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Case1 或る画家の顛末に見る本能と日常の揺らぎ






 ーー数年後。

 アメリカ合衆国 アーカム市 1915年5月某日。

 空は常に灰色に覆われ、科学の裏に実在する魔術の影は本来の歴史の流れよりも科学技術を歪んだ形に発展させていた。

 細やかな偏光板の集団がキラキラと傾いて遠景から見る巨大モニターを稼働させ、空を行く飛行船の拡声器からは時の大統領ローランド=シャイニーがプロパガンダを吐いて回る。


『この奇妙な時代ウィアードエイジの影にある犯罪組織を私は決して許しはしない!

噂される『市国』も、『薔薇十字騎士団』も、あの忌々しい詐欺師アレイスターの足跡も決してこの国に立ち入らせないことを国民諸君に約束する!

我々は、セイラムの悲劇を起こした魔術という幻想を科学の刃で打ち払わねばならない!』


「ふん、打ち払ってから言いなさい」


 不機嫌に、ライラは喫茶店の机に肩肘をついて目の前の青年を睨んでいた。

 ライラの服装はタイトなミニスカートに厚手のコート、腰には視覚障害者用の折りたたみステッキをぶら下げ、目元には見えない瞳を覆い隠す丸い色眼鏡。

 向かい合う青年は、ライラと同じ金髪を揺らし彼女の対応に怯えるように身を縮こませる。

 ライラはテーブルから持ち上げた原稿を手で叩き、その内容を青年に指摘する。


「ハイタ、引用元のチョイスが杜撰すぎる。

古文書を適当に引用しているようだけどソースの出典が不明瞭、ちゃんと私の授業を聞いてさえいればこんなミスは有りえないだろう。

今日の授業でもまた女の子を引っ掛けていたな、良い度胸だ」


「いやいやライラ、俺は珍しく来てた女の子たちに君の授業の作法というやつを教えてあげてただけだって……」


 ハイタと呼ばれた青年の言い訳に、ライラの表情が一層険しくなる。


「ぁあ゛?」 「スイマセン……」


 うだつの上がらない青年だが、ライラも奇妙だ。

 その目は見えないはずなのに、ハイタの提出したレポートを一目で読み解いて指摘している。

 しかしそんな不思議はこの町ではよくあることで、ミスカトニック大学七不思議の一つに取り上げられているほどありふれたものだった。




 喫茶店のそんな様子を少し遠くから見つめる青年がいた。

 ライラの白人社会でも珍しい完璧な金髪に光を映さない深緑の瞳、刺すような鋭い目つき。

 その実年齢よりも幼い容姿はいたいけな芸術と言っても過言ではない美貌を放っているのもまた事実だ。

 視線を集めるのも無理からぬことだろう。


「綺麗だな、あの子……」


 そう呟いたのは、ミスカトニック大学芸術科の2年生であるロバートだ。

 細身の巨躯に釣り合わないサイズの画材を担ぎ歩いていた彼は喫茶店を眺め足を止めていた。

 そんなロバートの背後から駆け寄るピンクのドレス姿が彼の背中を叩く。


「YO! ロバート、見惚れてんのかい? あいつは辞めときな、ろくな目に合わねえぜ?」


「しっ、ハヤマそれどういうことだい?」


 そう言って元気に声をかけるのはピンクのドレスに金に染めたストレートの長髪、幼さを残す美しい顔をいたずらっぽい笑顔にして口調は少年然としている。

 そう、彼は男だが敢えて似合っていると女物のドレスを着る変わり者、ロバートの同期であるハヤマ、日本人だ。


「民俗学の麒麟児ライラ=シュルズベリイ……学長のコネで入学後飛び級に飛び級を重ね数年で民俗学の教授にまで上り詰めた美貌の天才だが

性格はきつい、怒りっぽいしすぐ機嫌を悪くして授業をボイコットすることもしばしば、それにあの女好きのハイタがお気に入りでいつも一緒にいる、噂じゃくっついてるって噂だよ?

