ウィリアナを見上げる。

 彼女は紫色の子犬を抱えて「ヒッ……!」と身をすくめた。

 トードは人差し指を天高く向けながら、唇をさらに歪め、声を低く囁くように響かせる——その指先が虚空の闇を切り裂き、深淵の渦を呼び起こすように。


「……ウィリアナ嬢、今こそ使命を果たすときです」


 そしてトードの続けた言葉は、その場の誰にも向けられたものではなかった。


「   。」




 トードの言葉が、物理的な制約を無視して上空の飛行船に潜む深淵を見返すものの団員達に届く——人類には聞こえない冒涜の響きが、触手のように神経を優しく抉り、魂の奥底を甘く蝕む。


「降下ぁー開始ぃー!」


 団員達の合図と共に飛行船の底がゆっくりと開いていく


「ふん、やっと出番か」


 オールド=ウェイトリーの不満げな声が低く響く。

 彼を乗せた不可視の稚児が、バチバチと音を立てて瞬くように姿を表しながら前進し、一息に夜闇のアーカム上空に飛び出した。

 悍ましくも美しい異形の体が、黒紫の長い髪を乱れさせ、肉塊のような柔らかい質量が虚空を切り裂き、少年の姿と怪物の異体が明滅するように交互に現れる。

 それは加速しながらミスカトニック大学の上空へと飛来し、大学を包む半球状の不可視のドームに激突——霊子の火花が立てて光るヒエログリフのような紋様で構成された結界城壁の存在を明るみにし、深淵の渦が激しく嘲笑うように広がる。

 以上発達したヒトのような腕がどん、どん、とドームの壁に掌を押し付け、力を込める。


「ぎぃぃぃぃええええ……!!!!」


 悲鳴のような、唸るような少年の声と共に、不可視の稚児から発せられる紫色の光がガラスを引っ掻くような音と共に収束していき……

 結界城壁はガシャンと音を立てて呆気なく崩壊した。

 虚空の闇が触手のように絡みつき、霊子の残滓が血の臭いを甘く混ぜて鼻をくすぐる中、大学の守りが無残に砕け散るのだった。


 不可視の稚児は、真っ直ぐミスカトニック大学の中央に落下していきーー棺の間まで一直線にぶち抜いて落ちてきた。

 悍ましくも美しい異形の体が、黒紫の長い髪を乱れさせ、肉塊のような柔らかい質量弾として厚く多い隔壁を切り裂き、霊子の火花を立てて結界の残骸を甘く嘲笑う。

 部屋の空気が一瞬消え、崩壊の轟音が魂の奥底を優しく震わせ、時空の歪みがその場の全員を飲み込む。


「ぁぁっ!」


 ウィリアナの悲鳴が喉を熱く引き裂き、同時に子犬のガルルルと唸る声が聞こえ、紫色の毛が逆立ち、悍ましくも可愛らしい姿が落ちてきた巨影を威嚇する。


「ウィリアナ……孫娘よ、今こそ邪神を孕むときだぁ。」


 不可視の稚児の上に悠然と立ち、見下ろす全てを憎むオールド=ウェイトリーの悍ましい眼がウィリアナに向けられる。

 その目がウィリアナの胸と身体を舐め回すように睨め回し、にちゃりと黄色い葉歯を見せた狂気的な笑顔が、部屋の空気を甘く、しかし残酷に染め上げる。

 皺だらけの肌が歪み、世界の果てから這い寄る触手のような憎悪が、彼女の魂を優しく蝕む。


「いっ……嫌で御座ります……っ!!」


 ウィリアナは言いようのない嫌悪感に襲われ、体がびくりと震え、涙の熱が頰を伝うように、血統の渦が甘く嘲笑う絶望に包まれる。

 その時、紫色の犬が口から細長い緑色の舌をウィリアナの腕に伸ばして縛り、その胸から降りてウィリアナを引っ張る——ねばつく感触が肌を優しく、しかし容赦なく絡みつき、彼女の体を深淵の渦へと導く。


「わ、わんちゃん!?」


 ウィリアナの戸惑いの声が喉を震わせ、左目から溢れる涙が玉のように落ち、蒸気の霧に溶け込む中、紫色の犬がさらに強く引っ張り、悍ましくも無邪気な力で彼女を瓦礫の隙間へと導く。

 ライラは柩の間の崩壊から何とか逃れ、金髪が乱れ、色眼鏡の下の瞳が虚空を鋭く睨む中……


「ハイタ、生きてる!?」


 と声を張り上げ、無事を確認する——ステッキが地面を叩く音が蜂の羽音のように低く響き、その音で一瞬気絶していたハイタも眼を覚ます。


「なんとかぁ……」


 軽い瓦礫の下から這い出したハイタは脆い体を震わせ、腐った血の臭いが甘く鼻をくすぐる中、紫の犬に引っ張られるウィリアナを見つける。


「ライラ、来い!」


 と叫び、彼女の手をとってウィリアナに駆け寄る。

 虚空の闇が触手のように絡みつく中、二人の影が疾風のように進む。

 ハイタがウィリアナの自由な手を咄嗟に掴み、紫色の犬が「ワンっ!」と無邪気に吠えると共に、瓦礫の隙間にできた鋭角へと潜り込む。

 悍ましくも可愛らしい鳴き声が部屋に響き、ウィリアナとハイタ達も巻き込まれ、質量を無視して鋭角の中へと滑り込んでいった。



 周囲の生徒や職員の悲鳴が嵐のように低く響き渡る


「逃げろ! 怪物が来る!」「結界が破られた、大学が終わる!」


 という叫びが、魂の奥底を甘く震わせ、汗に濡れた肌を優しく蝕むパニックを呼び起こす。

 時空の歪みが触手のように空気を絡め取り、大学全体が深淵の牢獄から這い寄る絶望に嘲笑われるように、悍ましくも美しい崩壊の宴を繰り広げていた。


「ぷはぁっ……!」


ウィリアナ、ハイタ、ライラは、柩の間から離れ、混乱の坩堝を駆け抜け、講堂端の鋭角から飛び出して床に倒れ伏した。

 瓦礫の破片が肌を切り裂くように飛び散り、蒸気の噴出が甘く鼻をくすぐる中、三人は息を切らす。

 ハイタは脆い体を震わせ、立ち上がり、指を差して叫ぶ。


「親父達、ミゼーアの野郎とどんな交渉をしたんだよ! ティンダロスの猟犬だろそいつ、親父と敵対してなかったっけ?」


 ハイタが指差すが、紫色の子犬は「クーン?」と首を傾げるのみ——悍ましくも可愛らしい姿が、深淵の闇から這い寄る絶望を甘く嘲笑うように、無邪気に尻尾を振る。

 そんな子犬を凝視するハイタの瞳が、虚空の渦のように揺れ、脆い指が震えながら呟く。


「子供か? いいや、只の子犬がティンダロスの落とし子になってんのか? わかんねぇけど絶対碌なもんじゃないぞこれ……。」


 しかし、ウィリアナは胸の上で大人しく尻尾を振る子犬をギュッと抱きしめ、左目から溢れる涙が玉のように頰を伝う中、声が喉を熱く震わせる。

 周囲の崩壊音が轟き、職員の逃げ惑う足音が蜂の羽音のように響く中、彼女の純粋な感動が甘く輝く。


「噛んでこない、わんちゃん……!」


 ウィリアナの瞳は感動を隠せずキラキラと輝き、体が興奮の熱に優しく溶け込むように、子犬を抱きしめる指が震える。

 ライラは颯爽と立ち上がり、ステッキを構え直しながら教授としての冷徹さを帯びて応じる。

 瓦礫の落下音が魂の奥底を優しく抉る中、彼女の声が部屋の混沌を切り裂く。


「それは君の犬だ、そして最後の守護者でもある

正体が何であれ、君の大好きな犬を選んでいるんだ、ウムルもアーミティッジ教授も

あなたを愛している証だと私は考えているよ、ウィリアナ」


 ウィリアナの黒い髪が肩を優しく覆い「お父様達の……私への愛」と呟く声が喉を震わせ、周囲の悲鳴が響く中、純粋な葛藤が甘く胸を疼かせる。

 ライラは続ける——ステッキが地面を叩く音が低く響く。


「どうだ、ウィリアナ……ヘンリーがそれでも君が死ぬべきと思っていたと思うか?」


 ウィリアナはびくりと肩を震わすと、ぎゅぅと子犬を抱きしめ、声が喉を熱く引き裂く——崩壊の轟音が魂を揺さぶる中、彼女の純粋な自責が甘く嘲笑うように広がる。


「拙は……拙が迷ったから、こうして皆に迷惑がかかっているのに……。」


ハイタは即答する。


「今更だな、迷惑をかけているのはお前じゃなく、あいつらの方だろ?」


 紫色の子犬が、涙に濡れたウィリアナの頰をぺろぺろと舐め、舌の感触が肌を優しく刺激する。

 ウィリアナの沈んだ顔はくすぐったさに笑顔となり、軽い笑い声が出る……そして、ハイタ達に背を向け、細長い耳が微かに項垂れる。

 彼女の純粋な願いが甘く、しかし痛く広がる。


「拙は、我儘を言ってもいいで御座りまするか?」


「言えよ……邪神だぞ? わがままを聞くのが仕事だ

王子様になるかい? 足でも生やすか? 毒林檎作る手伝いでもいいぞ?」


 と、軽薄な仮面を覗かせて応じるハイタ。


「子供は我儘を言うものだ、それを聞くのは神でなくとも大人の義務だよウィリアナ」


 と、ライラも教授としての冷徹さを帯びて続ける

 二人の声が部屋の混沌を優しく満たし、ウィリアナは振り向き、涙と子犬の涎でべちょべちょになった泣き顔で、左目から溢れる涙が玉のように頰を伝う中、声を張り上げる。


「……生きたい、生きていたいっ……死にたくないで御座りまするっ!」




 ミスカトニック大学の崩壊した回廊は、蒸気の霧と血の甘い香りが混じり、深淵の息吹を吐き出していた。

 灰色の瓦礫が積もり、サーチライトの残光が影を伸ばす中、タール状の粘液生物ーーショゴス達が、混乱の渦に飲み込まれていた。

 「てけりり!」「てけり・り!」その不気味な擬音が、辺りを響き渡る。学長ヌトス=カァンブルを失った彼らは、司令塔なき軍勢のように、ただ瓦礫から掬ったり落ちてくる瓦礫の傘になったり最低限の支援行動を取るのみで惑うしかない。

