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ベカは正午頃、大量のうんこを頭からかぶった。
もちろん、生まれてこのかた、茶色い物体にまみれることなど一度もなったし、浴びることになるなど、想像すらしていなかった。
「ほんとマジで最高だよ」
額についた糞を糞のついた手で払うと、彼はため息をはいた。あまりの臭さに鼻が曲がりそうだったが、不思議なもので、すぐにニオイに慣れてしまっう。
どうしてこうなったんだ。
決断するのに十六年。帝都からここまで来るのに、徒歩や荷車で二日。ここ——オルダンブルグ飛竜養成所——は憧れつづけたドラゴンがたくさんいるところで、長い月日をかけてようやくたどり着いた夢の場所なのだ。
養成所に到着して早々、ベカは一人の女の子を見つけた。
彼女は背丈よりも一回り大きい、茶色く悪臭のある物体を山盛りにつまれた木箱を持ち上げようとしているが、重くてなかなか持ち上がらない様子だったので、彼は「手伝おうか?」と声をかけたのだった。
その結果がこのありさまだ。ドラゴンの糞を頭からかぶってしまい、女の子は、糞はかからなかったが、仕事が増えてしまったため嫌そうな顔をしている。それを見たベカは、
「本当にごめん。俺ちょっと不器用で、ドジっ子みたいな……ハハハ」
「笑いごとじゃないでしょ……」
真っ赤な髪と瞳をした女の子は、呆れた表情を浮かべながら、鋭く冷たい声で注意すると続けて、
「とりあえず私が後始末をするから、あなたは外の井戸で体を洗って。においは三日くらい落ちないと思うけど、今のままよりはいいでしょ」
「ああ、すまない。あの質問なんだが、ダラットさんはどこにいるか知ってる?」
「あの事務所にいるよ」と彼女は奥にひっそりとそびえている木造の建物を指さした。
「すまない、ありがとう」
「見ない顔だと思ってたけど、やっぱりあなたは、今日来る予定の新人さん?」
「そうだよ。俺は『ベカ』だ。よろしく」と握手をしようと手を差し出したが、茶色く汚れていることに気が付き、すぐに引っ込めた。
「じゃあ、井戸で水浴びたら、すぐに事務所に行った方がいいよ」
「どうして?」とベカは聞き返したが、聞こえていなかったのか、はたまたわざと聞こえないフリをしたのか、彼女はそのまま用具を取りにどこかへと行ってしまった。
「オルダンブルグ飛竜養成所にようこそ、ベカくん。さあ、働くためにこの契約書にサインしてくれ」
熊を軽くデコピンで倒せそうなほどの大男、ダラットは、人差し指と親指でつまんだ用紙をそっと机に置いた。あまりに体が大きいので、天井の照明から発せられる光が体で遮られてしまい、部屋全体を暗くした。壁には、これまた巨大で狂暴そうなドラゴンの頭の剥製が、どうどうと飾られている。
「あの、一つ質問しても?」
ダラットの圧倒的な重圧感に動揺しながらも、ベカは小さく手を挙げた。
「もちろんだ。質問はいいことだよ。なんでも聞いてくれ」とダラットはなんでもかみ砕きそうな歯を剝き出して微笑んだ。
「あの……ここってドラゴンを狩るところですか?」
ダラットは天狗のような真面目な表情になった。
まずい質問しちゃった? と、委縮するベカ。
「バッハハハハハハハハハ」
ダラットはとつぜん笑い始めた。訳がわからなかったベカも、強引に笑顔を作り、「ハハハハ」と声を出しながらひたすら頷いた。
「そんなわけないでしょ」
今度は鬼のような顔になった。
「ですよね」
ダラットは立ち上がると、扉の向こうに行ってしまった。これはまずいのでは。
ハンマーでも持ってきて、俺はつぶされてしまうのか。あのドラゴンのように剥製になってしまうのでは!
