14. 家族
横浜市青葉区の杏の家の前に到着したのは、それから50分ほど経った頃だった。道が空いていれば、40分程度で着けるが、都内や横浜市は常に道路が混んでいる。
そして、そこで見た「家」が真姫の予想外のものだった。
古い賃貸のマンション、というよりもアパートで、築年数が相当古いように思えた。
壁は薄汚い灰色で、ドアは粗末な木の板のような物で、窓はまるで鉄格子のように見える。築30年、いや40年は行っているかもしれない。2階建ての粗末なアパートだった。
(マジでここか)
一瞬、間違えたかと思うほど、真姫は戸惑っていたが。
アパートの前にあった駐輪場。いくつかの自転車が置かれてある中に、確かに見知ったバイクが置いてあった。
黒と白を基調としたカラーリングのスズキ GSX250R。間違いなく秩父で見た杏のバイクだった。
そして、音で気づいたのだろう。
2階の角の一室のドアが開いて、私服姿の杏が顔を出した。
「真姫! こっち!」
仕方がないから、バイクを駐輪場に停め、エンジンを切って、ヘルメットを脱いで、ハンドルにかけてから彼女は、粗末な鉄の階段を上った。
「で、何だよ。いきなり」
廊下で声をかけ、彼女に続いて中に入り、想像以上に狭い家に通される。中は1LDKだったが、9畳ほどのリビングと6畳ほどの和室だけの狭い家で、かろうじてシャワーとキッチンがあった。
だが、中の様子はさらに彼女の想像を絶していた。
見るからに、貧しい。
家財道具一式自体が何年前の物かわからないし、箪笥も椅子もくたびれている。秩父で見た時に感じた、彼女の服装は派手派手で、オシャレにも見えたが、あれは「見栄」を張ったのだろうか。
だが、それよりも目についたのが。
「姉ちゃん。その人、誰? いつメン?」
「腹減ったぁ」
「おねえちゃん」
子供だった。それも3人。
一瞬、頭が混乱して、「杏の子か」とすら思ってしまった真姫だが、年齢的に考えてそれはあり得ないと思い直す。
「紹介するよ。あたしの妹と弟。上から桃、林太郎、柚」
桃と呼ばれた女の子は、年の頃は小学生高学年くらい。お世辞にも綺麗とは言えない、粗末なセーターを着ているが、オシャレにも見えるショートボブの髪に、表情は明るく、目元が姉の杏にそっくりだった。
林太郎と呼ばれた男の子は、小学生低学年くらい。こちらも薄汚れたパーカーのような服を着ており、短い頭髪が特徴的な元気の良さそうな子。
柚と呼ばれた女の子は、一番幼く、おかっぱ頭で幼稚園児くらい。ピンクのワンピースを着て、俯き加減にこちらを遠慮がちに見ていた。というより、姉の杏の足にしがみつくようにして、肉食動物を警戒する小動物のように、こちらを見ていた。
これだけで、真姫は察した。
(この子の家、何かある)
かつて、秩父で蛍に言われた杏の家の「特殊」な事情が何となくわかってしまった。
(恐らくは母子家庭)
それが真姫が瞬時にたどり着いた予想だった。
そして、通された9畳ほどのリビングの真ん中、小さなテーブルの前に座らされた。
「ごめん、真姫。今日、バイト休みだったんだけど、どうしてもヘルプ入ってくれって言われてさ。夜には母さんも帰ってくるし、それまででいいから、この子たちの面倒見てくれない?」
いきなりそう言われた真姫は、さすがに面食らった。
「はあ? 私に子守りしろって言うの?」
「そこを何とか」
必死に手を合わせ、懇願する杏。
あれだけパリピギャルを装い、散々自分たちを振り回しているように見えた、あの時の杏と同一人物には思えないくらい、彼女は必死な様子だった。
「ウチ、母子家庭でさ。父さんと母さんが離婚してから、ちょっと大変でね」
杏の口から漏れた言葉で、事情は察した真姫。やはり予想通りだった。
この「絵に描いたような貧乏家庭」にはそういう背景があったのだと気づいた。
「でも、私、子供苦手なんだよね。ウチ、兄弟いないしさ」
それが真姫にとって、最も危惧する不安材料だった。
一般的に、兄弟、特に自分より下の子がいない状態で育つと、小さい子供を見ることがないから、子供の扱いに慣れないまま、育つ子が多い。
真姫は一人っ子だったから、なおさらそういうのは慣れていないのだ。
杏には悪いけど、やっぱり断ろう。そう思っていた真姫だったが。
突然、彼女の袖が遠慮がちに小さな手で掴まれた。見ると、一番小さい柚という名の女の子が、円な瞳でじっと真姫の顔を見つめていた。
すると、杏は、秩父で見た時には想像もつかなかった、優しげな、まるで母親のような笑顔で、
「あら、柚。このお姉ちゃんのこと、気に入ったの?」
と柚に目線を合わせて微笑んでいた。
コクンと小さく頷く柚。
「真姫。良かったじゃん。柚は人見知りで、滅多に人に懐かないんだよ。この子、感受性が強いから、あんたに同じ匂いを感じたのかもね」
(同じ匂いってのがなんか嫌だ)
そう思いながらも、円らで邪気のない瞳で、こちらを見つめ、袖を掴むこの子がとても愛らしいと真姫は思ってしまった。
「……あー、もうわかったわよ。ただ、あんたにはいつかこの『借り』を返してもらうからね」
ついに真姫は、折れた。
半分は、この柚という子が、可愛いと思ったから、というのもあったが、困っている他人、というよりもすでに知り合いになっていた杏を、みすみす見捨ててしまうのも後味が悪いと思ったからだ。
「マジで! サンキュー。今度、奢るよ。冷蔵庫の物は勝手に使っていいから。じゃあ、あたしはバイト行ってくるから」
と言い残し、風のように猛烈な勢いで、ドアを開けて去って行った杏。
残された真姫の周りには。
「お姉ちゃん。暗いよー。ばいぶすあげあげ! 私にかまちょ」
杏にそっくりの口調でしゃべる桃。
「腹減ったー。なんか作って?」
全く遠慮の欠片もなく、飯を要求してくる林太郎。
「真姫おねえちゃん。絵本、読んで欲しいの……」
とても控えめで、おとなしいところが、姉の杏には似ても似つかない、可愛らしい柚。
子供3人に囲まれていた。
(あー、もう! 何やってんだ、私は)
せっかくの休日。ツーリングに行く予定が、真姫は子守りをすることになった。
(仕方ないか)
ただ、なんだかんだ言っても、彼女は「お人好し」で、こういうところで、知り合いを見捨てる決断ができなかった。
そして、その決断が、意外な方向へと彼女を導いていく。




