傾城のアドーニス(6)
◇◇◇
『相手、頼めるか?』
あの頃、いつも鈴鹿は、気が付くと自分の目の前にいた。
こちらには、決して目立つわけにはいかない理由がある。
彼が悪いわけではないが、いつでもどこでも注目の的である鈴鹿尋斗とは、正直、接触は最小限にしたかった。
だから、道場の中でも、できるだけいつも、物理的に彼から遠いところにいたつもりなのに。
どう、こちらの気づかぬうちに距離を詰めるのか。
気が付いたら、目の前にいるのだ。
基本フルコン空手の組手は素手・素足だが、彼は決まって、拳サポーターを付けた状態でいた。
それはつまり、禁じられている『手技による顔面攻撃』もありで闘いたい、と、そういう意味だ。
あの、一度見たら忘れられない目で、こちらを見据えて、組手を申し込むのだ。
『…………少し、待ってください』
もしかしたら、こちらにも拒否権はあったのかもしれない。
ただ、結果からいうと、苛立ち気味に毎回その申し出を受けていた。
せっかく距離を置いているのに、この先輩は人の迷惑考えているのか、という怒り。
私を巻き込むな、という怒り。
返り血が目立たないから愛用していた、黒いオープンフィンガーグローブを素早くつけて。
絶対顔面殴る、泣かしてやる、と心中でつぶやいて、鈴鹿尋斗と対峙した。
そんな、高校時代の、嬉しくもない思い出。
◇◇◇
「お相手、お願いできますか?」
低い低い声がすぐ近くで聞こえた。
顔をあげると、目の前に、完璧野郎の顔がある。
予想通り、鈴鹿の周りには最初からずっと、肉食系の女子新入部員たちが固まっていた。
和希は和希で、とにかく、鈴鹿から遠い方へ遠い方へ、避け続けていた。
なのに。
主将が休憩を皆に告げたほんの数秒後、鈴鹿はいつのまにか、女子たちの拘束を抜けて、和希の目の前にいて。
他の誰でもなく、和希に声をかけたのだ。
(………この人、一体どんな手品を使ったんだ?)
思わず、そう思ってしまう。
和希に対して敬語を使っているのは、和希が2回生であり先輩となるからか。
和希以外の者たちは、きょとん、としている。
鈴鹿の発した言葉の意味をわかりかねているようだ。
格闘経験者であれば、組手に誘ったのだと誰でもわかる。
自分も、鈴鹿の言葉の意味がわからない振りをするべきか。
一瞬迷ったが、日比谷や新橋の様子を見ると、和希が格闘家なことを既に鈴鹿に話している可能性がある。
まだ話していなくても、すぐに話すかもしれない。
何か不自然なことを和希が言えば、怪しまれるだろう。
しかし。今回は意図せずではないにしても。受けて立つしかない状況に人を追い込むのが、この人はどうしてこううまいのだろう、と思ってしまう。
さてどう答えよう。
「女 だ け ど 、 大 丈 夫 ?」
和希が返した言葉に、そばにいた慶史が不思議そうな顔をした。
確かに、普段の和希ならば、絶対に言わない言い方だ。高校のときの自分もそうだ。
だからこそ、こんなセリフを吐いたのだ。
眉一つ動かさず、コクリと鈴鹿は頷く。
皆、あっけにとられ、こちらを注目している。
「さ、三条。ケガはさせるなよ…」
ようやく、日比谷が状況を把握した言葉を口にした。
そもそもここは、格闘サークルではないし、突然組手が始まるようなノリでもない。そこのところは申し訳ない。
和希は、自分の荷物のもとに歩いた。
着替えと一緒に持ってきていた練習道具袋を、ひっくり返す。
地面に転げ出た様々な道具の中に、ITFテコンドーのスパーリング時に手足につける防具があった。2人分。
