分裂する世界
瓦葺の屋根。軒がふつうの家よりも倍はあって、縁側が影に飲まれている。私の師匠の家は多くの家屋に囲まれながらも目立っています。時間よりも五分早く師匠の家に着くとまだ直前の門下生がレッスンを受けているようで、師匠のしゃがれた低い声と練習曲が漏れ聞こえていました。音色が彼のものらしく聞こえて心が浮足立ってしまいました。
レッスン部屋の襖一枚隔てた廊下に立って待っていると、今日はここまでにしましょう、といういつもの科白でようやく静かになりました。
「根元さん、入っていいよ」
私が立っていたことに気付かれていたようで、師匠は優しくそう云ってくださいました。
「失礼します」
中に入ると冬海君が腰かけて膝に楽器を置き几帳面に手拭いで拭いている最中でした。師匠にお辞儀をして、冬海君の方を向いて「こんにちは」と小さく声をかけると、畳に腰かけたままちらとだけこちらを見て「うん」とだけ返事をくれました。柔らかな栗色のまっすぐな髪が前に見かけたときよりも伸びて白い耳先がその髪の隙間から覗いています。私はどきりとしました。
十畳ある部屋ですがこの屋敷の中では一番小さな部屋です。ふつうのものよりも広く作ってある床の間にはコルクの薄い板が敷いてあってその上にアップライトのピアノが置いてあります。床の間と逆側の壁際にはちゃぶ台があり、休憩の際はそこで師匠がお茶を立ててくださいます。ピアノの上にはいつものように師匠の楽器が弓と一緒に無造作に置いてありました。ピアノ椅子に師匠が座られて、門下生は縁側を向いて右手に師匠の視線を感じながらレッスンを受ける形になります。縁側と深い軒の向こうにはよく手入れされた松と楓の木が一株ずつ。影の向こうに見えるといくらか幻想的に見えるので不思議です。楽器を取り出して、あまり付けすぎると師匠に嫌な顔をされるので一往復だけ松脂を弓に張った毛になぞらせました。調弦をしようと構えたときにケースの留め金をぱちんと閉める音がして、冬海君が楽器を片付け終えてしまったことがわかりました。楽器を構えたまま彼の方を体ごと向くと、何か用、と云うような表情でこちらを見つめ返されてしまい私は恥ずかしく思いました。そのままくるりと向き直って何事も無かったように調弦に集中しようとしたけれど、少し緊張してしまっていることが音に出ていないかな、などと考えてしまったり先ほどの視線を思い出してしまったりして集中できませんでした。師匠がピアノで基準音を叩いてくれましたが、少し高いようだけれど、と注意されてしまい余計にわからなくなって体が火照りました。立ち上がった彼を見てほんの少し背が高くなったような気がしましたが、前回見かけたときから一月も経っていません。やはり二年も飛び級して高等科に進学したことが私に妙な勘を働かせてしまっているせいでしょうか。私は女としては身長が高い方なので気のせいでも嬉しかったのです。
師匠が襖に向かって軽く手を挙げるのが解りました。おそらく彼が師匠に礼をしているのでしょう。そして部屋から出る前に私の背に向かって「じゃあ」と小さく声をかけてくれました。何も云えず振り返った時には襖がほとんど閉まりかけて彼の姿は見えませんでした。うん、じゃあ、の二言を耳の中で呼び起こしました。学舎が別々になってしまってから彼の声を聞くことができるのは、この時だけなのです。
調弦を終えてト長調で簡単に準備運動を済ませると、でははじめましょうと師匠がおっしゃいました。ピアノのある床の間の壁に掛けられた時計によると、時間は十五時を五分ほど過ぎた頃です。
「冬海君、身長伸びたように見えました」
私は唐突にそう申してしまいました。あとから、冬海君の名前を口にしたかったがためにレッスンに関係のないことを云ってしまったのだと気づきました。
「そうですか。私は気づきませんでした。でも男の子はこの時期一番伸びるからね」
師匠は腕を組んで襖の方を見ながらおっしゃいました。数秒間そのままで何やらお考え事をなさっているようでした。私は楽器を下ろさず右腕だけ下ろしました。
「高等科には私の教え子が教員として勤めているんですがね、冬海君と二人で何やらいろいろと企んでいるようだよ」
師匠はよく知る子供が面白おかしい悪戯をしていることを幾分楽しそうに語るご老人のようです。師匠が冬海君の話をされるときはいつも楽しそうです。私も、師匠から冬海君の話を聞くのは好ましいことでした。
「企み事とは穏やかではなさそうですが」
