40. 哲学の道
茜音の旅は、いよいよ最終局面に入る。
琵琶湖から安土へ向かった後、昼食を挟んで、出発した茜音は狭い県道を走り、やがて再び湖畔の道を通った。
(風が気持ちいい)
3月末のこの時期。場所によってはまだまだ肌寒いが、天気が良く、同時に関西圏ということもあり、暖かい春の風が、真姫の頬に吹きつけてきており、快適なツーリングが続いていた。
湖畔の道から、いつの間にか、「大津市」に入り、湖を横切る大きな橋を越えた。
逢坂山と呼ばれる、小さな山を越えた彼女たちは、いつの間にか国道1号に入り、そして「山科」という地名を標識で目にする。
信号機待ちをしている時に、茜音が、わざわざジェットヘルメットのシールドを上げて、
「京都だよ」
と真姫に告げたように、そこはもう「京都府」だ。
最終目的地は、もうすぐそこだった。
茜音が目指した、その最終目的地。
そこは、都会の京都中心地にあり、昔ながらの古い木造の欄干が特徴的な大きな橋だった。
「三条大橋」
それが彼女の目的地だった。
その橋を越えて、脇道に逸れて、路傍でバイクを停めた茜音は、そのまま路駐をして、歩き出した。
真姫もついて行くと。
「三条大橋、到着!」
子供のように喜び、欄干に手をついて、目の前に広がる京都の鴨川の水流に目をやる茜音の姿が、真姫には印象的に映った。
(この人は本当に旅が好きなんだな)
そう感じてしまうくらい、普段の不機嫌な彼女とは別人のように、旅に出た茜音は生き生きとしていた。
同時に、すでにそこには「春」があった。
川岸に、ピンク色の無数の花が咲き乱れていた。春の風物詩。まだ東京では開花していなかった「桜」がそこではもう開いていた。
「着いたのはいいんだけどさ。これからどうするの?」
同じように欄干に手を着いて、景色を眺めながら、ぼんやりと真姫が質問すると、
「そうだね。京都はバイクじゃ走りにくいし、早めに宿を取って、そこからは歩きだね」
茜音の言葉通り、その後は「宿探し」になった。
だが、有数の観光地で、しかも予約すらしていなかった2人。予約は思いの他、難航した。
そもそもが狭い京都。バイクを停めることが出来る、駐車場があるホテルや民宿が少ないのだ。
その上、春の観光シーズンになり、日本中どころか、世界中から観光客が押し寄せてくる。
そんな中、予約すらしていない茜音だから、目星をつけて片っ端から電話していた。
その間、真姫はのんびりと、三条大橋の上から京都の風景を眺めていた。
(相変わらず、無計画だなあ)
と思いながら。
20分後。
「決まったよ」
ようやくその一声で、彼女たちの宿が決まる。
だが、それは京都の外れ、どちらかというと、比叡山に近い、修学院にある小さな宿だった。
ひとまず、そこへバイクで行く2人。
着いた先にあったのは、お世辞にも綺麗とは言い難い、古臭い民宿のような宿だったが、ここで贅沢は言っていられなかった。
幸い、そこは「バイクなら」ということで、敷地内に停めていい、という条件付きだったからだ。
中は、ある意味、「昭和」の風情が漂う、畳の和室の小さな宿だった。そこで荷物を置いた2人。
後は電車とバスを使う、観光の旅となった。
「真姫ちゃん。せっかく着いてきてくれたから、どこか行きたい場所ない? 聞いてあげるよ」
いちいち、「上から目線」なのが、気にかかった真姫だったが、彼女の中では、
「うーん。特にないな」
というのが正直なところだった。
「せっかく京都に来たのに、つまらないなあ」
茜音は、呆れたように呟いていたが。
そもそも真姫は「付き合い」で来ただけで、別段京都に来たかったわけではなかったから、仕方がない部分があった。
元々、日本文学や日本史より、西洋文学や西洋史に興味を示す彼女だから、それはなおさらだった。
「じゃあ、とりあえず私が行きたいところでいい?」
「いいよ」
もうこの際、最後まで付き合おう。というより、もう諦めた、という気持ちの方が強い真姫は、茜音の提案を受け入れるしかなかった。
「じゃあ」
と言って、携帯を見ながら、茜音は目星をつけていた。
京都を南北に貫く、路線バスを使って、彼女が向かった先は。
真ん中に水路があり、その両岸に伸びる、「道」だった。
「哲学の道」
そう呼ばれる京都の散策路である。
有名と言えば、有名だが、京都の有名観光地と言えば、真っ先に「金閣寺」や「清水寺」が思い浮かぶ真姫にとって、それは意外な選択肢だった。
だが、そこにはすでに桜が咲き誇り、多くの観光客で賑わっていた。
桜のトンネルのようになっている、石畳と水路が続く風情のある道が、どこまでも続く。
そこをのんびり歩くことになった。
道すがら、
「ここは、京都大学の哲学者、西田幾多郎が好んで歩いた道だから、『哲学の道』って呼ばれてるとか」
と茜音が言ってきたが、
「西田幾多郎? 誰?」
真姫がそう返すと、予想通り、彼女は不満そうに表情を曇らせた。