惚れたってろくなもんじゃないさ」


 そう言って伏し目がちにロバートとライラを見るハヤマの目は、まるで今後に起こる『碌でもない事態』を予見するかのようで、ロバートは背筋に薄寒さを感じて足早にその場を立ち去ることにする。


「あ、ありがとうハヤマ。 良い週末を。」


「あぁロバート、良い週末を」


 ロバートに笑顔を向けて手を振るハヤマはライラにまた視線を向ける。


 ブン……ブン……ブゥゥン、と、大型の蜂の羽音のような不快な音が辺りに響く。

 喫茶店から、ライラの見えないはずの虚空を見る視線は、確かにロバートに向けられていた。




 アーカム市の薄暗いアパート街は、蒸気機関の排気が霧のように立ち込め、鉄の臭いが鼻を刺す。

 ロバートの住む古びたアパートで突如として起こった殺人事件は、まさにハヤマの警告を最悪の形で現実にしたような惨事であった。

 アパートの階段の下を『KEEP OUT !!』と書かれた黄色いテープが塞ぎ、隔離した空間は凄惨の一言に尽きた。

 被害者の体は、残酷な芸術作品のようにバラバラに引き裂かれ、部屋の壁や床、床に飛び散った血肉の欠片が、赤黒く乾き始めていた。

 床の上に転がる腕は、指先が不自然に曲がり、皮膚が剥がれ落ちて白い骨が覗く。

 胴体は腹部が抉られ、内臓の柔らかな塊が零れ落ち、粘つく液体が床板を腐食するように染み込む。

 死体のほとんどの部位は見つからず、首の断面から噴き出した血が、天井まで弧を描いて飛び散り、滴り落ちる音が、静かな部屋に響く。

 空気は鉄錆と腐敗の甘い臭いが混じり、吐き気を催すほどの濃厚さで、肺を蝕む。

 市警の捜査官たちは、頭を抱え、グロテスクな現場に立ち尽くしていた。


「これは……また、なぁ」


「特殊清掃業者が泣きそうですねこりゃあ」


 野次馬の群れの中にロバートが割って入る、身近で起きた殺人事件だというのにどこか遠い出来事のように感じていた彼は、遠くからでも見えるその現場の凄惨さにそれが現実だというただの事実を叩きつけた。


「……っ!う゛っ!!」


 ロバートは口元を抑え、なんとか吐き戻すのを堪えていた。

 視界が揺れ、その恐怖が創作の糧になるかもしれないという甘い期待を捨て去ろうとしたその時だった。


 群衆がざわめき、カツ、カツ、と規則正しい靴音が道を開けた群衆の中から、ライラ=シュルズベリイが姿を現した。


「ライラ、教……授?」


 ロバートが思わず呟いた。

 彼女の表情は静かで、まるで血の匂いを嗅ぎつけた鷲のように興味深いように首を傾げる。


「これはまた、堂々としているな?」


 黄色いテープを乗り越えて現場に足を踏み入れるライラに若い警官が手を伸ばす


「ちょ、ちょっとキミ!このテープが見えないのか!? 立ち入り禁止だぞ!」


「失敬、見えないもので」


 彼女は視覚障害者用のステッキで色眼鏡の金具をカン、と鳴らす。

 おちょくられていると思った若い警官は、怒りを露わにその肩を掴もうとするが……その横の歳を重ねた刑事に手で制される。

 「何を……!」と抗議しようとした若い警官に、歳を重ねた刑事は耳打ちをする。


「彼女は特別だ、この手の事件を何度も解決している裏のプロだ……知るなよ、長生きしたければ」


 刑事の言葉を証明するかのように、見えない何かの羽音がブゥン、ブゥンと彼女の周囲を旋回する。

 彼女の金髪とミニスカートが風に揺れ、ステッキが血溜まりとなった地面とわずかに境界を作りながらその上を滑るように揺れる。

 そして彼女の虚空を見る瞳はその不可侵に思える領域の中で興味深そうに見開かれていた。

 息を吸い込む、それは恐怖ではなく知的な興奮のように甘く、彼女は静かな吐息を漏らす。


 それは凄惨でグロテスクな世界に舞い降りた女神のようで、ロバートの視界に奇妙なコントラストを生んだ。

 凄惨で見ることを後悔した現場ですら、その場面においては怪しく光を反射する血肉そのものが舞台装置となり不可侵たる彼女を神秘を纏う羽音のヴェールに包まれた現場、その光景がロバートの網膜に焼き付いた。

