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短編『 正解から始める世界』

作者: 小川敦人

短編『 正解から始める世界』


小学生の頃、文章題の答えを盗み見してから式を作り、回答用紙に書き込んだ記憶がある。


先生に見つかったら怒られるだろうと思いつつ、答えが「12」だと分かっていれば、3×4でも2×6でも24÷2でも好きな式を選べる。妙に心地よかった。もちろん、それがズルだということは分かっていた。でも、その時の私は気づいていなかった。数学の世界では、答えを知ってから逆算することが、時に最も効率的な探索方法になることがあるなんて。


それから三十年後、私は数学とは縁遠い人生を送っていた。大学で微積分を学んだ記憶はあるが、今や仕事でPythonを書きながら業務改善に追われる日々だ。円周率のπといえば、πr²で円の面積を求めるくらいの知識しか残っていない。


ある日、動画サイトを眺めていると、タイトルに目が留まった。


「AIがπの公式に統一性を発見?数学界に革命」


何となく再生してみた。画面には興奮気味の数学系YouTuberが映っている。


「πを計算する方法って、実はめちゃくちゃたくさんあるんです。ライプニッツの級数、マチンの公式、ラマヌジャンの連分数表現……。でも、これらがバラバラに発見されてきたんですね」


そういえば、と私は思い出した。高校の数学で、π/4 = 1 - 1/3 + 1/5 - 1/7 + ... という無限級数を習った気がする。美しいけれど、収束が遅すぎて実用的ではない、と先生が言っていた。


「問題は収束速度なんです。ライプニッツの公式は千項計算しても小数点以下三桁程度。一方、ラマヌジャンの公式は一項ごとに約八桁ずつ精度が上がる。この圧倒的な差は一体どこから来るのか?」


私は画面に引き込まれた。確かに不思議だ。同じπという値に収束するのに、なぜこれほど速度が違うのか。


「今回、DeepMindのAIが膨大な数学論文を機械学習で解析して、驚くべきパターンを発見したんです」


YouTuberが画面にいくつもの数式を映し出す。楕円積分、モジュラー形式、超幾何関数……見覚えのある記号もあれば、初めて見るものもある。


「AIは、これらの高速収束公式に共通する数学的構造を抽出しました。つまり、バラバラに見えた公式群が、実は同じ深い原理から派生していた可能性があるんです。例えば、ラマヌジャンが直感で発見した公式と、後年の楕円関数論が、実は同じ根を持っていた」


ふと、私は自分が書いているPythonスクリプトのことを思った。同じ処理結果を得るのに、ネストしたループで書けば遅いが、NumPy配列を使えば劇的に速くなる。アルゴリズムの構造が効率を決定する。πの公式も、本質的には同じなのかもしれない。


「さらに興味深いのは、AIの学習方法です。機械学習では、正解データを先に与えて、そこから逆算的にパターンを学ぶのが基本ですよね」


ああ、と私は思わず声を出しそうになった。これは、あの小学生の頃の行為と同じではないか。


「πの値は既知です。3.14159265358979...と、何兆桁でも計算できる。AIはこの『答え』を知った上で、様々な公式を試し、『どんな数式構造が速く収束するか』を統計的に学習したんです。つまり、答えありきで最適な式を逆算している」


画面の中で、YouTuberが次々と専門用語を繰り出す。教師あり学習、パターン認識、構造抽出……。それらは確かに、答えを先に見て式を作る行為の高度な版なのだ。


「ただし、重要な点があります。AIはパターンを『発見』できても、『証明』はできません。『この公式とあの公式は同じ構造を持っているようだ』と提案はできる。でも、それが数学的に厳密に正しいかどうかは、最終的に人間が証明しなければならないんです」


なるほど、と私は納得した。小学生の私は答えから式を作れたが、なぜその式が成り立つのか理解していなかった。AIも同じ限界を持つ。統計的な相関は見つけられても、因果関係や論理的必然性までは理解できない。


動画が終わった後、私はしばらく考え込んでいた。


πの公式の歴史を思い返す。17世紀のライプニッツ、18世紀のオイラー、20世紀のラマヌジャン。彼らは天才的な直感で新しい公式を発見してきた。でも、なぜその公式が有効なのか、どの公式とどの公式がつながっているのか、全体像を把握することは誰にもできなかった。


それを可能にしたのが、機械学習という新しい手法だった。


人間の脳では処理しきれない膨大な論文を読み込み、数式間の類似性を定量化し、隠れたパターンを抽出する。それは数学の「メタ解析」とでも呼ぶべきものだ。個々の定理を証明するのではなく、定理同士の関係性を明らかにする。


私はノートパソコンを開き、新しいアイデアをメモし始めた。


そして、ふと気づいた。この話の本質は何だろうか。


数百年にわたり、世界中の天才たちが別々の理論、別々のアイデアでπの公式を発見してきた。ライプニッツは級数論から、マチンは逆三角関数から、ラマヌジャンは楕円関数から。それぞれが独自の切り口で、独自の方法論で、πという同じ山の頂上を目指した。


