膨張する違和感
中等科も今年を含めてあと二年間で終わる。甲組、丙組のやつらはともかく、乙組のおれは高等科への進学か、もしくは医療科、商業科、工業科、家政科など専門職に就くための大学校への進学かの選択を迫られていた。その他の選択肢ももちろんある。主には国防や保安、行政だがあれは高等科を卒業したやつらの下っ端になることが確定している。そんなのくそくらえだ。
今のおれの成績だと、商業科へ進んでどっかの商会の帳簿管理の職に就くのが一番安定した生活が送れるはずだ。高等科へ進むには数学以外の自然科学全般と、史学の成績がだいぶ足りないのだ。まあ親も高等科へ進むことは期待していないようだし、おれ自身これ以上小難しい屁理屈をこねくり回すのはうんざりだと思っていたから問題はない。ただ一つの点を除いて。
乙組二級がおれが所属する組だ。甲乙丙組は上から成績上位者で作られていて、甲組は高等科への進学がすでに許されているがその人数は四百人中のたった十五人。高等科への進学が許されない丙組は三百人もいるので一級から六級まで分かれている。丙組の内情はよく知らないが、芸術面に優れた者は一級、体力面に優れた者は二級、弁論術に優れた者は三級というようになっているという話を聞いたことがある。それ以外はまったく知らない。残りの百人弱が乙組ということになるが、乙組も三つの級に分けられる。
甲乙丙の組み分けは十一歳の春、つまり六年目に行われる。それまでの五年間の基礎科目の成績と小論文はもちろん、普段の素行や発言も評価される。甲組は学年内での相対評価ではなく過去の学年との比較で決まるため甲組が存在しない学年もあったらしい。平均的には毎年十人強と聞いているから今年はそこそこ優秀な学年ということだろう。
甲乙丙の組み分けが十歳までに決まってしまうのは残酷と思われるかもしれないが、乙組と丙組は成績次第では入れ替えがあるし、成績の条件を満たさなくても、素行や発言の面で問題が無ければ、補講を毎週五時間受けることを条件に丙組から乙組へ上ることは可能である。それを利用して十四歳の春に乙組に入り、十五歳の後期に乙組一級になって高等科へ進学したというケースも毎年数人はいる。ただし、甲組の入れ替えはまったくないため甲組の連中とはかかわりがなくなってしまう。あの冬海綱一もそんな訳の分からない連中の一人だった。今思えばだが、まだ組み分けされていない時期、おれと話す時は薄っぺらい笑みをあの小奇麗な顔に張り付けて、頭の奥の方で一人でいる時に考えるような事は絶対おれには話さなかった。組み分けするまで冬海が甲組になるなんて思ってもみなかった。もちろん何となく成績がよさそうなことは知っていたが、おれや、おれよりももっと成績の悪いやつなんかとつるんで遊んでいたし、まじめに勉強ばかりする奴らの事を小ばかにして陰口を云ったりして、腹を抱えて一緒に笑ったりしていたんだ。
六年生の冬(つまり組み分け後初めての冬)に、冬海が流行り病に罹ったと聞いて入院している病室を訪ねたときだ。驚かせてやろうと忍び足で扉に近づき引戸の隙間から奴の様子を伺ったら、奴は見たことも無い顔をしていた。ベッドの上で胸のあたりまで毛布を掛けて、枕を二つ折りにして高くして本を読んでいた。いつもはニヤニヤした薄笑いを浮かべているのに、その時は何やら本を睨んで唇を強く結んでいた。怒っているようにも見えた。枕元の読書灯と夕焼けの逆光にあるその姿はまるで学者のようだと思った。おれには一度も見せたことのない暗くて悲し気な表情。深く考え込んでいるというのが伝わってきた。おれにはできない芸当だった。
引戸を開けて、よう、と云いながら彼に近づくと、彼は少し驚いた表情をしたがすぐにいつもの薄い笑みを装着した。手にしていた本も閉じて、それとなく隠すように枕元に置いた。しかし完全に隠すことは出来ず、本の題名はしっかりと見えた。古代史、とあった。古代とはまだ陸地が多く存在し人類も今の千倍以上存在した時代だ。古代史は中等科では学ぶことは許されていないと習ったはずだが、冬海はそれを読んでいた。
「ひさしぶりだな、森川。組み分けしてから会ってないから」
「八カ月ぶり、だよ」
「そうか。そんなに経つのか」
「そうだよ・・・」
おれは冬海が甲組になったことに苛立っていた。そのせいで暫く会おうともしなかった。これを機に、またこいつと話せるようになるかもしれないと思って見舞いに来たはずが、どうやら逆効果だった。くそ、だから嫌いなんだ。
おれは、元気でな、とだけ云って出て行った。本当は、持って来た漫画本を一緒に読もうと思っていたんだ。冬海は流行の漫画に疎いから、どうせ知らないと思って、鞄に入るだけ詰め込んで持って来た。せっかく持って来たのに、今こいつと読む気にはなれなかった。
部屋を出て引戸を閉める時に、見ないようにしようと心に決めたはずが思わず冬海の方に視線を上げてしまっていた。奴は読書灯の中で右手を軽く挙げて、こちらを見ていた。毛布を下ろし、体を起こしてベッドに腰かけていた。表情は、笑っていなかった。暗い顔をしていた。もっとも、逆光でよく見えなかったが。
九年生になったばかりのある日、甲組の冬海綱一が飛び級で高等科へ進学したとうわさで聞いた。冬海の家の近くに住む同級生が、冬海が高等科の制服を着て家を出るところを見かけたらしい。その日の昼休み、いつものように三浦、長谷川、長野がおれの机のまわりに集まると話題はやはり冬海のことになった。ちなみに長谷川と長野は乙組一級だ。
「冬海って、あの冬海綱一だろ?」
立ったままおにぎりを頬張っている長野が切り出した。
「この学年に冬海なんてあいつしかいねえよ。あいつそんな頭よかったんだな。学年二つ飛び級ってどういう状況だよ」
長野に答えた長谷川も立ったまま得体のしれない菓子パンを頬張り始めた。こいつは中々頭がよくて、仲間内では一番博識だと思われていた。冬海が甲組になるまでは。だからこいつが冬海の事を話す時はいつも嫌味っぽく聞こえる。