 心臓が早く鼓動し、ロバートの胸を熱く疼かせ、それを言葉に呟いてしまう。


「なんて……美しい……」


 根源的な欲求が恐怖と混じり合い、血の海を退廃的なキャンバスに変えていた。

 それは、芸術科である彼にとって甘い毒であったに違いない。




 夜、ロバートの部屋は、いつしか狂気のギャラリーと化していた。

 壁一面に貼り付けられた絵画は、全てがライラの金髪をモチーフにしたものだった。

 血の海に浮かぶ金色の光のように描かれ神秘的な色眼鏡が虚空を映す。

 だが……


「はぁ……はぁ……足りないっ」


 イマジネーションの本流が止まらない、次々と筆を走らせるロバートの手は次々とその『続き』を紡ぎ出す。

 血の海の中で横になりミニスカートを捲らせて、盲目の瞳を恍惚に輝かせながら官能に耽る姿、慎ましやかな胸が息遣いに揺れ汗が肌を伝う、もはや血の海の赤は妄想の中の彼女の苦痛と恍惚を映すメタファーとして機能していた。


「まだだ、まだ、足りない!」


 ロバートは筆を止め、荷物をまとめ始める。

 大学の資料から教員名簿を頼りに、彼女の住所を割り出して、彼は潜入を試みる。

 甘い毒からくる病的な情熱が、彼を駆り立てようとしていた。

 幸にしてそこはすぐ近くだった、彼は事件後の人気の少ない夜中のアーカムを這うように走り抜け、彼女の住むマンションに辿り着く。

 彼は昔窓拭きのバイトをしていた経験を活かし、器用に外壁を登り、非常階段を上り、彼女の住む部屋の外側にたどり着いた。


「はぁ……はぁ……はぁ!」


 彼はもうわけがわからなくなっていた、ただ彼女が見たい、彼女の全てを知りたい、意味不明な欲求の赴くままに、少し開いた窓の隙間から彼女の部屋を覗き見た。

 シャワーを終えた、タオル一枚を纏い熱い湿気を帯びた彼女の姿が見えて、ロバートの心臓の鼓動が、甘い期待と恐怖の狭間に疼いた。

 ……しかし、そこにいたのは、ライラだけではなかった。


「どうだった、あのロバートとかいう男は?」


 軽薄な、男の声……ハイタと呼ばれていた女好きの生徒。

 彼はライラのソファーに、堂々と腰掛けてライラに語りかけていた。

 それは彼の中の、ライラに対する不可侵的な女神のイメージが一瞬にして崩れ落ちた瞬間だった。


「あぁ、意外と彼は狡猾だった……」


 そう言いながら、ライラはハイタの前で少し身じろぎしてから……ゆっくりとそのタオルの結び目を引き締めて素肌を隠したまま近づく。。

 その報告は、まるで日常の会話のように……しかしその恥じらいを帯びた顔には、これから起こることへの期待を淡く帯びて朱に染まっている。


「むしろ彼は本心から、自らの日常を信じているように見えたよ」


 ハイタに近づいたライラは、言い終えると彼の肩に手を回しその唇を重ねる。


「ん……」


 そこから彼女は控えめに、ハイタの唇に触れるだけのキスを交わしその身を彼に寄せていく。

 教授と生徒の禁断の関係、その不気味な空気がロバートの鼻につくと、彼は嫌悪感よりも変態的な欲求が勝り食い入るように見つめてしまう。