 魔術師の生徒達が、ゾロゾロと襲いくる【深淵を見返すもの】の信徒たちに応戦するが、数に劣り魔術の閃光が散発的に爆ぜるのみ。

 炎の呪文が敵を焼き、風の刃が切り裂くが、深淵の波は尽きない。

 そんな混沌の坩堝を、飛び回る蚊を潰すように処理しながら、不可視の稚児が優雅に廊下を歩む。

 その背に、トードとオールドを乗せ、魔術の残光を浴びて。

 トードは、歪んだ笑みを浮かべ、『言葉』を放つ。

 邪神の霊子言語が、距離を無視して響き、常人の脳を直接破壊する。

 通信の糸のように敵の頭を砕き、不可視の稚児の腕が虚空を薙ぎ、追加の機動部隊と魔術師を血飛沫に変える。


「まさかあんな手段で逃げるとは……手分けして先に見つける競争でもしますか?」


 トードの声は甘く毒々しく、人類を憎む狂人オールドを騙す仮面の下で神殺しの企みを隠す。


「下らん」


 オールドは一蹴し、皺だらけの顔を歪め狂気の瞳を輝かせる。

 旧支配者の世界を築く礎として、ウィリアナの胎盤を求めるその執念は異界の渇望そのもの。

 だが、そこで息を吸う気配が、二人を呼び止めた。


「……オールドお爺様!! トード殿っ!! 拙は、此処で御座いまする!!」


 ウィリアナの古風な声が、頭に紫色の子犬を乗せたまま響く。

 ティンダロスの猟犬の落とし子が、彼女の黒髪にじゃれつく中、ウィリアナは決意を秘めた顔で二人を見下ろしていた。

 細長い耳が震え、眼帯の下の銀瞳が微かに輝く。


「こっちに来るで御座りまする!!」


 彼女は階段を駆け上がり、黒い髪を乱れさせながら、屋上へと誘う。

 オールドとトードは眼を見合わせ、トードは肩をすくめてニヤリと笑う。


 屋上にでたウィリアナが、息を切らせてドアを閉めると、衝撃が床を粉砕した。

 瓦礫の噴煙を上げ、夜風を切り裂いて、不可視の稚児とオールドが這い出てくる。

 衝撃にウィリアナは小さく悲鳴を上げ、体勢を崩すがすぐに直し、キッとオールドを睨む。


「まさか、此処で交合する気ですか? 随分と開放的なお嬢さんだ」


 呆れるように、オールドの開けた穴から跳んできたトードが嘲笑う。

 そしてオールドはまたニチャリと笑み、ウィリアナに手を伸ばす。


「お前はいい子だね……さぁ、共に使命に殉じるのだ。弟と共に旧支配者の世界を作る礎になれ、それがヨグ=ソトースの意思でもある」


 その言葉に、ウィリアナは……


「べぇ!」


 と、左目に指を当てて舌を出して答える。

 幼い反抗の仕草が、深淵の狂人を一瞬「……あぁ?」と放心させる。

 オールドの狂気の瞳が、意味を理解できず、凍りつく——純粋さが、冒涜の渦を嘲笑う瞬間だ。


 ミスカトニック大学の屋上は、崩壊の余波が渦巻く深淵の祭壇と化していた。

 灰色の夜空の下、蒸気の霧が血の甘い香りを運び、瓦礫の影が這い蹲る中、キラキラと黄金色の流れ星だけが空に輝く、その数は、やけに多い。

 オールドの皺だらけの顔が、笑顔を湛えて優しい口調で残酷な言葉を紡ぐ。


 「あぁそうか、今のは冗談というやつだね? いけない子だウィリアナ、そんなことを教えたのが誰であれ、そんな事をしないように顔を削いであげよう……なに、必要なのは胎盤だ、顔は必要ない」


 その声は、甘いお菓子を子供にあげるように穏やかでありながら凄絶な毒を持つ。

 だが、ウィリアナは臆さず、黒髪を風に乱れさせ、細長い耳を震わせて立つ。

 頭に乗せた紫色の子犬が、オールドに低く唸る中、彼女の古風な声が響く。


「冗談でも何でもないでござりまする、拙は生まれてこの方真面目に生きて来て候! 故に宣言させていただくでござりまするお爺様!!」


 オールドを指差し、息を整えたウィリアナは、眼帯を留めるボタンを外しながら続ける。

 風に吹かれて、眼帯が夜の闇に飛んでいくーーそれは、呪われた血統の枷が解かれる象徴。

 閉じた両目を決意の表情で開いた瞬間、銀の右目がウィルバーを見据える。


「拙は我が父母、そしてもう一人の父の威を以て……我が祖に叛逆仕る!!」


 銀色の瞳の輝きが、深淵を切り裂く。

 ウィルバーの異体——ヨグ=ソトースの冒涜的な産物、肉塊の怪物——が、激しくぶれ始める。

 脈動する触手と鱗が、可能性の渦に飲み込まれ、時を巻き込んでガヂヂヂとと固定化されていく。


「何!?」


 オールドの狂気の瞳が、驚愕に歪む。身体強化をかけながら、影の触手のような擬似的な筋肉の塊が地面を抉りながら着地するオールドの老体を守る。

 ウィルバーはガチンと金属がぶつかり合うような音を立てて完全に停止してしまった。

 深淵の怪物が、銀瞳の審神者の力に屈する——それは必然的な運命が邪悪な陰謀を打ち砕く瞬間だった。

 ウィリアナは、息を弾ませながら説明する。

 銀の右目が輝き、左目は純粋な決意を宿して。


「『銀瞳ぎんじょう』、時を探り、可能性を見つめ、固定化する審神者の瞳の最上位……ハイタ殿が教えてくれた拙の力に御座りますれば!」


 その言葉は、叛逆の宣言——ヨグ=ソトースの娘が、父の威を以て祖に抗う、オールドの顔が忌々しさに凍りつく。


「予定調和だ、ウェイトリー」


 ハイタが、ウィリアナの影から姿を現した。

 脆い死体の殻が、屋上に吹き荒れる風の煽りを受けながらウィリアナのすぐ近くに守るように立つ。

 邪神の威厳を宿した冷徹な言葉が、異次元の叡智を纏って響く。

 チラリ、また流れ星が瞬く。


「『親父の双子』っていうのはな、互いが互いを補強して強くなる、そう言う神格なんだよ」


 ウィリアナの銀瞳が、ウィルバーを金縛りにしたまま、無数に広がる並行世界の自身と弟の末路を映し出す。

 可能性の渦が、彼女の純粋な魂を苛み、涙が頰を伝う——それは、自分がそうなる哀れさではなく、彼らの運命がただ純粋に哀れであるが故の涙。

 ハイタの言葉は、段階を踏んで異次元の知恵を交じえ、深淵の真相を解き明かす。


「兄はお前の言う事を聞いて社会に溶け込み弟を育てる知恵をネクロノミコンから学び、そして邪悪な儀式に用いて次元を侵食する。だが兄は犬に噛まれて先に死に、残された弟は暴走、聞きつけたアーミティッジ教授と仲間達の魔術によって弟は滅ぼされる……それが普通の世界線における『ダンウィッチの怪』だ」


 ウィリアナの生きる意思を代弁するように、頭に乗せたティンダロスの子犬が「ワンっ」と鋭く鳴く。

 その声は、純粋な魂の咆哮だ。

 その吠え声にも応えるよう、また流れ星がチラチラと流れていく。


「だが、この世界の『ダンウィッチ・インシデント』は違う。親父とラヴィニアはウィリアナと弟ウィルバーを愛されるべき兄妹として産んだ! 姉は弟を『制御する』手段を持って生まれたんだ!」


 ハイタの説明は、ヨグ=ソトースの血統を祝福の絆として描き、オールドの狂気を嘲笑う。

 ハイタは邪神らしい邪悪な嘲笑を、オールドに向けた。


「か、は、は、はぁ!! 結局独りよがりの侵略活動さ、ウィルバーを怪物で固定するためにどれだけ時間かけたのお前? えぇ?」


 オールドの皺だらけの顔が、激怒に歪む。


「ぐ、が、ががあああああ!!」


 積年の陰謀と努力を嘲笑された狂人は、口の端に泡を溜めながら、咆哮を上げる。

 異界の渇望が、肉体を震わせ、深淵の闇を吐き出す。

 トードは、袖から異形の触手を伸ばしつつ、人ならざる瞬発力でウィリアナに迫る。


「ならば娘の瞳を潰して仕舞えばいい!」


 その動きは、神殺しの企みを隠した毒々しい影——人類を憎む仮面の下で、ヨグ=ソトースの心臓を破壊する野心を秘めて。

 ハイタは、軽薄な仮面を剥ぎ取り、邪神の優しさを覗かせて笑う。


「あとそうついでだ、ウィリアナは囮、俺はついでの囮だぜ?」


 流れ星が、一つ、大きく瞬いた——それは、深淵の女王の到来を告げる光芒。

 それは、音もなくトード目掛けて一直線に駆け抜けたーー!





