第7話「封じ手」
戦場には、煙と砂埃が立ち込めていた。
紅蓮軍の陣形はすでに崩れ、前線の兵士たちは混乱しながら撤退を始めていた。
「何をしている! 戦え! 立て直せ!」
岳烈の怒声が響く。
しかし、その言葉に応じる兵士はほとんどいなかった。
あまりにも突然の奇襲、降り注ぐ瓦礫、仲間たちの悲鳴。
彼らはもはや「戦う軍」ではなく、「逃げ惑う群れ」になっていた。
「岳烈……これは、もう持ちこたえられん。」
魏煉が、苦渋の表情で呟いた。
「何を言う! 我々紅蓮軍は最強だ! この程度の損害で——」
「この程度だと……?」
魏煉は冷静に戦場を見つめる。
「見ろ。前線は壊滅し、中央部も崩壊寸前だ。」
岳烈は歯を食いしばった。
確かに、彼の言葉を否定することはできなかった。
「ならば、一度引くしか……?」
魏煉は無言だった。
岳烈は剣を握りしめたまま、戦場を睨む。
(まだだ……このままでは終われん!)
彼の目が、最後の抵抗の炎を宿す。
「——飛燕。」
飛燕とトウガは壁の上に移動していた。
「何だ?まだ策があるのか?」
「ある!封じ手だ。」
トウガは腰の袋から、あるものを取り出した。
小さな金属片と石の粉末が詰まった小袋。
「なんだそれは……!」
飛燕が目を見開いた。
「こいつを、紅蓮軍の中央部に放り込む。」
「……そんなものでどうするつもりだ?」
「奴らの炎を利用する」
トウガは袋を軽く振ると、小さな鉄片が音を立てて揺れた。
「こいつは金属片と硝石だ。俺が錬金術で爆破物を作る!」
「爆破!?そんな危険なものを……。」
飛燕は少し考え込んだが、すぐに口を開いた。
「……どこに投げ込む?」
トウガは戦場を指差す。
「中央の、今まさに立て直そうとしている部分だ。」
飛燕は少し目を細め、戦場を見渡すと、静かに頷いた。
「面白い!やってみろ。」
トウガは、手の中の袋を握りしめた。
「イメージはできてる……見せてやるよ、俺の次の一手を。」
トウガは深く息を吸い、戦場の中央を鋭く見据えた。
「俺の合図で、あいつらを挑発してくれ。紅蓮軍の術者が炎を使うように仕向ける。」
「……そんなことで敵が動くか?」
「動くさ。今の奴らのプライドを考えたら。」
トウガは静かに答えた。
「紅蓮軍は炎こそが最強の力だと信じてる。なら、火を使わざるを得ない状況を作れば、間違いなく乗ってくる。」
飛燕は口の端を吊り上げた。
「なるほどな。やってみるか。」
そう言うと、飛燕は一気に馬で駆け出した。
「貴様ら紅蓮軍の術など、俺には効かんぞ!」
戦場に飛燕の挑発が響き渡る。
岳烈が顔を歪めた。
「……小賢しい真似を!」
彼は周囲の術師たちに命令を下した。
「全術師、火炎を放て!あの愚か者を焼き払え!」
「はっ!」
紅蓮軍の術師たちは次々と詠唱を始めた。
燃え盛る業火が、空を覆うように膨れ上がっていく。
トウガは、ニヤリと笑った。
(よし……かかったな。)
トウガは腰の袋から、小さな玉を取り出した。
直径5センチほどの黒い球体。
それは、金属の殻で覆われた球形の小さな爆薬だった。
(金属片と硝石、それに木炭と硫黄を混ぜ、強化圧縮……)
彼は錬金術で、その中身を極限まで濃縮させていた。
さらに、内部には細かい鉄片を仕込んである。
爆発時に飛び散り、まるで散弾銃のように敵兵を貫く仕掛けだった。
「飛燕!これを奴らに向けて投げつけてくれ!」
飛燕はトウガから爆薬の球を受け取ると、じっとそれを見つめた。
「……お前の錬金術、信用するぞ。」
そして、力強く投擲!
シュッ!
黒い球体は弧を描きながら飛び、紅蓮軍の中央部へと落ちていく。
コロ……コロ……
黒い球は地面を転がり、紅蓮軍の兵士たちの足元で止まった。
「……ん? 何だ、これ?」
一人の兵士が、不審げにそれを見下ろす。
——その瞬間だった。
「——火炎放射!!」
紅蓮軍の術者たちが、一斉に火炎の術を放った。
燃え盛る炎が空を覆い、そのまま戦場を焼き尽くさんとする——
——が、違った。
炎が、黒い球体に触れた瞬間——
ボォンッ!!
ドォォォォン!!
爆発音が轟き、衝撃波が周囲に広がった。
「——ッ!?」
紅蓮軍の術者たちが、吹き飛ばされる。
地面が揺れ、黒煙が戦場を覆った。
「ぐあああ!!」
「何だこれは!? 何が起こった!?」
——それは、爆炎の罠だった。
トウガの作った爆薬が、紅蓮軍の炎によって引火し、凄まじい爆発を引き起こしたのだ。
爆炎の渦が、紅蓮軍の中央部を完全に飲み込んでいく。
岳烈は目を見開き、絶望の表情を浮かべた。
魏煉が戦場の光景を見つめ、呆然と呟く。
「これは……炎の術を、逆に利用されたのか……?」
紅蓮軍の誇る炎が、自分たちを滅ぼす業火となった。
戦場を覆う黒煙の向こう、紅蓮軍の陣形は完全に崩れていた。
「飛燕!」
トウガの声に、飛燕はすぐさま反応する。
「なんだ!」
「道を開く。あんたの部隊、すぐに突撃できるか?」
飛燕は、軽く鼻を鳴らした。
「いつでもいけるぞ!」
トウガは無言で手を前に突き出す。
——錬金術!
