空色のハンガー
・お題執筆です。お題は「ハンガー」と「青」
・制限期間は1週間
※2年5ヶ月ぶりの投稿作品とあって、なかなかお見苦しい出来かもしれませんが、お暇なときにでも読んでいただけると幸いです。
※誤字修正しました
「習って」→「倣って」
「眺めがいいから、いつもここにいるんだ――」
―――
吸い込まれそうな青色の快晴。屋上で干された白いベッドシーツが、雲の代わりにゆらゆらと揺れていた。
彼女は、陶器のように白い指でハンガーを勢いよく回し、鼻歌交じりに空を仰いだ。ハンガーは、物干し竿に吊るされていたものを勝手に持ってきたようだ。いつも通り自由奔放な彼女。けど、僕はそれを咎めたりしない。ハンガーは彼女にとって必需品。彼女の機嫌の良さを表す指数道具になっているのだ。
ハンガーの回転が徐々に早くなっていく。特に今日は多く回していた。彼女はずいぶんとご機嫌のようだ。
「何かいいことでもあったの?」
楽しそうな彼女をずっと眺めているだけでも良かったのだが、気になってついに話しかけてしまった。
「うん! とびきり良いことがね」
こちらに振り向くと、彼女は僕に優しく微笑みかけてきた。綺麗な笑顔に、ドキッとする。
「明日ね、手術なんだって。これが成功したら退院できるのよ!」
「……そっか」
彼女の病気は回復に向かっていた。一年前に入院してから何度も手術を受け、病と戦ってきた彼女が、ついに明日、報われる。
とてもいいことである筈なのに、僕は上手く笑えなかった。
「やだ、そんな寂しそうな顔しないでよ。退院しても、お見舞いに来てあげるから。ね?」
焦った様子で、彼女は僕を励ましてくれた。僕はそんなに沈んだ顔をしていたのだろうか。
「そ、それに……貴方には言いたいことも、あるし」
「言いたいこと?」
僕に背を向けて、一度深呼吸をすると、意を決した様子で振り返り、まっすぐ僕の目を見つめて来た。
彼女の瞳に僕が写る。頬が熱くなった。
「手術したら、退院日までもう屋上には来ちゃダメらしいの。だから、次に会うのは私の退院日で、明日から数えて一週間後。その時に、この屋上で伝えたいことがあるから、ここにいて。お願い」
真剣な顔だった。同時に、懇願するような顔でもあった。断られたらどうしようとでも考えているのだろうか……そんなこと、あるはずないのに。
「……うん。ここで待つよ。僕も君に、言わなくちゃいけないことがあるから」
いつも彼女が僕にしているように、僕も彼女に優しく微笑みかけた。驚いた表情で、彼女の顔がみるみる赤くなっていく。照れてくれているのなら、嬉しい。
「じゃ、じゃあ私はもう戻るから! 絶対いてよね! 約束だよ!」
「うん、約束。じゃあね」
ハンガーを持ったまま、彼女は逃げるように去っていく。その後ろ姿が可笑しくて、少し笑った。
「……待ってるからね」
誰もいない屋上で、僕は一人、呟いた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
少女――高原みかの手術は成功した。
長年、彼女を痛めつけた病は完全に消滅し、終わってみればあっという間だった。失った時間は戻ってこないが、まだ彼女は十七歳。全てとは言わずとも、取り戻せるものはたくさんあるだろう。
だから、まずは青春を取り戻す。一年分の恋を、あの少年にぶつけてやるのだ。
病人服ではない、自分なりの目一杯のおしゃれをして階段を登る。屋上への扉を前にして、一度立ち止まり、深呼吸した。
「大丈夫……大丈夫。『好きです付き合って』って言うだけ。脈はある!」
自分に言い聞かせ、気合を入れ直す――が、やはり緊張はしてしまうもので、結局そーっと、伺うようにドアノブを回した。
外は今日も快晴。相変わらず空はどこまでも続くようで、雲色のシーツがはためいている。
しかし、そこに少年の姿はなかった。
「……何よそれ」
少しほっとして、そんな自分に嫌悪して、そして少年がいないことに腹が立ってきた。純真無垢な乙女心を弄ぶとは良い度胸だ。多少強引な手を使ってでも彼氏になってもらおう。そう息巻くと、みかは少年の病室を聞くべくナースステーションへと向かった。