 時間は、ほんの少し遡る……。

 屋上は、冷たい風が吹き抜け、鉄製の柵が錆びた音を立てる。星のない夜空の下、蒸気管の低い唸りが、深淵の息吹のように脈打っていた。ライラとハイタは、そこに身を潜め、ウィリアナがオールドとその眷属を誘き寄せるのを待っていた。 戦いの序曲が、魂の糸を張りつめさせる。

 ライラは、タイトなミニスカートを風に翻し、ステッキを地面に突き立てて立っていた。

 深緑の瞳が虚空を睨み、金髪が夜風に乱れる。

 彼女の視界は、失われた視力を補うビヤーキーの蜂群が同期し、屋上の隅々までを映し出していた。ハイタは傍らに佇み、彼の目は異界の知識を宿しつつライラの横顔を静かに見つめている。


「ハスター……『女王』の使用を」


 ライラの声は、昼の口調に微かな官能の震えを混ぜて響いた。

 彼女の申請に、ハイタは一瞬、仮面を剥ぎ取るように応じる。

 声が低く、邪神としての威厳を纏い、深淵の底から這い上がるかのように。


「あぁ、許可しよう……存分に振るえ、神殺しの力を」


 その言葉に、ライラはふふッと笑みをこぼした。珍しい、柔らかな笑み——夜の少女の顔が、ちらりと覗く。

 ハイタは眉を顰め、軽薄な仮面に戻る。


「んだよ、威厳が足りねえって言いたいんだろ?」


「違うよハスター、お前はやっぱり邪神だよ……考えていたんだ、そもそも邪神とは何だってね」


 ハイタは、はぁ?と低く唸った。

 脆い体がわずかに傾き、触手の影が足元に揺らぐ。

 ライラは続ける、ステッキを軽く回し風を切りながら。


「旧支配者、外なる神、祟神、外神、亜神にハーフゴッド……色々いるが、私は今回の件で新しい知見を得た結果、2つの結論を得た……一つは公的に正しくない神、パブリックでない神だ」


「あぁ……成る程な? 万人に祈られる神じゃない、それどころか神々がそれぞれ願いを持つ……本当に、神をやる気があるのかって神。だから根本的にはあらゆる神が邪神であるし、その逆もある。だから俺は根本的に自分の味方にしか肩入れしないし、これからもそうだ……ならもう一つは当ててやれるぞ、間違った神だ。」


 ハイタの理解は鋭く、邪神の叡智を覗かせる。

 ライラは、その言葉に昼の顔にしては珍しい満足げな笑顔を浮かべた。

 深緑の瞳が輝き、金髪が優しく揺れる。魂の代償が、ふとした瞬間に甘い絆となるように。


「A評価だ、ハイタ。だから私がやるべきことは一つだ……最も間違えている邪神を叩く」


 ライラは決意と共に身構えた。

 ステッキを握りしめ、ビヤーキーの蜂群が周囲に集まり始める。変身の予感が、空気を震わせる。

 ハイタは静かに頷き、触手の気配を強め、彼女の背中を守るように立つ。


 ステッキを握りしめる手に力が籠る。

 ハスターの許可が、魂の代償として彼女の体に火を灯す。

 ビヤーキーの蜂群が周囲を渦巻き始め、異界の力が、金髪の復讐者の肉体に侵入する。

 快楽を伴う異変が、触手のように彼女の神経を這い上がり、少女の慎ましやかな身体を震わせた。


「っ、んっ……!」


 ライラの唇から、耐える声が漏れる。

 深緑の瞳が赤く染まり、理性が霧のように溶け始める。

 体内の霊子が膨張し、骨格がビキビキと音を立てて伸長する。

 少女の細い肢体が、豊満な成人女性の曲線を帯び、胸が膨らみ、腰がくびれ、太ももが肉感的になる。

 快楽の波が下腹部から脊髄を駆け上がり、彼女の息を荒げさせる。


「……熱い、熱くて……耐えられないっ!」


 喘ぎが混ざり、変身のプロセスが加速する。

 生体機械の装甲が、皮膚の下からビキビキと生え始め、金属のような光沢を帯びた鱗が展開し、ドレスアーマーとして彼女の体を覆う。

 黒いレースのような装甲が、豊満になった胸を強調し、ミニスカートの下から触手状の裾が伸び、ビヤーキーの女王にふさわしい威容を成す。

 理性が白濁する中、彼女の視界は蜂群の同期で無限に広がり、深淵の知識が官能の疼きと共にインストールされる。


「ぁ……おかしく、なる……!」


 変身が完了したライラは、獣のように喘ぎ、夜空を見上げた。


『 飛 び た い 』


という原始的な欲求が、魂を焦がし、羽がバサバサと耐え難く震える。

彼女はハイタに向き直り懇願する、声が甘く震えて湿っぽい吐息を吐きながら。


「はすたぁ……はぁっ、はぁっ……ちょっと、お願いっ」


 ハイタは、脆い仮面の下で触手の気配を抑え、軽薄に笑う。


「時間稼ぎだろ、いいぜいいぜ……まず飛び回って発散してこい」


その言葉に、ライラの唇が歓喜に歪む。


「……あっはは!!」


 狂気の笑い声と共に、彼女は夜空へ超高速で飛び立った。

ドレスアーマーの裾が風を切り、ビヤーキーの蜂群が尾を引き、深淵の女王としてアーカムの闇を駆け巡る。ハイタは、空を見上げて呑気に呼びかける。


「ほどほどにして……早く帰ってこいよー?」


 その声が風に溶ける間もなく、屋上の戸が軋む音が響いた。

 ウィリアナが、現れる気配……ハイタはいそいそと影のように身を潜め、隠れる。



 そして現在——トードの歪んだ笑顔が、突如として亜音速の踵によってひしゃげられた。

 ビヤーキーの女王として変身を遂げたライラの足が、虚空を切り裂くように振り下ろされ、トードの異形の顔面を地面に叩きつける。

 肉の潰れる湿った音が響き、トードは「ぎっ……お゛っ?」と奇妙な悲鳴を上げてバウンドした。

 驚愕に歪んだその顔は、爽やかな男の顔を模った生体機械の仮面が割れて旧支配者の残滓を宿す醜悪な顔が覗く。

 だが、ライラの狂気的な笑い声が、夜風に混ざって響き渡る。


「あっははは!!」


 彼女の声は、理性の白濁した官能の疼きを帯び、深淵の女王として魂を震わせていた。

 ハイタ……いやハスターは、邪神らしく冷酷に告げる。

 脆い死体の殻の下で触手の気配を抑え、トードの弾き飛ばされた姿を見据えて。


「あれがロード・ビヤーキー……定義以前の邪神にも通じる俺が作った擬似魔法だ、これからとくと味わえ」


 言葉が終わる前に、トードは認識できない速さで天高く弾き飛ばされていた。

 ハイタの擬似魔法が、異次元の法則を捻じ曲げ、トードの体を虚空の弾丸のように射出する。

 夜空に弧を描くその軌道は、星のない闇を切り裂き、遠くで爆音を伴って落下する気配を残した。


だが、深淵の陰謀は一息つく間もなく牙を剥く。


「ハイタ殿!!」


 ウィリアナの叫びが、ハイタの耳を貫いた。

 黒髪の少女の声は、純粋な恐怖と忠告を混ぜ銀瞳が輝く。

 ハイタは気付き、すぐ間近に身体強化した状態のオールドが突っ込んでくるのを察知した。

 オールドの姿は、擬似的な筋肉の塊が、よだれを垂らして半狂乱で咆哮を上げる。


「あ゛あ゛あああああああ!!」


 その異形の突進は、狂気の渦を巻き起こし、地面を抉るほどの勢いだ。

 ハイタは咄嗟に避け、脆い体が風を切る。


「うおぉあぶねえ!?」


 だが、その背中がウィリアナに当たり、彼女の細長い耳が震え「きゃあっ」と小さな悲鳴が漏れた。

 ウィリアナの視線が、ウィルバーから離れてしまう——硬直していたウィルバーの異体を構成する肉塊が、ズルリと柔らかい挙動を取り戻し、再び脈動し始める。 深淵の怪物が、兄妹の絆を嘲笑うように蠢動するのだ。