ベカの心配をよそに、今度は大きなコップを載せたトレンチを持ってあらわれた。
「まあ、そんな緊張しなくていいよ。これ、飲んで落ち着いて」
彼が置いたのは、牛乳だった。予想は大きく外れていた。
「そういえば、オルダンブルグは牛乳で有名でしたね」
「そう、うちは酪農家さんに土地を提供していてね、好きなだけ飲めるんだ。それにしても、いくら英雄さんでも、大男にはビビるんだね」
「ええ、まあ……俺って有名なんですか?」
「知ってるひとは知っているって感じだね。でも、ここは田舎だから知ってる人はほとんどいないと思うよ」
ベカが一口飲んで落ちつくと、ダラットは大きな椅子に腰かけた。
「で、話を戻すと、ここは飛竜養成所。文字通り、ドラゴンを育てるところだよ。確かに、人を何人も殺していそうって私はよく言われるけど、殺すことよりも育てることのほうがずっと好きなんだ。もちろん、人を殺したことなんて一度もないよ」
ダラットは笑顔を浮かべた。それはとても優しく、穏やかだった。
安心したベカは契約書にサインした。ダラットは署名を確認すると、
「よし、『ベカ・エステ・ヌーベ』これできみは新人ドラゴントレーナーだ。仕事は明日から。長旅で疲れているだろう? 今日はゆっくり休むといい。きみのように魔法を使える人は貴重だから、期待しているよ。それにしても、きみは随分とコクのあるクリーピーな香りがするね。日常的にうんこでも食べているのかい?」
ベカは苦笑いしながら、
「いえ、違いますよ。先ほどドジってしまって、頭からドラゴンのうんこをかぶってしまったんです」
「なるほど、それは運がついてなかったね。でもよかったじゃないか。これでうんがついたんだ」
「ええ、そうですね……」
「あと、忘れてた。ベカくんには一年間サポーターがつくんだけど……」
「サポーターですか?」
「トレーナーのトレーナーみたいなものさ、きみは右も左もわからないだろ? ドラゴンを育てるのは、犬を育てるのより難しいんだ。専門知識も必要だしね。だから新人のトレーナーには当分の間サポーターがつくんだ」
ベカは飄然と「そういうことですか」と言ったが、あまりピンときていなかった。ドラゴンの専門知識とはどんなものだろうか。お腹を撫でると、気持ちがって仰向けになるとか? ドラゴンに与えちゃいけない食べものとか? そもそも犬を育てるのと、ドラゴンを育てることにどんな違いがあるのかすら、わからなかった。
「それで、きみのサポーターは……ソラに任せることにしたんだが……」
ダラットはなぜか歯切れが悪くなり訥々と話した。怪訝に思ったベカは、「その、『ソラ』になにか問題でも?」とつづきを促した。
「そうじゃない……きみ、年は十六だったよね?」
「はい、いまは十六で、今年十七になります」
「ソラはいま十五で、私の娘なんだ」
ダラットの娘……嫌な予感がした。いまにも人をさらって食べてしまいそうな、凶悪面を首に乗っけた大男の娘だ。きっと、これまた巨大で、馬の脚を引きちぎって爪楊枝のかわりにして歯糞をほじくりだすような、男勝りで下品な女の子に違いない。
ベカは腕を組み、貧乏ゆすりをしながらせいいっぱい笑顔をつくると、
「大丈夫です。神に誓って、娘さんに手を出すことはありませんよ」
ダラットは首を横にふった。
「そういうことじゃないんだ。ソラは、根はとても優しい子なんだが、ちょっと消極的でね……」
なんだそういうことか。
「俺はこの仕事にとても興味があってここにきたんです。命の危険がない限り、自分から積極的に質問して、仕事に取りくみますよ」
ベカの嘘偽りない透徹とした瞳を見たダラットは、「そうか、じゃあ、ソラと共にがんばってくれ。あの子には事務所の前で待つよう指示しているから、外にいるはずだよ。多分、最初はここの施設の案内をしてくれると思う」
「わかりました」と彼は意気揚々と席を立った。