第1話「落ちこぼれ棋士、異世界へ」
松風闘雅は、虚ろな目で盤上を見つめていた。
勝負はとうに決していた。だが、投了を告げる気力すら湧いてこない。
「……負けました」
かすれた声が静まり返った対局室に響く。目の前の相手──若手の俊英、佐伯翔真が、申し訳なさそうに一礼した。
「ありがとうございました」
淡々とした礼儀正しい声が、闘雅の胸に突き刺さる。
──また負けた。
それも、かつては足元にも及ばないと思っていた若手に、何の抵抗もできずに完敗した。
記録係の「お疲れ様でした」という声も耳に入らない。足元がふらつく。立ち上がるのが億劫だった。だが、いつまでも座っているわけにもいかず、トウガはよろめきながらも立ち上がった。
外に出ると、冷たい夜風が頬を打った。
かつては「天才」と呼ばれた。
幼少の頃から将棋に触れ、6歳で神童と呼ばれ、15歳でプロ入りを果たす。
その勢いのまま、デビュー戦では圧倒的な強さを見せつけ、一時は最年少タイトル獲得すら夢ではないと騒がれた。
──だが、それも過去の話だ。
20代半ばからスランプに陥り、負けが続くようになった。
原因は、慢心か、環境の変化か、プレッシャーか──自分でも分からない。
最初は、すぐに立ち直れると思っていた。
だが、もがけばもがくほど泥沼にはまり、抜け出せなくなった。
「……クソッ……!」
路地裏で拳を壁に叩きつける。鈍い痛みが走るが、それがかえって心地よかった。
どれだけ努力しても、どれだけ研究しても、かつてのような鋭さが戻らない。
才能とは、枯れるものなのか?
将棋しか知らず、将棋にすべてを捧げてきたのに。
負け続ける自分に、存在価値はあるのか?
考えれば考えるほど、トウガは深い闇に沈んでいく。
足元の石を蹴り飛ばし、ふらつく足取りで夜の街を歩く。どこへ向かっているのか、自分でも分からなかった。
そんな時だった。
ふと、足元に奇妙な光が広がるのを感じた。
──いや、違う。
光ではない。
これは──魔法陣?
トウガの足元に、緻密な紋様が浮かび上がる。紅く妖しく輝くその模様は、見たこともない文字を描きながら、徐々に光を強めていく。
「……なんだ、これ……?」
背筋が粟立つ。
逃げなければ──そう思った瞬間、光が強くなり辺り一面が白くなった。
次の瞬間、トウガの意識は闇に呑まれた。
◇
――目を覚ますと、そこは見知らぬ場所だった。
目の前には煌びやかな装飾が施された広間が広がり、高貴な衣をまとった人々が整列している。彼らは皆、驚きと期待の入り混じった表情でトウガを見つめていた。床には見たこともない文字が刻まれた魔法陣がかすかに輝いている。
「――ここは……?」
呟いた声が、異様な静けさの中で響く。
目の前に立っていた壮年の男が、一歩前に進み出た。長い黒髪を後ろで束ね、鋭い眼光を持つ男。威厳を感じさせるその佇まいから、ただの兵ではないことがわかる。
「異世界より来たりし英雄よ! 貴殿の名をお聞かせいただきたい!」
男の言葉を聞いて、トウガは戸惑った。異世界? 英雄? 何を言っているのかさっぱりわからない。
「おいおい、冗談だろ……。俺は英雄じゃないし、ただの棋士だぞ?」
そう答えた瞬間、広間にざわめきが広がった。
「キシ……? それは剣士のことか?」
「いや、そんな武人の名を聞いたことがない……」
「ま、まさか……英雄ではないというのか?」
一気に空気が変わる。先ほどまでの期待に満ちた視線が、一転して疑念と失望へと変わっていくのがわかった。
「……ちょっと待ってくれ。ここはどこなんだ?」
混乱しながらも問いかけるトウガに、先ほどの男が名乗った。
「私は李玄。蒼天国の軍師にして、この召喚の儀を執り行った者だ」
召喚、と聞いてトウガの脳裏に一つの疑問が浮かんだ。
「……召喚? ってことは、俺はここに連れてこられたってこと?」
