第1神話 ヴァルさん、出立する
『ヴァルキリー』
主神オーディンに仕える美しき戦乙女。死者の魂を導く者。特に優れた魂はヴァルハラへと導かれ、エインヘリヤルとして神々に迎えられるという。英雄はヴァルキリーに会わんと欲し、画家は未だ見ぬその美しさを絵にする。少なくとも生きてヴァルキリーに出会った者はいない。そのため実際ヴァルキリーがどうなのか知る者もいない。
ーヴァルハラ宮殿ー
「ヴァルキリー様~!」
荘厳な宮殿内に女性の声が響き渡る。その声からはオロオロと困り果てた様子が窺い知れる。
「うう……何処に行ったんだろう。オーディン様がお呼びなのに……」
そう言いながら女性は右の手首を擦る。最近始末書の書きすぎで腱鞘炎気味である。従者をやっている立場から言わせてもらえば、いい加減素行不良で始末書を書かされるのは勘弁して欲しかった。
「あっ!素行不良と言えば……」
思い当たる節があったのか、女性は一目散に駆け出した。走ること数分、果たして目的の人物はいた。その者は宮殿の庭の片隅に生い茂る大きな木の下で物憂げな顔をしていた。端正な顔立ちと透き通る様な白い肌、腰まで伸びている美しい亜麻色の髪。均整の取れたプロポーションとその身を包む白銀の鎧が見る者を圧倒する。まさに絵画の中から抜け出てきたかのような非現実的な美しさ……が咥え煙草のせいで台無しである。
「おーアリスじゃないか。よくここが分かったな」
従者の姿を視界に捉えたヴァルキリーは煙草を咥えたままニヤリと笑う。
「ヴァルキリー様!ここは……というかヴァルハラ内は禁煙ですよ!」
アリスと呼ばれた従者は息を切らせながら怒る。
「そう怒るな。ヴァルハラもとうとう禁煙とか言い出したのかよ」
ヴァルキリーは手を小さく振りながらウンザリした表情を見せた。最近の風潮を鑑みて、ヴァルハラ内は全面禁煙となった。もっともヴァルハラで煙草を吸う者などヴァルキリー以外にいないのだが。
「それもこれも全部くそジジイのせいだな」
そう言ってヴァルキリーは煙草の火を踏み消した。
「そ、そんなことを言って、もしオーディン様の耳に入ったら……」
「なあ、アリス」
慌てるアリスの言葉を遮ってヴァルキリーは言う。目は真っ直ぐにアリスを見ていた。
「他人の言うとおりに生きていて楽しいか?」
「え?」
「私は嫌だ」
アリスは一瞬、言っている意味が分からなかった。しかしすぐにそれがヴァルキリーの生き方について言っているのだと理解した。
「主神オーディンの命令に従って、生まれてから滅するまで魂をかき集める。女神などと崇め奉られてはいるが、ただそれだけの存在だ。お前もウンザリだろ、こんな奴の面倒見てて」
「そんな……ただそれだけ、なんて言わないでください……」
元気なく俯くヴァルキリーを見ながらアリスは優しく否定した。
「私は下の世界で戦争に巻き込まれて命を落としました。そして魂だけになって彷徨っているところをヴァルキリー様に救ってもらって、しかも従者にまでして頂けました。ヴァルキリー様がいなければ私はこうやって笑うこともできなかった……」
「アリス……お前……」
「私はヴァルキリー様の従者になれたことを誇りに思います」
「そう……そうか……じゃあアリス。お前はいつ、いかなる時も従者として私について来てくれると誓うか?」
満面の笑みで話すアリスにヴァルキリーはやや上目遣いで尋ねる。
「もちろんです!」
「おしっ!言ったな!」
その言葉を待っていたかのようにヴァルキリーは顔を上げ、満面の笑みでアリスの肩をバンバン叩く。
「いや~異世界に行くのに流石に1人は心細いと思ってたんだよね~」
「えっ?あの、異世界?」
アリスには意味が分からなかったが、何故か右の手首がひどく疼いた。
「いや実はね……」
と、ヴァルキリーはアリスにそっと耳打ちする。
「先日、くそジジイのグングニルをちょっと無断拝借してさ」
「は?」
「ちょっと地上でぶん回したら大陸が2つ程消し飛んでさ」
「ひ?」
「流石にこれだけの事をすると始末書だけじゃ済まないと思うんだ」
「ふ?」
「そこで怒られる前に異世界に逃げてしまおうと思って」
「へ?」
「逃げる手段としてスレイプニルまで借りちゃいました~」
そう言ってヴァルキリーは木陰からスレイプニルを引っ張り出す。ブルルッ、と嘶くスレイプニル。気持ち嫌そうである。
「それじゃ、アリスも共犯ってことでヨロシクね♡」
「ほ、ほほほ……」
子供のような笑顔でえげつないことを話すヴァルキリーを見て、アリスはただただ情けない声を口から出すしかなかった。
ヴァルキリーの異世界逃避行はこうして始まった。同時に従者アリスの受難も始まった。