「そう、そうだね。天才は一人でも充分穏やかではありませんが、二人居たらそれこそ天変地異が起こりそうで冬海君から盟君の話を聞くのは老体には堪えますよ」
どうやらその教員と云うのはあの盟様のことのようです。冬海君が幼い時分から熱をもって憧れていた盟様と親しみを深めていることを知って、それは何とも喜ばしいことだと思いました。いつもはどこを見ているのかわからない冬海君も、盟様のことを話すときはこの世のどこかを見ていましたものですから。とは云っても冬海君の話はとても難しくて私は一生懸命耳を傾けるばかりでしたけど。
レッスンが始まり、課題曲のベートーヴェンのソナタの一番を細かく指導していただきました。フレーズの向かう和音や効率的な運指を改善してゆきます。弓使いはまだまだで、師匠の指示通りやろうとするとリズムが雑になってしまったり、和音が濁ってしまいます。師匠はいつものように、冬海君より遥かに拙い私にも根気強くお付き合いいただいてくださいます。
一通り終えた後、少し休みましょう、と師匠はピアノ椅子から立ち上がってちゃぶ台の縁側の方に正座されて、見事な御手際ですぐにお茶を立ててくださいました。私も楽器を置いて師匠の向かいに正座しました。
「いただきます」
私はお茶の作法などよく知らないのですが、師匠は気にせずくつろいでお飲みなさい、と云ってくださいます。私が飲んでいる間に、師匠はご自分のお茶も立てられてずいと一口飲まれました。
「知っていますか、冬海君正座ができないんですよ」
それは何とも楽しそうでおられました。師匠は少し子供っぽい笑みを浮かべてそうおっしゃいました。私も驚きました。
「そうなんですか、膝でも悪いんでしょうか。あの歳で」
「いやいや、ただ体が硬いんでしょう。前屈をさせても、指先は足の先にかすりもしませんよ」
長いこと冬海君を見てきたつもりですが、まったく気づかなかったのでこれに関しては失礼ながら師匠にむっとしてしまいました。
「根元さんも足を崩して構いませんよ。私も胡坐させてもらいますので」
「はい」
楓の木に、白地に黒い筋模様の入った小鳥が留まっているのが見えます。淡い緑の葉がこちらからだと日に浴びて輝いているようです。松の葉はそれよりもだいぶ濃い緑をしておりますが、やはり影を通すと鮮やかに見えます。地面に敷き詰められた砂利の白さも、影を通せばこそでしょうか。小鳥はいつの間にかいなくなってしまっていました。
「冬海君もベートーヴェンをやっているんですか」
「ええ、スプリングソナタもクロイツェルソナタもやらせましたよ」
「聞いてみたいものです」
「まあ上手に弾きますからね。しかしねえ」
師匠は少々困ったように言葉を切られました。
「何かあったんですか」
「これと云っては無いんだけど。冬海君はベートーヴェンが好きではないみたいなんだよ」
「はあ、そうなんですか。私はこれと云って好き嫌いが無いので」
冬海君が何か曲を人前で弾く度に、誰も求めていないのに滔々と曲についての考察を述べる様子を思い出しました。作曲家に関しての正確な生年月日や生い立ちなどの文献はすべて禁書とされているので、考察のほとんどは彼の想像の産物に留まるものでしたが、彼は演奏するとき作曲家の人生を背負って弾いているような気がします。以前、緊張しないコツはないかと彼に聞いたとき、「作曲家が僕の横で聞いているのを想像しているんだ。そうしたら、緊張して弾けませんなんて無礼千万な言い訳できないよ」と。そっちの方が緊張するのではないかとも思いましたが、私にはその場面を想像することさえ叶わないので判断付かないというのが真実でした。
それほどまでに作曲家の事を考えている彼が嫌いと云うのには何か理由があると思います。それに、技術も表現力も、ましてや想像力も彼に劣る私にはまったく理解できない範疇の話です。
「ううん、言葉を選び間違えたなあ。冬海君はベートーヴェンを評価していない、と云ったらいいかな。それも少し違う気がする。モーツァルトやブラームスはもちろんフォーレなどの曲を弾いているときは、私とは違う解釈で弾いたとしても相手を納得させようとする意志が感じられるんだけれども、ベートーヴェンの場合は違うんですね。こう弾かなければならない、という義務感と云ったらいいでしょうか。そしてそれは決して間違った解釈でもないし素人が聞けば大変上手に聞こえるものですがこう弾きたいという意志がまったくない。たとえば私がこうしたら、と云うと、嫌な顔一つせずまるで私の操り人形のようにこなすんですよ。合っているから私も何も云えないし困ったものです。燃え上がるような意志は他人に云われてどうにかなるものではないですから」
