第4話「戦場の一手」
蒼龍城を出発した軍の一行は、前線へ向けて進んでいた。
軍馬の蹄が乾いた土を打ち鳴らし、行軍の音が静かな緊張感を帯びる。
トウガは李玄のすぐ後ろを歩きながら、周囲の兵たちの様子を観察していた。
「……えっと、俺が戦場に行く意味って、本当にある?」
トウガがぼそりと呟くと、隣を歩いていた趙破岳が肩をすくめる。
「聖神水の効果が本物なら、それだけでお前の価値はある」
「いや、そういうことじゃなくて……俺、戦えないんスけど?」
「そこは安心しろ」
低く響く声が割って入る。
振り向くと、そこには黒い軍装を纏った男が馬上からトウガを見下ろしていた。
飛燕——蒼天五覇将の一人。
蒼天国には「蒼天五覇将」と呼ばれる五人の武将がいる。
彼らはそれぞれ異なる戦闘スタイルと能力を持ち、蒼天国の軍事を支える要となる存在だった。
飛燕はその中でも最も俊敏な武将とされ、「影の刃」の異名を持つ。
長槍と軽装の鎧を纏い、戦場を駆け巡りながら敵将を討ち取る戦術を得意とする男だった。
彼は冷静な目でトウガを見下ろし、薄く笑う。
「貴様は戦う必要はない。ただ、後方で我々に役立つものを作ればいい」
飛燕の冷静な言葉に、トウガは視線を上げる。
「それが……さっきの聖神水、ということですか?」
「それだけではない」李玄が口を挟んだ。
「戦場では何が必要になるか分からん。おぬしの錬金術が、どこで役に立つかは未知数だ」
トウガは小さく息を吐く。
「……なるほど」
趙が馬を進め、少しだけ身を乗り出した。
「今はそれでいい。だが、お前さんも実際に戦場を見ておけ。お前さんが何のためにここにいるのか、いずれ分かるであろう」
遠く、地平線の向こうに赤黒い煙が立ち上るのが見えた。
焦げた土の匂いが、乾いた風に乗ってこちらへ流れてくる。
飛燕が小さく呟く。
「紅蓮軍の火攻めか……ひどいものだな」
トウガはその光景をじっと見つめた。
紅蓮軍の火攻めによって、広大な草原の一部が黒く焦げ、焦土と化している。
遠くに見えるのは、煙を上げる村落——かつて人々が暮らしていた場所だ。
「……これが、戦場か」
トウガの呟きに、趙が静かに答える。
「戦の現実じゃ。紅蓮軍はまず土地を焼き払い、補給路を断って敵を追い詰める」
「だから、蒼天は劣勢なのか?」
「ああ。この火攻めを止めなければ、蒼天はじわじわと力を削られ、やがて滅びる」
トウガは炎の向こう側を見つめる。
焦げた地面の向こうに、無数の影が見えた。
紅蓮軍の兵士たちだ。彼らは火攻めを仕掛けながら、じわじわと前線を押し上げている。
「近いな……」飛燕が低く呟く。
「このままでは、本陣にも火が及ぶだろう」
「李玄、作戦は?」白嶺が問いかける。
「陣営に戻って決める」
李玄は馬を返し、背後の丘へと視線を向けた。
「まずは、戦況を整理しなければならん」
李玄の指示のもと、一行は陣営へと引き返した。
蒼天軍の本陣は、丘の上に築かれた仮設の要塞だ。
幕舎が並び、負傷兵の手当てが行われる一方で、伝令兵たちが慌ただしく動き回っている。
トウガは周囲を見渡しながら、軍の規模を改めて実感した。
「……思っていたよりも、ずっと大きな組織なんだな」
「戦争とは、兵だけでなく、物資や指揮系統も含めた総力戦だ」
趙が歩きながら答える。
「前線だけでなく、こうした後方の支えがなければ、軍は一瞬で崩れる」
その言葉に、トウガは小さく頷く。
彼の中で、盤面が少しずつ形を成しつつあった。
「李玄様、軍議の準備が整いました」
幕舎の前で待機していた兵士が敬礼する。
李玄は頷き、一行を連れて中へ入った。
そこには、一つの大きな机が置かれていた。
その上に広げられていたのは、戦場を模した盤面——星辰盤だった。
幕舎の中央に置かれた机の上には、木製の盤が広がっていた。
盤上には細かく区切られた升目があり、そこに駒のようなものが並んでいる。
トウガは思わず足を止めた。
「……これは?」
「星辰盤だ」
李玄が言った。
「軍議で戦略を練るために使う。紅蓮軍の布陣や、こちらの戦力を視覚化し、より正確な判断を下すためのものだ」
トウガは盤面に釘付けになった。
「将棋……みたいだ」
そう呟きかけて、すぐに言葉を飲み込む。
「この星辰盤を用いて、戦場の動きを予測し、勝利への道を見出す」
李玄は静かに駒を動かしながら続ける。
「紅蓮軍はこの丘陵地を利用し、火攻めを強化するつもりだろう。だが、彼らの進路を制限できれば、こちらにも勝機が生まれる」
幕舎の中には緊張感が漂っていた。
飛燕や白嶺も黙って星辰盤を見つめている。
