ポプラン薬局の調剤師
メルフォルト王国は治安がいいと周辺の国々から評価されている。しかし、其処彼処も秩序が保たれているわけではない。ある地域では朝と夜では別の顔を持っている。
「お願いですから、そこをどいてください!」
若い娘の悲鳴のような声が響きわたった。
「いいじゃねえか、ねえちゃん。ここで会ったのもなにかの縁だ」
大柄な男と、背の高い痩せぎすの男二人に行く手を阻まれて赤毛の女は途方に暮れていた。
「俺たちの相手をしてくれたら礼ははずむぜ」
「どうか他所をあたってください。そこの角を曲がれば喜んで相手をしてくれるお店がたくさんありますから」
男たちの「相手をする」というのは、酒の酌をしたり、彼らの愚痴に耳を傾けたりする程度では済まないとわかっている口ぶりだ。
「何が気に入らないってんだ! 金は出すって言ってんだよ」
「お金の問題じゃ……きゃ、やめて!」
大柄な男が赤毛娘の手を引っ掴んで羽交い締めにしてしまった。青くなった娘は必死でもがく。
「誰か、助けて!」
道行く者は娘たちを素通りしていく。夜の繁華街で酔っ払いに絡まれている女性の姿は珍しいものではなかった。いちいち助けていたらきりがないというのが彼らの考え方なのだ。
「おい、もう加減にしろ」
「なんだテメ……うがぁっ、いでででっ」
娘を羽交い締めにしていた男の太い腕を何者かが捻りあげた。力が緩んだ隙に、娘は男の腕から逃げ出した。
「何しやがる!」
思わぬ敵が現れたことに動揺した痩せぎす男はナイフを取り出した。刃を向けられた黒髪の男はひどく冷静だった。
「やめておけよ。酔いが覚めてから後悔するぞ」
男の紺鉄色の制服を見て、赤毛の娘は声をあげた。
「騎士さま、どうかお助けください!」
腰に剣を提げ、制服の左胸には警備隊の刺繍が施されていた。年齢は二十代半ばでまだ若手の域だが、その目はひどく落ち着いている。
「うるせぇ、警備隊なんぞは引っ込んでろ!」
制服姿の男は、ナイフの切っ先を軽くかわすと相手の顎に一撃を加えた。痩せぎすはがっくりと崩れ落ちる。足元に転倒した仲間の姿に大男の酔いは覚めはじめたようだ。音もなく鞘から抜かれた剣を向けられ、顔から血の気を失っていく。
「ディラン、相変わらず素早いな」
警備隊の男が振り返ると、同じ制服姿の男たちが駆けつけてきた。援軍が加わると大男は反撃しても無駄であると察して警備隊に包囲されるままになった。
娘は大急ぎでディランと呼ばれた警備隊の男に駆け寄ってくる。
「騎士さま、ありがとうございました!」
「いや、俺は騎士とはちがう。ただの警備隊の剣士だから……ん?」
黒髪の剣士ディランは、あらためて自分が助けた娘の顔を見ることになった。若いとはいってもまだ十代半ば。少女といってもおかしくない。化粧っ気もなく、夜の商売とは無縁の質素な服装だった。夜の街では浮きまくっている。
「酔っ払いの目にもついて当然だ。ここで何をしてたんだ?」
「父が持病で苦しみだしたものですから、この近くのポプラン薬局に薬を用意してもらったんです」
「それで先を急いでたのか」
娘が落ち着かないのは、こうしている間にも父親の容態が気がかりだからだ。
「薬はもう手に入ったのか?」
「はい、ここにこうして……」
娘の手には、両の手のひらで包み込めそうな紙袋が収まっていた。しかし、話を聞くと家は娘の足でも二十分近くかかるという。
「ロイ! 馬を貸してくれ」
後から駆けつけた本当の騎士から借り受けた馬にディランは颯爽と跨がった。すぐに娘へと手を差し伸べる。娘も、一緒に馬に乗れと言われているのだと察したが、馬に乗った経験はないのだろう。躊躇して彼へ手を伸ばせずにいる。
「馬の足ならひとっ飛びだ。親父さんが心配なんだろう?」
娘は父親のことを思い出し、意を決してディランの手を掴む。引き上げられるように馬に乗った赤毛の娘に、馬を貸したロイという男が声をかけた。
「お嬢さん、そいつに惚れないように忠告しておくよ。ディランは魔女に心を奪われてるからね」
ディランの見た目は悪くなかった。黙ってそのへんに立っていれば若い女性たちの視線を集めるくらいわけないだろう。同僚もそれがわかっているからこそ女性たちに釘を刺すのだ。
