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サヤカ、フィフティーズ! 恋愛偏差値SOS

作者: パトリシア・ワトソン

サヤカはある日、しばらく生理がこないことに気づいた。もともと不規則だったからあまり気にも留めていなかったのだが、バスルームを掃除していて年の初めに買ったナプキンがそのままになっているのに気づいたのだ。

 若い頃なら「妊娠か?」とドキリとするところだが、サヤカは当年とって53歳。妊娠したくても出来ない歳になっていた。ということは、アガリ? 閉経の年齢には個人差があるという話を聞いたことがあるが、こんなに突然来るものなのだろうか。サヤカにはやはりショックだった。昔初潮を迎えたときに母親が「将来赤ちゃんを産むために必要なことだから」と説明してくれたのがつい昨日のことのようだ。とうとう子どもを生まないまま閉経を迎えてしまった。あの四十年近い出血との格闘は、まったくの無駄になってしまったわけで、結果的に自分の選んだ人生には実りがなかったと通信簿をもらったような、忸怩たるものを感じた。

 恋人は、いる。今流行の、年下の彼だ。十八歳違う。

 彼はポーランド人で、ロンドンで絵を描いている。絵を描くだけでは食えないので、ポーランド人仲間に声をかけておいて、水道工事の補助とか大工仕事とか、そういう日雇いの賃仕事をときどきやる(イギリスに来ているポーランド人はなぜか水道工事をする職人が多いのだ)。いうなればいい歳をしてフリーターなのだが、目下サヤカの生きがいである。

「エイドリアンは絹糸みたいな金髪で、やばいくらいイケメンなの。三十超えてるのに少年みたいに見える。からだも華奢で、ひげも薄くて、見ているだけで惚れ惚れする。ボーイズラブの漫画に出てくる主人公みたい。親はもちろん、友だちにも紹介できるような付き合いじゃないんだけど」

 サヤカはいつもちょっと恥ずかしそうに目をしばたいてエイドリアンの話しをする。とはいえ、ボーイズラブの主人公とはまったく違って、エイドリアンは無類の女好きである。女と見れば尻を追いかけ回す軽さは、ラテン系の男顔負けである(現に祖父はイタリア人だったらしい)。

 エイドリアンと知り合ったのは、サヤカが格安航空会社のバーゲンチケットで女友だちとワルシャワに遊びに行った帰りの空港だった。出発便の出発が遅れ、空港ロビーのベンチでたむろしていたサヤカたちに、エイドリアンと彼のお兄さんが近づいてきたのだ。向こうもこっちもどちらもたどたどしい英語だったが、「どこから来たの?」「日本から」のお決まりの会話から始まり、なんとなく親しくなった。すぐに居眠りを始めたお兄さんとは違ってエイドリアンは積極的だった。いや、正確に言うなら、サヤカと一緒にいた友だちのほうに熱心に話しかけてきた。サヤカの連れはトモちゃんといって、そのとき日本に彼氏がいたので、エイドリアンにはまともに取り合わなかった。エイドリアンはそれでもしつこくトモちゃんになんだかんだ話しかけてきていたが、トモちゃんは英語も出来なかったし(サヤカが通訳していた)そのうち拒絶の代わりに本を読み始めたため、エイドリアンはしかたなく向こうへ行ってしまった。しかし10分ほどしてアイスクリームを両手に持ってまたやってきた。そうして、トモちゃんとサヤカに差し出したのである。トモちゃんはアイスクリームだけもらって「さんきゅ」とひらがなでいったきり本に戻ったので、自然とエイドリアンとサヤカがマンツーマンで話す状況になった。エイドリアンは自分を「アーティストだ」といった。空間芸術家なのだという。一定の空間にいくつかの物体を置く、という芸術がやりたいのだ、と。絵は描くがそれは表現の一形態に過ぎない、と語った。ポーランドは労働者の国だけれど、ロンドンは芸術家の街だからチャンスを見つけに行く…。雲をつかむような話の内容はともかく、話しているときのエイドリアンの表情は、この世のものとは思えないほど美しく、サヤカはうっとりと彼の顔を見つめ続けた。ライトブルーの瞳、すうっと通った鼻梁、しわもシミもない透けるような白い肌、薄くてピンク色の唇、さらさらの金髪。恍惚としてしまうほどの美しさだ。この人が裸になったらいったいどんな感じなんだろう。サヤカの頭の中で、エイドリアンは何度も裸にむかれた。

