第5話「砂塵の防壁と隠された一手」
戦場を見下ろす紅蓮軍の本陣で、副将・岳烈が余裕の笑みを浮かべていた。
彼の視線の先には、遠くに広がる蒼天軍の陣地。
「最弱の国と聞いていたが、こうまで脆いとはな。」
岳烈は豪快に笑いながら、軍議の席に腰を下ろした。
「火攻めの準備は万端。このまま一気に城壁を焼き払えば、連中に逃げ場はない。」
彼の隣で静かに頷いたのは、紅蓮軍の戦術参謀・魏煉。
手元の軍略盤をじっと見つめながら、ゆっくりと口を開いた。
「蒼天は元々、武力に乏しい国。名のある将も少なく、まともに対抗できるのは五覇将くらいのものだ。」
「だが、その五覇将のうち、都を守る二人と砦を守る一人は動けぬ。」
「すでに数で圧倒している。残るは銀盛と飛燕、そして……軍略の才もない無能どもだけか。」
岳烈は鼻で笑った。
「となれば、もう勝ったも同然だな。」
「楽観的すぎるな、お前は。」魏煉は冷ややかに言い放つ。
「戦場とは、最後まで何が起こるかわからんものよ。」
岳烈は一瞬考えかけたが、すぐに笑い飛ばす。
「だが、この戦に負ける要素がどこにある?」
「……いや、まさかな。」
紅蓮軍の本陣では、勝利を確信した空気が流れていた。
◇ ◇ ◇
蒼天の軍議の場に、張り詰めた空気が漂っていた。
「……なるほどな。」李玄がゆっくりと頷く。
「紅蓮軍を左右に誘導し、中央に空白を作る。その隙を突いて飛燕軍が奇襲を仕掛ける。確かに理には適っている。」
「ただし、紅蓮の連中が思うように動いてくれるかどうかは別問題だ。」白嶺が腕を組む。
「だからこそ、強制的に動かす。」
トウガは静かに言いながら、指で星辰盤の盤面をなぞった。
「俺の錬金術で、紅蓮軍の進軍ルートを操作する。」
「具体的には?」李玄が尋ねる。
「紅蓮軍の正面に、壁を作る。」
「……!」
軍議の場がどよめいた。
「いや待て、そんなものを作ったところで……」
「ただの防壁じゃない。」トウガは言葉を続けた。
「紅蓮軍が左右に分かれざるを得ないような形で、壁を構築する。」
「分断……」白嶺が低く呟く。
「つまり、紅蓮軍は中央を突破できず、左右どちらかに流れ込むしかなくなる。」
「ふん……興味深い策だな。」李玄が微笑む。
「だが、それだけでは決定打にならんぞ。」
「当然。」トウガは星辰盤の中央に指を置いた。
「壁を作るのは序盤の布石に過ぎない。その後が本番だ。」
「しかし......そんなことが本当にできるのか?」
白嶺が疑いの目を向ける。
「壁を作るって簡単に言うが、戦場全体を動かせるほどの大規模な錬金術は、ただの錬金術師には到底無理だぞ。」
「確かに、戦略としては面白い。」飛燕も腕を組む。
「だが、それを実現できるだけの錬金術の腕が、お前にあるのか?」
トウガは少しだけ笑った。
「そう思うよな。」
「……?」
「俺は神水を聖神水に錬成したよな?」
「……そうじゃな。」趙が頷く。
「その時、俺は何をしたと思う?」
趙は少し考え込む。
「……物質の組成を分解し、新たな性質を持たせる錬成をした……とでも言えばいいのか。」
「そう。」トウガは星辰盤の中央を指で示す。
「つまり、錬金術で物質の“状態”を変えることができるなら……固体の壁を形成することも、理論的には可能だろ?」
「む……」
趙は黙り込む。
「だが……水と固体の壁では、難易度が違いすぎる。」白嶺がなおも反論する。
「確かに、いきなり巨大な壁を作るのは無理だろうな。」トウガは頷く。
「だから、“砂”を使う。」
「砂……?」
趙が驚いた表情でトウガを見た。
「この戦場はほとんどが乾燥した大地だ。」
「周囲の砂を圧縮し、密度を上げることで、一時的な“壁”を作ることができる。」
趙が驚きに目を見開く。
「……確かに、理論上は可能だが……」
「やったことはないが、やるしかないだろ?」
トウガの目が光る。
趙はしばらく考え込んでいたが、やがて小さく息を吐いた。
「……砂を圧縮して壁を形成するか。」
彼の視線がトウガに向けられる。
「お前さんがそこまでの錬金術を使えるかどうかは、実際に試してみないと分からんが……少なくとも、理屈としては可能じゃろう。」
「ふん……」
白嶺が腕を組み、厳しい目つきでトウガを睨んだ。
「だが、砂を圧縮するだけで戦局をひっくり返せると思うなよ。」
「もちろん、これだけじゃ不十分だ。」
トウガは落ち着いた口調で言った。
「壁で紅蓮軍を左右に分断し、中央を意図的に空ける。そこで混乱させ、さらにもう一手加える。」
「もう一手……?」
飛燕が問いかける。
「中央を意図的に開けた状態で、紅蓮軍をさらにこちら側へ誘い込む。そして……」
トウガは星辰盤の中央の駒を指で弾いた。
「そのタイミングで、壁を破壊する。」
軍議の場に緊張が走る。
「……つまり、」
李玄が目を細めた。
「紅蓮軍が左右に分かれた状態で、一気に挟撃するということか。」