「まあ長谷川よりも遥かに賢いことは確かだな」
おれも鞄の中から弁当を取り出しながら毒づいた。長谷川は舌打ちをしたようだったが、口の中にものが入った状態だったから、老人がくちゃくちゃ鳴らして食事をしているような感じになってしまう。
「お前冬海と一番よくつるんでたよな?初等科でずっと同じ棟だったんだっけ」
三浦はおれの隣に座る女子を席から追いやって、そこに座って棒状の栄養調整食品を頬張っている。やつは昼飯はいつもそれだ。おれはのどが渇くから嫌いだ。
「ああ、同じF棟だったよ」
「なんか連絡取ったりしねえの」
三浦がこちらに身を乗り出して、なぜだが少し小声で云った。
「はあ?ないよ。飛び級します、なんて連絡寄こすほうが気持ち悪いね」
組み分けのときでさえなかったんだ。いや、おれから話しかけるべきだったのか。上の組になった人間から下の組の人間に声をかけるのは、やはり気を遣うだろう。冬海はそういう奴だ。
「薄情なもんだなあ、まあ甲組なんて情のかけらもないからくり人形みてえなもんだしな」
また長谷川だ。二つ目の得体のしれない菓子パンに取り掛かっている。
「はは、確かに。じゃなきゃあんなに勉強ばっかりできるわけがねえ」
長野は、自分では勉強していないように振る舞ってはいるが、影でこそこそ必死に勉強しているやつだ。甲組の何人かに頭下げて教えてもらっているというのは有名な話だ。まあそこまでやる根性は見上げたものだが正々堂々やればいいものを。
「もうあいつの話やめよう。食欲が後退する」
そう云ったところで、教室が少しざわついていることに気付いた。前方の出入り口を見ると、そこには甲組の根元優子が立っていた。甲組の人間が乙組に来ることなんてめったにない。おれと目が合うと、教室から出るよう手招きした。
「甲組の根元じゃん。森川、付き合ってんの?」
三浦が、さっきまで小声だったのに突然大声で話し始めた。すると教室中のやつらが耳をそばだてたせいで一瞬静かになる。が、それを取り繕うようにまたすぐ騒がしくなった。
「付き合ってないよ。根元、冬海のストーカーなんだ」
「え?」
「なにそれ、詳しく」
阿保連中の静止を振り切って教室から出ると、根元はやはり浮かない顔をして立っていた。
「お前甲組だろ、新学期になってからすぐ知ってたんじゃないの」
「ううん。高等科の新学期は二週間後なんだって。だから先週までは普通に登校してたよ。飛び級するそぶりなんて全くなかった。今思えば、よく職員室に出入りしてたけど。たぶん手続きか何かで」
「どうせ児玉に冬海の様子を探らせたのもお前だろ」
児玉とは、冬海と家が近いやつだ。
「そ、そうだけど」
「さすが優子様。お前の命令を聞かない男なんていないもんなあ」
「命令だなんてやめて。お願いしただけ」
「根元ってホント嫌なやつだな」
そういうと根元はおれのことを睨みあげてきた。こんな仕草も計算でやっているのかと思ってしまう。おれはため息をついた。
「森川君は何も聞いてないの?」
根元は顔を近づけてきた。美人特有の甘く苦しい香りが濃くなる。思わずせき込んだ。
「い、いや。ないよ。丸二年喋ってさえいない」
「え、嘘でしょ」
「なんでだよ。お前だっておれと喋るの一年振りだろ」
「それはだって・・・」
自分で嫌な思い出を掘り起こしてしまった。おれは去年根元に告白して見事に振られた。
「・・・っていうか、お前こそ同じヴァイオリン教室に通ってるんだからなんか知ってたんじゃないのか?そもそも同じクラスだろ」
まあ根元の事だから、同じ組の人間が廻りにいる中で、冬海と楽しくお話しするなんてことできないだろう。
「それはそうだけど、教室では事務的な話しか許されていないし、一緒にレッスンを受けることなんてないし、時間帯が合えば顔を合わせることはあってもほとんど話さないもん」
「なんだそれ、私語を慎めってレベルじゃないな。」
甲組の連中がお互い話しているところをほとんど見たことないのはそれが原因だったのか。
「ちょっと場所変えようよ、なんか級の人たちがこっち見てる」
確かに長く立ち話したせいで、教室の視線が多くこちらに向いている。三浦たちに至っては両手で双眼鏡を作り遠慮のない視線を投げてきていた。
「そりゃあ甲組のお姫様がくれば注目される」
「やめてよその言い方」
そう云いながらも恥ずかしそうにする仕草はやはり似合っていた。こんなこと云われなれているはずなのに毎度このような仕草を取れるのは天性のものだろう。甲組の男には同情する。
校舎に囲まれている中庭に場所を移し、中心に植えられているクヌギの古木の周りに置かれているベンチの一つに腰かけた。おれと根元の間には一人分の空間がある。他のベンチにはカップルと思しき男女が座って食事をしていた。見知った顔ももちろんある。あいつ、付き合ってるなんて一言も云ってなかったのに、なんてことを考えていた。
「本当に二年間全く話してないの?」
根元は待ちきれなかったように口を開いた。周囲の目がなくなったら、途端に弱弱しく見えた。
「そう云っただろ」
顔見知りのカップルの男の方を睨んでいると、目が合った。そいつは一瞬顔を強張らせてすぐに視線をそらした。なんでどいつもこいつもコソコソしたがるんだ。長野にしても、冬海にしても。おれはそういうコソコソするのが大嫌いだ。
「最後に話したのは、あいつが高熱で入院したときだった」
「ああ、あのときね。私もお見舞いに行ったよ」
そんなことは解っている。いちいち苛立たせる女だと思った。
「そのときあいつ・・・古代史の本を読んでたんだ」
「古代史?古代史って大陸がいくつもあった時代の?」
「そうだよ。高等科から許されてる内容。あいつはおれからその本を隠そうとしたから、あんまりこのことも喋んない方がいいと思って、誰にも云ってないが」
「その方がよさそう。どこから目を付けられるかわからないし」