師匠は眉間に皺を作っておられ、どうやら本当に困った様子です。ベートーヴェンが素晴らしい作曲家であることは師匠方もあの盟様の一族の方々もおっしゃっていることです。それに異を唱えるなど恐れ多いことですし身を滅ぼしかねない考えです。これは「疑いてはならぬ」ことに間違いありません。私の心が「ただ、あるのみ」と囁くのですから。五行訓は心身を支える柱である。これは初等科の頃から熱心に教え込まれた生きていく術なのです。人類は遥か昔、この世界を覆いつくすほどの数が繫栄していたと云います。それがこれほどまでに減ってしまったのは五行訓の教えが無かったから。その証に、五行訓の教えが幼子から老人までに浸透したこの社会は一千年の時を経ても形を変えず悠久の幸福を勝ち得ています。古代の人類は己の身を窶してまで数を増やし世界を拡張したがために、己を制御できなくなってしまったのです。今から一千年以上前に人類世界は破たんを迎えその繁栄を終えた理由は禁忌の教えとされて秘匿されていますが、私はそれを知りたいとは思いません。知ったところで、五行訓の正しさは変わらないのですから。
休憩ののち、ソナタとは別のエチュードを二曲見ていただき、私のレッスン時間は終わりを迎えました。楽器を片付け終えて師匠に礼を申し上げようとしたとき、師匠はじっと外を眺めておられました。
「根元さん、天気雨ですよ。春の気候は不安定だね」
その通り、縁側の向こうは雨天でした。雲間から差す光の柱が遠くに見えます。
「私は家内に用があるので奥の部屋に行きますが、もう後はないのでやむまで待ってからでもいいですよ。楽器を弾くのは、湿気が善くないのでお勧めしませんがゆっくりしていってください」
「あ、ありがとうございました」
師匠はピアノ椅子から立ち上がられると、一度腰を伸ばして部屋を後にされました。
私はピアノの前に正座をして縁側の外を見遣りました。光の柱がゆっくりと形を変えています。天から降り注ぐ雨粒のおかげでその形ははっきりとして、遠くに見える山々の稜線をなぞる様子までわかります。耳を澄ますと、さーっと細かい粒が大地を濡らす音が聞こえます。それは決してぼたぼたという品のないものではありませんでした。濃くなった土と緑の香とやわらかい風と共に大地を濡らす音。光の柱。まるで音楽のようだと、冬海君なら云ったかもしれません。
ふと松と楓に視線を引き戻すと、陰影の層を潜り抜けてきたそれらの映像が夢のように何の論理もなく飛び込んできたような錯覚がしました。瓦屋根から滴る雨水が透明の鉱石でできた簾のように陰影との境界を作ります。それは幻想的な景色をより強力なものにする効果がありました。私は幼いころからよくぼうっとしてしまう癖があり、それはこのような非日常のものに触れたときに突発します。今も、その予感が充分にあります。私はそれを敢えて受け止めようと、軒下の闇に身を任せて外の幻想的な景色に意識を投じようと専念しました。
松の曲がりくねった幹を艶めかしく濡らし楓の葉の若い緑を翠玉に変える雨。
山を焦がす光線。地を駆ける驟雨の足音。息詰まる生命の吐息の匂い。
ああ、私は。私は誰なの。ここにいるのは誰なの。
視覚も聴覚も嗅覚も、世界を埋め尽くさんとするその膨大な質量に圧迫されてすべてを遮断したくなりました。いえ、それは決して不可能なことではないということがいまは確かにわかります。
そして、瞼を閉じて、全ての感覚を闇に放り捨てたときです。
「目を開けて」
聞こえるはずがありません。私はすべての感覚を捨てたのですから。しかしその声は確かに聞こえたのです。足が私の重さを感じるように確かに。
私は瞼をゆっくり、そうっと開けました。闇の向こうに見えていたはずの景色は眩しさのあまり形を判別することができません。闇の中、つまり縁側には一人の少女が立っていました。私は驚きませんでした。すべての感覚を放り捨てれば、感じるものすべてを自然に受け入れることができるだと、この時身をもって知ったのです。
少女の背格好や眉、目、鼻、口の形は私と瓜二つです。肩に届かない長さで切りそろえてある私の髪とは違い、少女の髪は肩よりも長く前髪も横に流しています。服装も見たことのないものです。素足で膝頭から下はあらわになっていて、一枚の布で作られたその服は腰から裾に向かって広がりが持たれています。表情は疲れ切っていて、力のない肩は何か大切な物を失ったかのような悲壮感がありました。
