裏側まで愛して
この汚れた世界に、私は唯一の光を見つけたのだ。彼女の美しさが失われてはならない。私は何も間違っていない。
日が暮れはじめた路地に現れた彼女を見て、そう自分に言い聞かせる。
「来てくれてありがとう」
物陰から声をかけると、彼女はぱっと顔を明るくした。
「こちらこそ。今日はどうしたの?」
初めて見かけたときから変わらない鈴のような声。聞く者に希望を与える、彼女に相応しい音色。けれど、その立場は彼女の美しさにはそぐわないものだから。
「今日は、君をたすけにきたんだ」
私は静かに告げた。
彼女は異教の巫女で、私は異教を取り締まる審問官。彼女に近付いたのもその正体を探る為だった。人々を照らす聖女だ、という巷説の真相を知る為。
そこで見たのは汚れなき彼女の姿だった。
「今まで騙していて申し訳ない。だが、君は仲間たちに嘘を吐かれているんだ。あいつらは、君の名を借りて悪行を働いている。明日には君たちのもとへ兵がやってくる。悪事に関わっていなくても、全員……。でも、まだ今なら助けられる。君さえ良ければ私のところに来たって良い。だから!」
君は表情を変えないまま私を制止した。そっと私の唇に人差し指を当てる。
「大きい声出したら、聞かれちゃうよ? 静かに」
彼女は清純な眼差しをひたとこちらに向けた。
何も伝わっていないのだろうか。焦る私の疑問を見透かしたかのように彼女は口を開いた。
「大丈夫。全部分かってるよ。あなたが思ってるよりもたくさん」
君の声は暗く奏でられる。
「あなたは信じてないかもしれないけれど、やっぱり私は巫女だから。いろんなことができてしまうの。みんなのことも、分かってしまうの」
彼女は下から私の瞳を覗きこんだ。
「あなたが今なにを考えているのか、も」
その美しさに鳥肌が立つ。
「だから、謝らなくてはいけないのは私の方。あなたの立場も、みんなの気持ちも、全て知っていたのに知らないふりをしてたから。ごめんね」
衝撃的な筈の告白を聞いても、君の美しさに変わりはなかった。世界に光を、と願う君は真実なのだと分かってしまったのだ。
「失望した? いえ。あなたはまっすぐな人だから、こんな話をしてもまだ私のことを好きでいてくれるでしょう? 私、あなたみたいな人に初めて会ったの」
彼女の質問に深く頷いた。話はうまく呑みこめなくとも、それでも好きだと思った。
君は星が瞬くように笑って続ける。
「あなたに出会えて、本当によかった。まっすぐで明るくて、私にとって唯一の光みたいだった。でも、このままだと私たちは一緒にいられないじゃない?」
首を傾げる姿さえ絵になるなんて。なんて神に祝福されし存在なんだろうか。
君は楽しげに小刀を取り出した。
「ちょっと動かないでね」
小刀をその手首に滑らせる。白い肌に血が滲んでいく。
彼女の行動を止めようとして、ふと体を動かせないことに気付く。彫像にでもなったように、自分の意志では動かない。自由になりそうなのは口だけだった。
「なんてことを! 自分の体に傷を付けるだなんて! 神から賜ったものに……」
私の声に彼女は小刀を取り落とした。道に硬質な音が響く。
「静かに、って言ったでしょう? 私のことを心配してくれたの?」
「あなたは何をしようとしているんだ?」
「私の術が破れるほどに? それは……嬉しいことね」
「君がそんなことをしなくても、私は君のことを愛しているし、君も望むなら一緒にいようじゃないか! ただ、あの仲間たちから離れればそれで済むんだ」
ただ、私とともに歩いてくれさえすれば。
「そうね。でも、私にそれはできないの。あなたには邪に感じられる力を使えてしまうことは、紛れもない事実だから。私は、巫女のままでいたいのよ」
「それは、君が神の正しさをまだ知らないだけだろう?」
私が彼女を導けば良いだけの話。彼女の存在こそ、神を讃える為にある。彼女のような迷い子を救うのが私の役割なのだ。
「私は、私の神の正しさを知っているの。あなたを支えてあげたいけれど、そのために神を否定したくはないから」
君の神は間違っている!
そう叫びかけて、君の表情が視界に入る。
街の人に語りかける姿を、神に祈る姿を思い出す。
私は彼女を苦しめているのだろうか?
「民の光になるのをやめるだけでも裏切りだというのに、これ以上裏切りを重ねるわけにはいかないのよ」
彼女の気持ちどころか、自分さえ分からなくなってしまった。
神の正しさはどこまでも変わりないというのに、神に祝福されし君は神に背いている。それでも、私は君を愛していて君も私と共にいたいと言う。
「私の唯一の光だったあなたを、今度は私が照らしたいの。……あなたは、賛同してくれないかもしれないけれど」
君は手首で固まりかけた血を薬指で掬うと、紅をさすように唇に塗りつけた。清らかな色気にあてられて、私はその様を呆然と見ていた。
君は背伸びをして私に顔を近付けた。高い体温に君の甘い香りが弾けて、血の臭いと混じり合う。眩暈がしそうだ。
これこそが邪教の儀式ではないのか? 疑問は彼女の硝子の如き瞳に吸い込まれていく。そうだ、私は君を救いに来たんだ。これで君が救われるのなら、間違ったことはないじゃないか。
「君が私の為にしてくれることなら、何でも嬉しいよ」
「あなたならそう言ってくれるって信じてた」
君が信じてくれるなら、それでいいのだろう。
「困ったことがあったら空を見上げて。そこには必ず私がいて、あなたの道を照らすから」
君は私の肩を掴む。振り解けそうにない力の強さに、私は身を任せた。真剣な双眸は星の欠片のように煌めいている。
君にそんなに想われるだなんて、私には幸せが過ぎるのではないか?
多幸感に包まれて、細い肩を抱きしめ返した。血に濡れた唇に、軽い接吻を降らせる。
互いに身体を離すと、君は耳元で囁いた。
「これで、おしまいね」
突然、この腕でしかと捕まえていた筈の君が実体をなくしていくのを感じた。存在が薄れていくのと同時に、燃えるように熱くなっていく。
「ど、どうしたんだ?」
狼狽える私に、
「言ったでしょう? あなたを照らす、星になるの」
君は笑顔を向けた。
いつも光に満ちていた君から、光が放たれはじめる。眩しくて、目が灼かれそうな程に。
けれど、君が私の為に在る姿を見ていたくて。
「ありがとう」
星となった君が空へ昇る。
こうして君は、私の光になった。