バンテージなしで拳につける小ぶりなグローブ、足先からカカトまでをすっぽり包むクッション入りのプロテクター。
それぞれ、青色と赤色でセットになっている。
「テコンドーのものでも大丈夫かな?」
「かまいません」
鈴鹿は、裸足のまま和希のもとに近づいてくると、青のほうを選んで取った。
ああ、問答無用で男は青、と。こういうところも好きじゃなかった。
和希は自分のバッグからマウスピースを取り出すと、カポリと口に入れた。
しかし鈴鹿は持っていないのでは、と思ったら、履いていたジャージのポケットからマウスピースのケースを出す。周到なことだ。
防具の着け方を教えようとしたが、鈴鹿は特に問題なさそうに両手足自分で着けてしまった。
「ルールは? 上段蹴り、下段蹴り、どちらもありで大丈夫?」
鈴鹿は頷く。
「上段突きは?」
「ありでお願いします」
「肘、膝、掴み」
「ありで」
「ファウルカップ(股間の急所用の防具)ないけど大丈夫?」
「かまいません」
「審判いないので、ノンストップで2分。
反則は、目、喉、頚椎、背面、金的、足踏み、っていうところで良いですか?」
「はい」
和希は息をついて、日比谷と慶史に声をかけた。
「すみません、2分頂きます。
ごめん慶史、時間はかって」
日比谷が、「あ、ああ」と頷き、慶史が携帯を取りに走る。
ようやく、空気を察し始めた皆が、鈴鹿と和希を遠巻きにし始める。
「あの、和希さん。
挨拶と合図は?」
「礼、準備、はじめ、で適当にコールを。
ラスト10秒と終わりで、声かけて」
「え、あ、はい!」
慶史がコールをすると、鈴鹿は、記憶にある通りの、構えをしてみせた。
左足を前に、スタンスは前後にやや大きく、両手は中段のあたりに。脱力しているようで上段でも中段でも狙える形。
フルコン空手ではない。いわゆる伝統派空手の構えだ。
しかし、和希は、鈴鹿の知らない構えをしている。
右足を前に、足をほぼ完全に前後に、体を横に向けた横身の構えに、両手を完全に脱力してだらりと垂らす。
大丈夫。
この人は知らないはずだ。
『ITFテコンドー』の
『三条和希』
なんて人間は。
「はじめ!」
慶史のかけたコール。
鈴鹿が、わずかにステップをふむ。一息で、ものすごい距離を詰めてくる。
相変わらず起爆力のある足腰だ。
鋭い追い突きをわずかに顔をそらしてよけ、カウンターに後ろ脚の回し蹴りをぶちこむ。と思ったら、もう下がっている。追い突きなんて前への勢いをそうそう止められないものだろうに。
距離を詰めるのも速いが、後ろに下がるのも恐ろしく速いのだ、この人は。
そして、じっくりとタイミングを見極める癖がある。
間を読まれた瞬間、仕留められる。
和希は前足を胸近くまで上げる。
鈴鹿が、わずかに眉を上げる。
蹴るでもなく、片足を高くあげたまま、敵の前に立つ。
その異様さに判断に迷ったのであろう。
だが、これはITFテコンドーの定石の一つである。
自分の体の前に構えたこの足は、楯である。そして。
「ッ!!!」
入ってこようとした敵の腹に突き刺す、槍でもある。
和希の蹴りを食らいながらも、鈴鹿は反射的に突きを返そうとするが、残念ながら和希の足にとめられて腰が回せないし、横蹴りの間合いでは突きは届かない。
鈴鹿の体を突き放しながら、和希は距離をとった。
「三条、手加減しろ!」
日比谷が怒鳴る。
手加減? 馬鹿かと思う。
この男は強い。ただ、初見の蹴りに対応できなかっただけだ。
そして和希は、鈴鹿にとって初見のものをあえて使った。
手加減など一切しない。
確信させないまま、そして別人だと思いこませて、終わらせてやる。




