アイドルの殺傷力偏差値(1)
6月末。
東京、六本木。
「―――――で、契約書の内容がどうだって?」
暗いオフィスのなかは、大きな窓から見える街の灯だけが唯一の明かり。
黒いフードを目深にかぶった細身の人物が、嘲笑するような言葉とともに、1つの白い冊子をひらひらとかざす。
この暑いのに長袖の、黒ずくめの曲者が、黒デニムの長い足を組んで座っているのは、ひっくり返された事務机の上。
机の下には、さらに書棚。そして最下層に、3人ほどの人物が下敷きになっている。
オフィスの中は荒らされ、まるでポルターガイストでも起きたかのよう。
周囲に転がる男女は、既に戦意を失い、ある者は後ずさり逃げる機会を伺い、ある者は曲者と目が決して合わないように頭を抱え床に伏せている。
「本当にバカだなぁ。
こんな小賢しい紙きれで、飼い慣らせると思うなんて」
曲者は笑い声をあげながら、契約書、の文字が表紙にある小冊子に、ライターの火をかざした。
ぼうっ……
と、大ぶりの火がつく。
その火を恐がることも熱がることもなく、指先でしばらくもてあそんでから、曲者は宙に放った。
ふわっと、火が空間を舞い、床にはたりと落ちる。
周囲の書類に引火して、火が広がりそうになる。
そこですかさず、火災報知器が音を立てた。
ジャアアアッ………
天井のスプリンクラーが水を撒きはじめたのを浴びながら、よっ、と、曲者は机からおりる。
「さよなら」
オフィスの扉を開けて出ていく曲者を止める者も、もはやなく。
スプリンクラーに濡らされた人々は、ただただ、信じたくない思いで呆けながら、目の前の惨状を見つめていた。
◇◇◇
7月頭、朝。
京都下鴨。
上泉邸。
大手スポーツ用品メーカー『新影』の創業者である上泉綱三が残した、美しい日本庭園と古風な武道場を備えた邸宅である。
その一角にて。
「おっはよぅ! 和希」
「ぐああっっ!?」
この屋敷に下宿する大学2回生の三条和希は、小学生家主の上泉知有に耳元でおはようを叫ばれるという新しい起こし方を食らって悲鳴をあげていた。
「…家主さん。
人間の耳には鼓膜というものがですね?」
当たり前のように自分の胸の上でマウントを取ろうとする知有に、長身の和希が遠慮なく上体を起こすと、知有が薄い掛け布団を握ったまま、こてんと後ろに倒れた。
130センチを少し越えたぐらいの体は、小学5年にしては小柄な方だろう。
「最近、和希の寝起きが悪いからなー。
新しいバリエーションを入れてみたぞ!」
「急所攻撃をバリエーションに入れないでください」
「今日は私、ミット蹴りたい!」
「はいはい」
和希は、くうっ、と伸びをした。
この知有とは、朝食前に軽く運動するのが習慣となっている。
1か月ばかり前。
この少女、上泉知有が、曾祖父から相続したこの屋敷で、下宿する武道家・格闘家を募集した。そこで行われた男女混合トーナメントを制し、晴れて下宿生第一号として入ったのが三条和希だ。
和希の当面の目標は、テコンドーでの昇段と、闇討ちとか果たし合いとは無縁の平穏な学生生活……である。
つい先日も闇討ちされたり、ここのところ最近昇段試験のパートナーに自主トレに付き合わされながらガンガンにしごかれたりしているが、実現可能なはず。たぶん。
◇◇◇
「今日は、和希は、サークルに行ってくる日だったか?」
知有が、ぱこ、ぱこ、とミットを蹴る。
武術未経験だが何かをやってみたいと言う知有に、和希はまず、テコンドーのやり方で前蹴り・回し蹴りを教えている。
やっているうちにやはり空手が良いとか別の競技が良いとか思うかも知れない。とりあえずやらせてみて、合うものを最終的に選べれば良いと思う。
最近知有は、和希のサークルの後輩で松濤館空手出身の、鈴鹿尋斗の型がお気に入りらしい。なので、伝統派空手もいいんじゃないかと思う。汎用性が高いし、オリンピックルールに合っているし、競技人口も多い。
「今日はたぶん軽めに終わりますね。
明後日、大文字山の大の字まで競走なんで」
「競走!? 山の上まで?」
「ええ。サークルのみんなで競走することになりました。
たぶん、鈴鹿がぶっちぎり1位だと思います」
「すごいなぁ、鈴鹿ってそんなに速いのかぁ。
でもなんでそんな競走を?」
「……まぁ、色々ありまして……」
和希としては、そのイベントが発生した理由含めて、ひきつり笑いにならざるを得ないのだが。
怪訝そうな顔で、知有はぽこぽこ蹴り続ける。
運命の(?)大文字山競走まで、あと2日(雨天順延)、であるこの日。
和希の所属サークルに大激震が走ることになる。
◇◇◇