「余計なことを言うな」
ディランは馬を駆り、娘の自宅へと急いだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
翌朝、夜勤を終えたディランを昨夜助けた赤毛の娘が訪ねてきた。娘はエイミーと名乗り、感謝の言葉を何度も繰り返した。
「親父さん、その後調子はどうだ?」
「はい。薬を飲ませてから落ち着いています」
昨夜エイミーは、ディランに家に送り届けてもらうと、買い求めた薬をすぐに父親に与えた。悪寒と胸の苦しみに蒼白していた父親の顔は見る見る血色を取り戻し、穏やかな寝息を立てて熟睡していたと話してくれた。
「急いで薬を届けた甲斐があったな。薬もずいぶんよく効くものらしい」
「親切な薬屋さんなんですよ。お金だって他の薬屋と大差ちがいはないんです」
疲労で倒れた父親の体調は、よくなったかと思えば昨夜のように発作が出ることが増えた。
「効き目があるのはたしかです。薬を飲ませた後は本当に楽になって症状も安定します」
「医者は親父さんの症状を何て言ってるんだ」
「体力が落ちたことで、内臓も衰弱しているんだろうと」
そこで発作が誘発されたと医師に説明されたという。
「その医者の名前を教えてくれ。それから昨日行ったっていう親切な薬屋にも案内してもらえるか?」
「ええ、喜んで!」
ディランの言葉にエイミーの顔が輝いた。頬は薔薇色に染まり、彼女の夢見るような眼差しが自分に注がれているなどとは当の剣士は少しも気づいていないのだ。
エイミーに案内でやってきたポプラン薬局は、昔ながらの小さな薬屋だった。外観はこれといって変わったところはない。難を言えば、道一本を挟むとすぐに飲み屋や娼館が並ぶ繁華街に面していることくらいだ。
「なるほど。これじゃ夜酔っ払いに絡まれるわけだ」
年若い娘がこんな道を歩いていれば客引きでもしていると勘ちがいされるかもしれない。
ディランは躊躇うことなく店の扉を開けた。
「いらっしゃいませ!」
扉の開閉音に気づいた若い店員がすぐにディランたちを出迎えた。年齢はディランと同じか少し年上かもしれない。色が白くそばかすが目立つ優男だ。青年は警備隊の制服を来たディランを見て警戒心を露わにしたが、一緒にいたエイミーへの挨拶は欠かさなかった。
「やあ、エイミー。またお父さんが発作でも起きたのかい?」
「いいえ。今日はとても顔色がいいし、体を起こしても平気よ。昨日酔っ払いから助けてくれた警備隊の方に、このお店を紹介してたのよ」
青年は怪訝そうな顔でディランを見る。
「どうして警備隊の人がうちの店に?」
「うちで雇っている料理人が風邪を引いてるからいい薬があればと思ってな」
ディランの言葉に、青年は胸を撫で下ろした。
「薬をお求めでしたか。僕はてっきり何かの取り締まりかと思って……薬屋には時偶役人が抜き打ちで検査に来ることがあるものですから」
申し訳なさそうに青年は頭を下げる。
「僕はこの店の雇われ調剤師でビル・リードといいます」
「俺は王都警備隊第三班のディラン・ホワイト。さっき言ったように風邪によく聞く薬がほしい。煎じ薬でもかまわない」
「煎じ薬?」
ディランの注文に、ビルは目を丸くした。
「薬草茶のことですか? なくもありませんが、ふだんから飲むことで体調を整えるものですからね。そんなことを言うお客は初めてですよ」
ビルはにっこり笑って、在庫の棚からいくつかの商品を見繕って戻ってきた。
「薬にお詳しいようですね」
「いや、詳しい友人がいるってだけだ。何度薬草の説明を聞いてもわけがわからない。どれも似たような名前に聞こえる」
「あはは、素人には難しいですからね」
ビルは使用人の風邪症状を聞き取ってから、最も適した薬をディランに勧めてくれた。
「どうかお大事に」
「ありがとう」
代金を払ってディランはそのまま店を出た。人当たりがいい店員だ。常連であるエイミーに対して客以上の感情を抱いているように見えたが。
「ディランさん、薬屋さんはもういいんですか?」
