第6話「崩れゆく戦陣」
「——伝令! 銀盛将軍に急報!」
乾いた大地を駆け抜け、一人の伝令兵が銀盛軍の陣地へと飛び込んだ。
鎧は砂埃にまみれ、額には汗が滲んでいる。
「何事だ?」
陣幕の奥から、堂々たる体躯の男が現れた。
蒼天五覇将の一人——銀盛。
彼は険しい表情で伝令兵を見下ろし、その横では副官たちが不安げに言葉を待っていた。
伝令兵は深く息を吸い、叫ぶように報告する。
「本陣より命令! 全軍、戦線を離脱し、即時後退せよ!」
「……なんだと?」
銀盛の顔が険しくなる。
副官の一人が、驚いた声を上げた。
「撤退だと? 何を言っている! ここで踏みとどまらなければ、紅蓮軍はさらに前進してくるぞ!」
「そうだ! 我々が退けば、城に迫るのは時間の問題だ!」
銀盛は腕を組み、伝令兵を鋭く睨む。
「……誰の命令だ?」
「李玄軍師より、作戦行動として正式に命令が下されました。」
「……李玄が?」
銀盛は低く唸った。
「バカな……何を考えている?」
「作戦の詳細は、本陣で直接伝達するとのこと!」
伝令兵は息を整えながら続ける。
「軍師殿の言葉を正確に伝えます。『銀盛将軍、これより作戦を開始する。今は後退せよ。』」
静寂が広がった。
銀盛はじっと戦場を見つめていた。
紅蓮軍がじわじわと前進してくるのが見える。
その視線を振り切るように、彼は短く命じた。
「……全軍、後退!」
「し、しかし——!」
「命令だ。」
その低い声に、誰も逆らうことはできなかった。
「戦場で命令を無視する者に、勝利はない。」
銀盛は剣を鞘に戻し、振り返る。
「本陣と合流し、李玄の狙いを聞く。」
副官たちは渋々頷き、部隊に撤退の号令を下した。
「全軍、陣を整えつつ後退せよ! 紅蓮軍に背を見せるな!」
兵たちは戸惑いながらも、銀盛の指示に従い、ゆっくりと後退を始める。
その様子を、遠くから紅蓮軍が不敵な笑みを浮かべながら見ていた。
紅蓮軍本陣。
「——ほう?」
戦場を睨みながら、魏煉は薄く笑った。
「蒼天軍が撤退を始めたようだな。」
その横で、岳烈が豪快に笑う。
「最弱の国はまさかここまで脆いとは!」
彼は戦場を見渡し、戦旗がゆっくりと後退していくのを眺めながら言った。
「銀盛という男、意外と大したことはなかったようだ。」
「……うーん。」
魏煉は不快そうに腕を組んだ。
「何か気になることでも?」
岳烈が眉を上げると、魏煉はじっと蒼天軍の陣形を見つめた。
「撤退……にしては、妙に整然としている。」
「負け戦を認めた以上、混乱するよりはまともな撤退をするのが普通だろう?」
「いや、それにしても、だ。」
魏煉は星辰盤に視線を落とし、何かを計算するように指でなぞる。
「……策を仕掛けてくる可能性は?」
「策?」岳烈は鼻で笑った。
「蒼天軍が? はは、ありえん。連中は我々の前に立つことすらできず、尻尾を巻いて逃げ出したんだ。策などあるものか。」
魏煉は無言で戦場を見つめる。
「……だといいがな。」
岳烈は腕を組み、戦場を見下ろしながら言う。
「いい機会だ。追撃し、あの銀盛を討ち取る。」
「……まだ様子を見るべきだ。」魏煉は慎重に言った。
「バカを言うな。」
岳烈は魏煉の肩を強く叩いた。
「勝っている時に攻めねば、戦の意味がないだろう?」
魏煉は険しい表情を浮かべながらも、岳烈の性格を知っていた。
ここで止めることはできない。
「……ならば、せめて部隊の配置を慎重にしろ。」
魏煉は最後の忠告をしつつも、追撃の流れは止められないと悟っていた。
「全軍、前進!」
岳烈の命令が響き渡る。
紅蓮軍は、撤退する銀盛軍を討つべく、戦場へと踏み込んでいった——。
乾いた大地を踏みしめ、銀盛軍は本陣へと帰還した。
本陣の周囲には、戦場から戻った兵たちが集まり、ざわめきが広がっていた。