「心配するなよライラ、お前の仮面の方がよほど厚い……」


「はぁ、あんたもね……」


 やがてハイタは彼女の腰を撫で下ろし、慈しむようにその肌をなぞる。

 ライラは昼の気難しさと鉄面皮が嘘のように、むしろハイタに全てを委ねるようにその所作に甘い声をあげて受け入れている。

 そしてついに、彼女はハイタに寄り添い腰掛ける。

 彼女はこの先に来る予感に息を整えようと深呼吸を始める。


「ふぅ……はぁ……」


「ほうら、お前も仮面を取れよ……二枚貝の殻を破るように、俺が剥ぎ取ってやろうか」


 ハイタは言いながら彼女の肩を包み込むように抱き寄せた。


「お前は俺の食糧だろう? 抵抗するなよ、ライラ」


 まるで子供のいたずらを諭すような優しくも威圧的な口調でハイタがそう言った時、異変がハイタの背からはじまった。


「それとも、俺から取った方が気が楽かな……?」


 ぞぁ……と黒く変色し融解する背中から這い出したのは宇宙へと繋がる闇そのもののような漆黒のモヤ。

 全身が不定形の闇の塊となったハイタはヒトの形を脱ぎ捨てるかのように形を変えてライラの左手に絡みついた。

 その一瞬の変貌は、ロバートの本能に呼びかける忌避感を形にしたような光景だった、だがそれは彼の忌避感の本質ではなかった。


「うぁぁあっ、ハスターっ、ぁ、あっ」


 ライラの反応はそれよりもロバートの目には異常に写っていた。

 嫌がるでもない、悍ましさに恐れるでもない、彼女の闇に掴まれた左手が白く光り、その燐光が闇の中に吸われて、その苦痛に右手で喉元を抑え喘いでいる。

 まるで闇に魂を少しずつ啄まれるように。

 愛しさではない、だが彼女はの表情は恍惚とし、ただ純粋に『食糧』として、


「もっと、もっと……っ」


 彼女の盲目の瞳が恍惚に濡れ、左手を深く闇の中へと押し込む。


「ぅはっ……もっと、味わって……っ」


 それは生まれながらにしての生贄であるかのように、魂の補食を求め、せがむように。

 そして限界が来たのか、ライラは意識を薄れさせてソファに寄りかかり脱力する。

 彼女の左手を優しく下ろした闇の塊は、ため息をつくように項垂れた。

 ライラの荒い息遣いを背景に、闇から嫌にはっきりとロバートの耳に聞こえる声を放たれる。


「はぁ……見てるだけで、満足か?」


 じゅぼっ、と闇を裂くように大小無数の目玉が開いて窓の隙間を、そこから覗くロバートを凝視した。

 その目玉の一つ一つが、深淵そのもののような深い光を湛えてロバートの魂の底まで見透かしている。


「………っひ」


 ロバートはたまらず一歩引いてしまい、6階の高さから落下しそうになる。

 慌てて非常階段の手すりにしがみつき、そこから本能的に非常階段の踊り場に滑り込むと、ロバートはただただひたすらに階段を降りて地上へと辿り着く。


「ぁぁ、ぁぁあ、ああ!! うわあああああぁぁぁぁ!!!!」


 そしてロバートがその身を動かすものが頂点的な『捕食者』から逃げるための本能であることを漸く理解すると、遅くとも悲鳴を上げながら、なりふり構わず逃げていくのだった。