根元は周りを見回した。
「目を付けられる?」
「知らないの?甲組ではもう常識になってるけど、五行訓は私たちの思想を狭めるためのものだって」
おれは耳を疑った。
「いつからそんなワルになったんだよ。丙組の底辺の奴らが云ってる陰謀論じゃないか」
「まあ丙組の人たちがどれだけの根拠があって云ってるかは知らないけど・・・私たち甲組の生徒は、校内ではもちろん登下校まで監視されてる。この間、甲組の何人かが、下校中に桜木公園で集まって政治史のレポートをやってたらしいんだけど、次の日にそのメンバー全員が呼び出されて、根掘り葉掘り取り調べられたらしいよ」
「それは殊勝なことじゃないか。おれたちは集まっても誰かひとりのを丸写しするのが関の山だ。しかしなんで取り調べられなきゃいけないんだ」
「実は、甲組の生徒は複数人で課題をやったり議論をしてはいけないことになっているんだ。校外ならバレないだろうと思ったらしいんだけど、ダメだったみたい」
それじゃあまるで、甲組が優遇されて少人数の組で授業を受けられるというわけではなく、隔離されているようじゃないか。おれは改めて周りを見回した。こちらを見ているのは冷やかしの生徒ばかりで、監視されているような感じはしなかった。
「たしかにそれはなんかおかしいな」
「でしょう。しかもその取り調べも一人一人別室で同時に受けさせられて、お互いの云っている内容にずれがないかまで調べられていたみたい」
「集まって課題やることの何がそんなに問題なんだか。それより・・・」
おれは少し体を寄せて声を低めた。
「今も監視されてるってことなんじゃないか」
すると根元は都合悪そうに顔を背けた。
「それは大丈夫」
「なんでそう云い切れるんだ」
「甲組には、森川君と最近そういう関係になりかけてるっていう話をしておいた。だから今監視されているとしても大丈夫だと思う・・・ごめんね」
何て奴だ。振った相手をこうまで残酷に扱うとは。まあ申し訳なく思っているのは本当のようで、彼女の暗い表情を見ていたら怒る気にもなれない。
「まあそれはいい。わざわざ呼び出した本題は何なんだよ。冬海の事なんだろ」
「うん、そう。今、甲組の何人かで共通の意見は、甲組は思想的に危険な人間を集めている組で、他の生徒を毒さないために隔離するための組だっていう意見。児玉君に聞いたんだけど、児玉君成績は全然よくなかったんだって。だから組み分けの基準が成績以外の何かであることは確かだってなって、この間の取り調べ事件があってこの仮説が持ち上がったってわけ」
「お前ら議論しちゃいけないんじゃなかったっけ」
「あ、いいこと気付いたね」
「バカにすんな」
「ごめん。私含めて四人でこの話を進めてるんだけど、まあ交換日記みたいなことをしているんだ。ノートや教科書の貸し借りも禁じられてるから、引き渡しにも苦労してる。紙一枚でやり取りしてて、図書室の本のどこかのページに挟んでおくの。会った時に何とかしてそれを伝える。会話の中にその本の中のフレーズを混ぜたりして」
「入念だな」
「もともと、こういう諜報活動みたいなこと憧れてたんだ」
「ああ、ハードボイルド小説好きだもんな、お前。冬海は誘わなかったのか」
「それはないよ」
根元は苦笑した。おれはてっきりその五人の中には冬海も含まれていると思っていた。
「どうして」
「だってその四人、冬海君のファンだもん」
「はあ?なんじゃそりゃ。甲組の女子はたしか六人だろ」
「もちろん全員が女子じゃないよ。一人だけ男子。児玉君」
「・・・へえ」
そう云えばあいつ、冬海といる時は目が輝いていたな。そう云うことだったのかとおれは世界の広さを実感した。
「ちょっと、誤解してるかもしれないから補足。児玉君は冬海君を崇拝しているだけだから」
「あ、そうなの」
「まあ私としてはそう云うのでもいいんだけどね」
「ライバルが増えちゃ困るんじゃないか」
「それはそれ」
「意味がわからん」
確かに、児玉は冬海の発言には必ず反応していた。冬海の何がそんなにいいんだかわからないが、おそらく児玉は冬海に対する態度から甲組になったんじゃないかと思った。そうすると、冬海は隔離されるべき人間だということか。
「でも、冬海は組み分けの後に古代史の本を読んでいたんだ。あんな本、許可されない限り手に入らないと思うけど」
「そうなんだよね。今はそこが解らないところ。組み分けの前なら、どこからか盗み出して古代史の本を読んだことが原因で甲組に入ったことになるけど、組み分けの後、つまり監視下になってから、しかも病院でしょう。病院なんて監視にはもってこいの場所だし」
「待てよ・・・そもそも高等科に進んだらあいつらは所謂エリートだ。そんな危険因子をエリートにしていいのか」
「私はそこに何か裏があると思ってる。冬海君が危険な目に遭う気がする・・・」
根元がそう云ったところで、午後の授業の予鈴が鳴った。二人はあまりのタイミングにしばらく口をつぐんだまま動けなかった。
まわりのカップルたちが動き出すのを契機に、根元が立ち上がった。
「交換日記、森川君も参加してよ。そのうち四人のうち誰かが接触してくるから」
「でもおれ、本なんて読まないからわかんないぜ」
「その都度調べるの、そのくらいの努力して」
「なんだよその云い方」
根元はさっさと行ってしまい、おれが立ち上がるころには校舎に入るところだった。
疑いてはならぬ、問うてはならぬ、欲してはならぬ、判断してはならぬ、信じ、祈りたまえ。おれはこんな五行訓を意識して生活したことは無かった。なぜなら疑うこともなければ問うこともないし、分不相応なものは欲しいとも思わないし、おれ個人が判断しなければならないことなんて、進路のことくらいだ。さすがに進路を自分で判断するなとは云わないだろう。まあそうすると、禁じられるべき判断がどういったものなのかがわからないが、きっとおれの頭じゃ理解できないことなんだろう。知りたいとも思わない。