思えば、みかは少年の名前は知っていても、病室を知らなかった。みかも重い病気だったが、話を聞く限りどうやら少年の病はみか以上に重いようだった。だから、病室にまで邪魔しに行くのは申し訳ないと思い、今まで聞かずにいたのだ。
だが、今回ばかりはそうはいかない。約束をすっぽかした男に対する遠慮など不要だ。
「すいません。鷹宮空さんの病室はどこですか?」
ナースステーションで受付のナースさんに尋ねる。その声が、少し急かすようなものになっていた。少年――空に腹が立っているのは事実だが、それ以上に、みかは空に一刻も早く会いたかった。会って自分の気持ちを伝えたい。どれくらい自分が相手を想っているのか、知って欲しかった。
しかし、焦がれるみかとは裏腹に、ナースは首を傾げ、思いもよらないことを言った。
「鷹宮空さん……? その方は当院には入院していないようですが……」
「……え?」
一瞬、何を言われたか分からなかった。思わず言葉を失うみかだったが、慌ててカウンターのナースに詰め寄る。
「あの、そんはずないんですけど……鷹宮の鷹は動物の鷹で、宮は宮殿の宮です。年は十六か十七歳くらい。一週間前まで、屋上で話していたんだから、間違いないです!」
「その鷹宮はさんは、当院の患者だと、仰ったんですね? お見舞いに来られた方ではなく」
「はい! 名前も間違いないはずです」
少々お待ちください。と、ナースはみかに頭を下げ、奥へと引っ込んでいった。他の患者リストを出してきたり、先輩ナースに聞いて回ってくれている。
その間、みかはなんとも言えない不安に襲われていた。何かがおかしい。いつもそこにあったはずのものが、忽然と消えてしまったような喪失感。むしろ、気づいてはいけないことに気付いてしまった焦燥感。
そしてふと、みかの脳裏に一週間前の情景が浮かんだ。
待っているからね――屋上を去ろうとして、チラッと振り返った時に見た、空の少し寂しそうな表情。その時に感じた小さな違和感と、今抱いている苦しみは似ている気がする。
(空……あなたは今、どこにいるの……?)
その時、
「鷹宮くんのことを、知りたいんだってねぇ」
ふと、横から声をかけられた。先ほどのナースが年配のナースを呼びに来たようだった。呼んできたナースの顔は困惑の色を浮かべていて、余計にみかの不安を煽る。
しかして、嫌な予感は的中した。
「鷹宮くんねぇ。鷹宮さんちのお坊ちゃんだったんだけど、生まれた時から体が悪くてねぇ。十年前に、ここの病院で他界したわ」
「………………え?」
今度こそ、みかの頭の中は真っ白になった。
「懐かしいわ。あの子ね、誰にでも礼儀正しくて優しい子だったのよ。良家の跡取り息子らしく品もあってねぇ。ナースの間じゃもっぱら王子様扱いされていたわ。若手のナースの中には本気で恋をしちゃう子もいるくらい……その分、亡くなった時のショックも大きかったけれどねぇ」
年配ナースの独白は続いていた。空のことを嬉々として話している。普段なら笑って聞けているナースとの会話が、今は受け入れがたい苦痛でしかない。
(何で……なんで空が、死んでいるかのような言い方……)
「ほら、これね。手術の前に思い出を作りたいって、あの子が言って撮った写真よ。穏やかで天使のような顔をしているわ……この写真が、あの子との最後の写真になっちゃったけれど」
そう言って、差し出された写真を、みかは恐る恐る受け取った。写真には、何人ものナースが一つのベッドを囲んでこちらに笑顔を向けている。そしてその中央、ベッドの上にいる少年は――一週間前にみかが見た空の姿、そのものだった。
それなのに、写真の右下に記されている日付は――『2004年 ○月×日』。ちょうど、十年前だった。
(そんな……そんな、じゃあ私がいつも話していたものは――何?)
「でもなんで今更あの子の話を……あ、ちょっと貴女!?」
耐えきれなくなって、みかはついに走りだしていた。
自分が見ていたものは幻だったのか? あの時交わした言葉や、目があった時の恥ずかしさや、偶然手が触れた時の温もり――全てが、虚構だったのか?
