3.ダンスと社交辞令
「モニカは女官志望だったな」
二人きりになってすぐ、エルネストはそう尋ねてきた。モニカは内心ビクつきつつ、「そうです」と端的に答える。
「それは何故?」
「宰相として働く父の背中を見てきましたから――――わたくしにも、国のためにできることがあれば、と思いまして」
他の誰かに対してならば胸を張って口にできる想いでも、エルネストに対しては酷く臆病になってしまう。
エルネストは「そうか」と短く相槌を打ち、まじまじとモニカを見下ろした。
「そういう考えなら『女官』という形でなくとも叶うな」
「それは…………どういう意味でしょうか?」
彼の真意を測りかね、モニカは小さく首を傾げる。
(女官という形でなくとも叶う?)
単に『国のためになる仕事は他にも存在する』と言いたいのか、モニカの考えが浅いことを指摘したいのか。
エルネストと長く会話をするのは怖いが、いつまでもビクビクしているわけにはいかない。モニカは凛と背筋を伸ばし、エルネストを見つめた。
「君にはまだ、婚約者が居ないのだろう?」
けれど、エルネストは問い掛けには答えぬまま、モニカに対して質問を重ねる。少々面食らいつつも、モニカは静かに頷いた。
「はい。結婚については、女官として仕事をした後にと考えております」
モニカにだって一応、公爵令嬢としての矜持がある。エルネストは彼女を馬鹿にするつもりはないのかも知れないが、縁談が全く舞い込まないわけではないのだと主張したかった。
「その考えは今後、撤回して貰う必要があるだろう」
「え?」
(考えを撤回しなければならない? 結婚は女官として仕事をした後に、ということを? 一体、どうして?)
困惑するモニカを前に、エルネストはキュッと唇を引き結ぶ。
それから彼は、モニカに向かって徐に手を差し出した。
「モニカ。僕と一曲、踊ってもらえるだろうか」
ぶっきら棒な声音。笑顔の一つもない上、モニカから視線すら逸している。
けれどその瞬間、周囲から俄にざわめきが起こった。
「殿下がロべーヌ宰相の娘をダンスに誘った」
「エルネスト殿下が令嬢に興味を示された!」
エルネストの結婚問題は、国中の貴族たちの関心の的。
モニカの父親も含め、彼らは密かに二人の会話に聞き耳を立てていたのである。
(殿下にそんなつもりはないと思うけれど)
戸惑いながら、モニカがエルネストの手を握り返す。
今や会場中の視線が、二人に向かって注がれていた。
「エルネスト殿下……あの、僭越ながら、一言申し上げてもよろしいでしょうか?」
「なんだ?」
「この場でわたくしとあまり関わり合いにならない方が良いのではないでしょうか?」
モニカは言いながら声を潜める。
エルネストは片眉を上げつつ「何故そう思うんだ?」と尋ねた。
「皆様に誤解されてしまいます。殿下の結婚相手について、興味がお有りのようですから」
好いている相手とならばともかく、モニカとの間に変な噂が立つのは嫌だろう。モニカはエルネストのことを思えばこそ、そう口にする。
「心配ない。全て承知した上で動いている」
エルネストはそう言うと、モニカのことを抱き寄せた。これまでで一番距離が近い。
宝石のように美しく透き通ったエルネストの瞳。息をするのも忘れて、モニカはついつい見入ってしまった。
(いけない。こんな風に見つめては、また殿下の機嫌を損ねてしまうわ)
それでも、少し気を抜くだけでエルネストのことを見てしまう。
心臓がドキドキと早鐘を打つ。
身体中が熱く、火照っているかのようだ。
やがて曲が始まり、二人はステップを踏みはじめた。
エルネストのリードは分かりやすく、とても踊りやすい。身体を動かしているため会話の心配をする必要がなく、モニカは幾分気が楽だった。
「――――モニカはダンスによく誘われるのか?」
けれど、そう思ったのも束の間。
エルネストがまた質問をしてくる。
「よく……という程ではないと思いますが、それなりに。これでも宰相の娘ですもの」
偉い人間――――宰相に取り入ろうと考える人間は多い。娘であるモニカに近寄ることもまた、彼等のアプローチ方法の一つなのだ。
「そうか」
エルネストの腕に力がこもる。彼は眉間にシワを寄せ、不機嫌そうにため息を吐いた。
(ああ、まただわ。また、殿下を不快にしてしまった)
今度は何がいけなかったのだろう? モニカは胸が苦しくなる。
けれど、原因を考えたところで仕方がない。これまでずっと、モニカの何がいけなかったのか考えてきたが、結論は出なかったのだから。
モニカは諦めて、ダンスに集中することにする。
そうこうしている間に曲が終わった。
お辞儀を一つ。二人はゆっくりと手を放した。
「殿下、今夜は楽しい時間をありがとうございました」
実際は『楽しい』というより、緊張と苦痛を伴う時間だったのだが、正直な気持ちは当然言えない。
社交辞令を口にして、モニカはニコリと微笑みを浮かべる。
「ああ」
手のひらで口元を押さえつつ、エルネストが短く返事をした。
「ではまた――――今度は城で」
「はい、また。機会がございましたら」
実際は父親の執務室にこもっている限り、エルネストとの接点は無いだろう。
社交辞令と分かりつつ、モニカはしっかりと礼をする。
エルネストはモニカのことを一瞥すると、誰と会話をするでもなく、そのまま夜会会場を後にした。
ピンと張り詰めた空気が、一気に緩む。
モニカはほっと胸を撫で下ろした。
「モニカ! 殿下とは一体何を……」
「お父様」
慌てた様子でやって来た父親に、エルネストとの会話の内容を伝える。
モニカの父親は時折険しい表情を浮かべつつ、一人静かに首を捻った。
「申し訳ございません、お父様。殿下の気分を害してはいけないと分かっていたのですが……どうにもわたくしは、彼のお気に召さないようで」
「いや、良いんだ。しかし……」
良い、と口にしつつも、父親の表情はどこか浮かばない。
今後の仕事に影響するのではなかろうか――――そう思うと、モニカは申し訳無さでいっぱいだった。
シュンと肩を落としつつ、己の手のひらをじっと見る。
今も未だ、エルネストのぬくもりが残っている気がした。
(もう二度と、殿下とダンスを踊ることはないんだろうな)
ほんの数分間の出来事だが、一生忘れられないほろ苦い思い出になりそうだ。
モニカはため息を一つ、エルネストと踊ったホールを見遣る。
切なさが胸を襲った。
けれど、それから数日後。
モニカは父親と共に、エルネストと彼の両親から呼び出しを受けることになる。
そこで言い渡されたのは、彼女にとって驚くべき内容だった。