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これは、“サキュバスに普通の恋愛は無理なんでしょうか”(完結済)という物語に登場する、クロエという女性の過去のお話です。
本編を読んでくださった方は勿論、読んだ事の無い方や途中の方にも支障なく読んで頂けるように、なるべくネタバレ少な目にしました。
全7話で構成した短いお話になりますが、楽しんで頂けたらと思います。
そして、本編にも興味を持って頂けたら嬉しいです。
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「クロエ……大事な話があるの」
その日、わたくしの主であるユーリ様はそう言って、わたくしを自室へ呼び出した。
「はい……? 何でしょう……?」
わたくしはクロエ。メリュジーヌという水の精霊。主であるサキュバスのユーリ様に、使い魔としてお仕えしている。
わたくしを呼び出したユーリ様は、なにか酷く思い詰めた様な顔をしていた。
ユーリ様のこんな表情を見るのは二度目だった。一度目はアンシュの事で悩み、重大な決意をされた時だった。わたくしは不安にかられ、思わずユーリ様の手を取った。
「ユーリ様……まさかまた記憶を……」
「え? うっ、ううん、違うよ! あんな事はもう二度としないよ! そうじゃ、なくて、あのね……」
ユーリ様は一瞬言い淀み目を伏せたが、すぐに顔を上げわたくしを見つめた。
「クロエに……過去の夢を、見て欲しいの……」
「過去の……? わたくしの過去の夢を?」
ユーリ様はサキュバス。サキュバスというと、男性にいやらしい夢を見せて生気を奪うというのが有名だけれど、わたくしの偉大なる主のユーリ様は、スキルを発動した相手の過去を夢で本人に見せ、その者の記憶を呼び起こし、抱えている悩みや不安を共有し、寄り添い救う事が出来る。
「勿論、わたくしはユーリ様に隠し立てする様な過去は持ち合わせておりません! いつでも“視て”貰って結構なのですが……なぜ急にそのような事を?」
わたくしが疑問を投げかけると、ユーリ様はごくりと喉を鳴らした。
「思い出して欲しい過去があるの……。それによって、クロエが今後どうしたいのか、考えて貰いたくて……」
「思い出す? わたくしは……何か忘れているんですの?」
「……クロエは、どうして私の使い魔になってくれたのか、ちゃんと覚えてる?」
疑問形を疑問形で返され、わたくしは少し考えた。
「それはユーリ様をお慕いしているからですわ! わたくしの人生は、ユーリ様に捧げる為にあるのです!」
そう断言したわたくしだったけれど、ユーリ様はなぜか悲しそうな顔をした。
「その気持ちが……私のスキルによって生まれた事だったとしても?」
「え?」
首を傾げたわたくしの手を、ユーリ様がギュッと握った。
「クロエに、ちゃんと知って欲しい。どうしてクロエが私を好きになったのかを……」
そう言ったユーリ様が、過去の夢を見せるスキルを発動した。紫色の光がわたくしとユーリ様に降り注ぎ、わたくしはたちまち抗えない程の睡魔に襲われた。
(ユーリ様を……好きになった理由……? 言われてみればわたくしは……いつからユーリ様の事を……好きに……)
考えがまとまる前に、わたくしの意識は過去へと遡った。
「クロエ!! ほんの出来心だったんだ!! 許してくれ!!」
夫はそう言って、わたくしの前に跪いた。
「あの子の言った事は嘘だって、確かめたかっただけなんだ! でも、まさか君が……その……本当に魔物だったなんて……」
夫は、蛇になったわたくしの下半身を見て少し震えていた。
夫は人間だった。わたくしは、自分はメリュジーヌだという事を隠して結婚した。だってこうなる事がわかっていたから。わたくしが魔物だと知ったら、きっと臆病で保守的なこの人は、わたくしを愛してくれないと思った。案の定そうだ。夫は本来の姿のわたくしを見て、酷く怯えていた。
上半身は人の形をしているけれど、下半身は蛇の姿で、背中からは竜の様な翼が生えた、メリュジーヌ本来の姿……。わたくしはお風呂に入る時だけ、人型から本来の姿に戻っていた。そして夫には、絶対に風呂場を覗かない様にと約束させていた。
けれど夫は、職場の若い女にそそのかされ、風呂場を覗いた。おおかた、『奥様は風呂場で浮気相手と連絡を取っている』などと吹き込まれたのだろう。その女が密かに夫に恋心を寄せていた事を、わたくしは知っていた。
「こ、殺さないでくれ……頼む! 君の正体は、絶対に誰にも言わない! あの子にもちゃんと言い聞かせておくから……!」
(……殺す? この人は何を言っているのでしょう……)
こんなにも怯えた夫を前にして、わたくしはこれ以上夫婦生活を営むのは無理だと思った。わたくしは別れを切り出し、夫もそれを了承した。
