⑧ 島原の乱
さて皆さんは、宮本伊織が、1638年の島原の乱に、小倉藩の惣軍奉行・侍大将として、参加していた事をご存じだろうか?
彼は、当時、初陣だった藩主を補佐しつつ、実質的な指揮を執り、原城総攻撃で戦功を挙げて、1500石を加増され、合計4000石の"筆頭家老"となったのである。多分それは、ご家中の最速出世記録であろう。
もちろん、父である宮本武蔵も、同様に参加し、久しぶりに随分暴れたようである。
ただ彼は、そこで、珍しく、ちょっとした負傷をしていた。なんでも、飛んで来た石が、スネに当たったとか。一時は痛みで、歩くのも辛かったらしい。一揆は或る意味、素人の集団だ。荒れる戦場で、全ての殺気を掴む事は、難儀なものだったと想像出来る。
…それとも、60歳をとうに過ぎた武蔵は、本当にニンゲンとして丸くなり、剣士として弱くなったのだろうか?ともあれ、この機会が、剣士宮本武蔵の"最後の実戦"の舞台になった事は、事実なのである。
蛇足ながら、付け加えておくと、実はカグヤ・イシュタルも、男装した上で、騎乗の武蔵に付き従って、縦横無尽の活躍を見せていた。戦闘民族の面目躍如である。
ただ彼女が、歴史への影響を最小限にするために、誰一人、殺さないように気をつけて戦って居た事は、言うまでもない。
…ところで、皆さんはお気づきだろうか?
この"島原の乱"で、まあまあヤバイ、ニアミスが発生していた事に?
そうなのだ。
以前、別の物語で語った通り、"島原の乱"の最終局面に於いて、真田雪子の暗躍で、ジャンヌ・ダルクと死んだ天草四郎との、すり替え事件が起きていたのである。(第20巻を参照)
つまり、ほんの一瞬の事であるが、島原の乱で、ジャンヌ・ダルクとカグヤ・イシュタルが、敵・味方に別れて戦っていたのである。
もしも、その二人が直接対面していたら、どんな事になっていたのか?想像するだけで面白い…いや、恐ろしいモノがある。
そして、いつしか、カグヤと武蔵にとっての、約束の日がやって来たのだ。
宮本武蔵が晩年の約5年間を過ごし、兵法書である"五輪書"を執筆するために籠もったのは、熊本県熊本市西区にある、金峰山の山麓の、"霊巌洞"という洞窟である。
そこは、かつて、武蔵がカグヤと一夜を過ごした、思い出の場所でもあった。




