傾城のアドーニス(3)
◇◇◇
「で。和希さんのおっしゃってたトラウマって、どういうことですか?」
「へ?」
今日のサークルの練習場所は、鴨川西岸河川敷に広がる芝生の上。
鴨川の水は浅く、静かに流れ、川面に飛び石がちょんちょんと頭を出している。今日は天気がよい。
サークルの練習時間にはまだ早く、人は和希と慶史、2人しか来ていない。
先に体を動かしておきたい慶史が、早めに行こうと誘ったからだ。
今日の活動は柔軟性強化。
芝生の上で和希が、180度開脚の上ぺたんと上体を地面につけていると、ようやく最近どうにか150度ぐらいまで足が開くようになってきた慶史が話しかけてきた。
「この間おっしゃっていましたよね。
こっちのトラウマを思い出したって、胃を押さえながら」
「………ああ」
和希はうなずく。言葉もしぐさも、よく覚えているなこの後輩。
「言いづらいことでしたら良いんですけど」
「聞けそうなことだと踏んだから聞いたんだろ?」
苦笑いする和希。
この後輩も、何気なく過ごしているように見えてものすごく気を使う男だ。
和希を観察し、しっかり考えた上で尋ねているであろう。
一方、和希がこの前『トラウマ』と呼んだそれは、本当にくだらないことであった。
「別に、恋愛はいいんだ。
当人たちが幸せなら、喜ぶべきことだろう。
ただ、閉鎖的な集団のなかでの色恋沙汰のトラブルって、たちが悪くて」
「今まで和希さんがいた、閉鎖的な集団というと……道場ですか?」
和希は、こくっ、とうなずいた。
「まぁ、道場だけじゃなく通っていたジムとか、色々で」
「たくさん通われてたんでしたっけ」
「もちろん、道場内恋愛もよくあることだ。
ただ、小さい集団のなかって、振ったら『じゃあ自分じゃなくてアイツのほうが好きなのか?』というように勘ぐってきたりとか、望まない三角関係とか、取り合いされたりとか、そういう謎の現象起きるよね?
『この集団に属している人間は必ずこの集団のなかで恋愛結婚の相手を見つけるに違いない』っていう、謎の思い込みにとらわれているというか」
「ああ…わかります。
本当は全然そんなことないんですけどね。恋愛自体不要なひともいれば、別の場所で相手を見つける人もいるのに。
和希さんも、そういったことが?」
「中高大と、わりとあらゆるパターンに巻き込まれた」
和希は上体を起こして指折り数える。
「自分の知らないところで複数人に勝手に取り合いされてた系が3回。うち男が1回女が2回。
勝手に、誰かを取り合うライバルにされてたのが1回。
勝手に、誰かと付き合ってることにされてたのが2回。
勝手に、こいつ俺のこと好きだろうと思われて先回りして振られた?のが1回
振ったら粘着されたのが2回。両方既婚者」
「……その他『格闘家三条和希』狙いのネットストーカー多数、と並行してですよね、それ。ご愁傷さまです」
「……中でも一番キツかったのは、高校の近くにあったフルコン空手の道場に通ってたとき、一学年上の、ファンクラブができるぐらい人気の先輩に気に入られて、そのファン全員にシカトされたことかな」
「なんでそんな昭和の学園ドラマみたいなことが?」
「その先輩が、まぁまぁ強い子だったんだよ。
伝統派空手出身だったから顔面突きアリでもやりたがったし。
そうなると、組手の相手をできるのが、道場で私しかいなくて」
和希が胃をさするのを見て、ああ、と慶史はなにか察したらしくうなずいた。
「中段突きが上手い方だったんですね」
「胃痛だよ」
ぺしっ、と、和希は慶史の頭に平手を振り下ろした。
「まぁ、それじゃあ、ちょっと今のサークルの空気は和希さんとしては居づらいですよね…」
「うん。
色恋目的で入部してくる、というのは個人の自由の範疇にしても。
もし今後、他の人間も色恋至上に巻き込もうとする奴が出てくると、正直迷惑かな……」
「やっぱり、三条さんと今井くんはそう思ってたんですね……」
急に違う声が話に入ってきて、ビクッとしながら和希と慶史は声の方を見た。
くだんの新入生、神宮寺が、しょぼんとした顔で芝生の上に体育ずわりしていた。話に夢中で近づいてくるのにも気づかなかったとは、和希慶史とも、かなりの不覚である。
「じ、神宮寺くん!? は、はや、いね!?」
「あの、普段、おんなじ人たちとしか話せないから、あまり話せない人と話したいなと思ってちょっと早く来たんです…」
長身を少しでも小さくしようとしているかのような体育ずわりは、存在していてすみませんと言っているようで、正直あわれな感じがして、和希は、何だかひどく申し訳なくなった。
「いや、あの、ごめん悪かった、私が。
その、神宮寺くんが悪いわけではまったくなくて、うちの部長と副部長がしっかりしろよという話で」
「え!! ああ、いや、その、自分もその……かわいい女の子にたくさん話しかけてもらって、嬉しくて、調子に乗ったというか浮かれてしまっていたというか。
ご迷惑、おかけしています」
体育ずわりのまま、神宮寺はぺこぺこと頭を下げた。
痩せた膝こぞうに、面長な顔をぶつけるような、そんな形。
「でも僕、新橋さんや先輩方には感謝してるんです……。
今まで、人に褒められたことも、周りの人から話しかけてもらうことも、本当になかったので。しかもあんなに笑顔で、女の子に優しくしてもらえるなんて」
褒められたことがない。
容姿に限定されることではなくずっとそう感じてきたような、孤独がその言葉に匂う。
「なんかもう、生きてて良かったなぁ、って今思ってます」
「…………………」
和希と慶史とが、なんと言葉をかけていいか、選び損ねて躊躇したとき。「じんぐうじくーん」と呼びかける声が聞こえた。
新橋と同学年、しばらく幽霊部員だった3回生の女子だ。
和希たちに会釈すると、神宮寺は芝生の端に脱ぎ捨てたくつを足に引っかけて女子の先輩のもとに走っていった。
「和希さん……」
「まぁ、そりゃ、嬉しいよな。大事にしてもらえたら。
それが自分も魅力を感じる相手なら、なおさら」
神宮寺は、背を丸めできるだけ目線を近づけようとしながら、先輩に一生懸命話しかけている。
その姿を見ていると、今後ちょっとぐらい調子に乗っても全然大目に見ることができると思った。
「そうですね。神宮寺もいい奴みたいですし、今後は和希さんも仲良くしましょうよ」
「…あ。それは、まだちょっと考えさせて…」
そんな会話を慶史としていた、その時。
川向こうでけたたましいクラクションの音が響いた。
「…………!!?」
驚きとともに皆、川向こうを向く。
鴨川の東側を、川端通という道が走っている。川沿いに木々が植わっているその道を、一台の黒い自動車が、ヘロヘロと蛇行しながら走っているのだ。
「なんだ、あれ……」
という言葉が口から漏れた瞬間。
橋の手すりに、自動車が、衝突した。
「慶史、警察!!」
叫びながら和希は走った。
鴨川に散った飛び石の上を。