他のナースに注意されても、衝動にかられた足は止まらない。廊下を走り抜け、階段を駆け上がり、そして、再び屋上へ出た。
荒々しい音を立てて扉が開く。それでもみかの勢いは止まらなくて、屋上の真ん中まで走ってくると、やっと、電池が切れたようにへたれこんだ。
いつも空と見ていた視界いっぱいの青色を、今は見ることができない。俯いて見えるものは狭い灰色のコンクリートだけで、心まで灰色に染まっていくようだ。
「なんで……? なんなのよ……」
熱いものが内からあふれ出す。灰色の地面に、涙の斑点が生まれる。
「『待ってる』って言ったじゃない……『約束』だって言ったじゃない!」
訳が分からない。何が起きているのか理解できない。何が現実で何が幻想なのか、みかの心にはもやがかかっているようで、何もかもが不明瞭だ。これまでのことも、さっきまでのことも、それどころか、今現在の状況だって、理解することができていない。
そんな中でも、確かなことが一つあった。
空にはきっと、もう会えないのだ。
「バカ! ……バカぁ……」
子供のように泣きじゃくる。張り切った化粧も全て涙が落としていった。空とはなんだったのか。死にかけていた自分が生んだ妄想だったのか。まさか幽霊だとでも言うのだろうか。
それならそれでもいい。だから、
「姿を見せてよ。話をしてよ! ……会いたいよぉ……空ぁ……」
その時だった。
からん。と、泣き崩れるみかの近くで、乾いた落下音がした。反射的に音源の方に目が行く。涙でぼやけた視界でははっきりとは確認できないが、そこにあったのがいつも自分が振り回していた青色のハンガーだということは分かった。
物干し竿とみかの距離はだいぶある。風に吹かれたとしても、物干し竿にかかっていたハンガーがここまで飛んでくるなど、ありえないことだ。
「……空?」
無意識に、何の根拠もなく、みかはその名を口にしていた。涙を拭って、右手をハンガーへと伸ばす。
『泣かないで――』
ハンガーに触れた瞬間、声が聞こえた。
目を見開いて、顔を上げる。みかのハンガーを握る手を、さらに上から包むように、半透明で暖かな手が添えられていた。
『どうか泣かないで。みか』
視線を徐々に上げていく。鼓動が比例して速くなった。そして――半透明な空と目があった。
慈愛に満ちた目で、悲しそうな表情をした半透明な空が、確かにそこにいた。
「空……!」
『ごめんね、みか。ずっと、こんな大事なこと黙っていて……君を、最後の最後に泣かせてしまって……』
空いている手で、空はみかの涙をそっと拭った。一つ一つの言動が優しい。いつも感じていた温かさが、胸の内に戻ってきた。
「よかった……また会えてよかった!」
ハンガーから手を離し、みかは勢いよく空の体に抱きついた。半透明な空は見た目に反して確かな実態があって、優しく包み込むようにみかを抱きとめる。胸で嬉し泣きをするみかを、空はただただ慰め続けた。
「ねぇ、みか」
暫くしてみかが泣き止むと、空は真剣な顔でみかと向き合った。みかの肩を掴む両手はやっぱり透けていて、空がそういう存在なのだと、改めて実感する。
「聞きたくないかもしれないし、薄々分かってると思うけど……それでも僕の告白を聞いて欲しい……いいかな?」
伝えたいことがあると、空は言っていた。それはきっと、みかを傷つけるような内容なのだろう。いや、みかだけではない、空にとっても苦しいものなのだ。
「……うん」
それでも、みかは首を縦に振った。それがどんな内容であれ、彼の口から、彼自身のことをちゃんと知りたかったからだ。
涙は枯れるほど流した。冷静に受け止められるのは今しかない。今聞かないと、きっともう聞けなくなる……空の、最後の告白を。
「ありがとう」
空は笑みを浮かべると、みかの手を取って立ち上がらせ、ベンチのそばまで連れていった。しっかりと握られた手と手。温もりを感じ合うその単純な行為に、みかはいまさら顔が熱くなる。さっきまで抱き合ってすらいたのに、手をつなぐことが舞い上がるほど嬉しく、同時に恥ずかしい。しかし、チラッと空の表情を盗み見ると、空の顔も赤くなっていて、そのことに少し安堵した。
「やっぱり、ここが一番落ち着くね」
そう言って、空はいつものベンチに腰掛けた。みかも隣に倣って座る。二人がいつも会話をしていた、思い出の場所。しかし、今日は違う。今の二人は手を取り合って、そして手をつなぐのは、これが最後。
