プロローグ
蒼天国の夜空は重く、灰色の雲が広がっていた。
遠くで雷鳴がとどろき、不吉な予兆のように大地を震わせる。
東の国境では、紅蓮国の軍勢が今にも攻め入らんと布陣を敷いていた。
炎を象徴とするこの好戦的な国家は、拡張政策を掲げ、隣国を次々と呑み込んできた。彼らの狙いは、蒼天の命脈とも言える海への道――紅蓮にとっては軍事戦略上、欠かせない要地だった。
蒼天は既に敗北寸前だった。
兵力は圧倒的に劣り、将軍たちは戦意を失いかけている。王宮では連日、降伏か徹底抗戦かを巡り、重臣たちの激論が繰り返されていた。しかし、どちらを選ぼうとも明るい未来は見えなかった。
紅蓮の王・紅炎は冷酷無比であり、一度膝を屈したところで、完全に支配下に置かれることは明白だった。
戦場に立つ蒼天の兵士たちの顔には疲労の色が濃く、士気は地に落ちている。紅蓮の軍勢は精強であり、何より彼らは「勝てる」と信じて疑わない。対する蒼天の兵士たちは、「負けるかもしれない」と心の奥で恐れている。その差が、決定的な違いとなる。戦は兵の心で決まる。士気が崩れれば、戦う前から敗北は決定しているのだ。
そんな絶望の只中、ひとりの異世界人が現れる――松風闘雅。
彼はかつて、日本で神童と呼ばれた男だった。幼い頃から将棋の才能を発揮し、15歳でプロ棋士となる。しかし、才能に慢心し、プレッシャーに耐えきれずスランプに陥る。もがき苦しむ日々の果てに、プロとしての自信を完全に失ってしまった。
将棋はただのゲームではない。そこには駆け引きがあり、戦略があり、読み合いがある。ほんの一手の違いが勝敗を分け、そしてその一手を打つためには、すべての盤面を見通す力が求められる。だが、闘雅はそれを失った。かつては盤上のすべてを読み切る力を持っていたはずだったのに、いつしか手が震え、最善手を見つけることができなくなっていた。
自分の限界を悟り、すべてを捨てようとしたそのとき、突如として異世界へと召喚された。煌華大陸こうがたいりく、蒼天国。そこは将棋に似た「星辰盤」を用いた軍略が重んじられる世界だった。しかし、英雄として召喚されたはずの彼に与えられたのは、戦闘向きではない錬金術のスキルのみ。戦場では無力と見なされ、冷遇される運命を辿る。
「なんで俺なんかが召喚されたんだ……」
失意の中、闘雅は城の片隅に追いやられ、もはや誰からも期待されることはなかった。しかし、ある日、彼は戦場を見つめる中で気づいた。軍勢の配置、その動き――それはまるで、将棋の盤面のようだった。
「これなら勝てる……いや、勝たせることができる」
ふと、彼の中にかつての情熱が蘇る。
棋士としての誇り、戦略を組み立てる楽しさ、そして勝利への渇望。星辰盤に己の知識を応用し、試験的に行われた小規模な戦闘で彼は驚異的な戦略眼を示すのであった。
最初は誰も彼の言葉を信じなかった。しかし、彼の策は完璧に機能し、紅蓮の進軍を一時的に押し留めることに成功する。その瞬間、歴史の歯車が音を立てて動き出す。
この戦場は盤上の世界に等しい。ならば、彼にできることはただひとつ――己の知略を尽くし、敗北寸前の国を勝利へと導くこと。
こうして、落ちこぼれの棋士であった松風桃雅の異世界での戦いが始まった。