 振り返ったのはウィリアナとオールド、同時のことだった。


「ウィルバー!!」


 ウィリアナの叫びは銀瞳を灯し、父の遺産を守ろうとする純粋な魂の叫び。


「させるかぁ!!」


 オールドの嘲笑は、狂気の皺を深め、指を鳴らすとウィルバーの周囲から城壁結界を破壊したあの紫色の神力が溢れ出した。

 異界の力場が、ウィリアナの金縛りを妨害し、銀瞳の拘束を霧散させる。



 一方でアーカム上空の灰色の空もまた、深淵の渦巻く一方的な屠殺場と化していた。

 蒸気の霧が血の甘い香りを帯び、崩壊した大学の残骸が遠く下方で喘ぐ中、トードはライラによって放り出されたまま、虚空に浮かぶ哀れな人形のように翻弄されていた。


「がっ……ぶふっ、げぇっ!?」


 その異形の体が、ロード・ビヤーキーたるライラのいたぶるような追撃を受け、肉の潰れる湿った音を響かせる。

 豊満な成人女性の曲線を帯びたドレスアーマーが夜風を切り裂き、ビヤーキーの蜂群が尾を引きながら、狂気的な笑い声が混ざって迫る。


 「きゃははは!! 楽しいよう、もっと鳴け……!ほらぁ!」


 だが、トードは一方的にやられるような中級魔術師ではない。

 【深淵を見返すもの】の神殺しの企みを秘めた男は、『  !』と無言の言葉を放つ。

 邪神の霊子言語が世界を騙し、重力を無視しその体を対空させる。

 虚空で体勢を整え、袖から異形の触手を振り乱して、高速移動するライラを捉えようとする。

 触手の一本一本が、深淵の闇を纏い、粒子レベルの破壊を予感させる。


「化け物がああ!!」


 先の余裕から一変した態度で、ヨグ=ソトースの心臓を破壊する野望が狂気の炎を灯す。

 ライラは嘲笑う。理性の白濁した真紅の瞳が輝き、官能の疼きを帯びた豊満な体が風を切り裂く。


「あっは、は、は、は、はぁ!!」


 彼女は触手の一本一本を丁寧に根本からむしり取り、血飛沫を花火のように夜空に散らす。

 無抵抗になったトードの顔面に、一瞬10発の拳を叩き込み肉の凹む音が響く中、腕のフーンの輝きを増す。

 生体機械の装甲が霊子を圧縮し、神殺しの力が膨張する——それは、魂の代償としてハスターから与えられた、復讐の炎。


「んあっ、はぁん……これで、終わりだ……!」


 その一瞬を、トードは見抜いた。体内に仕込んだ機構を展開し、ヨグ=ソトースのかけらを組み込んだ空間破砕装置が作動する。

 泡のように閉鎖した空間が、トードとライラを包み、触れるもの全てを粒子レベルで無に帰すシャボン玉が、萎むように迫る。


「ここで共に滅びろ邪神の巫女!!」


 トードの嘲笑は、深淵の底から這い上がる絶望の叫び……だが、その定義の間違いが、唯でさえ暴走した感情が自由になったライラの逆鱗に触れる。

 左手でトードの頭を掴み、右腕のパイルバンカーにこの世の理を超越する霊子圧縮が重ねられていく。

 快楽の波が、下腹部から脊髄を駆け上がり、喘ぎのような息が漏れる。


「くっはぁっ!! 間違っているぞ虫けら……私は、あの神の。あのひとだけの蜂蜜酒だ!!」


 そして、快楽と共に放たれるその威力は、『光速を超える』という基本物理法則を破壊した擬似的な魔法を生み出す。

 ドレスアーマーの裾が震え、ビヤーキーの蜂群が渦巻く中、ライラは空間破砕のシャボン玉を突き破り、破壊する。

 粒子レベルの無が、彼女の霊子圧縮に屈し、虚空に霧散する。

 頭だけになったトードを抱えて脱出したライラは、夜空に狂気の笑みを浮かべ、地上の混沌へと降下する——深淵の女王として、復讐の宴を加速させるのだ。




 ミスカトニック大学の屋上は、深淵の渦巻く絶望の坩堝と化していた。

 灰色の夜空の下、蒸気の霧が血と腐敗の甘い香りを運び、崩壊した瓦礫が周囲を埋め尽くす中、ウィリアナ=アーミティッジは、ウィルバーの異体から溢れる紫色の光を、押し合うように力を拮抗させていた。

 血統がもたらす銀瞳の輝きが、冒涜的な肉塊の脈動を固定化し、可能性の渦を封じる——だが、その代償は、少女の純粋な魂を苛む。

 右目を見開きながら、ウィリアナは歯を食いしばり、獣のようなうめき声を上げる。


「んんんんんんっ!! んぎぃぃぃっ!!」


 銀の瞳が輝きを増し、拮抗した力場が周囲の瓦礫を浮かべ、夜風を歪ませる。

 深淵の法則が、現実を捻じ曲げ、灰色の空を血に染める予感を帯びる。

 ハイタは、脆い死体の殻の下で触手の気配を抑えたまらず叫ぶ。


「やめろウィリアナ、目が潰れるぞ!!」


 だが、優しい言葉は意味をなさず、力場の渦が拡大する。

 ウィリアナの黒髪が乱れ、細長い耳が震え、古風な口調が決意を吐き出す。


「嫌でござります!! 拙はっ、拙の手でっ……弟も救いたいゆえにっ!!」


「ワンっ!」


 ウィリアナの頭から飛び立った紫色の子が鋭く鳴く。

 その舌が再びリードのようにウィリアナの手に引っ掛かり、引っ張る。

 子犬の能力が、鋭角の瓦礫を導きとして発動する。


「またわんちゃっ……わぁ!!」


 ウィリアナの悲鳴が、夜空に響くーーハイタが止める間もなく、彼女の体が瓦礫の鋭角に引き摺り込まれ、虚空に飲み込まれる。

 ハイタは掴もうとしたが間に合わず、意味もなくその瓦礫の舌を探地面を叩く。


「ウィリアナ! ったくもうあのあのわんこ何なんだよ!?」


 その隙を、深淵の狂人が突く。

 オールドの擬似筋肉が、ハイタを強かに打ちつけた。

 肉の衝撃が、脆い死体の殻を砕き、「ごっえ」と情けない悲鳴を上げながら、ハイタは壁に打ち付けられる。

 瓦礫の破片が飛び散り、蒸気の霧が腐敗した血の臭いを濃くする中、オールドはハイタの頭を掴み壁に押さえつける。

 にちゃりと笑みを浮かべ、皺だらけの顔が狂気の瞳を輝かせた。


「邪悪の皇太子、ハスター様がこのような器に入れられて大人しくしているとは…だが、あの娘のパワーソースに使われているのであれば……利用しない手はありますまい」


 その言葉は、旧支配者の世界を築く野望を隠した甘い毒ーー人類を憎む狂人が深淵の渇望を吐き出す。

 ハイタは、触手の気配を抑え、脆い声で抗う。


「ちょっ……までよっ、お前親父の信者だろっ!」


 だが、オールドの嘲笑は深まる。


「あのビヤーキー使いの娘の魂さえ用いれば、ウィリアナ一人分の審神者なぞ打ち破れましょう……あの娘、ネクロノミコンに記されたあの『羊飼いの一族』の末裔ですなぁ!?

共に旧支配者の世を……」


 その言葉に、ハイタの目が見開かれる。



「 … … ぁ あ゛ ?」



 その声には、人でもない邪神でもない、確かな、そして深淵の底の底より悍ましい怒りが溢れていた。

 黄衣の王の本性が、魂の代償として結ばれた絆を脅かす冒涜に、触手を震わせる……。




 更に別の場所——ミスカトニック大学の学園内は、血飛沫が飛び散る深淵の戦場と化していた。

 灰色の蒸気が腐敗の甘い香りを帯び、崩壊した講堂の残骸が喘ぐ中、下級団員たちの肉体が、【深淵を見返すもの】の信徒として、無残に引き裂かれていた。

 色とりどりの凶器を携えた狩衣の式神たちが、効率的に虐殺と介錯を繰り返す——粘つく肉塊の体が触手を伸ばし、輝く鉱物の刃が光を反射し、目まぐるしく形を変える異次元立体が次元を歪め、ハニカム構造をした輝く水晶の塊が粒子を散らし、様々な頭をした式神が、旧支配者の残滓を宿す狂気の咆哮を上げる。

 深淵の渦が、魂を啄ばむ宴を繰り広げ、血の霧が夜空を染めるのだ。

 その中心で、レン=ハヤマは身悶えしながら、ナタを振り下ろす下級団員の攻撃を軽く避け、ピンクのドレスを翻して蹴りを加える。

 少年然とした顔が、甘く嘲笑う。


「あぁもう、どうにかなっちゃうよこの状況! 残弾稼ぎ放題じゃん!」


 毒々しい芸術学生は、殺戮の快楽に震え、黒魔術の式神を操り敵の肉体を美しく解体する——それは、官能の疼きを伴う深淵の舞踏だ。


 そしてもう一人、日本陸軍の制服と外套に身を包み、軍帽で顔半分を隠した恰幅のいい青年が、重厚な鞘から細くしなやかな日本刀を抜き出す。

 鋭い目が軍帽の下から覗き、異界の膂力を宿した一閃で、下級団員を3人一気に切り伏せる。

 血飛沫が弧を描き、刀がバキッと中折れする音が響く中、顔の下半分を隠す機械式のマスクが、ゴボボッ!と不満げな水音を奏でる。すぐに納刀すると、重厚な鞘の機構が赤熱し、ガギンガギンガギンと鉄を打ち付ける音を鳴らし、プシューと放熱する。