仰げばそこに空がある。視界の片隅で真っ白なシーツが靡いた。永遠にも思える時間を、二人一緒に堪能する。
「……実はね、僕はもう、あの世の住人なんだ」
永遠に思えた時間は、ぽつりと、空の語りによって終わりを告げた。
「十年前にここで死んだ。鷹宮家の長男として、父さんの跡を継がなきゃならなかったのに、なんの役目も果たせないまま、生まれてすぐこの病院に入ったんだ」
語る空の顔に笑みはなく、代わりに悲哀の色が浮かんでいる。当時のことを思い出しているようで、声色も沈んだものになっていた。しかし、みかが何も言わずに手をきゅっと握ると、また柔らかい表情に戻り、手を握り返してくる。自分を必要としてくれたようで、みかは嬉しくなった。
話は続く。
「それでも、父と母は僕を咎めたりせず、毎日ではなかったけど、毎週一回、二人のどちらかが必ずお見舞いに来てくれた。僕の世話をしてくれるナースさんたちもみんな優しくて、だから、たとえ治らない病気であっても、生きているうちは楽しかった」
みかが見守る隣で、空は目をつぶり、顔を上げた。今度は表情が段々穏やかになっていく。辛い境遇の中にも確かにあった楽しい日々を、じっくり思い出しているのかもしれない。その思い出の中に自分が含まれていないことに少し嫉妬を覚えて、空の掌をちょっとつねった。みかのむくれっ面を見て空は苦笑すると、話を再開させる。
「でも、死んでからの九年間は辛かったよ。死んでそれで終わりだと思ったのに、僕は相変わらず病院にいた。誰も僕に気付かない。僕は誰にも触れられない。手を伸ばしても風のように通り過ぎて、声を出しても見えない壁に阻まれる……そのうち僕は考えることを放棄して、ただただずっと病院内を漂っていたんだ。けれど」
体をみかの方へと向き直り、握る手に力を込めた。
「一年前、僕は君に出会った」
「……うん」
目と目が合う。自然と、二人は指を絡ませるように握りなおしていた。
「君は最初、僕に気付いていなくて、僕も、また一人患者が増えたんだ。としか思ってなかった。けど、九年間嫌というほど思い知らされてきたのに、僕は性懲りもなく君に話しかけてしまった。久々に同年代に会えたことが嬉しかったからだと思う。屋上から、つまらなそうに街を見下ろす君の隣で、僕は言ったんだ――」
『眺めがいいから、いつもここにいるんだ――』
「私も憶えてる。普通に話しかけられたから、普通に『へー。確かに絶景だね』って返したんだよね」
「その後、僕ら二人とも目をぱちくりさせて驚いてた」
「気が付いたら突然隣に人がいるんだもん。そりゃ驚くわよ」
「僕だって驚いたよ。話が通じる人がいたんだから」
くすくすと二人は笑いあった。他には誰もいない病院の屋上で、二人の笑い声だけが響き渡り、青空にとけて消えていく。昔を思い出し、手を繋いで会話するこの瞬間、間違いなく二人は、幸せだった。
ひとしきり笑うと、空は正面に向き直った。
「僕はさ、見たかったんだ」
視界に広がる街並みを見渡して、言葉を紡いでいく。
「この病院からじゃ見えない、広大で壮大な世界を。そこに散りばめられた、世界の輝きを。楽しいことも、そうじゃないことも、みんな経験してみたかったんだ」
その時初めて、みかは『希望』を見た。空の目に宿る強い光。死してなお、消えるどころか輝きを増す栄光。どうやったって叶うはずのない願いを、空は決して諦めない。
ドクン、と、みかの心が高鳴った。
(あぁ)
熱に浮かされたような気分を感じ、みかは改めて想う。
(やっぱり私、どうしようもないくらい空のことが――好き)
「空……」
みかの呼びかけで、空が振り向く。顔を真っ赤にした自分の姿が、空の瞳に映った。
「私、空のことが――」
言いかけたその時、みかは気づいてしまった……訪れてしまった異変に。
「空! 体が!」
見れば、空の体は先ほどにも増して薄くなっていた。光がきらきらと、空の体から離れて上へと昇っていく。みかが手を伸ばしても、光の粒子を遮ることはできなかった。
間違いなく、別れの時は近づいていた。
「……時間切れ、かな」
そう、ぽつりと、空は言葉を零した。
「いや!」
みかは空を見つけた時と同じように、空に抱き着いていた。