トウガもまた、その盤上の駒の動きをじっと見つめていた。
(これは……ただの盤ではない。本物の戦がここにある……)
トウガは盤面をじっと見つめた。
李玄が駒を動かすたびに、敵の駒が自動的に動き、紅蓮軍の次の一手を示す。
趙が腕を組みながら言う。
「星辰盤の予測が絶対ではないが……紅蓮軍も同じものを使い、こちらの動きを予測している」
「ならば、我々の策が読まれている可能性もあるな」
白嶺が呟く。
「どの程度、正確な予測ができるのか?」
「試してみるしかない」李玄は言い、ある駒を動かした。
すると、紅蓮軍側の駒がすぐに対応する形で動く。
「……やはり、読まれているな」飛燕が低く言った。
「このままでは、やつらの思うつぼだ」
トウガはそのやり取りを静かに聞いていた。
だが、彼の脳内では別のことが起こっていた。
(これ、やっぱり……将棋電脳戦と同じだ)
過去の記憶——AIと対局したあの日々。
機械的な最適解を出してくるコンピューターに対し、人間はどのように対応するべきか。
彼は何度もそれを試し、そして——ある答えに辿り着いた。
(星辰盤を使うだけじゃ、勝てない。相手の裏をかくしかない——)
星辰盤の上で、紅蓮軍の駒がじわじわと前線を押し上げていく。
李玄が駒を動かすたびに、それに応じて敵の駒も動き、攻防の形が変わる。
(まるで、AIの対局みたいだ……)
トウガは目を細める。
相手の動きを読み、こちらの一手を予測し、最適な防御を展開する。
AIとの将棋電脳戦を思い出す。
あの時、自分が対峙したのは、人間ではなく——最適解を出し続ける無機質な機械だった。
「結論を出す」
李玄の声が響く。
「紅蓮軍の火攻めを逆手に取る。火の道を制御し、炎をこちらの意図した方向に誘導する」
「しかし、それには膨大な神力が必要だ」
趙が厳しい表情で言う。
「神水を使うにしても、限りがある。術師たちの力も消耗が激しく、長時間の維持は不可能だ」
「ならば、どうする?」白嶺が腕を組む。
「神力の補充手段がなければ、この作戦は立案だけで終わる」
「別の方法を考えなければならん」李玄が星辰盤をじっと見つめる。
盤上では、紅蓮軍の駒がじわじわと前線を押し上げている。
「紅蓮軍は攻めの手を緩めない。我々が対抗策を打ち出せなければ、数日以内にこの陣は崩れるだろう」
「……それを防ぐための策は、あるのか?」飛燕が問う。
「今のところ、神力を大幅に補充する手段はない」趙破岳が言う。
「つまり、神力を必要としない別の方法で対抗するしかないということか?」白嶺が険しい表情を浮かべる。
トウガは無言のまま、星辰盤を見つめていた。
このままでは、紅蓮軍のシミュレーション通り、蒼天は敗北する。
(星辰盤は、戦場の未来を予測している……)
李玄が駒を動かすたびに、敵の駒も動く。
(まるで、将棋電脳戦……)
トウガの脳裏に、過去の記憶がよぎる。
プロ棋士時代、AIと対戦したときの感覚。
AIは無数のデータを分析し、最適解を導き出す。
人間は、その流れに対してどう戦うかが鍵だった。
「作戦は決定する。準備に入れ」
沈黙が落ちる。
星辰盤の上では、紅蓮軍がじわじわと包囲網を広げていた。
トウガは目を閉じた。
(もし、これが将棋なら……俺はどう動く?)
彼は静かに拳を握る。
沈黙が落ちる中、トウガはじっと星辰盤を見つめていた。
(このままじゃ、読まれてる……)
紅蓮軍の動きは、まるでAIの最適解のように正確だった。
だが、相手が予測通りに動くなら——逆手に取れる。
トウガはゆっくりと口を開いた。
「……こういう手はどうだろうか」
そう言いながら、彼は盤上の駒に手を伸ばした。
そして、紅蓮軍の布陣を崩すように、ある一手を指した。
「——何をする!」
突然、幕舎内の空気が張り詰めた。
白嶺が立ち上がり、怒りを露わにする。
「軍略を知らぬ者が、勝手に駒を動かすな!」
「貴様、戦場が遊びだとでも思っているのか!」飛燕が鋭く睨む。
趙も呆れたようにため息をついた。
「素人が口を挟むものではない。遊びとは違うのだ」
トウガは冷ややかな視線を一身に浴びた。
(……まあ、そうなるよな)
だが、その時、星辰盤の駒がわずかに動いた。
紅蓮軍の陣形が、わずかに変化し始める。
「……待て」
李玄が低く呟いた。
幕舎の空気が凍りつく。
「星辰盤の動きが……変わった?」白嶺が目を細める。
「どういうことだ?」飛燕が盤面を覗き込む。
トウガは星辰盤の変化をじっと見つめていた。
(やはり、敵も星辰盤を使ってる……なら——)
「おぬし……何者なのだ?」
李玄は、初めてトウガに真剣な目を向けた。