164話 誕生
「イノリちゃん大丈夫かな……」
座椅子状態のアイスくんになんとか隣へ移動してもらい、やや半刻。
進捗状況が全く分からないので不安になってきた。
「始めてからどれぐらい経った?」
「もうすぐ一刻」
「なら、そろそろ山場かな。人型になる直前が一番痛かったんだよね」
「っ!?」
そんなの聞いてしまったら、増々心配で堪らない。
「アイスくん、私ちょっと様子を見に行ってくる」
「近付いたら危ないよ? 痛みで人に配慮する余裕なんてなくなるし」
「……もし近付けなくても、扉越しでもいいから応援したいの」
「そっか。なら行っておいで。ボクは見るわけにいかないから」
さすがに最初は一糸纏わない状態になるらしく、異性であるアイスくんはここを動けないそうだ。
「じゃあまた後で」
「あ、ちょっと待って。万が一の時の為に」
転移しようとして軽く腕を掴まれ引き止められる。
何かと思ったら、アイスくんがガリッと自分の左手を噛んだ。
「アイスくん!?」
「気持ち悪いかもしれないけど我慢してね」
「んむっ」
アイスくんは流れる血を右人差し指で掬い取ると、私の口の中に優しく侵入させてくる。
じんわりとワインのような味が広がった途端、身体の中が熱くなった。
「ボクの血は魔力増強だけじゃなくて、魔法・物理耐性も上がるから」
す、凄い! 凄いが飲ませ方がめちゃくちゃ恥ずかしい……!
「本当は口移しで飲ませたいんだけど、さすがにやりすぎで嫌われちゃいそうだし」
より恥ずかしいプランじゃなくてよかった!
それでも充分な羞恥に耐えていると、ようやくアイスくんがそっと指を引き抜いてくれた。
「ぷはっ。……ぅ、えっと、ありがとう」
「どういたしまして。気を付けてね」
血と私の唾液が混じった人差し指をペロリと舐めるアイスくん。
心臓が限界すぎて逃げるように転移した。
もう無理です!
「り、竜神様……。イノリちゃんは……どんな様子、ですか……」
『どっ、どうしたのですか? そんなに息を切らせて』
御目通りの間に戻ってくれば、全力疾走後みたいになっている私の様子に竜神様がギョッとした。
「ちょっと……、動悸が激しすぎて」
『? よく分かりませんが、あまりよくはないかもしれません。妃が戻ってきませんので……』
「……え?」
ずっと付きっきりでいるってこと?
ホムラくんたちの時は、そんな事なかった。
「イノリちゃんの姿が見えるところまで、行ってきてもいいですか?」
『恐らく危険ですよ……?』
「平気です。アイスくんにおまじないをしてもらったので」
『おまじない? ですか』
「ち、血を飲ませてもらいました」
手ずからとは言えないけども。
『アイがその様なことを……。分かりました。くれぐれもお気を付けて』
「はい。ありがとうございます」
竜神様に頭を下げ、居住エリアへ立ち入らせてもらう。
ホムラくんたちが儀式をしたのと同じ部屋を目指して歩いていれば、段々と悲痛な咆哮が大きくなってきた。
「イノリちゃん……!」
ノックも忘れて急ぎ部屋に飛び込めば、室内は荒れに荒れていた。
見渡す限りヒビ割れ崩れかけている、天井と壁。
それでも完全に崩落しないのは、竜神妃様が何らかの魔法を発動させているからだろうか。
空間を維持しているのが不思議なぐらいの惨状だ。
中心には別人のように暴れ回る、竜のままのイノリちゃん。
少し離れた場所で竜神妃様がとても厳しい顔で見守っていた。
っ、これが普通なの? こんなのをホムラくんたちは耐えたの……?
