39. 夢の跡
二人の「小さな旅」は続く。
茜音の小さなモンキーは、国道21号をひた走り、小さな峠を越えて、やがて「滋賀県」の案内標識を越えた。
米原市の地名を見ながら先頭を走る茜音のモンキーがスピードを上げた。
(何だか張り切ってる)
真姫の目には、1歳年上の姉のような存在の彼女のテンションが上がっているようにも見えたが、仕方がないので、スピードに合わせてついて行く。
もっとも、125ccのモンキーだから、真姫の父が乗っている大型バイクのように大きく離されることはない。
米原市の市街地を抜け、国道を大きく逸れたモンキーが向かった先。
その先の、「水」が見える場所に着くと、駐車場もないのに、茜音はバイクを道路脇に停めて、そのまま道路を横切って、岸壁のような場所に向かった。
「琵琶湖だ!」
そう叫ぶ茜音の声が弾んでいた。
真姫も仕方がないのでついて行く。
「へえ。これが琵琶湖」
「真姫ちゃん、初めて?」
「うん。デカいなあ。海みたい」
その日は、たまたま晴れていたため、澄み渡る青い空がどこまでも続き、春の陽気に照らされて湖面がキラキラと輝いていた。
そして、対岸が見渡せないほど、視線の先まで続く、大きな水たまりが眼前に広がっていた。
湖畔に吹きつける風は、もう「春」を感じさせるもので、途中で通ってきた山中ではまだ感じられなかった「春の匂い」を感じさせる暖かなものだった。
知識として、もちろん真姫はこの琵琶湖が日本一大きな湖とは知っていたが、実際に来るのは初めてだったから、それなりに感じるものはあった。
そして、再び茜音の蘊蓄が始まった。
「琵琶湖はね。古くは『淡海の海』、『近江の海』、そして今では『Mother Lake』という愛称があるくらい、大きな湖で、古くから近畿の水運、漁労に重要な役割を果たしていたわけ」
「それより、これからどうするの? この近くの見所と言えば、彦根城だけど」
自分の蘊蓄のことより、この先の旅路のことを気にしている真姫に、茜音は不満そうに顔を歪めていたが、やや考え込んだ後、
「彦根城ねえ。確かに綺麗な城だけど、私は『完成された芸術作品』には興味ないの」
などと、妙なことを口走り始めた。
「じゃあ、どうするの?」
「まあ、ついて来ればわかるよ。もっと面白いところに案内してあげる」
(不安だ)
茜音にそう、自信満々で言われると、逆に不安な気持ちが湧き上がってくる真姫であったが、渋々ながらも付き合うことにした。
大抵、彼女が「面白い」というと、大変な思いをすることが多かったからだ。
一体どこに向かうのか、と真姫が注視する中、モンキーを操る茜音は、湖畔の道を走り、やがて狭い田んぼの中のあぜ道のような農道を走り始めた。
(道幅狭いし、不安だけど、こののどかな雰囲気はいいな)
真姫の目に映る景色は、一面の水田だった。
東京に住んでいると、目にすることがない、濃い緑色が広がっていた。
もっとも、11月から3月のこの時期の「田」は「土づくり」と言って、まだ肥料を与えて慣らす頃なので、いわゆる水田らしい「水を張った」状態にはなかった。
そのような一般的にイメージされる「水田」は、5月上旬頃から見られる。
30~40分ほど、茜音はその農道のような道をたどって走っていたが、やがて街道に出て、脇にある大きな駐車場に入って、バイクを停めた。
ヘルメットを脱いだ真姫が見た表示、それが、
「安土城跡」
だった。
(関ヶ原や彦根城には興味がないのに、こっちには興味があるのか)
茜音の心中が全くわからない真姫であったが、その茜音は、嬉々として城跡を見上げていた。
「おお! ついに来たぞ、安土城!」
もっとも、「城跡」に過ぎないそこにあったのは、ただの「山」のような森だけだったが。
(城跡って言っても、何もないじゃん)
真姫の目には、せいぜい石垣の跡が見えているだけで、全然城らしくないし、それならむしろ彦根城の方が良かった、とすら思えていた。
しかも、そこからは「苦行」が続いた。
(山道か!)
