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ざ・たんぺん

天使が墜ちた場所

作者: AZURE



 おれは、墜ちた天使を知っている。





 真夜中の12時。おれはなかなか眠りにつけなくて、仕方がなく外へ出た。少しでも兄の匂いがするところは、息苦しくていられなかった。寝静まった住宅街は意外と暗くて、数多(あまた)ある星が冷たく整然と輝いているのが美しく感じた。


 普段夜に外出しないおれにとっては、夜の街はわくわくしてくるものでもあるし、少し不安なものでもあった。何もあてがないけれど、日中のように人通りの多い道ががらんと閑寂な様子を見れば、別世界を歩いているようで楽しかった。




 おれは、ふらふらと歩道橋を上った。真っ暗闇の中、音もなく勝手に色が変わる信号機が怖い存在に思えた。しかし、その赤、黄、緑のランプと街灯と、時々通る車の白と赤のライトは、道路を飾るイルミネーションのようで、綺麗だった。





 歩道橋の真ん中辺りで、手すりにもたれて立っている人がいた。


 はじめは暗くて誰だか分からなかったが、近づくと見知った顔であると判明した。そいつもおれの気配に気づき、顔をこちらに向けて久しくしていた友のように笑った。



 「…祐希、お前、こんなところで何してるんだよ。高校生は、11時以降は外に出ちゃダメなんだぞ」



 そう言ったその男は、兄の心友であったという大学生の飛田新一だった。でも今はもうその役割は存在しない。




 「…新一さんこそ、徘徊している老人みたいに見えますよ。そんなところで何をやってるんですか」


 「徘徊とは失礼な。俺は…ただ眠れなかっただけ。夜の風に当たろうと思ってさ」


 「おれも同じです。……隣、いいですか」


 ああ、いいよ、と彼は苦笑いをしながら言った。おれはそのカッコよすぎる横顔を見ながら、彼と同じように手すりに寄りかかった。


 おれたちは何を見るでもなく、しばらく無言でぼうっと遠くを眺めていた。街灯と信号機がところどころに暗い道を照らし、それが向こうまで永遠と続いている。


 悲しくなるくらい、夜の風は冷たくて気持ちが良かった。





 「……あれから、どうしてる」


 彼は、ポケットからタバコとライターを出し、手で(もてあそ)んだ。

 

 おれが口を閉じているのを見て、彼はたばこをふかし始めた。





 「…何もありませんよ。……兄が家からいなくなったという事実以外は。母もやっと気を取り直して、元気に働いています」



 彼は、大きく煙を吐いた。おれの顔にもかかったが、我慢して気にならないふりをした。



 「…そうか」


 再び沈黙がおりる。重苦しい空気の中、彼は打ちのめされてしまったかのように頭を伏せた。







 「…助けられると思ったのになあ」




 ほとんど泣いているような声で、彼は小さく呟いた。


 「…俺の目の前で死んでくれるとは思わなかったよ」


 おれは目の奥が熱くなったのを感じて、空を仰いだ。鼻がツンとする。流れ星がすうっと空をすべっていくのがぼやけて見えた。


 「…別に新一さんのせいじゃないですよ。あれは、運命だったんです。それに、新一さんは兄の発作に気づいてすぐに病院に運んでくださったじゃないですか」


 自分の声も震えていた。不意に鼻水も出てきて、啜り上げた。


 「……おれじゃ、あんなに冷静に対処できなかったかもしれない。そこは、新一さんに感謝しなければならないな、と思ってます」


 

 彼はうん、ともすん、とも答えなかった。




 「……兄は、そうなる運命だったんです。心臓の病気を持って生まれたときから、そう決まっていたんです」 


 おれももう涙がこらえ切れなくなって、目をつぶった。大粒の涙が頬を伝った。


 泣いたって、暗いから気にならない。





 「…お前の兄貴は、酷いやつだよ」


 「…はい?」


 「…愛していると言いながら、突き放すなんてな」


 確かにそうだ。兄があんなにいい奴でなければ、おれたちはこんな想いをしなくて済んだのに。


 罪な奴だ。




 「…俺は今まであいつ以上に心を許せる存在はいなかった。学校の連中も皆、くだらないのばかりだ。俺は最初からそいつらとつるむのを拒否して、いつも一匹狼だった。俺が怖く見えたのか、知らないうちに人が寄り付かなくなった」



