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「アーモ!」


 ベカは起き上がった。自室のベッドにいる。寝ていたのに息が荒く、肩から背中にかけて大量の汗で濡れており、服がくっついて気持ち悪い。


「すっげ、嫌な夢みた」


 夢は正直だなと思いつつ、ベカは着替えると、外に行き井戸の水を飲んだ。まだ日が昇っていないオルダンブルグの平原を眺めるが、暗くて遠くまで視認できない。


 あんな夢をみたのは、今日が引き渡し日のせいだろう。昨日、マンフリートは本当にオルダンブルグ飛竜養成所に来た。養成所にはマンフリートほどの上級階級の人間が快適に過ごす空間は存在しない。宿舎は狭くて薄汚いし、かと言って食堂や竜舎というわけにはいかない。だがマンフリートは兵士だ。特に不満もなくダラットの事務所で一泊したようだった。


 帝都で引き渡し日が決まってから、あっという間の五週間だった。あの日はまだまだ深い冬の中で、一日中太陽は弱々しく凍てつく気温だったが、ここ数日はすっかりと暖かくなり、養成所の周りに植えられた桃色の木も咲き始め、珍しい色に染まっていた。

 たった五週間で世界は変わったが、ベカは変わらない日常を過ごしていた。

 

 今日は、アーモの門出の日。

 マンフリートは今日も予定が詰まっているらしく、受け取ったあと、すぐに帝都に戻らないといけないらしい。そんな慌ただしい生活に浸かりたくはないなとベカは思った。

 日の出と共にアーモを引き渡す。

 その前に最後の散歩をしよう。

 竜舎に行くと、なにも事情を知らないアーモはぐっすりと眠いっていた。


「おい、起きろアーモ! 散歩の時間だ」


 ベカに起こされたアーモは眠そうに半目で大きくあくびをした。

 アーモに鞍を取り付けると、開閉壁を上げた。外からほんのりと冷たさと暖かさを含んだ風が流れ込んでくる。


「いいか、お前はもうここには戻ってこないんだ」


 外からアーモがお世話になった部屋を眺めた。一部、壁がいびつなところがある。たしかあそこは、アーモが小さい頃、餌を与え忘れたせいで、怒って壁を燃やし、穴があいてしまったところだ。直したがそれでも十分でなく、隙間風がすごかったのを、今でも覚えている。それに気が付いたのは、ソラに閉じ込められたからだった。


 アーモと一緒に寝ることになったときは嫌だったが、今では良い思い出だ。

 ベカはアーモに騎乗し、空へと飛んだ。

 暗くてよく見えないが、アーモだったら大丈夫だろう。昔はそんな信頼はなかったが、今ではすっかり相棒だ。信頼しあうのに、とてつもない時間がかかった。


 やっと、ようやく相棒と認め合えた気がしたのに、もう別れないといけない。


「なあ、このままどこか遠くに逃げないか?」


 羽ばたいているアーモにベカはそっと言った。


「そうだ、逃げるんだ。一緒に旅をしよう。オリエントなんてどうだ? 東の果てには面白い国があるらしい。昨日みた夢と違って、今は追っ手がいないんだ! お前の足ならにげきれるぞ!」


 ベカは気配を感じて後ろを振りかえった。だが、誰もおらず、虚空がどこまでも広がっていた。アーモはただただ飛んでいるだけだった。


 どこに行こうかとベカは考えた。逃げるのも悪くはない。お尋ね者となってしまうで、もう帝国には行けない。だからどこかの無人島か、遠い国で過ごすしかない。

 アーモと二人で。そうすれば、別れる必要はないし、アーモも戦う必要はない。最高だ。

 ふと、ソラが頭を過った。ベカは思い出した。ソラは何度もこんなことを考え、ときに実行し後悔したのだろう。彼女との約束。それは破れない。


「アーモ、川に逃げよう」


 オルダンブルグ飛竜養成所の北側を流れるこの川には、何度もアーモに落とされた。ときにはソラも落とされていた。色々と透けていたのが、懐かしい。

 初めての訓練もこの川でやった。犬のように小さく、リードをつけたアーモは、言うことを一切聞かず、走り回って挙句の果てに川にダイブし、ベカも川に引きずり込まれてびちょ濡れになったのが、初めてだった。


 ソラの主張が理解できず、仲たがいしたのもここだった。あれは、オルダンブルグにきてまだ日が浅いときだった。

 川に沿って、二人は東へと進んだ。養成所の北東には、地図にも載っていない、名の無い湖がある。その湖の真ん中には、屋根のない廃墟が佇んでいる。そこはソラが昔育てたドラゴン、ドヴォルザークが眠っている場所であり、ベカが初めてソラのことを理解した場所でもあった。


 アーモとベカは湖を見下ろした。まだ暗くてよくみえないが、そこに広がる湖があることをよく感じることができた。

 速度を落とし、暗い湖を眺める。


 やはり、アーモは頭がいい。きっと今日が別れの日だと理解しているのだろう。だからしっかりと、この景色を目に焼き付けているのだろう。アーモにも懐かしいと思える感受性があるのだろうな。とベカが思ったときだった。


 突然、アーモがくるりと回って背面で飛びはじめた。準備をしていなかったベカは、そのまま湖へと落ちてしまった。湖は浅いので、水しぶきはほとんど上がらず、衝撃も吸収されなかった。