3月のその時期だからまだマシだったが、入口をくぐった後は、ひたすら石段が続き、その後は「山」だった。
恐らく夏の時期に登ったら、熱中症になりそうなくらい、急坂が続き、ひたすら山道を登る、山登りだった。
(これじゃ、高尾山と変わらない)
中学生の頃、自転車で茜音に付き合わされた悪夢を思い出し、うんざりする気持ちが先行していた真姫だったが。
その間、茜音はというと、歩きながらずっと安土城の説明をしていた。
曰く。織田信長の「夢の跡」だとか、当時は世界最高級の城で、日本に来ていた宣教師が褒めた、とか。
正直、真姫にとっては、「どうでもいい」情報だったが、茜音の熱意だけは伝わってきていた。
もちろん、真姫としても、そこが、かの織田信長が築いた、「伝説の城」くらいのイメージは持っていたが。
そして、歩くこと20分から30分くらい経った頃。
視界が開けたところに出た。
どうやら、そこが安土城の本丸のようだった。
そこからは、小さな湖のような水たまりと、一面の田んぼ、そして遠くには青々と茂る山並みが見えるだけだったが。
景色としては、悪くない、と真姫は思ってしまった。
ただ、
「あれが琵琶湖?」
そう質問すると、
「ううん。あれは西の湖」
と、茜音の口からは予想外の回答が漏れていた。
「そうなの?」
「うん。昔はここから琵琶湖が一望できたらしいんだけど」
「へえ」
「ただ、織田信長に先見の明があったのは本当だよ。彼はこの琵琶湖を抑えることで、政治の中心地だった、京都に近い位置を手に入れた」
話を聞きながらも、真姫は眼前に広がっている、雄大な自然と、不思議な伝説の残るこの山城の風情を楽しむ余裕が、ようやく生まれてきていた。
「知ってる? 織田信長は、当時の戦国大名としてはありえないくらい居城を移したんだよ」
「いや、知らない」
「那古野城、清須城、小牧山城、岐阜城、そしてこの安土城。同時代の戦国大名で、こんなに居城を移動した人はいなかった」
「なんで、そんなことしたの?」
「そこが信長が『戦国の革命児』と言われる所以ね。当時、戦国大名の常識として、『一所懸命』と言って、父祖伝来の地を必死で守る、というのが伝統だった。いわば居城は戦国大名にとって、一種の聖域だったわけ。だから武田信玄も上杉謙信も一度も居城を移してないの」
茜音の話は、要点をかいつまんで話すから、聞く側としてはわかりやすい、と真姫には思えた。
やはり彼女は「教師向き」なのかもしれない、とも。
「ところが、天下統一を目指していた信長は、必要とあらば、居城を移すことをまったく躊躇しなかった。この安土は北国街道、中山道などの主要街道を抑え、しかも京都にも岐阜にも近い交通の要衝だった。つまり、天下統一の拠点として、最適な土地だったというわけ」
「まあ、信長に合理性があったというのは知ってるけど」
「それが簡単に出来るのが、信長の凄いところよ。現代でもそうだけど、日本人は何かと周囲と同調して、協調性を大事にするでしょ。でも、信長は『目的のためには手段を選ばない』。まさに『我が道を行く』大名だったわけ」
それを聞いて、ようやく真姫は、茜音がここに来た、本当の理由を理解した。
要するに、この人、「常識外れ」で「我が道を行く」ところが、少しだけ織田信長に似ているのだ。
世間の一般常識には捕らわれない。周囲から反対されても我が道を行く。
茜音には常々、そういうところがあった。
茜音は、織田信長に憧れ、それを自身に重ねているのかもしれない。そう考えると、実は将来、とんでもない「大物」になるのかもしれない。
「じゃあ、いよいよ京都に行くか」
この安土城の城跡で、山登りに近い体験をして、すっかり長居していた彼女たち。
山を降りた頃には、すでに昼に近い時間になっていた。
茜音の旅は、いよいよ最終局面に向かって、突き進んでいく。
彼女が目指した、「都」へと至る旅が終わろうとしていた。




