第3話「戦場を変える力」
蒼天国と紅蓮国の戦は、日に日に激しさを増していた。
国境付近の村や拠点は次々と紅蓮軍に焼き払われ、蒼天軍は防戦一方の状況に追い込まれている。
紅蓮軍は独自に編み出した「炎の術」を駆使し、攻め込んだ土地を焼き尽くしながら進軍する。
焦土と化した地には何も残らず、食糧も兵站も確保できなくなるため、蒼天軍は反撃の機会すら得られない。
「このままでは、王都にたどり着くのも時間の問題だ……!」
戦略会議の場で、将軍の一人【飛燕】が憤りながら拳を叩きつける。
「紅蓮軍の炎を防ぐ手段がなければ、我々は守ることすらできぬ!」
「炎を無力化する策はないのか?」
「……術師の防壁では限界がある。万が一、王都まで攻め込まれれば——」
その場の空気は重苦しく、誰もが焦燥感を隠せないでいた。
「対抗策がない以上、この戦は長くは持たん……」
「いっそ、紅蓮に降伏の使者を——」
誰かがそう呟いた瞬間、会議室が凍りついた。
別の将軍が一人【白嶺】立ち上がり、鋭い眼差しで言い放つ。
「それだけは断じて許さん! 我ら蒼天は誇りを持って戦う国だ!」
「しかし、現実問題として……」
「策を探せ! 我らの誇りを失えば、民の未来すら守れぬ!」
それ以上、降伏という言葉を口にする者はいなかった。
沈黙の中、皆が絶望に近い表情を浮かべる。
会議室の沈黙を破ったのは、一人の男の声だった。
「策ならば、まだあるはずだ」
低く響く声に、将軍たちは一斉に振り向いた。
そこに立っていたのは、蒼天国の軍師 李玄 だった。
白嶺が戦略図を睨みながら、低く呟いた。
「李玄、お前の策はまだあるのか?」
会議室の空気が張り詰める中、李玄が静かに口を開いた。
「……火攻めを止める手がない以上、紅蓮軍の戦術を逆手に取るしかない」
将軍たちが彼の言葉に耳を傾ける。
「紅蓮軍の火攻めは、確かに厄介だ。しかし、それを利用すれば、奴らの隙を突くことができる」
「利用……? 何を考えている?」
白嶺が眉をひそめながら尋ねると、李玄は戦略図を指し示した。
「紅蓮軍の炎は、ただの武器ではない。奴らの進軍は、燃え広がる炎に依存している」
「つまり……?」
「火の進行を操り、奴らの本陣を狙うのだ」
一瞬、会議室が静まり返った。
「まさか……」
「紅蓮軍の火攻めを利用するというのか?」
「そうだ」李玄は頷く。
「奴らの炎を意図的に誘導し、地形を利用して紅蓮軍の後方に隙を作る」
「紅蓮軍は火攻めの後に補給が必要になる。その瞬間が最も手薄になる」
「その隙を突き、一気に本陣を急襲する」
「だが、その作戦にはいくつか問題がある」
白嶺が冷静に指摘する。
「紅蓮軍は火攻めを基本戦術としている。炎の進行方向を操作するのは容易ではない」
「そこだ」李玄は戦略図を指でなぞる。
「火の道を制御できる拠点を構築し、意図的に炎を誘導する。そのために、地形を工夫する必要がある」
「たとえば、風向きを計算し、燃え広がる速度を調整できる遮蔽物を配置する」
「さらに、炎の進行を限定的なルートに絞ることで、紅蓮軍が進める道を制御する」
「そうすれば、紅蓮軍の進軍は我々の意図した通りになる」
「ふむ……」白嶺は顎に手を当て、思案する。
「つまり、紅蓮軍にとって有利な火攻めを、我々にとって有利な火攻めに変えるということか」
「そういうことだ」
「だが、遮蔽物や風向きだけで炎を完璧に操れるとは思えん」
飛燕が腕を組みながら言う。
「そこで問題になるのが、"炎を意図的に抑え込めるかどうか"だ」
「その部分に関しては、別の方法を探さなければならない」
李玄は少しだけ間を置いて、ある一人の男へと視線を向けた。
「——趙破岳、お前の力を貸してもらえないか?」
李玄の言葉に、会議室の視線が一斉に趙へと集まる。
彼は少し驚いたように目を瞬かせたが、すぐに表情を引き締め、慎重に問い返した。
「……どういうことでしょう?」
「錬成部隊を使う!」
李玄は戦略図を指でなぞりながら言った。
「錬成部隊の力を活用し、炎を封じるのではなく、意図的に誘導する仕掛けを作る。防火壁や術陣を利用すれば、火の進行をある程度コントロールできる」
「確かに、炎が広がる方向を意図的に誘導できれば、紅蓮軍の進軍を制限できるかもしれません……」
趙は腕を組みながら考え込む。
「ですが、それには膨大な神力が必要になります。錬成部隊の術師たちの力だけでは到底維持しきれません」
「神水を使えばどうだ?」白嶺が尋ねる。
「通常の神水では足りません。備蓄量も限られていますし、錬成に時間がかかる……」
趙は苦々しく答えた。
「それに、術陣の維持には、神水だけでなく術師たちの継続的な神力供給が必要です」
会議室内が静まり返る。
「つまり、この作戦は神力の問題を解決しなければ実行不可能ということか」