だが、AIが明らかにしたのは、驚くべき真実だった。


彼らは異なる理論を使っていたわけではない。ただ、同じ山への登山ルートが違っただけなのだ。


北側から登る者、南側から登る者、急峻な岩場を選ぶ者、なだらかな尾根を歩く者。景色は違って見えるし、難易度も違う。だが、全員が同じ頂上を目指している。そして、山そのものの構造は一つしかない。


画面の中で、ラマヌジャンの連分数表現が静かに輝いていた。1/π = (2√2/9801) × Σ...という、あまりにも複雑で美しい式。


これは単に、最も効率的な登山ルートを見つけただけなのかもしれない。


私は立ち上がり、窓の外を見た。


何百年もの間、数学者たちは「自分たちは全く異なる理論を扱っている」と思い込んでいた。でも実際には、同じ一つの数学的構造を、異なる角度から見ていただけだった。複雑に見えた世界が、実はシンプルな原理で動いていた。


これは何を意味するのだろう。


宇宙は、私たちが思っているよりもずっとシンプルなのかもしれない。無数に見える現象も、少数の基本原理の組み合わせに過ぎない。物理学が四つの基本相互作用に統一されようとしているように、数学も、いくつかの根本原理に収束していくのかもしれない。


ふと、以前読んだ記事を思い出した。


物理学には、まだ統一できていない大きな壁がある。相対性理論と量子力学だ。


相対性理論は重力と宇宙の大規模構造を説明する。一方、量子力学は原子や素粒子の振る舞いを記述する。どちらも驚くほど正確だが、この二つをつなぐ理論がない。まるで、同じ山を登っているはずなのに、ルートが途中で断絶しているかのようだ。


何十年もの間、物理学者たちはこの統一理論を探し求めてきた。超弦理論、ループ量子重力理論……。様々な試みがなされたが、決定的な答えは見つかっていない。


でも、もしかしたら。


AIがπの公式に隠れたパターンを見つけたように、相対性理論と量子力学の統一原理も、AIが発見するのかもしれない。人間の直感では気づけない、数式の深い関係性を。膨大な実験データと理論の海の中から、一本の細い道を見つけ出すのかもしれない。


それは、物理学だけではないだろう。


私は再びノートパソコンに向かった。


答えを知ってから式を作る少年が、大人になってプログラマーになる。彼は業務で無数のスクリプトを書きながら、「なぜ同じ結果を得るのに、こんなにも多様な方法があるのか」と疑問に思う。そしてある日、AIによる発見に出会う。


異なるアルゴリズムに見えたものが、実は同じ計算原理の変形だった。複雑に見えた世界が、実はいくつかの単純な規則の組み合わせだった——。


キーボードを叩きながら、私は不思議な安心感を覚えた。


この世界は、案外シンプルなのかもしれない。


無数のπの公式。無数の物理法則。無数の生命現象。それらは一見、混沌としているように見える。でも、その奥底には、いくつかの基本原理が横たわっている。山は一つ。ルートが無数にあるだけだ。


そして、ふと思った。


数学は純粋で複雑な理論の積み重ねだと考えられてきた。何世紀もかけて、無数の定理が発見され、証明され、体系化されてきた。それらは別々の領域、別々の理論として存在していた。


でも、AIが示したのは、それらが実は一つの理論だったという可能性だ。


表面的には複雑に見えても、根底には統一された原理がある。これは、数学だけの話なのだろうか。


人間の営みを見渡してみる。政治、経済、文化、人間関係。どれも複雑怪奇で、理解しがたく、予測不可能に見える。無数の要因が絡み合い、無数の結果を生み出す。


でも、もしかしたら。


人類の幸福にも、πの公式と同じように、シンプルな理屈が存在するのかもしれない。


複雑に見える社会問題も、無数の解決策があるように見えるが、実は同じ山への異なるルートなのかもしれない。争いも、貧困も、孤独も、その根底には共通する構造があり、そこにたどり着けば、答えはシンプルなのかもしれない。


私たちは複雑さに惑わされて、本質を見失っているだけなのかもしれない。


動画の最後で、YouTuberがこう締めくくっていた。


「これは単なる数学の話ではありません。宇宙そのものの在り方を示唆しているのかもしれない。複雑性の背後にある、美しいシンプルさ。それを見つけ出すのが、科学の役割なんです」



三十年前、答えを盗み見した少年。彼は大人になって理解した。答えは一つしかない。式は無数にある。でも、その無数の式は、実は同じことを言っているだけなのだ。


数学という、最も純粋で複雑な人間の知的営みでさえ、根底では統一されていた。


ならば、人間の幸福も、きっと。


世界は複雑に見えて、実は驚くほど単純なのかもしれない。


そして、その単純さこそが、最も美しい。


私たちはただ、正しい登山ルートを見つければいいのだ。頂上は、一つしかないのだから。

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