 蒸気の霧が、彼の周囲を包み、黒魔術の東洋の遺産を象徴する。


「ハヤマ、変態趣味は相変わらずか」


 ごぼぼと水音でくぐもった声が、叱責するように言い、マスクと軍帽の隙間の大きく鋭い目が睨む。

 青年の姿は、ウィアードエイジの灰色の影に溶け込み、深淵の脅威を切り裂く剣士の如し。


「さめちゃん硬いこと言わない、同じ日本の黒同士仲良くしようぜぇ?」


 ハヤマの揶揄うような返事が、血の臭いに混ざる。

 ふん、ごぼぼ……と水音と呆れ声が混ざった音を立てながら、シュウシュウと音を立てる『新しい刀身』を抜いて構える軍服の青年だった。



 だが……突然、ハヤマと軍服の青年は、一箇所に向けて跪いた。

 顔には汗が滝のように溢れ、いつもの嘲笑や叱責の様子は一切ない——それどころか、敵味方問わず全ての黒魔術師が、同時に、示し合わせたかのように、同じ事をしていたのだ。

 式神の蠢動が止まり、下級団員の叫びが凍りつき、深淵の渦が一瞬、静寂に包まれる。

 まるで、本能がこの視線の先に、絶対に逆らってはいけない存在が唐突に現れたことを報せたかのように——


 彼は、『旧支配者』である。


 その悍ましい気配が、学園の闇を支配するのだ。



 時空のはざま、揺蕩う深淵の狭間で、ウィリアナ=アーミティッジの意識は混濁し、薄く眼を開けた。

 灰色の霧が渦巻く無重力の虚空——それは、ヨグ=ソトースの血統がもたらす可能性の海底、銀瞳の審神者が覗く禁断の淵。

 彼女のもうろうとする意識の中で、水面の底から浮かぶウィルバーの姿が、ぼんやりと映る。

 冒涜的な肉塊の異体が、紫色の光を放ちながら脈動するが、ウィリアナの心に焦りはなかった。

 むしろ、それより気になるのは……


「誰……? なんだか、寂しそうな……草笛、風の音……?」


 その空間に響く彼の別の側面——空虚に吹く風の音が、草笛のような哀愁を帯びて、魂の奥底を優しく撫でる。

 深淵の闇が、兄妹の絆を嘲笑うかのように、風は永遠の孤独を囁き、ウィリアナの純粋な瞳を涙の予感で曇らせる。




 そして屋上ーーハイタを抑えながら、ガクガクと震えるオールドは、顔面中から滝のような汗を流し、彼を凝視する。

 皺だらけの狂人の瞳が、恐怖の渦に飲み込まれ、息を詰まらせる。

 ハイタの顔は、存在しなくなっていた。

 真っ白なのだ——顔のパーツ全てが白く塗りつぶされたように、認識できない虚空の空白。

 深淵の底から這い上がる悍ましい無——それは、黄衣の王の本性が、脆い死体の殻を剥ぎ取る前兆。

 オールドの魂が、冷たい恐怖に凍りつく。


「控えろ」


 その一言で、オールドはガバッとその場にひざまづき、首を垂れる。

 重圧が、オールドに心音すら控えさせ、息が止まる。

 旧支配者の法則が、現実を歪め、狂人の肉体を人形のように操る。


「俺の酒を飲みたいか……万死に煮詰めても足りんな」


 ハイタの声は、疲れ切ったように低く響き、べり、ぶち、ぐちゅべりり、と肉を剥ぐ音が静寂の中、オールドの聴覚を刺激する。

 生々しい湿った音が、深淵の闇を切り裂き、腐り果てた血の臭いが濃くなる。

 ハイタの指が、自らの顔の皮をゆっくりと剥ぎ取り、赤い筋肉と白い骨が露わになる——だが、それは始まりに過ぎない。


「面を上げろ、見ろ」


 言われるがまま、壊れた機械のようにぎこちない動きで、オールドは見上げて……呼吸が止まった。

 そこには、自らの顔の皮を剥いだハイタが、その奥に無限に広がる空洞を覗かせていた。


 コォォォン……


 と風が吹き抜ける、底知れぬ虚空の穴——異次元の渦が、星のない闇を飲み込み、無数の目が瞬き、無数の手が蠢く。

 悍ましい無限の深淵が、オールドの魂を誘うのだ。


「わぁ、あ」


 とオールドが気の抜けた声と共に、その小さすぎる手に顔を触れられる。

 すると、彼の魂がするりと抜けて、ハイタの存在しない顔を通してその向こう側に吸い込まれる。


 捕食ではなく、迎え入れたと表現した方が正確な気がする——


 それは、深淵の王が、狂人の渇望を永遠の遊戯場に招く、甘い冒涜。

 向こう側に吸い込まれたオールドの魂は、漸く重圧から解放されて、声なき悲鳴をあげながらジタバタと無重力空間でもがく。

 だが、周囲は悍ましい子供の笑い声が幾つも聞こえてきて、大小様々な目がオールドを全方位から観る。


 無数の手が、悲鳴をあげるオールドを少しずつ、少しずつ千切っては、手で弄び、興味を失って捨てたり、口に入れたり、焼いたり、混ぜたり、形を変えたり、犯したり、嬲ったり、切ったり纏めたり水につけたり落としたり投げたり拭いたり植えたり漬けたり食べたり出したり……。

 魂の欠片が、永遠の拷問に引き裂かれ、再生しては再び壊され、深淵の玩具として嘲笑われる。

 悍ましい視線が、狂人の絶望を飲み込み、無限の闇が、肉体の限界を超えた苦痛を紡ぐ——それは、無音の中で囁かれる寂しさの極致、魂が溶解する永劫の渦。

 そこに残ったのは、涙を流しながら抜け殻となったオールドの遺体のみだった。

 ハスターは、顔をぐちょりと元に戻しながら、疲弊しきったような吐息を混じえた声で囁いた。


「海に投げ込まれた砂糖のように、望んでいた世界で生きてろよ……」


 その言葉は、異界の風に溶けオールドの死を草笛の余韻で染めていく。




 学園内は深淵の戦場から一転、悍ましい静寂の坩堝と化していた。

 血飛沫が乾き始めた瓦礫の上で、蒸気の霧が腐敗の甘い香りを運び、灰色の影が這い蹲る中、黒魔術師たちは重圧から解放され、脱力する者、降参して手を上げる者、泣き叫ぶ者と様々だった。

 もはや戦いどころではなかった、旧支配者の法則を超越した気配が魂の奥底を抉り、狂気の渦を霧散させたのだ。

 敵味方問わず、式神の蠢動が止まり、下級団員の叫びが途切れ、深淵の玩具として弄ばれた肉体が無力に横たわる。

 ハヤマもまた、ピンクのドレスを血に染め、脱力して床に座り無抵抗な下級団員を殺すことはせず、泡を吹いた敵味方を狩衣の式神が担架で運んでいくのを毒々しい瞳で見つめていた。