ゴゴゴゴ……!!
巨大な岩の壁が、まるで砂のように崩れ始める。
それはまるで「道を開く」ように、中央の突破口が生まれていった。
紅蓮軍の兵士たちは、突如として現れた巨大な裂け目に驚愕する。
「な、何だこれは!? 壁が……消えた!?」
トウガは、星辰盤の駒を指で押しながら静かに呟いた。
「さあ……“中飛車”だ。」
「——飛燕軍、突撃!!」
飛燕が剣を振りかざし、馬を駆る。
「おおおおおおお!!」
彼の背後から、精鋭の騎馬兵が一気に駆け抜ける!
紅蓮軍の中央部へ向かい、まるで矢のように突き進んでいく。
混乱し、統率を失った紅蓮軍の兵士たちは為す術もなく——
「ぐあああ!!」
「退け!退けええ!!」
彼らは完全に蹂躙された。
「……っくそぉ!!」
岳烈は歯ぎしりしながら、紅蓮軍の中央が崩壊していくのを見つめていた。
「もはや、持ちこたえることはできん。」
魏煉が、冷静に戦場を俯瞰していた。
紅蓮軍の中央はすでに消滅。
残ったのは、戦意を喪失した兵士たちのみ。
「俺たちがこれ以上残れば、討ち取られるだけだ。」
岳烈は拳を握りしめた。
「だが……!」
「……ここで死ぬのが貴様の望みなら、そうすればいい。」
魏煉はそう言い放ち、馬を向けた。
「俺は生きるぞ、岳烈。」
岳烈は、数秒だけ彼を睨みつけた。
そして、深く息を吐いた。
「……俺もだ。」
「なら、退くぞ。」
魏煉と岳烈は、無言のまま馬を走らせた。
戦場をあとにしながら、岳烈は振り返る。
(おのれ蒼天……次こそは……!)
静かに、彼は復讐を誓った。
「やった!やったぞ!!」
蒼天軍の兵士たちが、勝利の雄叫びを上げる。
「紅蓮軍が撤退していく!」
「俺たちの勝ちだ!!」
銀盛がゆっくりと剣を鞘に収めた。
「……ふむ。悪くない。」
白嶺も、血に濡れた槍を地面に突き立てる。
「まさか、ここまで圧勝できるとはな。」
李玄はトウガの方を見つめ、静かに微笑んだ。
「……驚いたぞ。」
その言葉には、純粋な賞賛と興味が滲んでいた。
周囲を見渡せば、蒼天軍の兵たちが歓喜の声を上げ、勝利を称え合っている。
戦場には、蒼天の軍旗が高々と翻っていた。
それに対し、紅蓮軍の軍旗は、爆煙とともに地へと落ち、血と泥にまみれていた。
風が吹き、戦場に散らばる塵と火の粉を巻き上げる。
トウガは、深く息を吐いた。
(終わった……か。)
初めての戦場、初めての勝利。
だが、胸の奥にあるのは高揚でも安堵でもなく、むしろ冷静な感覚だった。
——将棋の勝ち筋を見つけ、それを着実に実行しただけ。
ただ、それだけのことだった。
トウガは、血と硝煙の匂いが染みついた軍服の袖を軽く払った。
「まるで、知略の将のようだな。」
ふと、白嶺が腕を組みながら皮肉めいた声を投げた。
「……素人の策にしては、出来過ぎだ。」
トウガは肩をすくめた。
「ただの運かもな。」
「……謙遜か? それとも本気で言っているのか?」
白嶺の問いには答えず、トウガは戦場をもう一度見渡した。
飛燕が馬上で高々と剣を掲げている。
「勝ったぞォ!!」
兵たちの歓声が、それに応えるように響き渡った。
勝利の余韻が、蒼天軍の陣内に満ちていく。
その光景を見ながら、李玄が静かに口を開いた。
「——蒼天国の歴史に、新たな戦いの幕が開いたな。」
トウガは何も答えず、ただ風に舞う砂煙を見つめていた。
「負傷者を運べ! 戦場を整理しろ!」
銀盛の命令が飛ぶ。
戦の興奮も冷めやらぬ中、兵士たちは戦後の処理に追われていた。
捕虜となった紅蓮軍の兵士たちは、縄で縛られ、蒼天の陣営へと連行されていく。
「紅蓮軍の残党は散り散りになって逃げていったな。」
白嶺が腕を組みながら呟く。
「だが、紅蓮の本軍はまだ健在だ。これで全てが終わったわけではない。」
「……ああ。」
李玄も同意するように頷いた。
「紅蓮は簡単にこの敗北を受け入れる国ではない。次の戦では、より苛烈な策を仕掛けてくるだろう。」
トウガは黙ってその言葉を聞きながら、地面に転がる紅蓮軍の旗をじっと見つめた。
燃え尽きた赤い布が、まるで敗北の象徴のように見える。
(今回の勝利は、あくまで序章……か。)
トウガは無意識に拳を握った。
夕陽が地平線の彼方へと沈み、空は茜色に染まっていた。
戦の喧騒が消え、代わりに静かな風が吹く。
「そろそろ本陣に戻るぞ。」
李玄が兵たちに指示を出す。
トウガもまた、最後にもう一度戦場を振り返った。
焼け焦げた地面。
転がる武器と、散乱した紅蓮軍の遺体。
これが戦場というものなのか。
(……俺は、この世界でどこまでやれるんだろうな。)
そんな考えが、ふと脳裏をよぎる。
だが、今はまだ立ち止まる時ではない。
彼は静かに踵を返し、蒼天軍の本陣へと歩き出した。
この戦いは、まだ始まったばかりなのだから——。