「私が見えるわね」
少女はか細く途中で途切れてしまいそうな声でそう云いました。私は小さく頷きました。
「私は遠い昔のあなたの記憶なの。大切な人を失ったあなたの記憶。馬鹿な人間が殺し合っていたときの記憶。あなたがどうして、大切な人を失ってしまったか教えてあげるわ。世界の本当の姿を教えてあげる」
私は少女の言葉を疑うことができませんでした。彼女の悲しみが、怒りがもともとここにあったかのように私の心の中に現れて、放り捨てた感覚が、四肢に、脊椎に、痺れと痛みを伴って蘇り始めました。その悲しみと怒りは、感情に付けた名称に分類すればそのいずれかになるべきものに感じられましたが、「悲しみ」「怒り」と張り紙がされた器にその感情を注ぎこもうとするとどうしてもこぼれてしまうのです。
溢れてしまう!捨てたいはずの感情が、地に吸われわが身を離れてしまえば他のもっと大事な物も同時に失ってしまう気がして、私はありったけの力を振り絞って感覚を研ぎ澄ましました。それはあるはずの無い第三の腕を使って届くはずのない高さに置いてあるものを何とかして手に入れようとするようなものでした。私は座したままその苦しみに思わず涙すると、少女がこちらに駆け寄ってきて抱きしめてくれたのです。
「大丈夫、私はずっとあなたと一緒よ。私は、あなたなんだから」
その声を耳元で聞きながら、私は再び瞼を閉じたのです。
「根本さん、根本さん」
体を揺さぶられて、師匠の声を聞いた瞬間、私が気を失ってレッスン部屋で横になってしまっていたことを理解しました。
「す、すみません」
私は急いで正座し直し、師匠に頭を下げました。レッスン室で、師匠のお屋敷で居眠りをしてしまうなんて無礼にもほどがあります。
「いや、いいんだよ。疲れていたんですかね。いくら読んでも起きないから。もう日も傾いたので帰らないと危ないよ」
外を見ると雨は上がっていて、あのにわか雨特有の濃い匂いも春の風に換気されたようでさわやかなものでした。空の色は寂しさを感じさせるものに変わってしまっていました。暗闇を無暗に照らすことは固く禁じられているので夜道に出歩くことは出来ません。
「本日は大変失礼いたしました、八萩先生」
玄関口で改めて謝罪すると、師匠は優しく微笑んでくれました。
「根元さんは真面目なんだね。盟君や冬海君のようにもっと気楽に接してくれていいんですよ」
滅相もありませんでした。八萩師匠は盟様の一族の方々からも敬われるお方です。盟様はともかく、冬海君も師匠の前では決して饒舌になることは無いはずです。
「そんな様子をしていては、茜さんから受け継いだ美人が台無しです。次のレッスンで会うのを楽しみにしているよ」
茜とは私のおばあ様のことで、この町では際立った美人として有名だったそうです。おばあ様はお役目を果たせなくなるのが早く、私が生まれてすぐお亡くなりになってしまったので私はよく覚えてないのですが今のように云われることはたくさんありました。
いつもはそう云われることが誇らしかったはずなのに、今はなぜか苛立ちを感じてしまいました。閃光のように一瞬にして通り過ぎたその感情は、さらに暗くなり始めた空に埋もれてしまいます。
「ありがとうございます。では失礼します」
師匠のお屋敷から私の家まではそれほど時間がかからないので焦ることはありませんでした。師匠のお屋敷が見えなくなったころ心もだいぶ落ち着いて、あたりを眺めながらあゆみを進めることができるようになった頃です。
空の高いところで、鳶が鳴いています。春風も陽光と共に落ち着いて私の髪を少し揺らす程度になっています。あぜ道の右手に広がる田園とその向こうの峰々を見遣っていました。いつも見る風景です。
いつも見る風景?
そのはずです。しかし、何かが違う。広く感じたあの峰々までの田園が圧迫感を漂わせ、鳶のいる空もなんだかいつもより低い気がします。少女が云った、世界の本当の姿。今までは疑いなど心に入る場所は無かったのに、少女の声は私の血潮となりもう全身を巡ってしまっています。本当と嘘なんて、考えたことも無かった。疑わなければ世界は一つだったのに、本当の世界と、噓の世界に分裂してしまったのです。
見える風景が、大きな垂れ幕に映された影絵のように、奥行きのないものに見えてしまうようになってしまったのは、悪いことのように思えました。
冬海君、と心の中で呼びました。
つづく