「私、空のことが好き。どうしようもないくらい好きなの! なのに……なのに! さよならなんて、嫌だよ!」
枯れるほど流したはずの涙が、熱を持って再び頬をつたった。みかは声をこらえるために、さらに空に密着する。けれど、密着すればするほど、空が消えていく感覚が否が応にも伝わってきた。
「みか」
優しく抱きしめ微笑みながら、空はそれを言った。
「僕も君のことが、好きだ」
瞬間、みかの目が見開かれる。魔法にかかったように涙も嗚咽も止まっていた。顔をあげ、空と至近距離で目が合う。
空の、もうひとつの告白がつづく。
「君の笑顔が好き。君の明るいところが好き。だから――僕に笑顔を見せて、明るく前向きな君を見せて。そうしたらきっと――」
「また、会えるよ」
「~~! ……うん」
グッと、再び溢れてきた熱いものを、今度は強く抑える。明るい君が好きだと、空は言ってくれた。君の笑顔が何よりも嬉しいと、空は喜んでくれた。
だから、お互い笑顔で別れよう。
最後まで、好きなお互いを貫こう。
ほら、自然と笑える。
「私が、見せてあげる」
空がみかを見る。空の瞳にある光を、みかはしっかりと受け止めた。
「私が、空に世界を見せてあげる。空の知りたかったこと、経験したかったこと、全部私が、体験して、教えてあげる。だから――」
お互いに、身体を寄せ合う。強く抱き着くのではない、優しく、互いの温もりを感じながら、二人は、最後の言葉を交わした。
「ずっと私を、見守っていて。空――愛してる」
「僕も、ずっと見守っているから――愛してるよ、みか」
そして、
みかを包んでいた空の感覚が、消えた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「それ、また持ってきたの?」
私が人差し指でハンガーを勢いよく回し、鼻歌交じりに空を仰いでいると、親友の由美子が呆れたような顔でベランダに出てきた。
「何かの儀式なの? それ」
「うーん。そんな感じ」
「否定しないのかよ……こんなとこまで来て、何やってんだか」
こんなとこ。
そう、ここはギリシャ。エーゲ海のミコノス島。私と由美子は大学の夏休みを使って二人で旅行をしに来ていた。
今は朝の七時。その三十分前に私は起きて、あらかた着替えた後、ホテルの部屋のベランダで青いハンガーを回していたのだ。ちなみに、由美子は今起きたところなので、あまり人には見せられない状態になっている。
「ていうか、おはよう由美子」
「おはよう、みか。あんた朝早いね……普段の大学でも、それくらい早く起きてくれると助かるんだけど」
「あははは……面目ないです」
由美子は見た目通り絵に描いた委員長気質で、少しお固く愚痴が多い。それでも、親友のワガママにとことん付き合ってくれる良い子だ。正反対な私たちは、意外にもなのか、だからこそなのか、何かと絡みやすくて気が合う。とにかく、二人で旅行に行くくらいには仲が良かった。
しかし、そんな由美子にも言ってない秘密がある。
「で? 結局そのハンガーはなんなワケ?」
「あーこれはね……」
「何? 男絡み?」
「ち、ちちち違うわっ!」
「分かり易っ。あんた詐欺には気をつけなよ。絶対騙されるから」
この通り、由美子は頭もいいが勘もいい。機会がなかったからこそ話してこなかったが、由美子にならあの話をしてもいいかもしれない。
……いや、
「で? で? どんな秘密があるのかな? このハンガーには? ん?」
「教えない」
「えぇー何よそれ」
やっぱり私は止めておくことにした。信じてもらえるか分からないし、なにより――
「これは、私と空だけの、秘密の約束だもんね」
ねぇ、空。
私今、世界中を旅してるよ。
空の見たかったもの、やりたかったこと、楽しいこと、そうじゃないもの。
全部、経験してるからね。
明々後日、日本に帰ったら、全部教えてあげるから。
だから、空。
「私を、見守っていてね――空」
どこまでも続く青い空――
その下で、私は今日も世界を廻る――
見守ってくれる彼に向けたサイン――
「私は元気だよ」って――
空色のハンガーを、私は今日も回してる――
大好きだよ――空。
fin
さらにお暇な方へ。以下のことをしてもらえると励みになるので、よろしければお願いします。
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