「イッてええッ! 何するんだ!」


 ベカはアーモに怒鳴った。満足そうな笑みを浮かべたアーモは頭上を通り抜けると、そのまま廃墟に着陸した。


「本当に吞気なやつだな」


 ぶつぶつと言いながら、ベカは目に入りそうになった水滴を拭うと、廃墟へと向かった。やはり、アーモは今日が最後だというのを、わかっていなかったのだ。湖を眺めていたのも、人を落としても死なないかどうか計算していたんだ。まったく、あのドラゴンには、心というものがないのか。とベカは思い直した。


 アーモはじっとその墓を眺めている。ドヴォルザークの墓石の隣に、もう一つ、新しい墓石が建てられていた。そこいは『ニクルここに眠る』と書かれている。


「ニクル……」


 あいつは可愛い顔をしていたが、それに似合わない強さを有していた。きっと、オルダンブルグの職員があの爆発で誰も死ななかったのも、ニクルがなにかをしたからだろう。そしてアーモを解き放ち、敵に無惨に殺されたのだ。


 なにかとても大切なものを失った気がする。

 アーモはここからの眺望が好きでこの五週間よくベカとここに来ていた。そういえば、ここに来るたびに、やつに落とされていたんだった。


「この湖に落とされるのも、これが最後かもしれないな」


 ベカはぼそりと呟いた。

 日が昇り始めたみたいだ。真っ黒な空が青さを取り戻し始めた。それと同時に、湖の鏡も青く反射し始めた。日の出とともに、アーモを渡さなければならない。もう、戻らないといけない時間がやってきてしまった。短い逃亡はもう終わりだ。

 馬鹿みたいな思い出ばかりだ。


「さあ、行くぞ」


 ベカがアーモに乗ろうとしたときだった。アーモはゆっくりと一歩後ずさりをすると、お座りをした。


「どうした? アーモ? もう行くぞ?」


 アーモのつぶらな瞳はしっかりとベカを捉えている。アーモは動こうとしない。


「お座したら、俺が乗れないだろ?」


 ベカは、アーモの手綱を引っ張った。だがアーモはかたくなに動こうとしない。


「やっぱり、わかるのか?」


 アーモはじっと、ベカを見つめている。表情はいつもと変わっていないはずだ。だが、どこか悲しそうに見える。

 ベカは鼻で笑った。


「やっぱり、わかるんだな。お前、悲しんだろ? でもな、絶対泣くんじゃないぞ。俺も決めたからな、絶対に泣かないって。男の約束だ相棒」


 ベカはそっとアーモを撫でた。すると、アーモは口を突き出してきた。なにかを吐き出そうとしているのだろうか。手を出すと、アーモは手のひらに粘液の混じった気色の悪い物体を置いてきた。それはネズミだった。


「お礼か? 肉は好きだけど、ネズミの肉は食べないんだ。でもありがとうな」


 二人はオルダンブルグ飛竜養成所へと戻ったころには、空の東側が赤く染まりはじめ、太陽が昇り始めていた。オルダンブルグの象徴である、三つの山の頂上を朝日が照らす。太陽が昇るごとに、赤く照り映える領域が地上へと広がっていく。


 俺は泣かないさ。ベカはそっとネズミの死体を捨てた。

 養成所の入り口には桜並木があり、すっかりと満開だった。空に雲は一切ない。

 門出には絶好の天気だ。

 ベカ、アーモとマンフリートの三人だけが、養成所の門にいた。朝日は直接は届かないが、暖かい風がふわりと頬を撫で、山のほうへと抜けていく。ムサ山の峰が真っ赤に染まっている。


「それじゃあ、アーモは確かに引き受けたよ。よろしくねアーモ」


 マンフリートはそう言うと、騎乗した。だがすぐに飛び立とうとはしなかった。彼はベカとアーモの別れを邪魔しないよう、息を潜め二人を見守った。


 ベカとアーモは向き合った。

 ゆっくりと、アーモの背後から朝日が上がり、オルダンブルグを照らした。


「お別れだな、アーモ」


 ベカはアーモを見上げた。

 最初は犬みたいに小さくて生意気だったアーモが、いまではこんなにも大きく生意気に育った。お前とは色々なことがあった。楽しいことも悲しいことも辛いこともたくさんあった。この二年間でたくさんあった。たくさんありすぎた。


 でも、やっぱり一番覚えているのは、バカみたいなことをしたことだ。本当に俺もお前もアホみたいなことをたくさんした。

 やっと、やっと信頼し合える仲になったのにな……


「なんだよ……」


 思い出と共に体の内から涙があふれてきた。


「太陽が眩しくてな、変な汗がでてきたよ……」


 こらえても。こらえても。涙がとまらない。どんなに我慢をしても、涙が流れてしまう。


「泣かないって……泣かないって決めたのにな。約束したのにな。俺が泣いてどうすんだよな……」


 アーモはそっと頬に流れる水を舐めてくれた。


「やっと、信頼し合える相棒になったのにな……」


 ベカはアーモの顔をそっと手で包んだ。岩のように硬い肌、なんでもかみ砕く強靭な顎、すべてを燃やし尽くす火と勇敢に飛ぶ翼。

 お前は大丈夫だ。なんでもやっていける。


「バカすんじゃないぞ……迷惑かけるんじゃないぞ。お前ならなんでもできる」


 ベカは涙の混じった声でアーモに囁いた。


「さあ、行ってこいッ!」


 遠くからやってきた風が地面からふわりと流れた。その風は桜を巻き上げ、アーモを空へと押し上げる。


 空気を揺るがすような咆哮が、オルダンブルグを駆け回った。

 巨大なドラゴンの影は、翼をはためかせながらみるみる離れていく。


 雪のように舞う桜のなか、ベカはドラゴンの影を目で追った。遥か遠く、地平線の彼方まで。


 ドラゴンの影が見えなくなるまで。


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