雨の夜には牙をむけ(1)
雨の音がする。
とっくに起きていたけれど、雨の音が心地いいから、眠っているふりをして聴いていたかった。
梅雨の時期。
旧暦では五月。
五月雨。そして五月闇。
この屋敷は、雨の音がよく聴こえる。
そう思って天井を見つめていると。
「おっはようっ」
雨の日も元気な家主が、和希の頭上のふすまをばーんと開けた。
「…………おはようございます」
今日も家主に、薄手の布団の上にぽーんと乗っかられるまま、三条和希はあいさつした。
猫のように和希のからだの上を這う。
ぱっちりした目と、可愛らしく元気な声、柔らかくさらさらの髪が特徴的な家主は、小学五年生の少女、上泉知有。
日本屈指のスポーツ用品メーカー『新影』の創業者の曾孫で、京都下鴨の広大な屋敷と多額の財産を相続している。
多少の紆余曲折を経て、その屋敷に下宿することになったのが、いま布団にいる大学2回生、三条和希だ。
「和希和希、今朝は朝から良いものが見れたぞ!」
「良いもの?」
ジャージ姿の知有に和希が聞き返すと、知有の返事のかわりに、
「おはようございます!和希さん」
という少年らしい伸びやかな明るい声と、
「おはようございます」
と、対照的に低く響く男の声が頭上から聞こえた。
「……おはよう」
知有を落とさないように、ゆっくりからだを起こす。
開いたふすまの間から、2人の男が見えた。
和希より少し背の高い、明るい声の、穏やかな顔立ちのメガネの少年が、今井慶史。
現在、和希と一番仲の良い大学の後輩だ。
剣道経験者で、ただいま杖術を練習中。和希から譲り受けた四尺棒を、今日も肩にひっかけている。
その横に立つ、恐ろしく整った、完璧、イケメン、という言葉だけでは限りなく不充分な、万物の上に君臨しても許されそうな美貌の男が、鈴鹿尋斗。
空手の色々な流派を経験しているが、ベースは伝統派の松濤館空手だ。
「どうした。朝から」
和希のその問いには知有が答えた。
「2人とも、梅雨の時期だし外で練習できないから、朝、授業に行く前に、うちの家の道場借りたいって」
和希はうなずく。
かつて、『新影』の創業者は、武道家格闘家を支援するためにこの屋敷に下宿させていたそうで、敷地内には、大きな武道場がある。
いまは、ただ1人の下宿人である和希がその道場を独り占めしているので、和希が寝てる間に使ってもらうなどは全然問題ない。
問題ないが、早朝から元気だな2人とも。
「で、いいものっていうのは?」
「空手の形!」
知有からとてもざっくりした答えが返ってきた。
「観空大を練習していました」
鈴鹿の方から言葉少なに補足される。
ああ、それは見たかったな、と和希は思った。
手をかざし空を見るような姿勢から始まり、蹴りや大きな動きの見せ場が多い形だ。
加えて、鈴鹿は形がとても上手なのだ。
その鈴鹿は、すっと頭を下げた。
「道場を使わせて頂いて、ありがとうございました。
では、これで」
「あれ、鈴鹿、朝ごはんは?
今日は美味しい豆ご飯があるぞ?
一緒に食べよう?」
「お気持ちだけで。
三条さんは、またあとでよろしくお願いします。
では、失礼します」
頭を下げると、鈴鹿はそのまま退出していく。
「えっと、俺も今日は朝食べてきたから。
また今度ごちそうになるね。
ありがとう知有ちゃん。じゃ」
慶史も珍しくそう言って遠慮して、知有に手を振る。
そして「今日はまた夕方、よろしくお願いします」と和希にぺこっと頭を下げて、鈴鹿の後を追っていった。
「……鈴鹿も私に敬語なんだな」
しばらくして知有が発した言葉は、明らかにすねた響きだった。
「まぁ、先輩である私の家主さんだからでしょうね」
むう、と、やたら残念そうな顔をする知有が、和希にはちょっと可笑しかった。
◇◇◇
「……明日、えと、あいつ、が来るんだったっけ。
あの、昇段試験のパートナーの」
「……ええ」
朝食の席。
甘い大根の肉そぼろがけを箸で割りながら、和希はうなずいた。
無意識に、うつむいていたらしい。
怪訝そうな顔で、知有が、「ん?」と和希の顔をのぞきこむ。
「気にしてるのか和希?
前にあいつが来た時、たまたま体調が悪くなったんだから仕方ないじゃないか。
和希が悪いわけじゃないんだから」
「……今回は、大丈夫だといいんですけど」
「たまたまがそんなに続きはしない。
悪い方に考えるな。
たとえ偶然続いたとしたって、和希のせいじゃない」
和希は無言で頭を少し下げ、塩味がやさしい豆ご飯を咀嚼した。
米と豆の甘み。知有が自賛するだけある。美味しい。
この間、昇段試験のパートナーである『彼』がこの屋敷に初めて来た。
和希は知有に紹介をし、そして、この屋敷にある武道場で練習を始めた。
忙しいなか『彼』も時間をやりくりして、やって来たのだが、練習は、長く続かなかった。それが、たまたま、じゃないことを、和希自身も『彼』も知っている。
今回は何も起きないことをただ、祈るばかり。
「今日はサークルに行ってきますね」
和希は極力、明るい声を出した。
こういうものは、強迫観念が一番の敵だ。
またああなるんじゃないか、といった不吉なことを考えてしまわないように、今日は気楽にすごそう、と。
ただ、予想外のできごとは、その日のうちに起きることになる。
◇◇◇
※いわゆる武道の『かた』ですが、
形という字を使うときと
型という字を使うときがあります。
鈴鹿が伝統派空手出身なので、
今回の話は『形』の字を使いましたが、
この作品の中では基本的に『型』を
使うことが多いです。