後から店を出てきたエイミーは心なしか不安そうだ。
「今ので十分参考になった。それと親父さんのかかりつけの医者を教えてくれ」
「クラドック先生です。ジョセフ・クラドック。ここから一番近い診療所を開いてます」
エイミーの答えに、ディランは何度かその名前を小声で反芻した。
「エイミー、昨夜親父さんに処方された薬を一つ分けてほしいんだ。もちろんただとは言わない。代金も払う」
「いえ、そんな……ディランさんからお金なんてもらえません! 薬はいくらでもお譲りします」
彼女の真剣な眼差しに、ディランは呆気にとられてしまった。エイミーの家の前で数分待っただけで、彼女は例の薬を手に戻ってきた。
「ありがとう。必要な物は手に入った。きみは親父さんの看病に戻ってくれ」
エイミーはあてが外れたような顔で、とぼとぼ家に帰っていった。
「薬もあるし、医者に会ってから手配するか」
大きく伸びをしたディランは、迷わず自分が目指した方向へ歩きはじめた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
その日の夕方、ディランは王都警備隊の詰所で書き物に追われていた。
「ディラン、愛しの魔女へ恋文か?」
背後から声をかけた同僚にディランは冷たい視線を投げかけた。
「列記とした仕事の依頼だ」
エイミーから入手した薬の包みをひらつかせる。
「昨日助けた女の子の件か。病気の親父さんもよくなってきたんだろ?」
「正確には、よくなったり悪くなったりの繰り返しだ。かかりつけの医者とやらに話を聞きに行ったんだが、ひどいヤブ医者だぞ、あれは!」
初老の医者ジョセフ・クラドック氏はその界隈では有名らしい。ディランが患者を装って診察を受けると、疲労と風邪という診断を受け、よくある風邪薬だけが処方された。答えありきの医師の説明をディランは不審に思ったほどだ。近所の評判もあまりよくない。高飛車な態度で、患者は医者の言うことを聞いていればよくなると言わんばかりだ。
「何でもかんでも風邪か疲労って……あの子の親父さん、危ないんじゃないか?」
同僚の声にディランは大きく頷いた。
「薬が一時的に効くのも妙なんだ。症状が安定したと思った矢先発作が起きる。いい加減な見立てで処方された薬が、効果があるとは思えない」
事情を聞いた同僚ロイが眉根を寄せる。
「医者と薬屋が結託してるってことか?」
「そこまでは言ってない。その可能性の有無をポーシャに調べてもらう」
書き終えた便箋とエイミーからもらった薬一包を封筒に入れて封をした。あとは伝書用の鳩かフクロウに託すだけだ。
「ディラン、お前の魔女信奉の精神には頭が下がるよ。ずいぶんと惚れ込んだものだなぁ」
ロイのからかいの言葉をディランは受け流すより他なかった。
三ヶ月前、ディランは酒場での乱闘騒ぎの仲裁に入ったのだが、一方が魔法使いだったのが不運だった。ディランはアヒルに姿を変えられてしまい、魔法をかけた本人でさえ解呪できなくなってしまったのだ。
魔法使い協会の最高理事からの紹介で、ディランを元に戻してくれたのが、ポーシャ・ウォレン――星屑の森に住む魔法使いだった。その技術の高さゆえに各地で魔女と呼ばれている。魔法使いとしての知識・技量もそこらの魔法使いでは歯が立たない人物だった。しかも美人。ディランは恩人である彼女に感謝と尊敬以上の感情を抱いている。本人は口に出したことはないが、周囲から見れば一目瞭然だと言われる始末だ。
ポーシャの得意分野は解呪と薬草学である。王都で働いていたときは、薬局でも働いていたというのだから彼女に意見を聞かずにはいられない。
「意見が聞きたいから手紙を出すまでだ。恋文じゃない」
そう否定したものの、柄になくディランの頬は赤くなっていた。
三日後。ディランは再びポプラン薬局を訪ねた。
「いらっしゃいませ……ああ、警備隊の!」
ビルは前回同様の笑顔でビルを出迎えた。
「その後、使用人の方のお加減はいかがですか?」
「ここの薬を飲んですっかりよくなったよ。あんたは患者の症状に合わせて正確に薬を処方できるんだな。医者以上に見立てがいい」