李玄はゆっくりと頷いた。
「その通り。我が蒼天国は、紅蓮国の侵攻により滅亡の危機に瀕している。我らは国を救うため、異世界から英雄を召喚する術を行使した。」
「異世界から英雄を……?それが俺?」
トウガはもう一度自分の手を見た。特に変わったところはない。だが、確かにこれは夢ではないらしい。
「ちょっちょちょっと待ってくれ!俺はただの将棋指しだ。戦なんてできるわけないだろ?」
「ショーギ……? それは何の技能だ?」
李玄の顔に困惑の色が浮かぶ。
「いや、技能じゃない。将棋は……まあ、簡単に言うと駒を動かす遊びみたいなものだ!遊びではやってないけど」
「遊び……?」
その言葉を聞いて、一瞬だけ李玄の表情が変わった。しかし、周囲の兵士たちは一斉に落胆のため息をついた。
「くそっ、やはり失敗だったのか……!」
「戦えぬ者を召喚してしまうとは……」
「この者では紅蓮に勝てるはずがない!」
広間の空気が一気に冷え込む。
「待ってくれ、勝手に召喚したのはそっちじゃないか!」
トウガが声を上げるが、誰も耳を貸そうとはしなかった。
李玄は深いため息をつき、静かに口を開いた。
「……すまぬが、貴殿には城の一室を用意しよう。今後については、改めて考えねばなるまい」
こうして、期待された英雄のはずのトウガは、一夜にして厄介者となったのだった。
◇
翌朝、トウガは蒼天国の皇宮へと連れて行かれた。
召喚された直後の冷たい扱いには慣れていたが、それでも今日が正式な謁見であることを考えると、少しは状況が好転するのではないかという淡い期待があった。
とはいえ、昨日の李玄や兵士たちの態度からして望み薄であることも理解している。
皇宮の大広間に足を踏み入れると、厳かな空気が張り詰めていた。
玉座には蒼天国の皇帝が座し、その周囲には重臣や将軍たちがずらりと並んでいる。その中には李玄の姿もあった。彼は腕を組み、じっとトウガを観察している。
「近う寄れ」
低く響く声が広間に満ちた。トウガは静かに進み出た。
「我が名は黎明、そなたが我が国の召喚術によって呼び出された者か」
皇帝の声には威厳があり、まるでこの場にいるだけで魂を圧迫されるような感覚を覚えた。だが、トウガは怯まず、頭を下げた。
「は、はい。私は松風闘雅と申します。そちらの召喚術によって、この世界に参りました。しかし、私はただの棋士であり、この世界では何の役にも立たないかもしれません。できれば、元の世界に返していただけないでしょうか。」
「ふむ……残念ながらそれは叶えられぬ願いじゃ。其方は我が国の召喚術によって、この煌華大陸に召喚された。今のところ其方の世界へ帰る術はない。」
トウガは、皇帝の言葉に落胆の色を隠せないものの、すぐに気を取り直して、現状を把握しようと努めた。
「……そうですか。帰る術はない。では、私を召喚した理由とは一体何なのでしょうか?そして、この煌華大陸とは、どのような場所なのでしょうか?」
すると、李玄が皇帝の代わりに答えた。
「そなたを召喚した理由は、すでに説明した通りだ。我らは国を救うため、異世界から英雄を召喚する術を行使した。この煌華大陸は、五つの大国が覇権を争う地だ。そなたが召喚された蒼天国は、その一つ。現在は、隣国・紅蓮の侵攻を受け、危機的状況にあるのだ。」
続いて皇帝が話始めた。
「其方が元の世界へ帰りたいと願うのも無理もない。だが、我が国に召喚された以上、其方には果たすべき役割があるのかもしれぬ。」
皇帝はじっくりとトウガを眺めると、隣に控えていた40代くらいの知的なイケメンに目配せした。
「郭宰相、この者の能力を見定めよ。どのような才能を持つのか、しかと見極めるのだ。」
「かしこまりました。この者の能力、しかと見定めさせていただきます」
宰相はトウガの前に進み出ると、手のひらをかざした。淡い光がトウガの体を包み込む。目に見えない力が体の奥底まで探るような感覚があった。