 サヤカはイギリスで、日本の電子機器メーカーの役員秘書をやっている。人当たりがよくてまじめで仕事をてきぱきこなすサヤカは有能な秘書である。前任の役員が海外に赴任になるときに一緒にくっついてきたが、前任者が日本に帰国した後でもイギリスに残りたくて、何とかビザを延長してもらうようにお願いし、いったん退社して現地採用の形で働き続けている。

 海外で働く日本人にとってはビザや労働許可証、滞在許可証などの類はいつも悩みの種だが、そういう点では問題なく来た自分はラッキーだとサヤカは思っている。しかし国許の母親はそう思っていない。宮崎に住む両親は、東京や大阪などの大都市に暮らす人間に比べてまだまだ古いので、オンナの幸せは結婚して子どもを育てることだといってはばからない。だから、「会社が娘を送り返してくれたらこんなことにはならなかったのに」とビザを申請してくれたサヤカの会社を逆恨みするようなことを言う。サヤカの妹は学生結婚して四人も子どもを生んだ。姉の分まで産み育ててくれたんだからいいじゃないかというと、母はそういう問題じゃないという。

「いつまでも親はいないんだからね、あんたひとりで老後どうするんだい」

 正直、そういい続ける母親には辟易である。海外に住んでいるとそういう雑音が聞こえてこないのもいい、とサヤカは思う。親戚だとか家族のしがらみを感じずに自由に呼吸できる。日本、それも宮崎なんかの片田舎では味わえない自由な生活がここではかんたんに手に入るのだ、自分で食い扶持を稼いでいるうちは。そんなことをぽろっと母親にもらしたら、

「自由も結構だけど、自由ってことは誰もあんたにかまっていないってことでもあるんじゃないのかね。あんたが明日生きようが死のうが、誰も困らないから自由なんじゃないの?」

 田舎の無学な主婦、と思っていた母親がたまにどきりとすることを言う。

「でも、母さんだってお金さえあればお父さんと別れたいって昔しょっちゅういってたじゃない。仕事を持っていればよかったって。私は仕事を持って理不尽な亭主に仕えなくてもいい生活してるんだから、母さんの言う理想に近いんじゃないの?」

 サヤカも負けずに言い返す。

 サヤカの母親は、短気な父親にずいぶん泣かされた。子どもたちの前で父親が手を上げるのも数え切れないほど見てきた。

 だが、母親はそんなことを忘れたかのようにため息をつき、自分の育て方が悪かったからサヤカが男嫌いになったんだと最後は泣き言で終わる。

「オトコ嫌いなんかじゃない、オトコは好きなのよ。でもお父さんみたいな生活感あふれるオヤジはいやなの! お父さんとお母さんの夫婦って、素敵じゃないじゃない!」

 こう叫びたいが、サヤカはぐっとこらえる。いったってわかりっこないのだ。ましてやエイドリアンとの関係は両親の理解を超えるだろう。


 サヤカは 身長149センチ、体重67キロ。スリーサイズは上から88センチ、68センチ、97センチ。食べるのは大好きだし、お酒にも強い。学生時代はバドミントンをやっていたけど、今はこれといってスポーツはしていない。イギリスは何でもかんでも物価が高く、スポーツクラブに入るのも、日本円で換算すると信じられないほど高いのだ。だから体を動かすのは散歩くらいである。