ディランの賛辞にビルは照れくさそうに頭を掻いた。
「だから不思議で仕方ない。どうしてエイミーの親父さんにこんな薬を処方したのか」
ディランが、エイミーから譲り受けた父親の薬包を差し出すとビルの顔色が変わった。
「どういう意味ですか? こんな薬って……僕はクラドック先生の処方に合わせて薬を出したまでですよ」
「あの先生、相当のヤブ医者だ。どんな症状を訴えても、疲れだ風邪だと適当な診断しかしない。俺も風邪薬を押しつけられただけだ」
ビルはぎょっとして薬包とディランの顔を交互に見た。
「クラドック先生に会われたんですか?」
「一度は患者を装って。今朝は警備隊の隊員として面会を申し込んだ。案の定風邪薬しか処方してないと証言してくれたよ」
青年はいよいよ青くなった。
「薬に詳しい友人にこの薬を調べてもらった。風邪薬より胸の病に効果がある成分が入っているそうだな。だが、摂りすぎると副作用が出る場合があると言われている」
ディランが読み上げたのは、早朝特急のフクロウ便でポーシャが寄こした返信だった。
「だから何だっていうんです?」
ビルは顔を強張らせ反論した。
「ただ薬に詳しいってだけの友達がそう言っているだけでしょう? それとも、お友達は調剤師の資格でもあるんですか!」
ぶるぶる震えた手で、ディランのことを指さし喚いた。素人の分析など当てにならないと鼻で笑う。
「そいつは、この国で認められた一級調剤の資格を持っている。魔法薬草学にも精通して協会からの認定されているんだ。王都の薬屋で働いた経験もある」
「魔法薬草学……それじゃ、あなたの友達っていうのは魔法使い?」
ディランが頷くと、華奢な青年は肩を落とした。しばらく両者の間に沈黙が流れた。
「エイミーのお父さんは、若いときに胸の病気を患っていたんです」
ぽつぽつとビルが話しはじめた。
「体力が落ちて倒れたというのにクラドック先生が処方したのはただの、格安の風邪薬だけ。効き目があるはずがないんだ!」
「だから、勝手に処方を変えたのか。医者さえ身に覚えのない薬を混ぜて――」
ビルの体がびくりと揺れた。ポーシャの調べでは、エイミーの父親に処方された薬の中には炎症を抑えたり鎮痛作用のある成分と一緒にわずかに毒性を持つものが含まれていたという。
結果、ビルは微量ではあるがエイミーの父親に毒を盛り続けていたことになる。
「少しの毒でも毎日飲み続ければ、やがて発作を誘発する原因になる。それさえなければエイミーの親父さんはもっと前に回復していたはずだ」
ディランの追及に、ビルはバツが悪そうに目を逸らした。
「……僕に罪状を突きつけにきたんですか?」
「この薬の処方を金輪際やめてもらいたい。それを頼みにきただけだ」
剣士の要求にビルは目を瞠った。
「やめるって……それだけ? 僕を逮捕しないんですか?」
ビルは肩すかしを食らったような顔をしている。
「今言っただろ。やめてくれると誓ってほしい。あんたは本当に優秀な調剤師だと思う。病人やけが人にはそれが一番大事なことだ」
「理由を聞かないんですか?」
「大体想像がつく。気持ちはわからなくもないが、結果として人の命を弄んでいることが問題なんだ」
ビルはハッと息を飲んだ。ディランの目は冷ややかな炎を称えている。相手の非を見抜いている目だった。
「わかりました。この薬は二度とエイミーには渡しません。けれど、クラドック先生にかかり続けたら、彼女の父親が快方に向かうことはないでしょう」
「別の診療所を紹介しよう。腕がよくて、診療代も良心的な所を知っている。俺も子どものころによく世話になったところだ」
ディランの提案にビルは安堵したような、それでいてがっかりしたような力ない笑みを浮かべた。
「よかった。それなら本当にあの薬は要らなくなる……ありがとうございます」
ビルは深々と頭を下げた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ポプラン薬局からビル青年が姿を消したと聞いたのは、一週間後のことだった。それを伝えにきたのはエイミーで、薬局の経営者が預かっていた彼からの手紙を受け取ったらしい。