気になるのは根元が云った、冬海が危険な目に遭うという話だ。危険な目ってなんだ。崖から突き落とされるとか、集団暴行を受けるとかか。それ以上の危険をおれは知らない。
二年前、見舞いに行ったときに最後に見た冬海のシルエットが浮かんだ。おれはこのまま奴と二度と話さないまま人生を終えるのだろうか。根元が云う危険な目に奴が巻き込まれたとしても、おれにそれを察知することはできないだろう。おれと奴の進む道が違いすぎるから。
自分の教室に向かっていると、次の授業の教員が教室の前の廊下に立っていた。腕時計を見たが、まだ授業まで二分はある。
「前垣先生、どうかされたんですか」
前垣は笑顔を浮かべていた。おれは顔をしかめた。なんでこいつ笑っているんだ。
「なんだ森川、甲組の根元と付き合っているのか」
教員はこんなことにまで口出すのか。
「まあ・・・まだちゃんと付き合ってるわけじゃないですけど」
根元が噂を流したという話をぎりぎりで思い出して、云い繕った。ちょっとした戸惑いが、照れ隠しと受け取られたらいいが。
「そうか。さっきあそこで話していたみだいだが、何を話していたんだ」
「え?」
おれは思わずそう口にしてしまった。しかし、これが自然な反応かもしれない。生徒間で何を話そうが、甲組以外の生徒には問題ないはずだからだ。もしかしたら、前垣はそれをかまかけたのかもしれない。おれは自分が中途半端に頭よくなくてよかったと思った。ここで素直に応えていたら変に思われたかもしれない。前垣は自然な笑みになって続けた。
「いやぁ悪いな。いつも冷静な森川が、好きな女子の前ではどんな話をしているのか気になっただけだよ」
おれは必死にない頭を使った。冬海がいなくなったことは質問してもいいのか。児玉も監視されているなら、冬海が高等科に飛び級したことを中等科の九年生が知っていてもおかしくないと、前垣は思っているはずだが。いや、しかし監視されていることはおそらく甲組以外には知らされていないはずだから、おれがそれを知っていると根元には都合が悪いことになるのか。
なんだかわけがわからなくなったから、もう思い切って聞いてみた。
「根元から聞いたんですが、冬海が飛び級で高等科に行ったって本当ですか」
前垣の表情をよく観察した。どうやら奴も少し頭を使っているようだ。先ほどまでおれの顔をじっと見ていたのに、しばし目線をずらして再びこちらを見た。
「噂はすごいなあ。そうだよ、冬海君は今日から高等科の一年生だ・・・そういえば、森川と根元は冬海君と幼馴染なんだっけ」
冬海だけ君づけなのは何か理由があるのか。まあいい。
「はい。初等科ではずっと同じ棟でした。組み分けの後は、あんまり話さなくなっちゃいましたけど」
「へえ、じゃあなんで最近になって根元と仲良くなったんだい?」
前垣の奴、とうとう尋問口調になってきやがった。本人も云ってからまずかったと思ったようで、すぐに腕時計を確認して会話を切り上げた。
「すまんすまん、妙な事聞いてしまって。さあもう授業だ」
前垣が教室の扉を開けたと同時に本鈴がなった。
普段、あんまり頭を使わないせいでどっと疲れが出た。たまに前垣の視線が気になったが、いつも通り居眠りをしつつ授業を受けることにした。ここで優等生ぶったら余計に疑われる気がした。馬鹿に振る舞うのが一番有効だろう。今年十歳になる弟を見ていて思うが、基本年下は馬鹿に見える。三十路越えたおっさんから見れば、十四歳のおれなんて馬鹿以外の何物でもないだろう。人は、対象が自分の予想通りだと感じると安心するもんだから、そう思わせておくのが一番だ。冬海がそう云っていたのを思い出した。
おれは結局、高等科への進学を希望した。新学期になって一か月が経った五月のことだ。
根元の主催する(確認したわけではないが、冬海ファンクラブならきっとそうだ)交換日記に初めて参加したのは、ちょうど進路調査票を提出した放課後だった。職員室から出て自分の教室に荷物を取りに行っている途中、階段の踊り場で児玉に会ったのだ。
「久しぶり」
ちょっと会わないうちにかなり身長が伸びていて、もやし加減が増していた。組み分けのときにはおれと変わらないくらいだったのが、今は目線が明らかに彼の方が上にあった。
「おう、なんかでかくなったな」
「そうなんだ。成長痛か、腰が痛くて」
二人はしばらく立ち止まって黙っていた。数人の生徒が二人を避けて階段を昇って行った。
「そう云えば、冬海君が飛び級しちゃったよね」
「みたいだな」
「冬海君とよく帰り道に星を見たなあ」
「・・・へえ」
なんだか唐突な話だな。まあこいつ前から会話のテンポおかしかったし、と納得しかけたとき、根元の交換日記のことを思い出した。どうにかして本のフレーズを会話に入れようとしているようだ。そうしている間にも生徒の行き来があった。
「冬海は空を見るのが好きだったからな」
「うん。よく云ってたよ。雲の向こう側に星を見ると、その距離感に絶望するって。世界はあまりに広くて大きいのに、自分がいる場所はこんなにも限られているって」
それはおれも聞いたことがあった。それに続けて、この絶望に気付かずに死ねたら幸せだったろうに、とも云っていた。おれにはその感覚がまったくわからなかったが、それを話す冬海の横顔を見ていて、奴がすごく幸せそうに見えたのを覚えている。
「星を見る時は、他の光が邪魔しないようにしないとね。世の中、無駄に明るすぎる。夜は暗いから夜なのにね。夜の良さは、暗いことにあり、だよ」
「ああ、そうだな」
児玉は、それとなく歩き始めておれの横を通り過ぎようとした。あれ、今の会話の中にあったのか。
「まあどう云う具合になるか、試しに電灯を消してみることだ」
「え?ああ、そうしてみるよ」
これだ。『まあどう云う具合になるか、試しに電灯を消してみることだ』。くそ、全然知らねえ。おれが頭を掻きむしっている間に、児玉の姿は階下に去ってしまった。