 スタンステッド空港という格安航空券専用みたいな辺鄙な空港で、自分の携帯電話の番号をエイドリアンに渡し、何度も再会を約束したにもかかわらず、ロンドンに戻ってから何の連絡もないまま半年が過ぎた。エイドリアンを知っているのはトモちゃんだけだから、旅行のあとサヤカはついトモちゃんにエイドリアンのことを話した。でもトモちゃんは「あんな不良外人やめなよ」と言った。「あんなのまともに相手にしたらろくな目にあわないよ」とも言った。そういわれてからサヤカはトモちゃんにエイドリアンの話をするのをやめた。トモちゃんはその後ひと月サヤカのアパートに居候して、日本に帰っていった。

 半年たった頃、突然サヤカの携帯が鳴って、登録外の相手からだったからどうしようかと迷ったが、出てみたらエイドリアンからだった。まるで昨日空港で別れたかのように、「元気?」と無邪気な声を出され、いつの間にかむこうのペースに巻き込まれていた。サヤカの都合も聞かずその夜やってきたエイドリアンに抱かれた。ある意味つらい夜だった。出っ張ったお腹や脂肪のついた太ももを見せたくなかったし、うなずくと二重、いや三重になるあごも何とかして隠したかったので、ベッドの上に仰向けに横たわり、感電したように背中を反らした不自然な姿勢のまま動けなかったのである。

 サヤカは処女ではなかったが、性体験は数えるほどだったので、丸太ン棒のように寝ていることしか知らない。エイドリアンは楽しくなかったのか、セックスのあとちょっとがっかりしたような顔をした。そして終わって1分もたたないうちに背中を向けて眠ってしまった。

 とはいえ朝、ベッドの中で目覚めたときに隣に美形の男がいるというのはなんとも幸せな気分である。サヤカは久々の幸福感に酔って、思わずエイドリアンの胸に顔をうずめながらささやいた。

「好きよ」

 エイドリアンは、まるで葉鳥ビスコが描く美少年のような顔で微笑んだ。

「ありがとう、サヤカ」

 それからふたりは朝食をとった。けだるそうなエイドリアンはほとんど何もしゃべらない。どうしたの、と聞いても「だるい」というだけ。コーンフレーク2杯とりんご半分を食べコーヒーを飲んだ後、エイドリアンは帰っていった。パンツははかない主義なのか、下半身はジーンズをじかにはいているのが不思議だった。

「今度いつ会えるのかしら」

 相手に負担にならない調子で、でも必死の思いを込めてサヤカが尋ねると、またまた極上の笑顔を見せてエイドリアンは答えた。

「また、ね」

 それきり、連絡は途絶えた。


 次にエイドリアンから連絡があったのは、実にふた月もあとのことだった。土曜日の昼過ぎに電話がかかってきて「お金がない」と開口一番。「お腹すいたよ」

 ロンドンの中心街の待ち合わせ場所にあわてて飛んでいって、回転寿司バーに入りとりあえず食事をさせた。丸2日も何も食べていなかったらしい。1皿3ポンド50ペンス(時価800円)もする絵皿の寿司を15枚も平らげ、笑顔を見せたエイドリアンの後ろで、黙ってウエイトレスにクレジットカードを出した。母性本能などというものを信用していないサヤカは、自分が無償の愛で他人を世話できると思っていなかったし、おごる一方の付き合いは断固しない主義だったが、エイドリアンの美形の前にはそんな主義などブランデーをかけた角砂糖のように溶けてしまうのだ。

 あまり多くを語らなかったエイドリアンだが、どうも兄貴がポーランドに帰国したため、家賃が払えず追い出されたらしい。ときどきやっていた配管工のアルバイトも、兄貴の手伝いということで仕事が来ていたため、エイドリアンだけだと仕事が来ない。芸術家こそ天職だと思っているから、配管のスキルを磨く気もないのだ。