李玄は腕を組み、目を閉じたまま考え込む。
すると、趙が少し躊躇いながらも、口を開いた。
「……ですが、まだ実験段階ではあるものの、一つ可能性があります」
「何だ?」李玄が鋭く問いかける。
趙はしばらく逡巡し、静かに言葉を紡いだ。
「最近、あの男が……聖神水と思われるものを生み出したのです」
「聖神水……?」
白嶺が眉をひそめる。
「そんなものが本当に存在するのか?」
趙は静かに頷いた。
「まだ確証はありません。しかし、通常の神水とは明らかに違う特性を持つものが作られました」
「誰が作った?」李玄が鋭く問いかける。
「……異世界から召喚された男です」
再び、会議室内がざわめく。
「まさか……あの役立たずと噂されている者か?」
「奴には戦う力がないと聞いていたが……」
趙はその言葉に眉を寄せつつも、静かに続けた。
「確かにあやつは武人ではありません。しかし、錬成能力は規格外です」
「それが本当に聖神水なら、何ができる?」
李玄が問うと、趙はゆっくりと答えた。
「ほぼ全回復の効果を持つと言われています。術者の神力をほぼ完全に回復させる可能性がある」
「もしそれが本物なら……」白嶺が目を見開く。
「この作戦に必要な神力不足の問題が解決する」李玄が呟く。
会議室の空気が変わった。
李玄は趙を見据え、静かに命じる。
「……トウガのところへ案内してくれ。実際に確かめる必要がある」
李玄の命を受け、趙が立ち上がる。
「分かりました。ご案内します」
会議室の扉が開かれ、重い空気の中、一行は城の奥へと進んでいく。
蒼龍城の深部にある錬金術研究房——そこには、異世界から来た男がいた。
「おっと……随分大勢でのお出ましだな」
薄暗い部屋の片隅で、トウガがのんびりとした口調で呟いた。
李玄は無言のままトウガを見つめ、静かに言う。
「聖神水、本当に効果があるのか試させてもらう」
「聖神水?ああ、あれか...... いいけど、それってどうやって試すつもりだ?」
トウガは肩をすくめながら、そばの瓶を指で軽く弾いた。
「……まずは、安全性を確認する」
趙が慎重な声で言う。
「この液体が本当に神水の上位互換なのか、それとも危険な代物なのか、まだ誰も知らないのだからな」
「毒だったらどうする?」飛燕が冷静に指摘する。
「その可能性もゼロではない。だからこそ、少量ずつ試しながら効果を検証する必要がある」
李玄は頷き、静かに命じた。
「まずは、負傷した兵に試す。もし効果があるなら、戦場で活用できる」
トウガは瓶を差し出しながら、ニヤリと笑った。
「なるほど、じゃあ実験開始ってわけだな?」
トウガが差し出した瓶を、趙が慎重に受け取る。
淡く輝く液体が揺れ、ぼんやりとした神秘的な光を放っていた。
飛燕が腕を組みながら、冷静な声で言う。
「……見た目は神水と変わらんな。しかし、本当にそれが効果を持つかどうかは別の話だ」
李玄は静かに頷き、兵士に命じる。
「負傷兵を連れてこい」
ほどなくして、重傷を負った兵士が部屋へ運び込まれた。
その腕には深い裂傷があり、通常の神水では治癒に時間がかかるような状態だった。
趙が小さく息を吐く。
「……では、試してみよう」
慎重に瓶の口を開け、数滴を兵士の傷口へと垂らす。
淡い光が傷に染み込み、瞬く間に周囲の皮膚が回復し始めた。
それを目にした場の空気が張り詰める。
「……!」
兵士自身が驚いたように腕を動かし、しばらくして目を見開いた。
「痛みが……消えた……?」
趙は目を凝らし、回復の進行を見極める。
「通常の神水とは比べ物にならない速度で治癒が進んでいる……」
李玄がじっとその様子を見つめ、静かに言った。
「……どうやら、本物らしいな」
李玄が静かに言い放つと、部屋の空気が一変した。
飛燕が腕を組みながら、興味深そうに兵士の傷跡を眺める。
「まさか、これほどの効果とはな……」
趙は瓶をじっと見つめ、低く呟く。
「これが本当に安定した錬成物なら……戦場の回復能力を根本から変える可能性があります」
白嶺も深く頷き、李玄へと視線を向ける。
「この聖神水を確保し、錬成を続けられるならば……作戦の成功率が大幅に上がるな」
李玄はトウガの方へ視線を向けた。
「其方が、本当にこれを錬成したのか?」
トウガは少しだけ肩をすくめ、飄々とした口調で答える。
「ああ、なんとなくやってみたらできたんだよな」
その言葉に、趙が思わずため息をついた。
「"なんとなく"でこんなものを生み出せるわけがない……」
「まぁ、俺にもよく分からんが、とにかく結果オーライってことでいいだろ?」
李玄はしばらく黙った後、ふっと口角を上げた。
「……面白い」
そう呟くと、ゆっくりとトウガへと歩み寄る。
「お前を前線へ連れて行く」
李玄の言葉に、トウガの目がわずかに見開かれた。