とりあえず、荷物を回収して図書室に向かった。さっきのフレーズを何度も復唱しながら。どうやって調べるか。片っ端から読んでいる時間はないが・・・まあやるしかないか。
図書館に入ったのが十六時半ごろ。今が十八時半。もう二時間も探している。女司書に疑われるんじゃないかと思い始めたころ、誰かが図書室に入ってきた。こんな時間に誰だろう。
「呆れた。まだ探してるし」
根元だった。暗赤色のフレームの眼鏡を掛けている。白い肌によく合っていた。髪を後ろに束ねているからつい先ほどまで勉強していたのだろう。甲組は補習が多く、ほぼ毎日この時間まで教室に缶詰だというのは聞いたことがあった。
「補習だったのか。児玉には十六時過ぎに会ったけど」
「補習は選択科目で人によって違うから。児玉君、なんて?」
「ええっと」
おれは軽く咳払いをして
「『まあどう云う具合になるか、・・・」
「『試しに電灯を消してみることだ』ね。谷崎の陰影礼賛」
「谷崎って、谷崎潤一郎?」
「それ以外いないでしょ。もう・・・」
根元は一瞬の躊躇なく図書室の入り組んだ道を進んで、谷崎潤一郎の本が並ぶ一角にたどり着いた。こいつらはどれだけの本を読んでいるのか、ちょっと気になった。
「何冊かあるな」
「まあそれは手当たり次第に探すしかないね。手伝って」
「それより、バレないか?」
「大丈夫、今、寛子が司書に蔵書を増やしてほしいっていう長くなる話を持ち掛けて時間を稼いでるから」
「そりゃ安心だ。寛子って?」
「溝崎寛子。交換日記の一人。あ、あった」
それは手のひらほどの大きさで、ノートの紙よりはるかに薄く、向こう側の光が透けて、裏側に書かれた文字も読めそうだった。
「なんか変わった紙だな」
「いざというとき、飲み込んでも大丈夫なように薄くて柔らかい紙にしたんだ」
「はぁ・・・」
こいつはいったい何と闘っているんだ。呆れとも驚嘆ともつかないため息が漏れた。
「とにかく、次から時間がかかりそうだったら次の日にして遅くまで残らないようにして。森川君が図書室に籠ってるなんて明らかにおかしいから怪しまれる」
「悪かったな。でも、これからは怪しまれないかもしれないぜ」
「どうして」
「高等科への進学希望を今日提出した」
根元はかなり驚いたようで、手に持っていた本を落としそうになった。声を上げそうになって手で口をふさいだから、結局その本は落としてしまった。
「嘘でしょ」
「いや、本当だよ。だから図書館で勉強しててもそこまで怪しまれない」
「そうかも知れないけど・・・乙組から高等科に進学できる人なんて、一級から十人いるかいないかでしょ。それに、入学試験に失敗したら強制的に行政科行かされるし。森川君、行政科嫌ってたよね」
「大嫌いだよ。認め印を押す生活なんてまっぴらごめんだ」
「じゃあなんで」
おれはその質問に答える前に、手元の交換日記を見た。その小さな紙には四人がそれぞれの仮説を論じて、それぞれがそれらを反証したり疑問を投じたりしていた。これまでに見たこともないほど細かい文字で、びっしりと書かれていた。皆が冬海の事を心配して、それだけじゃないだろうが、こうやって意見を交換している。この行為が実を結ぶのか、結んだとして何か影響するかはおれにはわからなかったが、一人で悶々と過ごすよりは数倍いいと思った。
おれの自慢は、自分の人生に後悔がないことだ。いつもその瞬間をやりたいようにやっている。もちろん思い通りになることばかりではない。根元の事も。でもそれはおれにはどうしようもなかったことだ。
でも、ただ一つだけ後悔していることがある。冬海を見舞いに行ったとき、持って行った漫画を一緒に読まなかったことだ。それをしなかったせいで二年間会話もせず、いつの間にか奴は飛び級して違う学舎に行ってしまった。初等科の頃に、二人で屋根から落ちる雨水をただ一緒に眺めていたのを覚えている。二人で流星群を見に行って空が落ちて来るんじゃないかと思うくらいの流星群を見ているとき、奴が静かに泣いていて、おれは気づかないふりをしたのも覚えている。
おれがこの先生きていくとして、そのどこにも冬海がいないのは嫌だった。このまま進めば、冬海とはこの先かかわり合うことなく人生を終えるということは、予感として強くあった。それは見舞いのときに見たあいつの表情で感じたことだ。あいつは意図的におれを遠ざけようとしたんじゃないか。
あの見舞いの時、たぶんあいつはおれを呼び止めようとしたんだ。その気がなければ毛布を下ろし、体を起こす必要なんてない。でも、きっと何か考えて、呼び止めなかったんだ。おれはそれがどんな考えなのかわかないが、おれが後悔しているってことは、その考えが間違っていたってことだ。
それを伝えなければいけない。
「そりゃ、根元のことがまだあきらめられないからだよ」
おれはそう云った。根元は少し困ったような表情をしたが、すぐに真剣な顔になった。
「違うでしょ。森川君は嘘つくの下手だからすぐわかる」
これは意外だった。おれは自分では上手く嘘をつけていると思っていた。
「それに、森川君は私より冬海君の方が好きでしょ」
「気持ち悪いこと云うなよ」
「そういう意味じゃない。ほら、云いなさいって。なんで高等科に進むことにしたの」
彼女はまだ真剣な顔をしていた。目はまっすぐにこちらを見つめている。憎らしいほど綺麗な瞳だ。さっきの、おれが根元より冬海の方が好きだっていう言葉の意味はよく掴めなかったが、おれが今ここで言葉にしなければ、彼女は怒るような気がした。
「おれ、まだあいつと話がしたいんだ。きっとあいつが頭の中で考えていることなんでおれにはこれっぽちもわかんだいだろうけど」
そうだ。あいつは頭の奥底で考えている本音を、おれに対して言葉で向けることは無かった。それでも、あいつが胸に秘めている何か大きいものは隠しきれていなくて、表情や振る舞いににじみ出ていた。そう、今思えばいつも苦しそうだった。楽しそうに腹を抱えて笑っていても、軽口叩いていても、瞳の奥には誰ものぞくことを許されない闇があった。
