傾城のアドーニス(4)
飛び石の上を走りきり、東側の川岸の斜面を和希は一気に駆け上った。
(………衝突。歩行者には当たっていない)
自動車が、石造りの橋の手すりに斜めに衝突して、大きくへしゃげている。乗っている人間は、無事なのか。
…………気がついたら対岸にいた自分にびっくりした。
普通ならこういう場面、人の命が危険にさらされていないかと真っ先に駆け出すのは、和希よりも慶史の方だ。
けれど何故か反射的に、通報を指示して、自分がこちらに来た。慶史が駆け出すより先に。
「………大丈夫ですか?」
和希は、バンバン、と、運転席の窓を叩く。
中にいるのは運転席に初老の女性が1人だけ。
変形しているのはほぼボンネットの部分のみ。
衝撃はうけたかもしれないが、大きな外傷などはなさそう。
しかし女性はハンドルに突っ伏したままだ。意識が、ない?
ドアに手をかける。開かない。
すべてのドアに鍵がかかっている。
集まりはじめた人が、すばやく他のドアも確認するが、開かない。
「慶史、救急車!」
飛び石を渡ってこちらに来ようとする後輩に、大声をかける。
和希は、窓ガラスを割れるものがないか周囲を見回す。
石の手すりが砕けてくれていればよかったのに、多少傷ついたぐらいだ。蹴り割るしかないか。せめてヒビが入っていれば。
そう和希が思ったとき。
「どけ!」
そう言って和希を運転席の窓から退ける手があった。
驚くまもなく、和希を押し退けた別の人物は、自動車の運転席のガラスに、肘を叩き込んだ。
人の顔の骨ならゆうに砕いているであろう、腰の入った綺麗な肘撃ち。
無情にもガラスには傷ひとつつかない。
しかしその人物……おそらく和希と同じ年頃、同じぐらいの体格の、少年だか青年だかは、また肘撃ちする。
服装は半袖であり、露出した肘からは血が出ている。しかし構わず、彼は肘を撃ち続ける。角度的に顔はよく見えない。
痛みなど感じぬ機械のように、愚直に撃つ。
『彼』の血にまみれながら、窓ガラスにヒビが、ようやく入った。
ヒビさえ、入っていれば。
「ちょっとどいてください」
「え?」
和希は息を吐いて、跳ぶ。
空中で後ろ回り、尻の筋力で重い直線的な蹴り込み。
裸足のかかとを、ガラスのヒビの中央に突き込んだ
ミシミシッ……。
和希の体の中で最も頑丈な場所が、ハンマーのように、ガラスの中にめり込む。
痛みと共に、自分の跳び回転後ろ蹴りが、ガラスに穴をあけることに成功したことを知る。
そこに空いたのは、男の腕だとまだ入れづらいが、細い和希の腕なら何とか入る大きさの穴。
和希は穴に手をいれ、ようやくドアの鍵を外した。ドアを開け、運転席の女性を引っ張り出す。『彼』と周囲の人々が協力する。
「息、してない」
初老と思われる女性を横たえて口に手をやり、和希は青ざめた。
頸動脈を触る。脈もない。
心肺停止? 人工呼吸、心臓マッサージ、どっちから。
「俺がやる」
ためらいなく『彼』は女性の口に己の口をつけ、慣れた手つきで鼻を摘まみながら呼気を吹き込んだ。2回。
そのまま心臓マッサージもしようとする『彼』に、こちらは自分がやると和希は言う。
「5回。疲れたらすぐに代われ」
そういう彼の声は、腹の奥に響くほど低かった。
聞き覚えがある気がしたが、それより和希は、人の命を預かることの重みに、己の息が止まりそうだった。
テンポが思わず速くなりそうなのを、一生懸命抑えながら、渾身の力で、胸を押す。5回。
『彼』が、息を吹き込む。
そして和希が、5回。その繰り返しが果てしなく思える。
事故から何分たっただろう。
心臓が止まってからは何分何秒か。
もっと早くドアを開けられなかったのか。
そんな考えに襲われたり、それをふりきったりしながら、心臓を押し続ける。
いつの間にか、慶史が和希のそばに来てくれている。
電話で救急と話しつづけているようだ。119番通報は、救急車が到着するまでは電話を切らないと、聞いたことがある。
気づけば、日比谷や新橋たちもいた。
練習に来ようとしてこの事故に気づいたか。日比谷が横たわる女性の手をとっていた。手首で脈を見ているようだ。
サイレンが聞こえてきた。視界に救急車。
何分たったのだろう。
呼吸も脈もまだ戻っていないと思う。
このまま、この人は。
「大丈夫ですか!?」
声をかけながら、救急隊員が駆け寄ってきた。
和希たちは、プロに場所を譲る。
そして、祈りながら、彼らの言葉を待つ。
「脈拍と呼吸、戻っています」
ふっ、と。
膝の力が抜けそうになった瞬間、慶史が和希の腕をもって支えた。
体重をすべて預ける形になった慶史に、「悪い」と言おうとしたが、声が出なかった。
救急隊員が、女性を手際よく担架に乗せて救急車の中に運ぶ。他の者は、家族や身内の者はいないかと尋ねている。
それらが、現実のもののように思えず、薄い膜一枚隔てて見るよう。あとから考えれば、それだけ自分が消耗していたからだとわかるのだが。
「腕」
和希は思い出した。
肘でガラスにヒビをいれた男。
肘が血まみれになっていたはずだ。
縫わなければまずいほど。
「大丈夫ですか、腕……」
救急隊員に話をしている『彼』に、和希は思わず声をかけ。
そこで初めて、『彼』の顔を正面から、見た。
そして、『彼』も、和希の顔を正面から見た。
その唇から、ある名前がこぼれた。
「……お怪我されてますね!?」
『彼』と和希との間をさえぎった救急隊員が、『彼』の腕をとるとそのまま引っ張っていく。
「どうぞ、あなたも治療いたしますので! 乗ってください!」
『彼』がこちらにむけている視線を感じたが、和希は意地で、目をそらした。
そのまま、『彼』は救急車に乗せられている。
まもなく、救急車が出発するとほぼ同時に、警察のサイレンが響いてきた。
「………………………」
終わった。
終わってないけど。
警察の聴取が多分あるけど。
人命を次の相手に預けることができて、荷が下りて。
また膝の力が抜けるんじゃないかと思った。
言葉にならない。
「お疲れさまでした」
慶史が声をかけてくれる。
「お疲れ、三条。がんばったな」
「よくやった」
新橋と日比谷がそれぞれ声をかける。
またとっさに声がでなくて、和希は頭を下げる。
「いや、しかし、さっきの人……」
「さっきの男だろ? すごかったな」
新橋と日比谷が、顔を見合わせて、笑いながら言った声が、ハモった。
「何あの、神がかったイケメン!!!」
サイレンと、始まった喧騒の中、一人ひそかに和希は、胃の辺りを撫でた。
◇◇◇