トウガはゆっくりと頷いた。
「壁が崩れた瞬間、紅蓮軍は不意を突かれ、左右の部隊と連携を取ることができなくなる。そこを銀盛軍と白嶺軍で一気に叩く。」
「そして……」
星辰盤の中央に隠していた飛燕軍の駒を、敵本陣へと進めた。
「飛燕軍が、中央突破を仕掛ける。」
「——これが俺の中飛車だ!」
軍議の場に、静かな緊張が漂った。
「中……飛車……。」
李玄が星辰盤をじっと見つめながら、小さく笑う。
「奇策だが、理に適っている。」
「だが……」白嶺がまだ渋い表情を浮かべる。
「作戦が成功するかどうかは、お前の錬金術次第だぞ?」
「やるしかないさ。どういうわけかは知らないが星辰盤を見てから神力が沸いてくるみたいなんだ」トウガは軽く肩をすくめた。
飛燕が腕を組み、静かに言った。
「戦場に出れば、失敗は許されんぞ。」
「それくらいは分かってる。」
トウガは星辰盤を見つめながら、すでに頭の中で戦局を組み立てていた。
「……面白い。」
李玄が静かに呟いた。
「この策、乗ってみるか。」
白嶺はまだ納得しきれていない様子だったが、李玄が決めた以上、反対する理由はなかった。
「やるなら徹底的にやれよ。」
そう言いながら、彼も星辰盤の駒を動かした。
「さて……準備を整えようか。」
◇ ◇ ◇
蒼天軍の陣営では、急ピッチで準備が進められていた。
トウガは錬金術を用い、神水を聖神水へと錬成していく。
「……これも慣れたもんだな。」
湧き上がる神力を手のひらに集中させる。
目の前の水は次第に澄み渡り、青白く輝き始めた。
「成功だ。」
「すげぇな……」兵士たちが驚きの声を上げる。
「これがあれば、戦場での持ちこたえが格段に違ってくるな。」
白嶺が完成した聖神水の瓶を受け取り、頷く。
「これで各部隊に配布しよう。」
「頼んだ。」
トウガは次の作業に取り掛かった。
「……よし、次は壁作りだ。」
トウガの指示のもと、錬金部隊の術師たちが集まり、各自の持ち場についた。
「まずは地面を均して、基礎を固める。」
趙が鋭い目つきで全体を見渡しながら言う。
「しかし、砂だぞ? こんなもので壁を作れるのか?」
ある術師が不安げに呟いた。
「できるかどうかじゃない、やるしかないんだよ。」トウガが短く言い放つ。
トウガは大地に手を当て、意識を集中させた。
神力を込め、砂の粒子を圧縮して結晶化させる。
「……うおっ!?」
最初の試みで、一部の砂が固まった。しかし、触れるとボロボロと崩れ落ちる。
「やっぱり……ただ固めるだけじゃダメか。」
「うまくいかねぇのか?」 白嶺が腕を組む。
「圧縮だけじゃ強度が足りない。粘結剤がいる。」
「粘結剤……?」
トウガはしばらく考え込んだ。
「神水を混ぜる。」
趙が目を見開いた。
「神水を……? 砂に?」
「砂は元々、土や鉱物の微粒子だ。そこに神水の成分を染み込ませれば、より硬くなるはず。」
「……だが、神水の無駄遣いにならないか?」
「だからこそ、使う量を調整する。」
トウガは掌に神水を垂らしながら、少しずつ砂に馴染ませていった。
そして再び神力を込める。
「……っ!」
今度は、砂が少しずつ結晶化し、手で叩いても崩れないほどの強度を持ち始めた。
「やった……!?」
兵士たちが歓声を上げる。
「まだだ。これを壁の高さまで積み上げないといけない。」
趙破岳がすぐに指示を出す。
「全員、配置につけ! 錬成のペースを崩すな!」
しかし、壁の構築は思った以上に過酷な作業だった。
神水の分量、砂の配分、錬成のタイミング……一つでも狂えば、壁は崩れてしまう。
「もっと慎重にしろ!」「おい、そこが緩いぞ!」「神水が足りん!」
現場から次々と怒号が飛び交う。
「くそ……こんなに難しいとは……」
トウガも額に汗をにじませる。
神水を使いすぎれば、戦場での回復手段が減る。だが、使わなければ壁が脆くなる。
「塩を混ぜろ。」
突然の言葉に、一同が振り向く。
「塩……?」趙が聞き返す。
「塩は水分を吸収する性質がある。それを砂に混ぜれば、神水が均等に馴染み、より頑丈な結晶化が可能になる。」
「……なるほど。」趙はすぐに命じた。
「倉庫にある塩を持ってこい!」
神水・塩・砂のバランスを調整しながら、少しずつ壁が組み上げられていく。
「……いける。これなら。」
トウガが満足げに呟いた。
「やっと壁になったか……。」
白嶺が感心したように壁を叩く。
「よし……! これで、紅蓮軍を左右に分断できる!」
しかし——
トウガは、戦況を見据えながら別の考えを巡らせていた。
(でも、まだ足りない……。)
壁だけでは戦局はひっくり返せない。
——決定打が、必要だ。
トウガは、誰にも言わずに“次の作戦”を考え始めていた。
彼の手元には、小さな鉄片と硝石の粉末。
「作れるかもな。」
夜の闇の中、密かに新たな布石が打たれようとしていた——。