「じゃあ、仕事が見つかるまでうちに来る?」

 エイドリアンはあのとろけるような笑顔でサヤカについてきた。

「まあ、いいや。美形は私の道楽よ」

 そんなわけでサヤカの初めての同棲生活が五十路を目前に始まったのである。

 ベッドでエイドリアンはサヤカのカラダを触りながら、「サヤカ、太ってるね」といって笑う。胸よりおなかのほうが出ているといって笑う。サヤカが少しでも白髪染めをさぼると、「サヤカ、おばあさん」とサヤカの髪を指差して笑う。

 サヤカもいっしょに笑うけれど、心の中では泣いている。


 一応エイドリアンはサヤカのフラットメイトということにしておいた。幸いこの国では異性でもキッチン共有のアパートに住んでいるのは珍しくない。世間体を気にせずにすむのである。

肩書きがどうであれ、仕事から疲れて帰ってくるとアパートにひと気があるのはうれしいことだった。それが好きな男であればなおのことだ。サヤカはエイドリアンに会いたくて飛ぶようにして会社から帰った。エイドリアンは夕飯のしたくをして待っているわけでも、家賃の代わりに掃除しておくわけでもなく、帰ってみるとソファに寝転がってテレビを見ていることが多かった。それでもかまわない、とサヤカは思った。猫をかわいがっている飼い主が、猫に炊事や掃除を期待するだろうか。

エイドリアンと住み始めてから一度姪が遊びに来たことがあり、エイドリアンをフラットメイトと紹介すると目を丸くしていた。

「おばちゃん、いいね、あんなにハンサムな人と一緒のおうちなんて」

 エイドリアンはたちまちドンファンに早変わりし、しきりに台所で姪っ子に話しかけてきた。自分でもその効き目を知っている極上の笑顔をときどきはさみながら、とにかく機関銃のように会話を仕掛けてくるのだ。しかし姪っ子は英語がわからない。だからエイドリアンの口説きのテクニックも徒労に終わった。

 しかしそれにしても、同棲中の彼女の前でほかの女を口説くというのは一体どういう神経をしているのだろう。いや、そもそも自分は彼女として認識されているのだろうか。

 クリスマスが近づき、エイドリアンは無職のまま、それでも何とかクリスマスには国に帰ろうと方策を練っていた。一度サヤカにも借金を申しこんできたことがある。サヤカは、冗談めかして釜をかけてみた。

「じゃあエイドリアン、私もポーランドにつれてってよ。あなたの家族に会ってみたいから。そうしたら飛行機代は私が出すわ」

 エイドリアンは戸惑ったような笑顔を見せた。

「いい機会だから、紹介してよ」

 エイドリアンは肩をすくめて言った。

「それはだめだよ、サヤカ。そういうんじゃないだろう、僕たち」

 えええええっ。受けたショックを顔に出さないようにしてサヤカは食い下がった。

「そういうんじゃないって、じゃあどういうの? 私たち」

「友だちだよ。すごく大事な友だち」

 あとで考えれば「じゃあ友だちとして紹介してよ」といったらよかったかもしれないと思ったけれど、とにかくそのときのサヤカははぐらかされたような気分でめまいがするほどがっかりしていた。

 結局エイドリアンはどこの誰から借りたのか知らないが、飛行機代を工面して、ひとりでポーランドに里帰りしていった。イギリスの冬は落ち込むほど暗くて寂しい。12月ともなると3時過ぎには暗くなり始め、朝も完全に明るくなるのは8時過ぎだ。冬の南中高度が低いから太陽は昇っても弱弱しく、人々は薄ぼんやりした光の中で毎日を過ごす。サヤカにとってエイドリアンのいない家の中がこんなに暗いとは信じられなかった。イギリスに来てもう何年にもなるのに、こんなに冬が寂しいと感じたことはこれまでなかった。

