17. 絆
杏の家に戻ってみると。
「あ、お姉ちゃん!」
「おかえりー」
まだ桃と林太郎が起きていた。
神妙な面持ちで、いつもとは違う姉の様子に、さすがに妹や弟たちも気づいて、
「どうしたの?」
と訝しげな表情を浮かべていたが、杏は、
「なんでもない。早く寝なよ」
とだけ言って、母に目を向けた。
事故のこと、今後のことを話し合うのだろう。
さすがにこれ以上、家族の問題に立ち会うべきではないし、長居しすぎたので、真姫は辞することにしたのだが。
「じゃあ、私は帰るね」
「真姫。わざわざありがとう。こんな遅くまでごめんね」
「別にいいって。それよりちゃんと病院に行きなよ。しばらくツーリングも来なくていい」
そう、鋭い目線で促すように言うと、さすがに彼女は頷いていた。
帰り際、玄関まで行くと。
「真姫おねえちゃん……」
さっきまで布団で眠っていたはずの、一番下の妹の柚が、目をこすりながらよろよろとした足取りで起きて向かってきた。
「柚。無理しなくていいのに」
姉の杏はそう言って、あやすように彼女を布団に戻そうとしていたが。
「ううん。おねえちゃんとバイバイする」
と言って、幼い彼女は譲らなかった。
玄関先では。
「お姉ちゃん、楽しかったンゴ。好きぴ」
桃が、姉の杏にそっくりの明るい笑顔を向ける。
「真姫ちゃん。またサッカーやろうぜ」
林太郎は、まだまだ遊び足りないように目を輝かせる。
そして、
「真姫おねえちゃん。バイバイ」
5歳の柚は、その小さすぎる手を振っていた。改めて見ると、その目元が確かに杏に似ている。性格こそ正反対だが、やはり姉妹だと真姫は感じていた。
あまりの可愛らしさに、自然に頬が緩んでいた。
なんだかんだで、柚に限らず、杏の妹や弟たちにまで、懐かれていた真姫。
子供の純粋な瞳は、正確に物事を見抜く目を持っている。自分たちに決して害を及ぼさない。不器用ながらも、真姫の優しい部分を敏感に感じ取ったのだろう。
特に、柚には、まるで警戒心の強い小動物が、親に懐くかのように懐かれていた。
「また来なよ、真姫。柚も喜ぶしさ」
最後にそう言って、わずかに微笑む杏。少しだけ元気が戻ったように真姫には見えた。
「うん。じゃあ」
ようやく彼女の家を出て、鉄階段を下り、バイクにまたがって、エンジンをかける。
時刻は11時30分を越えていた。
すでに、完全に寝静まったように静まり返る辺り一帯。
その深夜の、人気も交通量もほとんどない夜道をゆっくりと走りながら、真姫は心の中で思っていた。
(事故、気をつけよう。バイクで一番怖いのは事故だ)
実際に目の当たりにした事故は、幸いにも大きいものではなく、彼女の心にトラウマを残すようなことはなかった。
それでも、彼女はバイクの事故の画像をネットで見たことがあったし、鉄の箱に守られている車に比べ、生身で走るバイクは、当たればとんでもないダメージを負うことになることは、もちろん頭ではわかっていた。
真姫は、改めて、バイクでの事故の恐ろしさと、教習所で習った「バイクの事故対策」を思い出していた。
一応、教習所では学科や実技の教習の間に、事故と傾向や対策について、勉強をするし、映像を見ても勉強をする。
(それにしても、柚ちゃん。可愛かったなあ)
走りながら、柚の笑顔を思い出していた真姫。
その幼い少女の、屈託のない笑顔。そして、姉の杏とはまったく違う控えめな性格ながらも、どこか杏に似ている目元を思い出していた。
元々、兄弟も姉妹もいない、一人っ子の彼女にとっても、柚は「妹」みたいに思えるし、ああいう妹なら欲しいとも思った。
真姫は、自分の中にあって気づかなかった「小さくて、可愛い物」を愛でる気持ちを確認しながら、深夜の道を走った。
同時に深く考えさせられたことに気づいていた。
つまり、人間とは「金があるから幸せ」とは必ずしも言えないのだと。