「正直でよろしい。じゃあ、帰り道で落とすなんてことが無いように気を付けてよね」
「わかってるよ」
「そう云えば、前話した時、前垣先生にいろいろ聞かれたらしいね。私が冬海君が飛び級したことを森川君に伝えたって前垣に云ったのはよかったよ」
「よかったのか」
「え、考えたうえでのものじゃなかったんだね。森川君が教師陣に対してあんまり警戒していないって捉えたと思うし、私が森川君まで尋問されるとは思っていない、つまりは警戒心が薄いやつだって捉えたと思う。もしも警戒しているなら、森川君に冬海君の飛び級の件は聞かなかったことにするよう云うはずだから」
「おれは馬鹿だからな」
「知ってる。あ、寛子の時間稼ぎが終わったみたい」
本の隙間から少しだけ司書のいるカウンターが見えた。どうやら司書が渋々蔵書を増やすことを認めたようで、溝崎寛子は勝ち誇ったような笑みを浮かべていた。
おれと根元はまるで恋人のように肩を並べて司書のもとへ近づいた。おそらくあいびきでこの図書室を利用したと思わせるためだろう。役得である。
「寛子、どうだった?」
溝崎は、根元に比べると凹凸の少ない顔立ちだが、大きな瞳が特徴的で、子猫のような印象があった。根元が女子にしては身長が高く百七十センチメートル近くあるせいで、余計にかわいらしく見えた。甲組の女子は粒ぞろいと聞くが、確かにそのようだ。外見と中身は比例するというのがおれの持論だが、それはやはり正しい。
「勝った勝った。オルテガの全集を来月までに入れてもらえることになった」
「さっすが寛子。オルテガは大衆の反逆しかおいてないもんね」
「もう、変な本ばかり読んで・・・」
司書の山本恭佳は、レズビアン疑惑があるので有名だ。図書委員の女子を書庫に連れ込んで襲うという噂がある。おれは年増に興味がないから詳しくは知らないが、山本の容姿を見ると、服装は男性的だが化粧は丁寧にしているようなところがそういう噂の種になるのだろうか。
「根元さんも来てたのね。あら、彼氏?」
山本はそう云っておれを下から上まで品定めするように見た。失礼な奴だ。
「まあそんなものです。ちょっと待ち合わせをしてて」
「そう」
これだ、これ。いまの「そう」の悲壮感。これは明らかに根元を狙っていたと確信させるものがあった。確かに根元は一部の男子どもに女神と形容されるような容姿をしているから、女子からしてもそういう対象になるのかもしれない。想像の範疇を出ないが。
三人で図書館を後にして、ともに帰路についた。
「初めまして、森川君」
「どうも」
溝崎はとても愛想よく挨拶した。これもまたもてるだろうなあ。根元はあまり愛想を振りまく感じじゃないから、新鮮だった。
「ちょっと待って」
根元は鞄から手鏡を取り出すと、髪を束ねていたヘアゴムを外し、手櫛で整えた。なんだかいい香りがした。
「いいよ。大丈夫」
「まだつけられてないんだね」
そう云ったのは溝崎だ。
「え、なに、今のは手鏡で後ろを確認してたのか」
「そうに決まってるでしょ」
根元が呆れたように云った。いや、決まってないだろ。文句を言いたかったが、今は我慢した。
「監視は学校周辺の公園とか飲食店にいて、学校から尾行するというよりは人が集まるようなところに待機しているみたい。それで、怪しい生徒を見かけたらその地点から尾行を開始する」
「そうだね。学校で待機させてたら、それこそ生徒に怪しまれるからね」
「たぶん、今も私たち三人集まってるから、どこか人の多いところを通ったらすぐにつけられる。それまでに要点だけ話そう」
根元は早口だった。
「まず、私たちの目的からだけど、当面は私たち甲組がなぜ隔離されるかを明らかにすること。これが解れば冬海君がこれからどうなるのか、いくつかの仮説を立てられると思う」
溝崎はうなずいた。
「うん。私もそう思う。今私たちは、何がおかしいのか、それすらほとんど把握できてない。甲組だけの禁止事項の存在は数少ないヒントだと思う」
「甲組だけの禁止事項ってのはどのくらいあるんだ」
このおれの質問に二人は少し体をすくませた。溝崎は聞き取るのが困難なほど声を潜め、殆ど唇を動かさずに話した。
「それを甲組以外の生徒に話すことが一番禁じられていることなんだ。知りたいと思って、交換日記に列記しておいたから、帰ってから読んで」
「わ、わかった」
「メンバーはここにいる三人に加えて児玉君と羽生杏里ちゃん。生徒の中にも教師側の人間がいることは大いにあり得る。この五人以外は信頼しない方がいいと思う」
そう云ったのは根元だ。まあおれも少しは考えていたが。
「それもそうだが、おれは根元と児玉以外はよく知らない。悪いが、本当に信頼できるのか」
二人は顔を見合わせて、くすっと笑った。美少女が顔を近づけてこういう仕草をしているとそれだけで幸福な空間が生み出される。
「詳しくは話せないけど、それは安心していいよ。同じ男子を好きになった女子同士の絆は、その男子がその女子のうちの誰かとくっつくまでは強力だから」
怖い話だが、なんだか納得してしまった。おれがひきつった表情をしていると、根元が何かを手渡してきた。茶封筒だった。
「なにこれ」
「交換日記用の紙。念のため多めに入ってるけど」
中を見ると、陰影礼賛に挟まっていた紙と同じサイズの紙が束になって入っていた。
桜木公園を通り過ぎてからは、他愛のない話をつづけた。基本的におれの馬鹿さ加減をいかにうまく形容するかという話と、冬海のカッコよさの話が交互に続いた。
十字路に差し掛かり、ちょうど全員バラバラの道だったのでそのまま分かれた。散々馬鹿にされたが、相手が可愛い女子なら全く気にならない。むしろもう少し続いてくれても良かったくらいだ。
家に到着すると、すでにおれ以外の全員が帰宅しているようだった。九年生になって補習が増えたから、こういう日が増えている。