呆然と立ち尽していれば、竜神妃様の声が飛んできた。
『リリシアさん!? 危ないですわよ!』
「私のことより、イノリちゃんは大丈夫なんですか!?」
イノリちゃんの尻尾が床を打ちつける大きな打撃音や叫び声が部屋中に響き、こちらも自然と声が大きくなる。
『幻覚に耐えられず暴走しかけていますわ! このままでは危険かもしれない!』
「そんな……!」
イノリちゃんに何かあるなんて嫌だ。
せっかく女の子の友達ができたと思ったのに。
「竜神妃様! 理性が戻れば安定しますか!?」
『ええ! あと少しのようですもの!』
「分かりました!」
暴れ回るイノリちゃんに向かって歩を進める。
竜神妃様が止まるよう叫んでいるけれど、聞き容れずどんどん近付く。
鞭のように俊敏にしなる尻尾で破壊され飛んでくる建物の破片が顔や身体を傷付けるけど、アイスくんの血のおかげか痛さは軽減されているように思えた。
魔力も増幅しているので、切れたそばから治っていく。
それでも止まない攻撃に傷は増える一方だ。
「イノリちゃん! 落ち着いて! もう少しだよ!」
『グアアアアアアア……ッ!!』
話しかけても返ってくるのは意味を成さない悲痛な咆哮。
さらには邪魔だとばかりに勢い良く前足で薙ぎ払われる。
咄嗟にガードした腕の肉が抉れ、骨もゴキュッと嫌な音を立てた。
「ぅぐっ……!」
『リリシアさん!』
「問題、ありません!」
治癒魔法を自分に掛けまた近付く。
身体の周りに結界を張れば怪我はしないけれど、直接触れられない。
体温が伝わらなくて、無機物が接触しているような感じになるのだ。
――それではきっと傍にいることが伝わらない。
だから構わず生身の状態で突き進んだ。
「イノリちゃん! あと少しだけ頑張って! ここで見守ってるから!」
大きな身体に触れようとすればバシンと叩き落とされる。手の甲が裂け血が出たけど、怯まず再度試みた。
イノリちゃんだって苦しい思いをしているのだ。
負けずに応援したい……!
近付いては突き離されるを何度も何度も繰り返して、私の服の大半が血で染まった頃、イノリちゃんに変化が起きた。
つんざくような咆哮が止み、身体の輪郭が収縮し始めたのだ。
翼が畳まれ小さくなり、角も縮み、硬い鱗が次第に薄くなっていく。
スルスルと人型へと形を変えていく様は、間近で見ると生命の神秘を感じるほど。
やがて腰に付くほど長く白い髪が美しい、絶世の褐色美女が顕現した。
ゆっくりと開かれた瞳は桜色。
私と目が合った途端、大きな瞳が左右に揺れた。
「リリシア、ちゃん……」
綺麗な口元から発せられる、戸惑いを乗せた可憐な声。
竜の姿の時と同じように聞こえた声音に、無事終わったのだと実感した。
「頑張ったね、イノリちゃん」
見た感じ年上だったけれど、敬語で話さない約束なのでそのまま話す。
いきなりよそよそしくするのも、なんだか違う気がしたから。
「血だら、け……。私の、せい……」
「え!? あ、いや」
『イノリが落ち着けるように、ずっと傍で励まし続けてくれたのですわ』
竜神妃様が近付いてきて、全裸のイノリちゃんに咥えている上掛けを被せ申し訳なさそうに私を見る。
瞬間、イノリちゃんの表情が悲痛に染まった。
「途中から、声が……聞こえた。温かい、手も」
「! イノリちゃんに届いたなら嬉しい……。身体はもう平気?」
「っ……」
くしゃっと顔を歪めたイノリちゃんは、返事の代わりに私を抱き寄せた。
柔らかい肌とは反対に、少し痛いぐらいに力が込められていく。
「い、イノリちゃん?」
「ごめん、ね……。いっぱい、痛かった……でしょ」
「大丈夫だよ。ほとんど治ってるし」
アイスくんには大感謝だ。
血のドーピングが無ければ、もっと悲惨なことになっていたに違いない。
とはいえ結構痛かった……。必死だったからなんとかなったようなものだよ。
「あり、がと……」
イノリちゃんが震える声でもう一度ぎゅっとした時、カツンと床に何かが落ちる音がした。
ん? と思う間に二度三度、同じ音が響く。
『これは……!』
竜神妃様が驚く声に二人で振り向くと、大きな前足で床に落ちていたものを拾い上げた。
その手には雫型の輝く結晶。
『白竜姫の泪ですわ』