「西田幾多郎も知らんのか、まったく」
「いや、別のキタロウなら知ってるけどね」
もちろん、真姫の頭の中にあったのは、黒と黄色のちゃんちゃんこを着て、妖怪退治をする某有名漫画の主人公の方だ。
「明治時代の、日本を代表する哲学者だぞ」
そこからは、当然、茜音による「西田幾多郎」の解説が始まった。
真姫にとっては、退屈な話ではあったが、聞き流しながらも、とにかくもこの道を楽しみながらも、歩き続ける。
確かに、水路に挟まれて石畳の道が伸び、その上には桜がトンネルを作るように覆いかぶさっている。風情のある道であることに違いはない、と思うのだった。
やがて歩いているうちに、路傍で何かを発見した茜音が、不意に立ち止まった。
そこにあったのは、一つの大きな石碑だった。
どうやらそこに「文字」が刻まれているようだった。
その読みにくい書体の文字を、茜音は嬉々として、読み上げた。
「人は人 吾は吾なり とにかくに 吾が行く道を 吾は行くなり」
どうやらその石碑には、そう書かれてあるようで、茜音の解説により、それが西田幾多郎が詠んだとされる歌に由来するとわかった真姫だったが。
(まんま、茜音ちゃんじゃないか)
と、彼女には思えるほど、その歌は、見事なまでに茜音の性格とマッチしていた。
(だからここを選んだのか)
ようやく真姫は、茜音の真意を理解した。
琵琶湖疎水の道である「哲学の道」をのんびり散策しながらも、真姫と茜音は会話を続ける。
いつの間にか、将来の話に及んでいた。
「茜音ちゃんは将来、何になりたいの?」
まるで何も考えていないようにも見える、この姉のことが心配になって質問していると、
「私は大学に入って、教員免許を取って、日本史教師になる」
意外にもしっかりとした答えが彼女の口からは返ってきた。
「へえ」
まあ、茜音には向いているのかも、とも思う真姫であったが。
「そういう真姫ちゃんこそ、ちゃんと考えてる?」
と逆に問われると、口を噤むしかなかった。
そんな真姫に、茜音は嘆息しながら声をかけてきた。
「ちゃんと考えなよ。今すぐに決めなくてもいいけど、高校生なんてあっという間だよ。モラトリアムの期間なんて短いんだ。青春はすぐに去ってしまう」
その言い方が相変わらず、何だか「おっさんくさい」と思いながらも、真姫は少し考えさせられて、思わず、
「じゃあ、茜音ちゃんの目から見て、私は何に向いていると思う?」
そう尋ねていたのが、きっかけだった。
茜音は再び大きな溜め息を突き、
「それを私に聞いている時点で、何も考えてないってことだね。ダメだよ、真姫ちゃん。人任せじゃ」
とたしなめれていた。
「そんなこと言われても」
「しょうがないな。アドバイスをやろう」
(また「上から目線」だな)
と思いながらも、黙って聞いていると、
「真姫ちゃんは、妙にリアリストだからね。医者なんか向いてる気がする」
と言われ、真姫は、その予想の斜め上すぎる回答に、むしろ戸惑っていた。
「いや、医者って。そもそも理系の知識がいるし、なるの難しすぎるでしょ」
「だから、別に『医者になれ』って言ってるわけじゃないって」
「そうだけど」
「まあ、選択肢の一つってこと。それに医者になると、大きなメリットがあるよ」
「何?」
「金持ちになれる。イコール、バイクにつぎ込める金が増える。真姫ちゃん、いいバイクに乗れるよ」
(はあ)
完全に、「ノリと勢い」だけで、茜音がそう言っているように聞こえて、真姫は内心、溜め息を突いていた。
そもそも、理系の勉強より、どちらかというと文系の勉強の方が得意の真姫に、「医者」という道は困難を極める、ということを彼女自身がわかっていた。
同時に、茜音の言うように「医者=金持ち」と短絡的に考えることも出来なかった。
(そもそも医師免許を取って、開業医になったとしても、患者が来なければ儲からない)
当然、真姫の頭の中には、そういう思いはあったのだ。
だが、まもなく高校2年生になる真姫にとって、「将来のこと」を考える時期に来ていることは確かだった。
結局、その日は、この「哲学の道」だけを観光して、夜は三年坂付近を冷かし、食事を取って、翌朝には京都を出発して、帰り道に着く2人。
なお、乗り気ではなかったが、仕方がないので、真姫は父に「生八つ橋」を土産として購入していた。
帰りは「行きと同じじゃ嫌」という茜音の提案に従い、今度は海沿いの東海道経由で、下道をだらだらと帰ることになった2人。
内心、
(ダルい。もう高速使って帰りたい)
と願っていた真姫だったが、125ccで高速道路に乗れない茜音に、渋々ながらも付き合って、途中の静岡県で一泊してから、さらに翌日にようやく帰宅したのだった。
(疲れたー)
と自宅に戻って、ベッドに仰向けになってから、大きく伸びをしていた真姫だったが。
(将来か。マジでどうするかな)
改めて、自分の将来、進むべき道のことを考えさえられていた。
旅はようやく終わりを告げる。