「ただいまー」
「あ、悠佑おかえり」
リビングから母親の声が聞こえた。
「今日学校から連絡があったんだけど」
「へえ、なんて」
おれはリビングのソファにどかっと腰かけた。風呂上りの父親が、手を洗って着替えてきなさい、と小言を言ったが無視した。
「高等科へ進学希望したんだって?」
「あ、うん」
「どうしたの急に」
「別に。勉強するのも悪くないかなって」
「そんなもんなの」
母親は無関心を装っていたが、どこか嬉しそうだった。父親が怒鳴り始める前に、おれはソファから起き上がって二階の自室に入った。父親は案の定、進路については何も口を出してこなかった。
制服を着替えて、おれは早速交換日記の紙を鞄の中から取り出した。机に向かってめったに使わない卓上電灯を灯す。机上に散らばる文房具や紙くずを適当に寄せてスペースを作って、そこに交換日記を置いた。白い光の下で見ると、改めて凄みがあった。特におれのような普段文字をたくさん書くことなどないような人間からすると、手のひらほどの大きさの紙にこれだけの量の文字が敷き詰められているのを見ると、この紙には何か神秘的な物が宿るんじゃないかと疑ってしまう。
一番初め、左上と思われる。『根元優子 五月三日』と書かれていて、他にメンバーの日付よりも早い。
『寛子、杏里ちゃん、児玉君。メンバーに乙組二級の森川悠佑君を加えることにしました。彼は冬海君や私と同じく、初等科を同じF棟で過ごした幼馴染です。森川君は冬海君のことを私以上に愛しているので、信頼できるメンバーです。根拠はいずれ、彼自身から教えてもらえると思います。
森川君。書式はここにある通り、名前と日付を書いてその後に文章を綴ってください。もらったその日に書いてもいいし、数日空けて書いてもいいです。あまり規則的にしない方がいいような気もするので適当にやってください。回す順番も敢えて決めていません。これも、決まった順番で図書室に出入りすると司書の山本さんに疑われる可能性があるから。
また、この紙は最後の人が焼却処分してください。自分の記述は新しい紙に書いて次の人に。処分方法はトイレに流す、裁断するなどは復元できる恐れがあるので、化学反応によって処分すること。内容は各自、ノートなどに書き写し確認できるようにしておくことになってるけど、万が一自分が命を落としてノートが残された場合の事を考えて、第三者に決して見つからない場所に隠しておくように。自分のノートの隠し場所は、メンバーのうち誰かひとりにだけ教えておいて、後日回収できるように取り計らっておいてください。
書く内容は決まってはいないけど、今後目標が定まった場合、そのことについて自分の意見を書いて。特に重要な情報と思われる内容は、情報源とその情報を得た日時、状況を詳らかに書いて。
では今回は私はこれだけにしておきます。よろしくね、森川君。』
くそ、根元の奴、おれが冬海のことを『愛してる』って書きやがった。気持ちの悪い奴だ。まあでも、おれが教員側と云ったらいいのか、あっち側の人間ではないと云うことは何らかの形で他のメンバーにも納得してもらうことは重要だ。根元の次に書いているのは、溝崎寛子だった。
『溝崎寛子 五月四日
優子がそう云うなら、間違いなく信頼できるでしょう。いつか森川君の、冬海君への愛の迸りを聞けることを楽しみにしています。
ではまず森川君。私たちがこの交換日記を始めたきっかけを教えます。
甲組の生徒に課せられた禁止事項ももちろんきっかけですが、まずは先生たちの冬海君に対する態度が一番のきっかけだったと考えています。組み分けされてからすぐ、冬海君は先生に対して色々な質問を投げかけていました。特に、五行訓についてです。決定的だったものは、疑ってはならぬ、についてのものでした。全ての学問は疑うことから始まると思いますが先生はどう考えておられますか、という内容でした。それに対して、先生は、信じるための理を学ぶのが学問だとおっしゃったと思います。冬海君は、その返答を予想していたようでした。信じるだけでは生じえない学問的事柄を列挙し、先生を論破しようと試みたのです。甲組の生徒たちは固唾を飲んでその様子を見守るしかありませんでした。冬海君の論理は破たんがなく、それ故先生の顔色はどんどん悪くなり、先生は授業を中断して冬海君を教室から連れ出しました。その次の日から数日間、冬海君は高熱で入院し学校を休むことになります。
退院してからというもの、冬海君は固く口をつぐむようになり、授業中発言することもなくなりましたが、その代り私たちの知らないような知識を備えるようになったのです。森川君が冬海君をお見舞いしたときに見た本のことですが、そこから想像される仮説は、禁書を読むことを許す代わり、授業中の発言を禁止されたのではないでしょうか。甲組が他の生徒から隔離するための仕組みであるならば、この仮説は飛躍したものではないと思います。
この事件を機に、私と優子、杏里ちゃんの三人で交換日記が始まりました。最初は『冬海君かわいそう』とか『橋本(冬海君を教室から連れ出した教員の名前)、セクハラの冤罪でつるし上げたい』とか他愛のない内容でしたが、徐々に教員側には何か裏がある、という話になり今のような形になりました。
児玉君は、優子が彼の家が冬海君の家のすぐ近くだから味方になってくれたら心強いということで勧誘しました。彼は自称、冬海教だそうです。少し気持ち悪いですね。
では甲組の禁止事項をまとめます。禁止事項は書面で配布されたりしたわけではなく、先生が口頭で云ったもので命題形式からは程遠く、比喩や無言の圧力、暗黙の了解などと云った類でそれとなく生徒に伝えられました。そのことを心にとめておいてください。
一、甲組の生徒は、生徒間での議論、集会を認めない
二、甲組の生徒は、生徒間でのノート、教科書、その他の物品の貸し借りを認めない