 彼は顔を上げて、しゃべり始めた。



 「しかし、高校であいつと同じクラスになった。あいつは、怖いもの知らずなのか俺に近づいてきたんだ。そうこうしてるうちに、いつの間にか俺は奴に心を開いていた。……自分でもびっくりしたよ。人間が嫌いな俺が、人を好きになるなんて」 

 


 「…新一さんは、兄が好きだったんですか」



 彼は小さくなったタバコを口に持っていった。一息ついた後、携帯灰皿で火を消した。



 「…好きだよ。今でも愛してる」



 おれは、静かに爆弾発言を聞いた。


 今は驚きよりも悲しみのほうが勝っていて、何とも思わずにその言葉を受け取った。



 「…そうだったんですか」



 「…ああ。でも、俺たちは互いにそんな感情を抱いても、性的な交わりは一切しなかった。そんなことをしなくても、心の奥の深いところで結びついていたからね。何というか…」


 彼も空を見上げた。その整った横顔は、暗い中でも何を見ているのかが分かった。



 「あいつとは…以心伝心というか…」



 おれは、うっすらと口元に笑みを浮かべる彼の悩ましげな表情に見とれていた。




 「…ふたりで一個の存在だったんだ。隣にいて、当たり前。いなくては成り立たない存在。俺たちは出会ってしまったんだ。……自分の片割れに」




 「自分の片割れ?」



 「ああ」




 彼は二本目のタバコに火をつけた。



 「…人の心は皆、完全な円でできているらしいが、どうしたことかどれもどこかが欠けている。人は、その欠けた部分を探す旅をしているんだ。それが、片割れさ。しかし、なかなかぴったりと当てはまる物はない。欠けた部分の大きさや形が様々だから、片割れに会うのは非常に困難。会える確率は、65億分の1。……まさに幻だよ」




 おれは押し黙ってしまった。彼が言いたいことは分かる。




 「…俺たちは、幻に会ってしまったんだよ。そしてまた、幻と化してしまった…」



 「…新一さん…」



 「もう少しで幻を手に入れることができたのになあ…」



 彼は自嘲的な笑みを作った。



 「悔しいよ…」



 もしかしたら、この人は、弟のおれよりも兄に一番近い人物だったのかもしれない。おれには、兄の心を理解し、兄の魂に触れ、ひとつに溶け込むことは簡単なことではなかった。



 兄貴、あんたはそんな存在を得て、何を感じていた?



 心の中で問い掛けても、兄の優しい笑い顔が瞼の裏に映し出されるだけだった。


 推測でしか、答えは出ない。




 「…うらやましい」


 「ん?」



 「うらやましいですよ。あなたと、おれの兄貴が。幻でも、一瞬でも、自分の本当の気持ちを分かち合うことができる相手と共に過ごせたなら、一生を長く普通に終えるよりも幸せじゃないですか」




 彼はタバコを吸った。


 何か、物思いに耽りながら、息を吐き出した。



 「…そうだな。俺は幸せ者だよ」



 「そしておれの兄貴もね。あいつ、15までしか生きられない命だと言われていたんだ。それなのに、20まで生き延びられた。それは多分、あなたという自分の片割れに会えたからなんじゃないかと思います」



 いつもいつも、兄は言っていた。

 メメント・モリ(死を想え)と。



 人間はいつか、終わりがやってくる。その日のことを想って、今すべきことは何か、人生を充実して終わらせるにはどうすればよいかを日々日々考えて、毎日の行動をすることである。



