雨の夜には牙をむけ(3)
◇◇◇
平成29年度に内閣府が行った
「男女間における暴力に関する調査」
を参照すると、女性の7.8%、男性の1.5%が、「無理やりに性交等された被害経験」がある、と回答している。
すなわち、女性では13人に1人。
珍しいことではない。絶望的なことに。まったく、珍しいことではないのである。
そして、和希もまたその被害を受けた1人だ。
小学生の頃、生理が始まる前から、繰り返し。
その後遺症は、19歳になった今でも残っている。
というか、忘れた頃に和希を襲う。
『――――………三条、大丈夫か?』
上泉邸の武道場で、トオルと一対一で昇段試験の科目の練習をすることを決めたときも、大丈夫だと思っていた。
ここしばらく、一番仲がいい後輩とはいえ男の慶史と、長い時間2人でいても大丈夫だったから。
だいぶ自分の状態は安定している、信用している相手なら男でも大丈夫なのだろう。そう思っていたのだ。
確かにトオルが自分より腕力があることも、強い競技者なのもわかっていた。ただ、そこは同じテコンドー家だし、悪い人間ではない。それにトオルは和希が強制性交被害者であることを知っていた。
2人でいても大丈夫な相手、という認識でいた。和希は。
それが、この前の夜、急にきた。
上泉邸の道場で。
話し合いながら、体を動かしながら約束組手を2人で作っている途中。
ぐるぐると眩暈がして脳が気持ち悪くなって。
頭が、自分の頭が自分の言うことを聞かなくなる、最悪の感覚に襲われ。
和希は思わずうずくまる。
大丈夫か。と、トオルが心配して和希の背中をさすった手が気持ち悪くて。
――――手の大きさと力強さが恐ろしくて。
たえられず払いのける。
這うように道場の外に出て。
荒い呼吸で、外の空気を必死に吸って。
それ以上、練習はできなかった。
◇◇◇
「あれ? トオルさん、どうされたんですか?」
1回生、今井慶史が、人懐こく駆け寄ってきた。
今井慶史はトオルと顔見知りである。彼もまた、和希が強制性交被害者であることを知る数少ない人間だ。
よぉ、と、トオルが軽く手をあげる。
そして和希に、再び話しかける。
「前の武道場だとあれだけど、ここだったら三条も慣れてる場所じゃん。
人も通るし。1対1じゃないし。
サークルの時間が終わるまで待ってっから、昇段試験の練習、そのあとしよう。
9時まで空いてんでしょ、ここ」
「うん…」
「やってみて、それでもやばかったら慶史呼べばいいし。
練習の後は近くでメシ食ってるとかでしょ。すぐ来れる」
和希はさらに頷いた。
唐突な行動に見えたが、先日、和希の体調を悪化させたトリガーとなったものが何なのか、トオルなりに考えたうえでここにきているのだというのが分かったからだ。
男と、それもおそらく自分より強いと思われる男と、2人きりだったこと。
2人だけの密閉された空間、かつ、声を出しても人に届かない離れた位置であったこと。
慣れた場所ではなかったこと。
もちろん、身体的接触があったこともトリガーに含まれたのだろうが、昇段試験の練習において接触をゼロにすることは難しい。
ただ、和希にとって慣れた場所で、しかも精神安定剤的な後輩の慶史も近くにいることを意識すれば、気持ちは楽だろう。
トオルに理解があることが、本当にありがたい。
ありがとう、と和希が言おうとしたその時。
「……どちら様でしょうか?」
慶史ではなく、いつの間にか近くまで来ていた鈴鹿が、ずい、と、和希とトオルの間に入った。
「あ、おい、鈴鹿…」
「部外者ですよね」
と、鈴鹿がトオルに言う声は、低音、というよりドスが効いていた。低くつやのある美声だけに、ゾクッと、背中に寒気が走る。
「うん、だから」
普段愛想のいいトオルの口の端が、ぴき、っとひきつった。「練習終わりまで、三条を待ってるつもりだから」
「では練習後の時間に来ればいいのでは」
「今、休憩時間中なんだよね? その私語までは禁じてないんじゃないの?」
(これは…………?)
何がどうなっているのか理解しかねた和希は、とっさに、慶史の方に目をやった。
慶史も若干困惑気味の表情で、どうします?、と、和希に口パクしてきた。
一言で言えば、なんだこれは、である。
挑発に乗りやすい和希と違い、トオルは多少の挑発ならば、わりと見逃せる男だ。そこのところ、さすが世界2位だけあって器の大きさはだいぶ違う。
そのトオルが、鈴鹿の言葉を流していない。
それは、流すには、あまりに強い敵意を、というか、わかりやすい殺気を、鈴鹿が放っているからだ。
無愛想だが礼儀はきっちりしている鈴鹿が。
おかしいのは、トオルではなく、鈴鹿なのだ。
一体何が起きているのかわからないが、この2人の間に入って止められるだけの戦闘力があるのは、この場にいる中では和希だけだ。
とりあえず、止めるか、と和希が手を伸ばしたその時。
「あ、もしかして、鈴鹿ご指名ですか!?」
「!?」
そこで、一切空気を読まない能天気な言葉をかけた男がいた。
副将、新橋である。
「鈴鹿も強いんですよー。
伝統派空手だったかな。
ほらほら、これだけイケメンなのに、この顔でさらに三条と互角に闘えるんですよ!
もし闘いたかったら」
おもいきり事態をややこしくする気しかしないことをいってくれる副将の後頭部を思わずぶん殴りそうになったが、その和希の腕を懸命に慶史が止めている。
「………互角、ではないですが」
鈴鹿が続けた。「組手は毎週やらせて頂いています」
「……へぇ?」
にこ、と、トオルが笑った。
笑ったけれど、あの目は、狩りにいく肉食獣の目だ。
不吉な予感しかしない。
何がどうして、こうなった。
そして、トオルは口を開く。
「じゃあ、よかったら、お相手してもらおうかな」
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