 新年が明けて、エイドリアンは帰ってきた。ひどいことをされたはずなのに、サヤカは帰って来たエイドリアンを抱きかかえるようにして迎えてしまう。男はしらっとして、ポーランドの土産といって、安っぽい人形などを差し出してくる。なにをされてもなにをいわれても、出て行けといえない寂しい自分がいた。ほとんど無条件降伏といってもいい状態だったのだ。

 しかし、エイドリアンはその後ひと月もたたないうちに、仕事と住処が見つかったといってサヤカのアパートを出て行ってしまったのである。

 が、だからといって別れたいというわけでもないらしい。ときおりアリバイ的に携帯に電話をしてから、ご飯を食べにやってくる。そしてサヤカを抱いて、翌朝帰っていくのである。サヤカが何をおいてもその時間を空けておいてくれるとわかっているかのように。

 

 バレンタインデーが近づいてきたので、サヤカは一緒に過ごしたくてエイドリアンに何度も携帯メールを送ったが、連絡が取れなかった。やっと本人が捕まったのはバレンタインデーの前日だった。

「夜は一緒に過ごせる? もうレストランの予約は無理だけど、おいしいもの作るわよ。映画見に行ってもいいし」

 と聞くサヤカにエイドリアンの答えは、

「わかんない」

 わからないというのはどういう意味か、と突っ込むと、

「友だちのレフとパブに行くかもしれない」

 という。もう約束したの? ときいても

「まだ。連絡を待ってる」

「それならいいじゃない。こっちを優先してよ」

「でもね、ほら。レフと近いうちに飲みに行こうと約束したから」

 でもなぜそれがバレタインデーじゃなきゃならんのじゃー! と絞め殺したい衝動を抑えながら、じゃあまたね、と冷静に電話を切ったのは精一杯の大人のオンナのプライドだった。

 心の中で泣きながら、でもバレンタインデーの当日はにこやかに仕事をこなした。

「なに、今日はサヤちゃん、機嫌いいじゃない、さては?」

 と役員にからかわれるほどサヤカは「うまくやった」。だが、さすがに空っぽのアパートに直帰する気になれなくて、柄にもなく残業をした。そんなサヤカの心を知ってか知らずか、同じ部の親しい同僚カナコさんが声をかけてきた。カナコさんはバツイチ。元気のいい女性で、サヤカとはときどきいっしょにランチを食べる仲だ。

「バレンタインなのに残業なの?」

「うん、実は彼が忙しいんで、今日はひとりなのー」

「そうなんだ。私も予定ないけど、どっかに食事に行かない?」

 ふたりは連れ立ってオフィスを出た。駅前のインディアン・レストランに入ってカレーを注文。イギリスのレストランは当たりはずれがあるが、カレーだけはどこでもまずまずおいしい。カナコさんも食べるの大好き人間で、食べ物には金を惜しまない。ふたりはワインをボトルで頼んだ。

 サヤカはぽつぽつとエイドリアンのことを話した。話さないではいられなかった。話し始めるととまらない。愚痴っぽいなと自分でも感じながら、黙って聞いてくれるカナコさんの好意に甘えてしゃべった。はじめは言葉少なに聞いていたカナコさんだったが、酔いが回ってくるとだんだん、エイドリアンを非難するようになった。

「彼、私のこと友だちだって言うのよ」

「えー? だってベッドにだけは入ってくるんでしょ?」

「そうなのー、でもそれとこれとは違うみたいで」

「それってずるいじゃん、やることだけはやって、バレンタインに時間をつくる努力もなし? ガツンと言ってやんなさいよ、恋人だって認めるまではもううちに泊まりに来るなって。来たって入れてやんないよって」

 サヤカは眉毛をハの字にして力なく「ははは」と笑う。そんなことを言ったらエイドリアンは多分もう来ないだろう。この関係に終止符を打って寂しくなるのは間違いなく彼ではなく自分なのだ。そういう力関係がわかっていて強気になれないのだが、カナコさんにはそんなサヤカが「言うべきことも男に言わない、優柔不断な女性」と写ったらしく、だんだん激してきた。