「これは……」
宰相の眉がわずかに動く。
「陛下、この者には『錬金術』の適性がございます」
郭宰相の言葉に、トウガは首を傾げた。錬金術?それは一体何なのだろうか。
「錬金術……ですか?」
トウガが尋ねると、郭宰相は静かに頷いた。
広間にいた者たちが一斉にざわめき始めた。
「……ふむ、やはり戦闘向きではないな」
「術の一つではあるが、戦場では何の役にも立たぬ……」
「せっかく召喚したというのに、この程度の力とは……」
将軍や文官たちは失望の色を隠さずに囁き合った。皇帝も興味を失ったかのように視線を逸らす。
「無駄足だったか……」
李玄も溜息をつくように呟いた。
「ならば、兵站の補佐か、技術部門に回すか……」
「陛下、お待ちください」
郭宰相が口を挟んだ。
「この者の錬金術の適性は並ではありません。もし適切な鍛錬を積めば、尋常ならざる力を得る可能性も……」
「だが、即戦力にはならぬのだろう?」
皇帝が冷たく言い放つと、郭宰相は口をつぐんだ。
「それならば結論は変わらぬ。我が国は今、紅蓮の脅威に晒されている。この者を育てている暇などない」
皇帝は、肘掛けに手を置いた。
「この者は適当に処遇せよ。以上だ」
それは、もはや闘雅に興味がないという明確な意思表示だった。
それを合図に、皇帝や広間の者たちは次々と退室していった。
トウガはただ黙って、その光景を見つめていた。
冷遇されるのは覚悟していたが、ここまであからさまだとは思わなかった。
李玄がトウガの元に歩み寄る。
「……まあ、予想通りの展開だな」
「……はは、なんだそれ」
トウガは皮肉気に笑った。
「それで、俺はどうなる?」
「後日、軍の後方支援部隊に配属されるだろうな。錬金術がどこまで使えるか分からんが、兵站の補助くらいはできるだろう」
「まってくれ!!錬金術ってどうやるんだよ!そんなの俺のいた世界にはない術だって」
トウガは、思わず声を荒げた。錬金術...聞いたことはあるが、元の世界ではそんなものは存在しなかった。だというのに、いきなりそんなスキルがあると言われても困惑するばかりだ。
「落ち着いてください、トウガ殿」
郭宰相は、落ち着いた声でトウガを諭した。
その表情は冷静沈着で、微塵も乱れていない。
「申し遅れました。私はこの蒼天国の宰相、郭龍と申します。」
総自己紹介をすると、郭龍は話をつづけた。
「錬金術は、確かにそなたのいた世界には存在しない術かもしれません。しかし、英雄として召喚されたトウガ殿にはその才能がある。そして、その才能はこの国にとって非常に重要なものとなると私は考えています。」
どうやら他のもとのは違い、この郭龍だけはトウガを英雄視しているようだった。
「才能があるって言われても……。どうやって使うんだよ?何も知らない俺に、どうしろっていうんだ」
トウガは、苛立ちを隠せずに言った。郭龍は、そんなトウガの様子を静かに見つめていた。
「ご安心ください。錬金術の基礎から、丁寧にお教えいたします。錬金術は、神力と知識を用いて物質を変化させる技術です。幸いトウガ殿からは神力が感じられます。」
郭は、そう言いながら、一枚の羊皮紙を取り出した。そこには、複雑な魔方陣のような記号が描かれている。
「まずは、この神力陣の構造と、そこに込められた特別な意味を理解することから始めましょう」
郭は、羊皮紙を闘雅に手渡した。トウガは、戸惑いながらもその陣を見つめた。複雑に絡み合った線と記号は、まるで暗号のようだった。
「……こんなの、見たこともない」
トウガは、呟いた。
郭龍は、静かに言った。
「焦る必要はありません。ゆっくりと、一つずつ理解していけば良いのです。其方ならば、必ずや錬金術を習得できると信じております」