 ハイタは人間の姿に戻ると、開けた窓から心底軽蔑するような視線をロバートへ向けていた。


「……ハッ! 飛んだ甘い臆病者じゃないか? なぁライ」


 振り返ったハイタの顔面に、いつの間にか意識を回復させたライラの鉄拳が突き刺さる。

 ごりっ、と重く骨を砕くような音と共に倒れ伏すハイタをワナワナと震えながら見下ろし、真っ赤になったライラは再び拳を振り上げて絶叫した。


「あんたのせいでしょうがっ!! 気づいてたならぁっ、言えよ無能!!」


 再び、骨を砕く音が夜中のマンションに響いた。




 昨夜の狂気的な光景が嘘のように溶け去った、朝のアーカム市。

 アーカム市の空は蒸気の霧が晴れ、珍しく晴れやかな青を除かせていた。

 部屋に差し込む朝日が、壁に散らばるライラの絵画を優しく照らし金髪の筆致を輝かせる。 

 ロバートはベッドから起き上がり、ベランダに出て爽やかな朝の風に身を委ねて背を伸ばす。


「ふぅぅ、いい朝だ……」


 呟いたロバートにとって昨夜の恐怖は、夢のように遠く、胸の奥に甘い余韻だけを残していた。


 冷蔵庫から取り出したウィンナーは、太く肉厚で表面が僅かに光る脂を纏い、つかむ指先に温かな感触を伝える。

 フライパンを火にかけて油を敷き、目玉焼きと共にウィンナーを焼く音が部屋に心地いいリズムを刻み自然とロバートも鼻歌を口ずさみ、朝食の香りが濃厚に広がって胃を疼かせた。 


 その時、チャイムが鳴り響く。

 彼は不思議に思いながら火を止めて、静かな朝を切り裂く音の根源を確認しようとドアを開ける。

 そしてその先の人物に一瞬目を見開くと、困ったような笑顔を浮かべた。


「……! あぁ、昨晩は申し訳ありませんでした、教授」


「……そう思ってくれていて助かるよ」


 背の低いライラは、虚空を見つめる瞳をムスッとした半目にしてロバートを見上げていた。

 彼女はすこし赤くなった顔で、恥ずかしさ半分の複雑な心境をない混ぜにしたまま彼を訪ねてきたのだ。

 彼女は評判通りに事件の解決を済ませてその異物たる自分の元を訪れたのだろう、あんなことがあったのだから当然だ。

 いい朝で憑き物が取れたかのような爽やかさが体を満たしていたロバートは、笑顔を浮かべてライラを部屋に招き、彼女は促されるままに足を踏み入れた。


「教授、いやライラ、まさかこんな朝にお越しいただけるとは……

わかっています、昨夜のことは他言無用にしますよ、若い教師と生徒の蜜月関係なんてこの街ではありふれたゴシップですし、私はそんなもの求めていませんので」


 そんなことを話しながらも、ロバートの視線はライラの体を審美するようになぞっていた。


「そうだ! 教授、朝食もご一緒しませんか?

特別なウィンナーがあるんです、目玉焼きも完璧に焼けています、ハヤマに勧められたソイソースをかけるとまた絶品で……」


「いや、いいよ……」


 ライラが、首を横に振り、唇をわずかに歪める。

 ステッキの先が軽く床を叩く音が響く。

 ライラは失明の瞳で、ロバートの魂の奥底を観て、口を開いた。



「それは、今度は誰の肉だい? ロバート」



 蒸気式のモノレールが近くを通過する、無遠慮な金属音が室内に満ちて反響する。

 ロバートの爽やかな朝を、日常を、人間性を否定する、その言葉は深淵から伸びた触手のように、彼の記憶を忘却の底から引き摺り出した。



 ロバートの笑みが、虚空の亀裂のように歪む。

 昨夜の狂気がまだ魂に残る中、彼は何故か他人事のように殺人の光景をフラッシュバックさせる──バラバラの肉片を抱いて、血の軌跡が冷蔵庫へ繋がる幻影。

 だが、彼の声は爽やかさを装い、偽りのアリバイを紡ぐ。


「教授、誤解ですよ。昨夜は部屋で絵を描いていたんです。アパートの事件? 僕、野次馬で覗いただけさ。ウィンナー? ただの朝食ですよ、市場で買った新鮮なもの。誰の肉だなんて……冗談でしょう?」


 つらつらと並び立てられる言葉の裏で、深淵の飢えが彼の瞳をちらりと覗かせる。

 深淵からの呼び声が、記憶を蝕むように。

 ライラは自らの色眼鏡をステッキの取手でカンと叩き、その音で再び虚構に沈もうとしたロバートの意識は現実に戻される。


「私の『眼』は特殊でね、見えないが色々見えるのさ。」


  彼女の声は静かだが、虚空の風のように冷たい。

 ハスターの与えた力ーー宇宙の深淵から授けられた視界が、常人には見えぬものを捉える。

 現場に残された灰煙の跡、微かな硫黄の臭いを帯びた足跡が、床から壁へマンションの外壁を這い、ロバートの部屋へ繋がる細かい血痕を浮かび上がらせる。


「あの血痕はただの飛沫じゃない、壁伝いに肉片を運んだ道筋だね?