「ずるいオトコだねー」「卑怯なヤツだねー、あんたのこと、利用してるだけなのよ」

 そういわれるとなんだか悔しくて、カナコさんが自分に味方してくれているとは思いながらも、エイドリアンをかばってしまったりする。

「そうはいっても、やさしいところもあるのよ。お土産もって来てくれたりもするし、あれで気を使ってる部分もあるの」

「そういう態度だから相手がつけ上がるのよ、いい? こういう目にあいたくなかったら、言うべきことは絶対言わなきゃダメ。正しいことは言ってきかせて教育しなきゃ」

 それでも、曖昧に笑っているサヤカを見てカナコさんは叫んだ。

「関係を改善する気がないならもう、愚痴なんか聞きたくない! いい? もう二度とそのいいかげんな彼氏の話はしないでね!」

 こうやってサヤカは悩みを打ち明ける相手をひとり失った。


 思えば大学時代、バドミントンのサークルで、それとなく誘われた経験はある。映画に行こうよとか、飲み会しようとか、1対1ではなかったけれどああいう誘いにまめに乗っかっていれば、なんとなくカップルになったかもしれない、と思い当たる男子学生はいた。シマダ君である。向こうも強烈な個性の持ち主ではなかったから、送ってくる秋波も弱く、正直サヤカはその相手に特別惹かれなかった。好きでも嫌いでもなかった。だが、それではダメなのだ。サヤカのイメージの中には「いつか、素敵な彼がやってきて、どきりとする言葉をかけて誘ってくる」というような漠然とした、でも妥協のない出会いへの理想があった。妥協するくらいならひとりでいる。そういういう気持ちで強烈な出会いの「シーン」を待っている間に50を超えてしまった、というのが正直な感想である。

 人並みに合コンも経験し、盛り上がった勢いで一晩だけ付き合った、という経験は30代に何回かあった。それきりのときもあったし、相手の男が変にまじめだったりすると、

「それじゃ、もう一回どっかで会ってもいいよ、映画とかさ」

 と、いかにもお義理っぽく言われることがあった。だが、サヤカは断った。

「興味もないくせにまるで礼儀みたいに誘われるほど困ってません」

 そういう気持ちだった。実際、何が何でも恋人がほしいとは思わなかったのだ。

 数年前、久しぶりに大学の同窓会があり、サヤカは帰国しなかったので出席できなかったため、同じサークルだった友だちが、記念撮影をメールに添付して送ってくれた。それを見たら、何度か誘ってきたバドミントン部のシマダ君は当時から背が低かったが、今では立派なビール腹の見事に禿げ上がったチビオヤジになっていた。その写真を見て、サヤカは妥協しなくてよかった、と胸をなでおろした。

 友のメールには、こう書かれていた。

「サヤっち、元気? 大学時代サヤっちにラブだったシマダ君は、親の会社を継いで葬儀屋の社長になって、支店を3つも持ってがんばってるみたいよ。息子さんが名門高校に入ったって自慢しまくって親ばかぶりを発揮してたけどね。でも、立派なオヤジ姿だよね! みんなロンドンでばりばりやってるサヤっちのこと、かっこいいねってため息ついてました! 毎日の生活に追われる私なんて想像もつかない海外生活、あこがれちゃうよ。一時帰国の際には会おうね、声かけて~」

 息子が名門校に入った、ということは結婚して家庭を築いているのだろう。どこかの誰かと付き合ってセックスしてプロポーズして、そして家族になったのだ。当たり前のことなのに、サヤカはなにか肩透かしを食ったような、割り切れない気分になった。そう、それはまるで「あまり好きじゃない食べ物」を戸棚にしまっておいたら、許可もなく誰かに食べられてしまったような気分だった。好きじゃないんだから、やったっていいじゃないか、というのが大方の意見だろうが、その後好きな食べ物にめぐり合っていないのだから、好きじゃなくたって「自分のもの」、と思っていた食べ物には未練がわくのだ。