郭龍の言葉に、トウガは少しだけ気持ちが落ち着いた。しかし、不安は消えない。自分は本当に、この異世界で生きていけるのだろうか。そんなことを考えていると、郭龍が再び口を開いた。
「まずは、この神力陣を記憶することから始めましょう。そして、それぞれの記号が持つ神秘的な意味を、一つずつ理解していくのです。」
郭龍は、そう言いながら、神力陣の記号を一つずつ指し示した。トウガは、その説明を真剣に聞きながら、神力陣を記憶しようと努めた。
幸いにも将棋で培った記憶力が功を奏しているのである。
指し示されるたびに、トウガは無意識のうちに頭の中で盤面を組み立てるように整理していた。
ひとつの記号が示す意味、その配置の法則、重ね合わせによる変化――まるで詰将棋の問題を解くように、次々と情報を飲み込んでいく。
「なるほど……こういう形で力を循環させるのか」
思わず呟くと、郭龍が驚いたように目を細める。
「ほう、理解が早いですな。異世界の者とはいえ、やはり英雄として召喚されるだけの資質はあるということ......」
しかし、彼の言葉にトウガは苦笑した。違う。これは資質ではない。
ただ、盤面を読む習慣が身についているだけだ。それを説明する気にはなれなかった。
隣で見ていた李玄はしばらくトウガを見つめると、ふっと小さく笑った。
「其方、案外この状況を楽しんでいるのではないか?」
「まさか。こんな状況、楽しめるわけないだろ」
トウガはそう言いながらも、口元には微かな笑みが浮かんでいた。
盤面を読むように神力陣を理解していく感覚は、確かに将棋のそれに似ていた。未知の世界に触れている高揚感も、否定できない。
「強がらなくても良い。其方の目は、好奇心で輝いておるぞ!」
李玄の言葉に、トウガは言い返す言葉が見つからなかった。図星だったからだ。しかし、素直に認めるのは癪だったので、トウガはそっぽを向いて言った。
「別に、楽しんでいるわけじゃないって。ただ、少し興味が出てきたって感じかな。」
「興味、か。ならば、その興味を存分に満たせば良い。其方には、その資格がある。」
李玄はそう言うと、郭龍に視線を移した。
「郭宰相、神力陣の説明はそこまでで良い。次は、実際に神力を発動させてみるが良い」
「そうですね。」
郭龍は頷き、トウガに向き直った。
「では、トウガ殿。次は神力の発動を試してみましょう。まずは、先ほど記憶した神力陣を、頭の中で思い浮かべてください。」
トウガは言われた通り、神力陣を頭の中で思い浮かべた。複雑な記号が、脳裏に鮮明に浮かび上がる。
「次に、その神力陣に、貴方様の精神を集中させるのです。全体に精神力を注ぎ組むように。」
トウガは、将棋で培った集中力を発揮し、神力陣に精神を集中させた。すると、不思議な感覚がトウガを包み込んだ。体内に、何かが満ちていくような、そんな感覚だった。
「その感覚が、神力です。それを、神力陣を通して、外へと放出するイメージです」
郭龍の言葉に従い、トウガは体内に満ちた力を、神力陣を通して放出してみた。すると、トウガの目の前に、小さな光の球が現れた。それは、トウガが初めて目にする、魔法のような光だった。
「……これが、神力」
トウガは、目の前の光の球を見つめながら、呟いた。
「まさか、一度で成功するとは思いませんでしたな。」郭龍が驚いたように言った。
李玄は、その様子を満足そうに見つめていた。
「はやり其方はこの状況を楽しんでいるようだな。」
李玄の言葉に、トウガは苦笑いを浮かべた。
「だから、楽しんでなんかないって。ただ、少し興味があるだけだ。」
そう言いながらもトウガの心は神力への好奇心と、異世界への期待で満たされていた。
現実世界では、もはや人生を半分諦めていた。将棋の才能も枯れ、未来への希望も失いかけていた。
しかし、この異世界では、新たな可能性を感じている。まるで、子供の頃に感じた、無限の可能性を秘めた世界に再び出会ったかのように。