この頃は、夫のように魔物に恐怖を抱いている人間がまだまだいた。魔物と人間が共存できる様になるまで、それから数百年の歳月を要した。
そして時代は移り変わり、街中を魔物が歩いているのが普通になっていた頃、わたくしは北の国の王都ダヴィードにいた。
「くそっ! あの女! どこ行きやがった!?」
慌てふためきながら宿屋から出て来た男を、わたくしは人ごみに紛れながら密かに見つめ、笑みを零した。
「今更気付いても遅いですわよ」
わたくしの手の中には、先程の男から奪った皮の袋があった。中身は貴金属と金貨。わたくしは男が走り去った方とは逆の道を歩き始めた。
「イイコトしてあげたんだから、これは当然の報酬ですわ」
わたくしは夫と別れた後、伴侶を作らずずっとひとりで生きていた。色々な場所で色々な仕事をしたが、どれもピンとしない、退屈な毎日だった。
そんな時、たまたま出会った金持ちの男と夜を共にし、男が寝ている間、わたくしは男の持っていた金目の物を盗み宿屋を後にした。その時感じた興奮と高揚感は、わたくしに“生きている”実感をもたらした。
その事をきっかけに、わたくしは度々同じ様な手口で盗みを働き、その金で生活をする様になった。罪悪感はなかった。むしろ、自分が常に優位に立っている感じがして、心地よかった。魔物だからと、恐れられ怯えられ虐げられる事もないと、どこかで安心感すら覚えていた。
「それにしても……盗みって案外ちょろいですわね」
少し色目を使えば、金持ちの男はすぐに釣れた。そして男どもは、例え騙され金を盗まれたと知っても、自分の家族に不貞がバレる事や、築き上げた地位を揺るがされる事を恐れ、そのまま泣き寝入りしていた。おかげでわたくしが捕まる事はなかった。わたくしも、あえて地位や名誉に執着している男を選び、自身の生活の糧としていた。
(このまま盗賊として生きて行くのも悪くありませんわね……)
そんな事を考えながら盗みを繰り返していたある夜、金持ちのカモを物色中、路地裏にある店の前から、罵倒する様な声が聞こえた。
「お前がいるから商売が上手くいかねぇんだ! もう来んな! “呪われた子”め!」
そう言い放った男が、ひとりの若い男を蹴り飛ばした。
「ちょっと! 何してるんですの!?」
わたくしは思わず、蹴り飛ばされ地面に倒れ込んだ男の元へ駆け寄った。蹴り飛ばした男はわたくしを見ると、フンと鼻を鳴らした。
「なんだ嬢ちゃん? その男に同情しても、災いが降りかかるだけだぜ。なにせその男は、月食の日に生まれた“呪われた子”だからな!」
「呪われた子?」
わたくしの返しに蹴り飛ばした男は何も答えず、ペッと唾を吐くと店に戻り、バタンと扉を閉めた。
「何なんですのあいつは……」
わけがわからないわたくしを尻目に、蹴られた男は立ち上がるとその場を去ろうとした。
「ちょっと! 助けて貰ってお礼の言葉ひとつも言えないんですの!?」
立ち去ろうとした男にそう呼びかけると、男は振り向き暗い瞳をわたくしに向けた。
「あんた、北の国の奴じゃねーな」
「は……? それが何か?」
「北の国では、おれみたいな“呪われた子”には関わるな」
男はそう言うと、再び歩き出そうとした。
「ちょっと! 意味がわかりませんわ!」
わたくしはそう言って男の腕を掴んだ。すると男はその手を振りほどく様に振り向いて、わたくしを壁に追いやり、手をついてわたくしを壁と男の間に閉じ込めた。顔を隠す様に伸ばされた長い銀色の前髪の隙間から、男の暗い瞳が揺れているのが見えた。
「あんたの為に言ってるんだ」
「わたくしの……?」
男はわたくしから離れようとしたが、わたくしはそんな男の顔を両手で掴んだ。
「な…何しやがる!? 離せっ……!」
「あら、迫ってきたのはそっちじゃありませんの。それとも、わたくしの事が怖いんですの?」
「こっ……怖がるのはそっちだろ!? おれは“呪われた子”だぞ!?」
「怖がる……? あなたは……わたくしが怖がると思って、わざとこうして凄んだんですの?」
「ちっ、違う! おれは……」
男の暗い瞳が、戸惑う様に泳いだ。わたくしは、似た様な瞳を知っていた。この男は怯えている。けれど、前の夫の様に、わたくしを恐れ、怯えているのとは違った。この男は、“怯える瞳”を向けられる事に怯えているのだ。
「……怖がらなくていいですわ。わたくしは……あなたに怯えたりしない」
気付くとわたくしは、目の前の男にキスをしていた。唇を離し、戸惑う灰色の瞳を見つめた。
「とても、寂しい目をしてますわ……。あなたは、ずっとひとりで戦って来たのね……」
まるで鏡を見ているかの様に、自分と同じ目をしていると思った。怯えや恐怖の孕んだ瞳で見られる事に、わたくし自身もきっと怯えていた。前の夫に向けられた視線に、わたくしは思いのほか傷付いていたのだと、この時知った。