 だが、そんなブルーな気分も、友だちの「かっこいいねってため息ついてました!」の一文でかなり癒された。容姿でかっこいいといわれなくたって、生きかたでかっこいいといわれれば本望である。

 でも…、とサヤカは考える。職場にも定年がある。あと10年少々経てば、退職だ。友だちはいるけれど、イギリス人以外の友だちはいずれ祖国に帰っていくだろう。家族のいないこの国で、死ぬまで住み続けることは不可能ではないのか。

「でも、結婚することになったら相手の国についていくんだし」

 機嫌のいいときはエイドリアンの顔を思い浮かべながらそんな楽観的なことを口に出来るのだが、鏡に映った自分の顔に50代という年齢を感じるとたちまち現実に戻る。結婚しなかったら、退職の時期から死ぬまでの間のどこかの時点で日本に帰る、のだろうか? 50を過ぎてエイドリアンみたいな不良外人に振り回されているようじゃ、結婚なんて出来るわけがない、とサヤカもうすうす感じる。しかしだからといって何歳で日本に帰国するのかと聞かれても、答えに窮する。何も考えていないし考えたくなかった。それはパンドラの箱、開けてはいけないものなのだ。

「サヤカ、あんたね、歳とって日本に帰ってきたって親は死んでるんだし、妹だって自分の家庭があって家族とはいったって頼れるもんじゃないんだよ。一体どうするつもりなのか、一度よく考えておいたほうがいいよ」

 もういつ死んでも「大往生」と呼ばれる部類に入るほど歳を取ってしまった母は、下手なことを言うと激昂する娘に遠慮しながら上目遣いに、それでも心配を表情ににじませて、まるで遺言みたいにそういった。


 バレンタインデーは振られたから誕生日にはがっかりしないように、連絡を取らなかったサヤカの心を見透かしたかのように、エイドリアンが電話してきて、誕生日の夜は久しぶりにふたりで過ごした。取って置きのワインとご馳走を振舞ったらエイドリアンが上機嫌になったのがうれしかった。バースデープレゼントはなし。「お金ないんで」と本人の弁。お金がないんだか気がないんだか、と思ったけどサヤカはそれを口にしないだけの分別はあった。実際、きてくれただけでうれしかった。

 エイドリアンに抱かれ、挿入されたとき、サヤカはシマダ君と奥さんが組んずほぐれつしている姿態を想像した。サヤカの想像の中ではなぜかシマダ君の奥さんはデブだった。チビ禿のシマダ君とデブの奥さんのベッドシーンから比べたら、自分たちのはエイドリアンが美形な分だけまだ許せるはず、などと変な対抗意識を感じた。

「もう避妊はいらないんだ」

 そう思ったらちょっと涙が出た。

 

 翌朝、目が覚めたらエイドリアンはいなかった。メモに「明け方天使が現れて、究極の美を見せてくれるというので一緒に行きます。しばらく会えないけど泣かないでね、ベイビー、キスキス」とあった。

 昨夜エイドリアンが酔った勢いで、年上のドイツ女が彼に入れ込んで、もしかしたら車を買ってもらえるかもしれない、という話をしていたのを思い出した。エイドリアンがいうように彼がサヤカを本当に友だちだと思っていたら、ベイビーなどとは書かないだろうと、変なところで腹が立った。

 格好いいことを追求するわけじゃないけど、サヤカは最近、飛行機事故で死ねたら幸せだと思うようになった。一瞬で訪れる死。看病されなくてもいいし、お見舞いの人数にひがまなくてもいい。しかも新聞に載って、友だちや遠い親戚が「すばらしい人でした」なんてコメントしてくれるかもしれない。航空会社が保険金を出してくれるから、甥っ子や姪っ子が葬式くらいは喜んで出すだろう。運がよければ「いい叔母でした」なんてコメントするかもしれない。いいことずくめだ。