「銀盛将軍が戻ったぞ!」
その声が上がると、本陣の幕舎から李玄が現れた。
彼は落ち着いた表情で銀盛を迎える。
「無事で何よりだ、銀盛殿。」
銀盛は李玄を鋭く睨みつけると、そのまま歩み寄る。
「……説明してもらおうか。」
低い声でそう言うと、周囲の兵たちは息を呑んだ。
李玄は微笑を浮かべながら、星辰盤を指でなぞる。
「話はここで。」
幕舎の中へと銀盛を誘い、軍議の場へと向かった。
————
「——馬鹿げている!」
銀盛が星辰盤の盤面を見つめながら、声を荒げた。
「そんな策、実際に機能するのか!?」
彼の視線の先には、一人の青年が座っていた。
松風闘雅——異世界からの来訪者。
トウガは無表情のまま、星辰盤を見つめている。
「策の概要は理解した。だが、これは……」
銀盛は信じられないといった表情で、李玄を見た。
「このどこの馬の骨とも知れぬ男の策を、本気で実行するつもりか?」
李玄は微笑を崩さない。
「そうです。」
「お前まで冗談を言うな!」
銀盛は拳を握りしめた。
「俺は戦場での経験がある! こんな奇策、うまくいくはずがない!」
「では、他に策がありますか?」
李玄が静かに問いかけると、銀盛は言葉に詰まった。
「……。」
「撤退した以上、ここで敵を迎え撃つしかありません。」
李玄はゆっくりと星辰盤をなぞり、駒を動かす。
「これは、戦況を逆転させるための一手。」
「……。」
銀盛はしばらく星辰盤を睨んでいたが、やがて深く息を吐いた。
「……分かった。」
低く言うと、拳を緩めた。
「やるしかない、ということだな。」
戦場に不気味な静けさが訪れていた。
銀盛軍が撤退し、紅蓮軍が追撃のために前進を始める中、蒼天軍本陣では密かな準備が進められていた。
「全員、配置につけ。」
李玄の号令のもと、飛燕軍と錬金術班は、錬成した砂壁の中に身を潜めた。
トウガも、その中にいた。
「……本当にここで待ち伏せるのか?」
錬金術班の一人が、不安そうに尋ねる。
「そうだ。」トウガは短く答える。
「紅蓮軍が、銀盛軍と白嶺軍に誘導され、中央を開ける。それを待つ。」
「だが、敵が中央にどれだけ残るか分からんぞ。」
別の兵士が声を潜めて言う。
「中央がガラ空きにならなければ、俺たちの奇襲は成立しない。」
「大丈夫だ。」
トウガは静かに答えた。
「敵の心理を読めば、紅蓮軍は確実に左右へ分断される。」
「なぜ断言できる?」
「俺が将棋のプロだからさ。」
その言葉に、錬金術班の兵たちは一瞬唖然としたが、すぐに小さく笑った。
「将棋?プロ?……お前、変な奴だな。」
「まあな。」
トウガは星辰盤の盤面を思い浮かべながら、目を閉じた。
「勝負はすでに始まっている。」
戦場では、銀盛軍と白嶺軍が左右に分かれ、じりじりと後退していた。
紅蓮軍の岳烈は、戦場を見渡しながら不敵な笑みを浮かべる。
「なんだ? もう戦意を喪失したか?」
彼は高らかに笑い、軍勢の先頭に立って声を張り上げた。
「よし、奴らを仕留めろ! 全軍、突撃!」
紅蓮軍の兵たちが一斉に雄叫びを上げ、前進を開始する。
「……いいぞ。」
李玄が小さく呟いた。
紅蓮軍は、目の前の敵を追い詰めることに夢中になり、中央の陣形を緩めていた。
「まさに……思った通りだ。」
トウガの読み通り、紅蓮軍は銀盛軍と白嶺軍を左右に追い詰めようとし、中央の部隊の人数が次第に減っていく。
(これで……もうすぐ、敵の中央が空く。)
トウガは拳を握りしめながら、静かにその瞬間を待った——。
紅蓮軍の突撃は、勢いを増していた。
銀盛軍と白嶺軍が後退し、紅蓮軍は左右から包囲する形で攻め込んでいた。
「もう一押しだ! 一気に潰せ!」
岳烈が雄叫びを上げ、紅蓮軍の士気は最高潮に達していた。
しかし——
「今だ!」
李玄の号令が響く。
次の瞬間——
ドゴォォォォォン!!