杏の家は、明らかに真姫の家より貧しいだろうということは想像に難くなかったが、それでもあの家では、子供たちが明るい笑顔をしているし、傍から見れば貧しくて、かわいそうにすら見えても、実際には当人たちは幸せなのかもしれない、と。
少なくとも真姫の目にはそう映っていたし、幸せの尺度は人や環境によって変わるのだということを再認識するのだった。
自宅に着いた時には、12時を過ぎて、日付を回っており、翌日の日曜日になっていた。
あまりにも遅く帰ってきたため、親から文句の一つでも言われることを覚悟していた彼女だったが。
「おう。真姫、帰ったか」
リビングに入ってみると、ソファーにダラけた表情のまま、顔を赤らめて杯を傾けていた父の顔があった。
「父さん。酒飲んでるの?」
「飲んでるぞー。っていうか、今日は土曜日だろ。酒くらい飲んで何が悪い?」
「別に、悪いとは言ってないけど」
少々、呆れながらも、だらしない赤ら顔の父の横顔を眺めていると、台所にいた母がおもむろに近づいてきた。
「随分、遅かったわね。何かあったの?」
さすがに少し心配そうな瞳を向けてきた彼女の母。名前を南という。
父とは違い、少し若作りに見える彼女は、真姫と同じようなセミロングの髪を持ち、小綺麗に化粧をして、肌色を若く保つように努力していた。
特に最近は、スキンケア用品として、馬油にハマっているらしく、真姫にも勧めてくるほどだったが、彼女自身は、油っぽい感じがする馬油はあまり好きではなかった。
そして、この母もまた、昔はバイクに乗っていたらしい。らしい、というのは真姫が生まれる前にバイクを降りてしまい、それ以降、二度と乗ることがなかったため、真姫にはバイクに乗っていた母の姿が想像できなかっただけだ。
おまけに、昔、バイクに乗っていたことについて、母は口を閉ざし、一切語ってくれないのだった。
「ちょっと、友達が事故に遭ってね」
友達、と言えるかどうかもわからない。真姫にとって、杏とはまだそんなに親しくないから、そう言うことも憚られたが、それでも今日一日だけで、一気に距離が近づいた気はしていた。
「バイク事故? 大丈夫だったの?」
「うん。ミラーがぶつかっただけ」
「そっか。真姫も気をつけるんだよ」
そんな母との会話に対し、
「は、事故だ? バカヤロー。事故なんて起こす奴はなあ、所詮は未熟なんだよ。ちゃんと気ぃつけてればなあ。車だってバイクだって、事故なんて起こさねえんだー」
明らかに呂律の回っていない、父の呻き声のような声が聞こえてきて、真姫も、母の南も呆れた顔をするのだった。
「酔っ払いは黙ってて」
「あなた、飲みすぎよ。いくら昔の知り合いがバイク降りたからって」
女二人に、鋭い目線を向けられた父の直樹は、途端に口を噤んでしまい、ちびちびと杯に入った酒を煽り始めた。
「何かあったの? 父さん」
「ああ。昔馴染みのバイク友達がバイク降りたんだって。で、やけ酒。いい年して何してんだか」
母が説明してくれたところによると、父の友人で、昔から一緒にツーリングに行っていた友達が、ついにバイクを降りたそうだ。
理由はもちろん、奥さんに反対されたから。
その友人は、奥さんから、子供もいるし、バイクでは買い物にも行けない。さっさとバイクを降りて、車に乗り換えろ、とキツく言われたらしい。
そういう理由で、結婚してからバイクを降りる連中は確かに多い。
バイクという乗り物は、趣味性が強いから、周りから理解されにくい部分が多分にある。
真姫は、ようやく自分の部屋へと戻る。
(さすがにちょっと疲れた)
ライダースジャケットを脱いで、着替えもせずにベッドに飛び込むように、仰向けになって、そのまま眠りに就いていた。
(今日は何だか色々あった……)
バイクの事故、そして柚の笑顔を思い出しながら、深い深い眠りへと落ちていった。