お前は大家の頼みで壁面から窓拭きのバイトをしていた経験があったそうだな、君の部屋の冷蔵庫まで一直線に運ぶには理想的な技能だ」


 次に、目の前に出されたウィンナー……その詳細な成分が、彼女の精神に投影される。


「人間の筋肉繊維、混じった骨髄の欠片、微かな魂の残滓……これは、被害者の大腿部だね?

新鮮に加工されて、ウィンナーの皮に包まれている……器用だなお前」


  一つ一つを細やかに明かすたび、ライラの周囲の羽音が大きくなっていく。ブンブン……ブンブン……見えない蜂の群れが、狂気の旋風を巻き起こすように。

 ロバートはどんどん震え始める。昨夜の触手の恐怖よりもさらに悍ましいものが、魂を掴む。

 深淵の根源的な畏れ、それはやがて食欲に取って代わられる。

 本能的な恐怖と欲求が、彼の血を呼び覚ます。

 ロバートの体が、変異していく……皮膚が裂け、牙が伸び、目は赤く輝く。

 飢えの怪物が、それそのものの擬人化であるかのように狼男のような姿へとロバートを堕とす。


「ぐ……あああ……お腹が……空いた……」


  彼の爪が伸び、虚空の飢えが肉体を支配し、ライラへと襲いかかる。


食屍鬼グール、旧支配者の存在に反応して、時折人間達から突然変異として生まれてくる

不完全な進化か、その先祖返りか、たまに、人間の中からその性質を持って生まれてくる者がいるんだ」


 ライラは動じず、虚空からミサイルのようにトゲを前へ突き出した突撃槍のような生体機械の蜂を発射する。

 ブン! と空気を切り裂き、グールを牽制するそれは、ステルスを解除した姿を現す。


「これは星間宇宙を航行する神話生物の運び手、ビヤーキーの一機種だ

私の眼であり、剣であり、盾でもある、便利な連中だよ」


 それは神話の深淵から訪れた有機機械、蜂のような形態で虚空を飛び、トゲの槍がグールの肩を貫く。

 血が飛び散り、部屋の空気が歪む。

 ライラの唇が微笑む中、蜂の羽音が部屋を満たし、深淵の戦いが朝の光を蝕む。


 グールが、涎を滴らせながらライラに迫る。

 仮面は既に剥がれ落ち、原始的な渇望が宇宙の虚空から這い上がるように体を駆り立てる。

 ライラは慎ましやかな体を翻し、ステッキを捨てて後退する。

 金髪のセミロングが汗に濡れ、タイトなミニスカートが戦いの風に捲れ上がる。 サングラスの奥で、見えない瞳が虚空を睨む――だが、ビヤーキーの蜂のような羽音が周囲を震わせ、彼女の守護者たちが限界を迎えつつあった。