「だはぁーハイタ君本気出すなら出すっていって欲しいよねぇ……っひひ」


 その声は、官能の疼きを帯びた嘲笑——黒魔術の芸術学生が、深淵の余韻に震える。

 軍服の青年は、軍帽で顔半分を隠した恰幅のいい体躯を、わずかに震わせる。


「あの重圧が友人か、全くいかれている……上を飛び回るあの女もだ」


 ごぼぼっと水音を立てながら咳き込み、深淵の脅威を呟く。

 ハヤマは、イタズラっぽい笑みを浮かべて尋ねる。

 金に染めた長髪が、血の臭いに揺れ、甘く嘲笑う。


「あいつら斬れそう? 鮫島二等兵?」


「……星辰の廻りに祈るしかあるまい」


 鮫島の声は、くぐもった水音に混ざり、ガチン、と軍服の青年の鞘が操作もなしに一打を鳴らした。




 ハイタは、ぐちょりと顔を元に戻したばかりの脆い死体の殻で呆けていた。

 風の残響が耳朶を撫で、そんな静寂を破るように古風な声が響いた。


『……いた殿、ハイタ殿!! ハイタ殿ぉ!』


「んぁ?」


 ハイタはくぐもった声で返す。

 気の抜けた、まるで生徒の仮面に戻ったようなトーンで、脆い体がわずかに傾き、血まみれの顔を拭う仕草が、どこかコミカルに映る。

 声の主は、ウィリアナに聞こえた。

 時空のはざまから、純粋な少女の叫びが優しく、しかし切実に届く。


『血まみれー! ハイタ殿怪我したでござりまするかっ!?』


 ウィリアナの声は、ショックと心配で震えた。

 ハイタの顔は円形に血を吹いた後のようになっていて、非常にグロテスクになっている。

 赤い筋肉が露わに覗き、剥がれた皮の端が垂れ下がる様は、深淵の玩具を思わせるが、ハイタは恥ずかしそうに頭を掻く。


「いやぁちょっと顔の皮剥いじゃって、つい勢いで」


その答えは、まるで瘡蓋をとったような気軽さ、邪神の威厳など微塵もない。


『つい剥ぐモノにあらずや!?』


 ウィリアナの声が、ショックで跳ね上がり、ハイタはくすくすと笑いを漏らす。

 深淵の王が、一瞬のユーモアにクスリと笑う。


「何処にいるんだ? こっちから見えないんだが」


『足元の水面の下で御座りますぅ、出れないでござりますぅ』


 ウィリアナの声は、時空の狭間からぼんやりと響き、ハイタは眉を顰める。


「あぁ? ひょっとしてお前、ちょっとズレたな? 子犬しっかり持ってろ、今帰還用の式書くから……あ」


 チョーク代わりになりそうな瓦礫を探して、ハイタが見まわした瞬間——和やかな空気が、一気に引き裂かれた。

 ウィルバーの異体が、ハイタの目の前に迫っていた。

 冒涜的な肉塊の怪物が、紫色の光を溢れさせ、鱗と触手の塊が蠢き、拳を振り上げて虚空を切り裂く。


「まず……」


 ガァン!!


 と、巨大な氷塊同士が激突するような轟音が響き渡った。

 ロード・ビヤーキーたるライラのパイルバンカーが、ウィルバーの冒涜的な拳と激突し、虹色の火花を散らす。

 異次元の法則が現実を捻じ曲げ、霊子の圧縮が空気を震わせ、深淵の残滓が魂を啄ばむ宴を加速させる——それは、ヨグ=ソトースの血統がもたらす怪物が、神殺しの化身に挑む、『魔』同士の激突。


「があああぁぁぁうがああごぎごごごおおお!!」


 少年のような無垢さと、獣のような原始的な唸り声が、ウィルバーの喉から迸る。

 鱗と人腕の肉塊がガサガサと後退し、紫色の光を溢れさせ、再び構えてライラに突進する。

 その異体は、ハイパーボレアの遺産を嘲笑うかのように虚空を抉り、狂気の渦を巻き起こす。

 だが、ライラの豊満な体が風を切り、ドレスアーマーの裾が触手状に伸び、手甲による受け流しで突進を逸らす。

 生体機械の装甲が輝き、ビヤーキーの蜂群が尾を引き、復讐の炎が官能の疼きを帯びて、怪物を弾き飛ばす。

 擬似魔法と神力による異常頂点の嵐が、深淵の闇たる夜を更に切り裂いていく。


「はぁ、はぁ、無事? はぁぁ怪我だらけぇ……」


 ウィルバーが離れたことによりハイタに寄り添うライラの息が荒く、理性の白濁した真紅の瞳が輝き、場所をわきまえずハイタの顔面の傷を舐め回す。

 豊満な曲線が震え、舌が血まみれの剥がれた皮を優しく、しかし発情したように這い、涎が甘い蜂蜜酒のように滴る。

 理性の蒸発したライラの声には、喘ぎのような息が混ざり、背徳の宴が戦場の余韻を染める……が、ハイタにはそんな余裕がなかった。


「いだだだだやめろぉ! 」


 ハイタは今更痛みに悲鳴を上げ、脆い死体の殻を震わせる。

 しかしそんなライラの魂のぶれが最大に振り切れているからかこそか、顔の傷も倍速で再生する自分に複雑な心境を抱き頭を掻くハイタだった。


「改良の余地はぁ……無くていいか」


「ハスター……あれ……」


 しかし続くライラの言葉には、最低限の理性が残っているように感じられた。

 全身から溢れ出す濃密な神力が、先の衝突で引きちぎれた腕を補填しなお余るようにまたボコボコと柔らかい肉塊に腕と足を無作為に生やしていきどんどん醜悪かつ強大になっていく。