「私宛の手紙と、ディランさんに宛てたものがあったんです」
ディランは、エイミーが届けてくれた手紙に目を通した。
『ディラン・ホワイトさま
先日は寛大な配慮をいただきありがとうございました。
あなたは薬の処方について理由を聞きませんでした。あなたなりの優しさとわかっておりますが、僕は弁解の余地を失いました。この際、あなたにすべてぶちまけてしまいたいのです。
僕は、エイミーが好きでした。彼女が最初に薬局へきたときに恋に落ちてしまったのです。父親を献身的に看病する彼女を影ながら見守っていました。
ところが、クラドック先生はまともな処方もできないヤブ医者です。僕はこれまでの経験で患者の病気を見抜くことができましたから、彼女の父親に最適な薬を作ることができました。エイミーの父親は順調に回復していましたが、そうなると僕の役目は終わってしまいます。父親が仕事に戻り、エイミーは診療所にも薬局にもこなくなる。彼女と会えなくなってしまう。想像しただけで耐えられませんでした。
だから、薬の効果を半減させる成分を混ぜるようになったのです。最近市場に出まわり出したもので、毒性のあるものだとは思いませんでした。細心の注意を払いながら処方を続けてきました。あなたが薬局にこなかったら、このまま薬を作り続けていたでしょう。
あなたの言葉で目が覚めました。最初は良心から薬を処方していましたが、理由はどうあれ僕が病人の命を弄んだことは紛れもない事実です。
調剤師として一からやり直すために、僕はポプラン薬局を去ることに決めました。エイミーが困ったときには力になってあげてください。お願いします。
ビル・リード』
最後まで読み終えると、ディランは便箋を畳んで封筒に収めた。
「ビルの親御さんが体を壊したとかで、田舎へ帰ったと聞きました。ディランさんへのお手紙には何て書かれていました?」
「いや、ビルの頼みできみに新しい医者を紹介したんだ。そのことに対して礼を言ってくれたんだよ」
ディランは、ビルとの約束どおり信頼できる医者をエイミーに紹介した。口は悪いが、腕は確かな町医者だ。患者に寄り添う男の生き方に好感を覚え、幼いころから慕ってきた人物なのだ。
「おかげで最近は父の体調も良くて。昨日なんて私に黙って近所を散歩してきたんですよ」
「ずいぶん良くなったものだな。きみもやっと肩の荷が下ろせるな」
「ええ、本当にありがとうございました」
エイミーはまだ何か言いたげな様子だったが、もう一度頭を下げると警備隊の詰所から去っていった。
「勿体ないな。あの子、まちがいなくお前に惚れてたのに」
赤毛娘の背中を目だけで見送っていると、ロイが茶々を入れてきた。
「世界は広い。エイミーなら、もっといい男を見つけられるだろ」
彼女の気持ちにまったく気づいていなかったわけじゃない。力を貸してやりたいという良心もある。だが、それは人としての道義心からであってエイミーを女性として見ることはできなかった。
ビルの気持ちを踏みにじるような気がして余計な情けをかけるべきではないと思ったのだ。薬の成分についてポーシャからの手紙を受け取った際、動機も大体見当がついた。住み込みの店員とはいえ、ビルは真夜中に店を開けて薬を出してやるほどエイミーに肩入れしていたのだ。
「男ってのはバカだよな」
ビルが最初から自分の気持ちをエイミーに告げていれば、余計な薬の処方も必要なかったかもしれない。
「最初から愛の告白をしちまえばいいってか? お前こそ、思いの丈をあの魔女にぶつけちまえばいんじゃないのか」
墓穴だった。自分もバカな生き物らしい。ポーシャにまた手紙を書いて礼を言わなければと考えていたのだから。
エイミーの姿は詰所から見えなくなっていた。
「いっそ惚れ薬でもあればいいのにな」
ロイの言葉にディランは頭を振った。仮に惚れ薬なるものがあったとしても、使った時点で恋ではなくなってしまうだろう。薬で相手の心を縛ることと同じだ。
「恋愛に薬なんてあってたまるか」
ディランが空を仰ぐと、澄んだ青空に綿菓子のような白い雲が流れていくのが見えた。
完