「ハスター……一部だけでもいいから、使わせて」


 ライラの口調は、少し恥ずかしそうに昨夜の少女然としたものになる

 声は震え、昨夜の異形の交わりが魂の奥で疼く記憶として蘇る。

 左手から魂を啜られた苦痛と恍惚の代償……ライラはそれを思い浮かべ、頰が微かに赤らむ。

 彼女は目を伏せ、唇を噛む。


「その分は……昨夜、食べさせたでしょ?」


 恥辱の混じった申請が、虚空に響く。

 ハスターの力の一部を借りる契約の糸が、彼女の体を熱くする。

 ロバートの猛攻をかわし続けるライラは、やがて壁際に追い詰められる。

 グールの舌がじゅるりと舐めずり、爪が振り下ろされるその瞬間、蜂型ビヤーキー三体がかりで彼の腕を絡め取り、虚空から突き出されたトゲが肉を抉る。


 ビヤーキーたちがその機能である亜空間ステルスを解除し、機械的な甲殻を輝かせる。

 カウンターのように、ライラは振りかぶる。

 彼女の手にビキビキと音を立てて甲殻類のような装甲が現れ、服を突き破りながら広がる。

 ハスターの力が流れ込み、彼の闇と同じ疼きが体を駆け巡り、記憶が戦いの苦痛と混じり合う。


「……っ、ぁぁあっ!!」


 ライラの咆哮と共に、手甲から伸びたパイルバンカーのような棘がロバートの腹部を貫く。

 血が噴き出し、グールの絶叫が部屋を震わせる……だが、咆哮はすぐに止み、怪物は天を仰ぎながら人の言葉を紡ぐ。


「ありがとう……これでもう、殺さずに済む。」


 それは深淵の底から見せた刹那の安堵か、画家としての妄執が永遠に沈み再びその肉体がライラへと手を伸ばし抵抗を始めようとした。

 ライラは顔を俯かせ、表情を見せないまま棘の機構を発動させる。

 パイルバンカーが爆発的に伸長し、エネルギーの波がロバートの上半身を粉々に粉砕した。


 肉片と血の雨が降り注ぐ中、ビヤーキーたちが傘のように展開し、彼女を濡らすのを防ぐ。

 宇宙的な守護者たちの羽音が、血の臭いを払う。

 そんな中、ライラもまた天井を仰ぎ一人の人間の死を悼むのであった。




 血の雨がようやく止み、部屋に重い静寂が降り積もる。

 深淵の余韻が、肉片の残骸と血の臭いを虚空に溶かす中、玄関から軽やかな拍手が響く。


 「派手にやったねぇ、ライラ教授。」


 ハヤマの声が、悪戯っぽく部屋を切り裂く。

 彼は、拍手をしながら入ってくる。

 金髪に染めた長髪が優雅に揺れ、少年的な瞳が残酷な眼光を宿した笑みに変わる。

 それは人によっては宇宙の果てから這い寄るような、甘く毒々しい魅力に映ることだろう。

 ハヤマは日本の護符らしきものを、壁や床にかざしていく。

 古い符文が光を放ち、血痕が幻のように消え失せる、世界を塗り替えているのではない、血肉を札に吸収しているのだ。

 ライラは色眼鏡の奥で息を整え、ビヤーキーたちの羽音を抑えながら彼を睨み、教授としての口調で威嚇する。


「レン=ハヤマ、コレはお前の差金か? それならハンターとして私が相手になるが?」


「君相手に喧嘩を売るなんてそんな度胸ないよ魔法使い(バケモノ)もどき、僕はただの黒魔術師だよ?

グール化してたのは知ってて放置したけどさぁ」


 ライラにとって彼は知らない仲ではない、何度かミスカトニック大学の裏側で事件を解決した同志だ。

 ミスカトニック大学はただの教育機関ではない、裏の顔として今回のような魔術界隈専門の国営調査機関の顔を持っている。

 それは互いの魂を蝕む秘密を共有した、歪んだ絆だ。

 ハヤマは笑みを深め、残った血痕とウインナーの肉片を、護符で集めていく。


「こうして、僕の神への生贄にするためにさ。

僕はあくまで人として力を得てるだけだから、こうして細かい事件で残弾を稼ぐしかないのさ」


 彼の言葉は、軽やかだが毒を孕む。


「私だって……好きでこんな力を振るっているわけじゃないのは知ってるだろう?」


「『その分は、昨日食べさせたでしょっ?』ってやつ? おっと。」


 恥ずかし気に言うライラの言葉を真似したハヤマが軽くその場から避けると、彼の居た位置の足元にステルス状態のビヤーキーが開けた風穴が開く。


「……っ! フーッ……フーッ……」


 怒りに支配されかけて獣じみた呼吸をするライラの深緑の瞳が、赤く染まりかけている。

 それを確認したハヤマは半目になってため息をついた。


「制御しろよ半端者、そんな調子で使おうとしてたら邪神を殺し尽くす前にハスターに舐め溶かされきっちまうぜ?