三、甲組の生徒は、学区外から無断で出ることを認めない
四、甲組の生徒は、組内の規則や授業内容、その他内情を他の組の生徒に口外することを認めない
五、甲組の生徒は、人為的な化学反応の実演や構造を持った物の自作を認めない
六、甲組の生徒は、校内での活動において、文章や発言その他の批判的な表現行動を認めない
今のところ明文化できるのは上の六つです。他にも無意識のうちに禁止されていることがあるかもしれません。上の四つは組み分け後すぐに先生が生徒に向けて述べました。下の二つは、冬海君の行動から新たに追加されたものです。五は、冬海君が物理学の授業中に風の力を使って起電力を生じさせ、電球を点灯させたことによって。六は、五行訓に対する質疑によって。
これらの禁止事項を調べることで、何か見えてくるのではないでしょうか。以上です。』
溝崎の文字は、根元のような縦長で流れのある筆跡ではなく、一文字一文字を丁寧に並べたかわいらしい文字だった。イメージと字体って似るものらしい。
禁止事項を改めて眺めてみると、これは逆に、おとなしく授業を受ける以外何もするなってことになるように思えた。余計なことするな。何も考えるな。そして特にその他大勢に影響を及ぼすな。その意図も大いに感じられる。甲組の連中の何が問題なのか。次は児玉だ。
『児玉佳嗣 五月六日
書く内容をまとめるため、いつも通り一日空けて書いています。
森川、よろしく。
溝崎さんの禁止事項はよくまとまっていると思う。これからは、溝崎さんの番号付けに従って、第一則、第ニ則と呼ぶことにしよう。
ここで新たな情報です。前回僕が日記に記した日は四月二十九日だったけど、五月一日の朝八時半ごろ数学の梅沢から職員室に呼び出されて、毎朝冬海君の登校を確認するよう云われました。荷物の量まで確認して、投稿したら職員室に寄って報告するようにとも云われました。
冬海君、まさか高等科でもまた何か目立つことをやったんじゃないだろうか。それでさらに監視の目を増やされたのかも。僕はどう振る舞えばいいのか迷っています。もし冬海君が明らかに挙動不審だったとき、そのまま報告したらいいか、それか冬海君をかばうように報告したらいいか。とか。とりあえず今のところは特におかしいところもなかったので、見たままを報告しています。ちなみに五月三日の朝は機嫌がよさそうで、右手を指揮者みたいに振って口笛を吹いていました。何の曲だったかはわからないけど。
とにかく、冬海君がさらに怪しまれているのは確かだと思う。少し焦っています。』
児玉の文章は短かったが、極めて重要な情報だった。これはやばいかもしれない。監視の目を増やしているというのは違う。それは監視員を増やせばいいだけで生徒にやらせる必要はないはずだ。おそらく、冬海が高等科に飛び級したことを中等科に広めたのが児玉だと云うことに、教員側は気づいている。そして、児玉には仲間がいると云うことも考えているはずだ。児玉を監視役にして、その動向を探っているに違いない。もしも児玉が冬海をかばうような報告をした場合、児玉がどうなるのかは全く分からないが、いい方向にはいかないはずだ。
もう一つの問題は、冬海が高等科でも何かをやらかしたかどうかだ。児玉が云うように、本当に何かをやらかしたから、児玉にも監視させて児玉の動向も監視する一石二鳥を狙っているとも考えられる。もしもこの仮説が正しければ、冬海の環境も何かしら変わると考えていい。おれたちは行動を迫られていることになる。早く冬海に近づかなければならない。
しかし、最悪の場合生徒がどういった処遇になるのか、それを全く知らないのも怖い。命を絶たれるのか、永久に監禁されるのか。それ以外の何かか。自分より上の学年で、冬海のような人間がいたかどうか。いたとしたらその後どうなったのか。それを調べる必要がありそうだ。
そうなると、一番身近な情報源は長野の兄貴だ。長野の二つ年上で、今はたしか商業科の学校に通っている。何か話を聞ければいいが。甲組ではないおれにしかできないことだ。
おれは根元から受け取った封筒から一枚取り出し、今考えた内容を書き始めた。できるだけ小さな字で。
まずは児玉に渡す必要があるな。
書き始めて小一時間たち、目と手が疲れたから少し夜空でも見ようと思って、立ち上がって机の前の窓のカーテンを開け放ったときだった。二人の男がこちらを見上げていた。背筋が凍るとは、このことだった。
突然カーテンが開いたからか、二人の男は一瞬硬直していたが、すぐに顔をそらして何事も無かったかのように道を歩いて行った。暗かったので顔は見えなかった。
心臓が大きく、痛いほど肋骨を叩いている。なぜだ。おれは甲組じゃない。なぜこのタイミングで監視されているんだ。
いや、前から監視されていたのかもしれない。偶然カーテンを開いたのが今日だったというだけの可能性も十分考えられる。監視が始まった日は、おれと根元が二人で昼休みに話したあの日。つまり冬海が高等科に飛び級した日。前垣に尋問されたこともあって、それが一番妥当な予想だと思えた。このことも書かなければならない。それには落ち着くまでしばらく時間が必要だった。
次の日、学校に行くと、校門で前垣がおれを待ち構えていた。
「よう、森川。お前、高等科に進学希望だったよな」
異様な雰囲気だった。以前のような愛想笑いも無い。純然たる無表情。抑揚は抑えられ声のトーンは一つ低く、教員が生徒に対して話しかける口調ではなかった。初めて、この教員を怖いと思った。
「おはようございます。はい、昨日、希望を提出しました」
「そうか・・・。今日の朝早く、教育省から連絡があってな。お前の希望とお前の普段の素行から、特例としてお前を甲組に組み上げしてしてやるようにと云われた。よかったな」
前垣は表情を寸分変えず、暗い沼のような目をおれに向けたまま校舎へ戻っていった。
おれは、しばらく動けなかった。
つづく