「殺すなよ、ウィリアナが泣くぞ」


「難しいけど……がんばるわ」


 ハイタを守るように立ち塞がり構えるライラ、理性が蒸発してもなお緊迫した空気が未だ戦場を支配する。

 ダンウィッチの因縁を巡る最後の戦いが、ライラのパイルバンカーとウィルバーの腕が交差する音を合図に開始された。




 時空のはざま——現実と虚構の水面下で、ウィリアナ=アーミティッジの純粋な魂が、銀瞳の輝きを灯して懇願する。

 狭間は、ぼんやりとした水面のように揺らぎ、表面で攻撃を繰り返しては立て直すウィルバーの異体を、遠くぼやけた影として映す。

 ウィリアナの黒髪が無重力の虚空に浮かび、細長い耳が震え、古風な声が水面を叩き止めるよう、切実に響く。


「ウィルバー、ウィルバー! ううっ、銀瞳の力が……ここからじゃ届かないで御座りますっ」


 彼女は右目を光らせ、水面を叩き、弟の怪物化した肉塊を止めようとするが届かない。

 見た目よりもはるかに遠い次元の隔たりが、兄妹の絆を嘲笑うかのように。

 ウィリアナの涙が、虚空に溶け、純粋な魂の叫びが続く。


「どうして拙はこんな場所にっ……どうして人間に戻ってくれないでござりますかぁっ!」


「ワンっ!」


 子犬の鋭い鳴き声が、ウィリアナの注意を引く。

 紫色の体がじゃれつき、彼女はそちらを向く。


 水面を隔てて、ウィルバーの巨大な肉塊の反対に位置する水面の内側に……何かいる。


 見えないが、それは尽きかけた蛍光灯のように、ぼんやりと明滅し、四つん這いになって、肉塊の動きに合わせるかのようにもがき苦しんでいるように見えた。

 彼の剥き出しの肌に覗く鱗と触手の影が虚空の底で蠢き、ウィリアナの心を抉る。


「あれ……は」


 表面の世界でライラがパイルバンカーを振り下ろし、ウィルバーの肉塊の腕を吹き飛ばす。

 虹色の火花が散り、霊子の圧縮が虚空を切り裂くーーすると、目の前のそれの小さな腕も吹き飛び、それが腕を押さえて蹲り、苦しんでいるのが見える。

 現実と狭間を繋ぎ、冒涜的な絆を露わにする。

 ウィリアナの銀瞳が輝き、純粋な声が驚愕に震えた。


「……まさか、ウィルバー? ウィルバーなので御座りまするか!?」


『あ゛ぁ、ぁっ……ぁぁぁ、あっ』


 不可視の少年のか細い喘ぎが、水面の底から漏れ、表の世界の異体が放つ咆哮と同期する。


「ぎいぃぃぃあああああああああああ!!!」


 肉塊の喉から迸る獣の絶叫が、紫の光として出力され、肉体を再生し強化する。

 鱗が輝き、触手が膨張し、深淵の法則が、少年の苦痛を怪物の力に変換する。

 それは、魂の狭間で悶える無垢な弟が冒涜の渦に飲み込まれ、永遠の拷問を紡ぐ光景だった。


 ライラは、理性が蒸発した真紅の瞳が緑に明滅し、焦りを見せ始めていた。

 ドレスアーマーを翻し、ビヤーキーの蜂群が尾を引きながら、ウィルバーの冒涜的な肉塊に挑む。

 だが、その動きは戦うたびに素早く効率的になっていく、それどころか自身の動きの先読みまで見せてくるようになってきていた。

 それは彼が持つ天武の才、ヨグ=ソトースの血統がもたらす無限の適応、深淵の底から這い上がる悍ましい成長の証。


「ぎいぃぃぃああああああ!!!」


 ウィルバーの咆哮が、少年の喘ぎと獣の絶叫が混ざった不気味な響きで虚空を切り裂く。

 再生した腕が触手のように伸び、刃物のような突起が生え、ライラのパイルバンカーを擦り抜け、ドレスアーマーの裾を抉る。

 生体機械の装甲が火花を散らし、ライラの息が荒くなる。


「はぁっ、んあっ……こんな、速さ……!」


 彼女の声は、苦戦の喘ぎを帯び、官能の疼きが混ざって震える。

 ウィルバーの異体は邪神として、内面の際は人間として、際限なく成長する性質を表し、神力を飛び道具のように打ち出し、建物を抉る。

 紫色の光弾が虚空を貫き、大学の残骸を粉砕し、灰色の霧を虚空に穿つ。


「何つうもんを残してくれてんだ親父……」


 ハイタは、忌々しげに睨む。

 彼は神であっても肉体は脆い、この戦いには絶対に参加できない苛立たしさを抱えている。

 だが、ふと神力の弾丸がハイタを狙うーー紫色の軌道が、虚空を切り裂き、直撃の予感に空気が凍る。


 「ぁぁぁああああはっ!!」


 ウィルバーの咆哮が、再び獣の喜びを帯びて響く。

 それをライラが渾身の力で辛うじて逸らし、パイルバンカーが光弾を弾き飛ばす。

 虹色の火花が散り、彼女の豊満な体が震え、ハイタの無事に安心の息を漏らす。


「はぁっ、はぁ……ハイタ、無事……んっ!」


 理性の白濁が、官能の疼きを増幅させるが、その瞬間ウィルバーの掌がライラを叩き落とす。

 巨大な肉塊の掌が、深淵の法則を纏い、ドレスアーマーを凹ませ、彼女の体を瓦礫に叩きつける。


「が、はぁっ」


 ロード・ビヤーキーになって初めての苦痛に、ライラは顔を歪め、喘ぎのような叫びを上げる。


「ライラ!!」


 追撃の予感に、ハイタが悲鳴じみた声をあげる。

 だが、ウィルバーは何故かその場にもがき、のたうちまわり、攻撃をやめていた。


「あっ……あぁっ、ああ、あっ」


 肉塊の異体が、紫色の光を止め、ひっくり返ったような姿勢で虚空を掻き、先よりもか細い声をあげていた。




 時空の狭間ーー可能性の海底で、灰色の霧が渦巻く無重力の虚空で、ウィリアナの純粋な魂が、銀瞳の輝きを灯して踏ん張る声が響く。

 現実と虚構の水面がぼんやりと揺らぎ、弟ウィルバーの不可視の姿が少年として苦しげにもがく中、ウィリアナの声が決意の震えを帯びて響く。


「ふんんぎぎぎ、や、め、るで御座いますウィルバー!」


 彼女の細長い耳が震え、黒髪が虚空に浮かび、古風な口調が、兄妹の絆を繋ぐ糸のように張りつめる。

 ウィリアナは不可視の弟を羽交締めにして止めていた——こちらのウィルバーの肉体は意外なくらいにか弱く、ウィリアナの体力でも軽くウィルバーを抑えることができていた。

 銀の瞳が、可能性を探り固定化する審神者の力で、弟の動きを封じ、深淵の法則を一時的に抗う。


「あああっ、がっ、がああ!」


 ウィルバーのうめきが、獣のような原始的な響きで虚空を震わせるが、それは凶暴性ではなく、怯えがそのまま形になったような声。


 暗い小屋に閉じ込められた少年の絶望が、異界の風に溶け込む。

 ウィリアナの腕が、優しくも強く弟を抱きしめ、呪われた血統の孤独を共有する。


『ウィリアナ、お前か!』


 ハイタの声が、水面の向こうから聞こえる。

 黄衣の王の叡智が、脆い死体の殻を通し狭間を貫く。


「そいつが本体だ、でかしたウィリアナ! 今こいつを縛る黒魔術を逆算して、異体をこっちに固定する核を引き摺り出す、そのまま押さえててくれ!」


「委細承知! こっちのウィルバーに姉の力を見せるで御座りまする!」


 ウィリアナはふんすと鼻息荒く意気込みをハイタに表明する。

 純粋な魂が、銀瞳の輝きを増す。


「あっ、あっ、ああっ!」


 ウィルバーの声は、怯えの震えを帯び、ウィリアナは彼を絞めながら、その頭を愛おしそうに撫でる。

 指先が、か弱い髪を優しく梳き、深淵の底で悶える弟の輝くほど純粋な魂に、直接語りかける。


「大丈夫……大丈夫で御座りますよ、ウィルバー……拙も怖かったで御座りますれば」


 ウィリアナは思い出す——過去の友達の拒絶を、犬に噛まれた痛みを、孤独を。

 ダンウィッチの辺鄙な村で育った呪われた血統の少女が、異形の鱗と肋骨を抱え、自己否定に震えた日々。

 銀瞳の光が、虚空を優しく照らし、ウィリアナの声は優しく続く。


「この世界にとって拙たちは確かに異物に御座りまする、たくさんの拙たちが、悲しみに歪み、世界を変えてやりたいと間違う程に……」


 可能性を統合できる今だからこそわかる、今の自分たちの愛に包まれた生は、無数の可能性の『ウィルバー=ウェイトリーと不可視の弟』……『ダンウィッチの怪』の悲劇の果てにあること。

 孤独と歪んだ野望に燃えた兄と、野望のために窮屈な小屋に閉じ込められ朝日を見ずに震えて育った弟と……

 彼らもまた、優しくない世界と無関心の犠牲者であったことは否定できない。


「拙も彼らの逆なだけで、拙が消えることでこの世界が少しでも良くなるならと思いましたるや、私たちにとっては残酷で、歪んでいて、慈悲のない悲しい世界なのかも知れませぬ」


「ワンっ」


 子犬がウィルバーの鼻先を舐める、蛍光緑色の舌を優しく這わせ、ウィルバーは獣のようなうめきをあげて戸惑うが、不思議とその暖かさに嫌悪感は抱けない。

 深淵の渦が、ふとした優しさに溶け、兄妹の絆が甘く疼く。


「でもね、ウィルバー……」


 ウィリアナの声に、弟への愛おしさが混じる。


「ハイタ殿は優しくて、それでも悍ましくも恐ろしい邪神で、拙たちの母違いのお兄ちゃんで御座りまする……

ライラ教授は厳しい教授で邪神を憎んでおいでですが、私たちを心の底から助けたいと願って戦っておられまする……

人も世界も時空も心も、一つだけの顔じゃない、拙たちはっ……まだこの世界を何も知らない!」


 ウィリアナの温かい涙が、ウィルバーの頰に触れるーー虚空の底で、純粋な魂の雫が、深淵の闇を優しく溶かす。

 ウィルバーもまた、温かい涙を流すーーか弱い少年の姿が、銀瞳の光に照らされ、無垢な輝きを放つ。


「だからっ、ウィルバー! ここを一緒に出ようっ! 暗い小屋から一緒にでて、朝日の下で一緒に遊ぼう! きっと、きっと楽しいからっ! だから、ウィルバー!!」


 ウィリアナの叫びは、兄妹の絆を繋ぐ糸となり、時空の狭間を震わせ、無窮の可能性の闇を、希望の余光で染めていく。




 大人しく呼吸に上下するウィルバーの異体が、紫色の光を微かに脈打たせながら横たわっていた。

 鱗と触手の塊が、時空の狭間から漏れる少年の喘ぎを吸収し、永遠の拷問を終えた余韻に震える。

 ハイタは、腐った血で描いた回路図のような魔法陣を前に、霊子ホログラムのコンソールを叩くように打鍵しながら、黒魔術式の奥底を探る。

 異次元の叡智が指先から虚空を切り裂き、パワーソースとなっている神のかけらを、深淵の底から引き摺り出す。


「捕まえた……っぞ、クソったれ!」


 ハイタの声は、低く忌々しげに響き、魔法陣に深く深く腕を突っ込む。

 血と粘液と共に引き摺り出されたのは、成人男性の頭部のような『魔術核』。

 額に【深淵を見返すもの】の刻印を刻まれ、山羊のような眼を空にギョロギョロと見回しながら……


「いぐないぃ、いぐないぃ、つふるとぅくんがあ……」


 とうわごとのように呪詛を垂れ流す。

 その声は異次元の狂気のささやき、ハイタだけが察するーーこれは、並行世界のウィリアナ……即ち異なるウィルバー=ウェイトリーの……

 そこで、ハイタは唇を強く噛み、心の中で彼の魂を悼み、そして叫ぶ。


「ライラぁ!! こいつが『間違った神』だ!」


「……わかっ……たぁっ!!」


 ロードビヤーキーたるライラの声は、理性の白濁した喘ぎを帯びて歓喜に震えて風を切り裂く。

 彼女は飛び立ち、パイルバンカーに力を込めて快楽の全てをそこに注ぎ込むーー官能の疼きが霊子の圧縮を加速させ、光速を超える擬似魔法を最大にまで膨張させる。

 そこに悦の色はなく、喘ぎに散る理性もない、有るのはただ、目の前の憎しみの塊を屠るという殺意のみ!


「思いっきりぶち壊せ!!」


 ハイタの声と共に、その物体にパイルバンカーを叩き込む。

 黒紫の放電が虚空を焼き、見た目以上に高質量を持つ魔術核に、エネルギーが注ぎ込まれる。

 法則の崩壊が、現実を捻じ曲げ、無限の可能性が悲鳴を上げる。


「邪神っ……獲ったああぁぁっ!!」


 ライラの叫びは復讐の絶頂を帯び、突き出し切ったエネルギーが、魔術核の許容量を上回る。

 魔術核は、パァンと破裂した——悍ましい塊が粒子レベルで霧散し、黒紫の光が夜空を染め、深淵の渦が一瞬、静寂に包まれる。

 それは、ウィアードエイジの灰色の空が、血の余韻を吐き出し、復讐の宴が決着を迎える瞬間。

 間違った神が、どこか満足げに、永遠の無に帰す……優しい風に撫でられるように、決着を受け入れて。




 ミスカトニック大学の崩壊した棺の間は、深淵の余韻が渦巻く灰色の祭壇と化し、蒸気の霧が薄く光る中、封印の氷柱が溶け始めた。

 朝日の優しい光が、夜明けの平和を報せ、スズメの声が異様に静かな外の世界を優しく彩る。

 学長ヌトス=カァンブルは、氷柱の崩壊によって顕現し、緑色のウェーブヘアを乱れさせたまま、呆けたように全てが終わったことを察した。


「あー……間に合わなかったかぁ」


 と、己の不甲斐なさを悔やむ声が、低く響く。

 それは、魔術の聖域を守りきれなかった守護者の嘆き、ウィアードエイジの灰色の空に溶け込む、祭りの余韻だ。


 朝日が差し込む中、ウィルバーの異体ーー肉塊の怪物の姿が、ノイズのようにぶれてポンっと軽い音と共に消え、入れ替わり出現したのはウィリアナと裸の少年ウィルバーだった。