ま、契約満了で死ぬその時まで快楽のままに力をつかえりゃいいやっていう主義の、僕の言えたコトじゃないけどっさ」


 呆れたように言うハヤマは踵を返して手を翻しながら、廊下からその場を後にした。

 拳が握りしめられるが、ここは押し黙る……同志として、邪神ハンターの裏の顔を共有する者として人のことは言えない。


「じゃあね、教授。 今回はお疲れ様、擬似魔法使いのライラ教授」


「ああ、とっとと帰れ東洋の黒魔術師」


 ミスカトニック大学の闇は、二人のような存在を繋ぎ止める組織の楔でもあった。




 夜、街灯のランプで黄金色の光を反射する室内で、ライラは闇の塊に左手を掴まれてびくりと震える。


「んっ……まだ、足りない?」


 ライラの部屋で、彼女とハイターーハスターはソファーの上で親密に抱き合いながら夜を過ごす。

 昨夜のような本格的な捕食行為は稀で、これが彼女と彼の契約以来のルーティンだった。

 何があっても契約内容を忘れないため、ライラが何であるのかを忘れないため。

 だがハスターは悪戯のように左手を闇の塊に変えてライラの左手に刻まれた紋様をなぞる。

 ビリビリとした痺れに魂を味見されるような寒さを感じて、流石にライラの理性がそれを止めようとする。


「仕方ないだろう? 陥没した顔面を治して、追加で調べ物をしてきたんだから」


「う……それこそしかたないでしょ? で、如何だったの?」


 流石に顔面凹ますのはやりすぎたと大人しく反省するライラに免じて、ハスターはいうことを聞くことにした。

 ハスターは腕から触手を横着に伸ばしてカバンの中から資料を取り出してソファーの前のテーブルに置いた。 


「奴が資料として買った画集だ、ハイパーボレアの旧い遺跡のスケッチ集

こいつを見たことで旧き血が覚醒し、先祖返りに至ったんだろうな出版社の情報はないが、刻印されたマークは……【深淵を見返すもの】達のものだ」


「……っ!!」


 がり、とライラの右手の爪が組み交わしたハスターの腕の皮膚に食い込み、甘く腐った匂いの黒い血を垂らす。

 ハスターはそれを意に介した様子もなく、優しくライラの背中をポンポンと叩く。


「落ち着け、漸く尻尾を出したんだ……仇を取るチャンスはこれから幾らでもある、そうだろう? まだ始まったばかりだ……」


 ハスターはライラの左手を優しく持ち上げ、誘惑するように唇を近づける。

 青年の瞳が、邪神の本性を覗かせ、ライラの左薬指の紋様がエンゲージリングのように赤熱して、甘い毒を注入するようにシュウシュウと音を立てる。

 彼女の唇がわずかに開き、息が混じり合う


「っく、ハスター……やめてっ……」


「その時は遠慮なく俺を頼れぇ、乞え、祈りを捧げろライラ……それが俺の糧となり、お前の力になる」


 教授と生徒の仮面の下で繰り広げられる、魂を貪る背徳の宴。ライラの指がハスターの腕を優しく引っかき、怒りと欲求の狭間で体を熱くする。

  ……だが、そんなハスターの近づけた顔に、描きかけの論文がバフっと叩きつけられる。

 ライラは恥ずかしさと怒りが混じり合って赤くなった顔でハスターに言い渡した。


「それより早く、お前はレポートを提出しろっ! 期限は昨日だぞ?」


 せっかくの空気を論文にぶち壊されたハスターは呆れと嫌悪をない混ぜにした露骨に嫌な顔をして、深いため息をついてペンを手に取った。


「……はぁぁもう、神の力を使えば論文など幾らでもこさえられるのにぃ

だいたい神に論文の根拠も何も無いだろう? 実際見てきたんだから!」


「教育システムがそうはさせないんだよ、私を舐め尽くすまで卒業せず留年し尽くす気か?

それはさぞかし邪神として箔がつくものだなハハハ」


 この奇妙な時代ウィアードエイジ、奇妙な相棒ウィアードバディの関係は、まだまだ続くのであった。



Case1 Fin


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