大地が揺れた。
「——ッ!?」
紅蓮軍の前線の兵士たちが、足元の異変に気付いた瞬間、頭上から巨大な岩が降り注いだ!
ゴゴゴゴゴゴ……!!
錬金術によって支えられていた砂壁が一斉に崩れ、その奥に埋め込まれていた岩塊が、紅蓮軍の陣に直撃する!
「ぐわああああッ!!」
「う、うわあああ!!」
悲鳴が次々と上がる。
紅蓮軍の前線が、一瞬にして大混乱に陥った。
突撃隊の最前線が瓦礫に埋まり、隊列が崩れる!
「な、何が起こった!?」
岳烈が目を見開く。
しかし、これはまだ始まりに過ぎなかった。
「やった! 罠が決まったぞ!」
「敵が崩れた!」
蒼天軍の陣地から、歓声が沸き起こった。
銀盛が壁の上から戦場を見下ろし、拳を握りしめる。
「はっはっは!……まさかうまくいくとはな!見事だ。」
白嶺が腕を組みながら笑う。
「これは……まさか。」
「これほど見事に決まるとは!」
飛燕も、驚いたように笑いながら頷く。
兵士たちも歓声を上げ、この一撃が戦局を変えたことを確信していた。
「これで紅蓮軍は一気に混乱する!」
「反撃のチャンスだ!」
李玄は冷静に戦場を見渡し、深く頷いた。
「よし、この機を逃さず、次の手を打つて。」
その言葉に、兵士たちはさらに士気を高めた。
「今だ! このまま押し切るぞ!」
銀盛が叫ぶと、蒼天軍の兵士たちが一斉に武器を構えた。
「敵が崩れた今、攻め込めば完全に勝機を掴める!」
白嶺が即座に頷く。
「この機を逃せば、敵が立て直す時間を与えるだけだ!」
「紅蓮軍を蹴散らすぞ!」
「おおおおお!!」
兵士たちの轟くような声が戦場に響き渡る。
紅蓮軍は未だ混乱の渦中にあった。
岳烈は崩れ落ちた陣を見渡しながら叫んだ。
「な……何をしている! 立て直せ! 突撃を——!」
しかし、彼の声は兵士たちに届かなかった。
兵士たちは瓦礫と砂煙の中で、何が起こったのかも理解できず、ただ戦場の混乱に飲み込まれていた。
紅蓮軍の士気が揺らいでいる。
この一瞬が、勝敗を決める。
トウガは、じっと戦場を見つめながら静かに呟いた。
「……まだだ。」
飛燕が彼を振り返る。
「何を考えている?」
トウガはニヤリと笑った。
「次の策を仕込む。……現代の科学を見せてやるよ。」
その言葉に飛燕の目が鋭く光る。
「現代の……科学?」
「戦場に、新しい“手”を打つ。」
風が吹き抜ける中、戦の天才が仕掛ける次の一手が、静かに動き始めた——。