 もし癌なんかで寝付いてしまったら目も当てられない。日本の医療保険には加入していないから日本では入院できない。イギリスは医療費が無料だからこっちで入院することになるだろうが、面会客もないまま、死ぬまでひとりだ。甥や姪はもちろん、妹だって海外まではるばる見舞いに来てくれる道理がない。「好き勝手やったんだから死ぬまでそれを貫けば?」というのが落ちである。

 でもね、でもね。じゃあどうやって生きればよかったというの? とサヤカは問いたい。美形の金髪男が好き。でもそんなこと日本で言ったら袋叩きだ。ロッド・スチュワートが「俺は金髪の若い女が好きだ」といったって「そうですか」という世間が、オバさんが「若い金髪オトコがすきなの」といった日にゃー総スカンを食らうこと間違いなし。冗談じゃない、禿げ上がった封建的な日本のオトコには興味はない! みっともないくせにオンナは家にいて亭主を立てろとか平気でのたまう。

「へ、へ、へ~んだ」

 とサヤカは気を吐く。

「何言ってやんでえ~! なるようになるってんだ!」

 サヤカ53歳、まだオンナである。




~恋愛偏差値とは~


 勉強でよく「偏差値」という言葉が使われる。これは成績のバロメーターで、ライバルたちの集団の中で自分の成績は今どのくらいの位置にあるか、という数値である。だから点数ではない。この偏差値、実は恋愛にもあるのではないかと思う。恋愛偏差値というのは俗に言えば「惚れっぽさと色気」であると思う。美醜とは少し違う。思い出していただきたい。学校でなぜか美人でもないのにオトコに好かれる女子がいたのではないだろうか。また、勉強も出来ないのにやたら色恋のことは知っていて、しょっちゅうだれそれ君がかっこいいだの、だれそれ君がこっち向いて笑っていただの、そういう「思い込み」が激しく常に(片思いでも)意中の人がいるタイプの女子。そういうタイプは恋愛偏差値が高く、結婚の時期も早いようだ。「結婚しました」というはがきや「披露パーティーの招待状」が舞い込んで「やっぱりな」と感じる。

 だが一方、恋愛偏差値が低い人も少なくない。異性と付き合わない。結婚しない。基本的に色恋というものに興味がない。原因としては大きく分けてふたつある。まずは本人に色気が少ない、という場合。自分からはまず異性を好きにならない。とにかくその手のことに鈍い。「惚れっぽい」の逆である。レズというわけではないが、遺伝子レベルで異性にあまり興味がないタイプだ。ふたつ目は精神的に幼くて、恋という感情がなかなかわいてこない、というケース。初潮にも個人差があるように、精神的な第二次性徴を迎える年齢にも実際のところかなりの開きがある。幼稚園の頃から色気づく子どももいないわけではないし、反対に四十路過ぎてからやっと「初恋」を経験した、というケースもある。はしかと同じで、初恋はある程度早く経験したほうが傷は浅いのだが、日本の親はそう思っていない。わが子が子どもっぽいほうが「安心」する傾向がある。

いずれの原因でも、美人なら本人がぼーっとしていても周りが放っておかないので、いやでも目覚めさせられるようだが、容姿が並以下だと周囲の男はそれこそ郵便ポストと同じ扱いで素通りしていくので、いつまでもそのまま、ということになる。生涯ずっと「自分だけでいいわ」と思い定めているのであればいいのだが、中年過ぎて「オトコから甘い言葉をかけられる快感」などに目覚めると厄介である。ホストクラブに通って特定の美青年に入れあげてしまったりするのは、案外「遅過ぎた春」を追い求める晩生でナイーブなオバさんタイプに多いのかもしれない。


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