「きゃんっ!?」「アギぃ」


 ウィリアナの古風な悲鳴が細長い耳を震わせ黒髪を乱れさせて、ウィルバーの小さな声がか弱い少年の姿で二人揃って尻餅をつく。

 そして、子犬が「ワンっ」と華麗に着地し、紫色の毛並みを優しく振るわせる。


 ヨグ=ソトースの血統が、兄妹の絆を優しく結び、深淵の渦から抜け出したその光景は、呪われた運命が朝日の光に溶ける甘い救済の瞬間だ。


「よく戻ってきなな、偉いぞっ」


 ハイタはウィルバーを誉めつつ、黄色い上着を脱いでウィルバーにかける。

 だが……


「おい」


 後ろに、元の慎ましやかな身体を晒し衣服をなくしたライラが膝をつき、顔を真っ赤にしてハイタを睨んでいる。

 金髪が朝風に乱れ、深緑の瞳が羞恥の炎を灯す——ロード・ビヤーキーの変身が解け、教授ですらない少女の脆弱さが露わになっているようだった。


「何だよ、何なら俺の身体で隠してやるぞ? 俺の蜂蜜酒ーーぶっべあ!?」


 ハイタの軽薄なジョークが、魂の代償を甘くからかうが、ボコっとハイタの顔面にライラの鉄拳が突き刺さる。

 肉の凹む音が、朝の静寂を破り、ハイタの脆い体がよろめく。

 ライラは頭を抱えて、ロードビヤーキー時の自己の言動を振り返り、真っ赤になった頭を抱える。


「あぁあぁああぁ恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしいっ!!

理性の蒸発ってああなっちゃうのっ!? 好きと気持ちいいと色々溢れてわかんなくなっちゃってっ……! っひぃんっ」


 ひとしきり悶えたライラは、その場にうずくまってしまう。

 復讐者の仮面を剥ぎ取り、少女然とした夜の顔が朝日の光に晒される。


「見るで御座いますウィルバー、あれが多面性で御座りますれば?」


 ウィリアナはにっこりとした笑顔でウィルバーに示す。


「ちが……うと……おも、う」


 ウィルバーは姉の言葉に、辿々しい言葉で答え、か弱い少年の姿が、兄妹の絆を優しく紡ぐ。


「アーーーーーーッ!!」


 羞恥に悶えるライラの悲鳴が、夜明けのアーカム市に響いた。

 それは、深淵の脅威が霧散し、ウィアードエイジの灰色の空が血の余韻から優しい朝日に変わる、悲劇の終幕。

 復讐の旅が、魂の蜂蜜酒のように甘く、永遠の渦を回し続けるのだ。



 ミスカトニック大学の食堂は、襲撃の爪痕が残る灰色の聖域と化し、広く荘厳な空間が、修復中のブルーシートの向こうでショゴスたちの蠢く影に覆われていた。 タール状の粘液生物たちが、ドカチンドカチンと瓦礫を砕き、新型の魔術師きを試験的に織り交ぜて新しい防壁を構築している。

 ウィリアナ=アーミティッジは、黒髪を優雅に揺らし、細長い耳を震わせ、古風な口調で自慢げに語っていた。眼帯の下の銀瞳が輝き、純粋な魂の喜びを覗かせる。


「ウィルバーと拙は、この大学に残る事が決まったで御座りまする

ウィルバーは完全に制御下に置いた神力と異体の力の用い方を、学長から直々に学び、いずれは副学長の座が期待されているので御座りまする!」


 彼女の声は、ヨグ=ソトースの血統がもたらす希望の風のように食堂を優しく和ませる。

 気の抜けたハイタとライラは、力無く答える。

 ハイタは軽薄に笑い教授にボコボコにされた治療痕まみれ、ライラは金髪を乱れさせ深緑の瞳を疲れに曇らせる。

 ウィリアナはふと二人に話しかける。


「それで、相談なので御座りまするが、『交合』ってやっちゃダメって聞いたで御座りまするけど、よく分かってなくて「わ゛ーっ!?」


 ライラとハイタが慌ててウィリアナの口を押さえ、食堂の空気が一瞬、凍りつく。

 周囲の生徒たちがギョッとした顔で、優等生ウィリアナのトンデモ発言に二度見し、気まずそうに顔を逸らしていく。

 ウィリアナは何か察して、気恥ずかしそうに小声で続ける。


「いや……ダメだからこそどういうものか知りたいので御座りまするが、どう見てもお二人が拙のお家でなさっていた仲良しの手段とそっくりというか……あの、そういう事? でごじゃりましょうか……?」


 ウムル=アト=タウィルとの連絡だけじゃなく、その後獣じみたライラとハイタの交わりも、銀瞳による千里眼で見られていた——それは、ライラの教授の仮面を剥ぎ取り、絶望の涙をポロポロと溢させ深緑の瞳が羞恥の渦に飲み込まれる。

 ハイタはあちゃーと気まずそうに顔を覆い、またもや暴力の予感を感じ教授をチラ見する。

 しかしライラはアハハ、アハハハハ!と豪快に……いや狂気的に笑う。


「いいよ、良いよもう! いくらでも仲良しを見晒せオラァ! ハハハ!」


「あーあーヤケになるなヤケになるな、教育者だろお前冷静になれよもう」


 ヤケクソになった教授の顔という矛盾した状態で、若干発狂したライラを抑え、ハイタが慌てて言う。


「とりあえずそういうのは弟とは禁止! 普通に、普通にな! 邪神にだって良いかげん節度が求められる時代ですっ!」


「わ、分かったで御座りまするっ、拙、二人のことも応援してるで御座りまする!」


「うううぅっ」


 純なウィリアナの視線が、逆に痛くライラ教授を刺す——それは、ヨグ=ソトースの娘が、無垢な瞳で背徳の絆を祝福する、甘い毒。

 ライラの金髪が朝風に乱れ、ステッキを握りしめた手が震え、それももういいやと脱力するのだった。

 会話の糸がふと途切れ、ハイタが疑問を口にする。

 生徒の仮面が、深淵の底から這い上がる好奇心を覗かせる。


「そう、そういえばあのアルヴィン=トードの残骸はどうなったんだ?」


 ライラはステッキを軽く回す。

 彼女が回収した魔術師の肉体——それは、信じられないことに邪神の力を科学的に解剖し、理解することによってのみ生み出される魔術ならぬ高度な身体改造技術の産物だった。

 ハイパーボレアの遺産を嘲笑うかのように、旧支配者の触手を機械の筋肉に置き換え、神の法則を蒸気機関の歯車で捻じ曲げる冒涜の塊。


「あの後回収班が向かった先では、やつはもう自爆した後だったらしい

邪神……いや、旧支配者に憎悪を抱く科学の集団か……」


 ライラの呟きは、このウィアードエイジの新しい闇をさらに深く掘り進めるものだった。

 科学の刃が魔術の幻想を切り裂き、深淵の脅威が近くを通る蒸気式モノレールの無遠慮な響きのように、日常の裏側に潜む予感を膨張させていた。





 暗い中、逆三角形に血走った目の大紋章を床の中央にスポットライトを当てて、三人の男が会話する。

 黒い万年筆を手で弄る男、その指先がかのネクロノミコンから這い上がる呪詛のように優雅に回転する。


「召喚は失敗、ウェイトリーの双子もミスカトニックの手か……いいや、これは寧ろ好都合か?」


 銀色の鍵を幾つも肩からぶら下げた恰幅のいい男が、応じる。

 鍵の群れが、異次元の門を嘲笑うように、微かな音を立てる。


「然り、旧支配者の殺害もまた我々の目標の一部にすぎん」


 その言葉は、かの邪神たちの抱く願いや祈りすら蒸気機関の歯車で解体する冒涜のささやきである。

 高山帽を被った男が言う。

 帽子の影が、狂気の皺を深め、深淵の底から這い上がる悍ましい視線を隠す。


「ありえた時代ありえた歴史の探究は、僕らを神々の次元に押し上げ得る……1950年のウェルダが行う神への進化がこの時代に始まるんだ、面白いね? 」


 高山帽の男はステッキをくるくると回し、芝居がかった動きで深淵を見返すものの紋章の中央に立って両手を広げ天を仰ぎ見る。


「あぁ、『かの偉大なる力』……宇宙窮極の中心への不断の探究はかくも悍ましく……愛おしい、Un Ceaceだぁ」


 ねっとりと陶酔するような声が、虚空を震わせ、高山帽の男の髪は金に光を反射し、瞳は深緑に濁り、無窮の深淵を見返していた。

 それは野心の渦がウィアードエイジの灰色の空を血に染め、科学と魔術の歪んだ共存が新たな神殺しの宴を始める……さらなる悲劇の序曲だった。




Case2 Fin

アザトースのひとこと「これはダンウィッチの怪という悲劇の鎮魂」

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