 もう命の時間が残りわずかと知った兄は、この言葉が好きだった。そしていつも、満足して死ぬために努力していた。




 「多分あいつは、……あいつも、あなたを必要としていたんだ。なにせ、あいつの目標は、死ぬまでに『心友』を作ることだったから」



 「心友…」



 「…そうです。あいつは、幸せ者です。短い時間なのに、心をひとつにできる相手が見つかって。しかも自分から、その関係をいいままにできて。おれなんか、まだまだなのに」




 彼は、二本目のタバコも火を消した。まだ長いままだった。副流煙だけが、ゆらゆらと立ち上る。




 「おれは、時々淋しくなる。本当の自分がなかなか外に出せない。友達との付き合いは、気を使うことが多くて、疲れる。しかも絶対的に信頼できる人なんていない。自分と全く同じ気持ちになれる人なんていないから。だけど……そうだと分かっていても、おれは、自分と全く同じ感覚・思考・感情…すべてが重なった喜びを心の奥底で感じてみたいんだ。自分を素直に出せる人間が、隣に欲しい」





 彼は、おれの肩を遠慮がちに抱き寄せた。


 おれは拒みも躊躇いもせずに、成り行きに任せた。


 「…我が弟よ」



 彼はおれの頭をぐしゃぐしゃ掻き撫でた。



 「……ごめんな、つらい想いをさせて」




 おれは何も言えなかった。



 「…お前の大事な兄貴をとった上に、そんな風に俺たちが愛し合っているのを見せ付けられて、孤独に感じただろう……ごめんな」




 「……新一さんが謝ることではないです…」



 再びじいんときてしまった。


 人間は、なんて孤独な存在なんだろう。


 新一さんもまた、おれと同じく片羽を失っている。おれはまだこれからだけれど、一度逢ってしまった新一さんは、もう後がない。一生、片羽をなくしたまま生きていかなければならなくなったのだ。


 「…新一さん……おれ、兄貴がいなくなって生きていく自信ないよ……。あいつが、おれの中で一番信頼できる人間だったのに」



 そう、おれも新一さんと同じように兄を必要としていた。



 好きだったんだ。




 新一さんは無言だった。


 ただ、むせび泣いているおれの背中を優しくさすってくれた。




 「あいつは、悪魔だよ。おれを、孤独に耐えられ、ない体にしておいて、どこかへ飛ん、でいってしまうな、んて」





 「…そうだな」




 「この宛てのない感情をどこにぶつければいいんだよ…」



 そこまで言ったところで、新一さんは泣きじゃくるおれを強く抱き締めてくれた。


 新一さんの体温で、いつの間にか自分の体が冷たくなっていたのが分かった。



 「……俺にぶつけなよ。以前、あいつが言ってたよ。…俺とお前があまりにも似すぎてるってね。俺たちは、円の欠けた形がまるっきり同じなのかもしれないな」




 新一さんは、おれの耳元で温かく囁いた。





 「…俺たちは、欠けたところが合体して、すごく安定するような関係ではないのかもしれない。型が似ているから、求めるものも同じ、長所も短所も同じ。その代わり俺たちはこんなにもぴったりと重なり合える」





 おれは、背の高い新一さんの胸元を濡らしていた。




 「…俺たちは、重なり合えるんだよ。お前の兄貴の思い出も共有している。欲しいものは……もうなかったり近くになかったりするけれど、お互いに励まし合ったりできるんだよ。…俺たちは」




 「新一さんっ…」




 おれは、木に登る猿のように新一さんにしがみついた。彼はそれを見て、おれの後頭部を優しく撫でた。



 「…おれ、新一さんといたい」


 今言いたい言葉は、それだけだった。




 「…祐希」



 「…新一さん……おれが求めているのはあなたのような気がする」





 「ははっ……そんなに投げ遣りになるなよ。お前の片割れはきっとどこかにいるさ」




 「……違うんだ。…片割れなんていらない。おれは、最初から『重なり合う』相手が欲しかったんだ」





 彼は、軽くため息をついて笑った。




 「……そうか」



 彼は、おれの体を離した。

 そして、目と目を合わせる。




 「…分かったよ。……これからお前の傍いよう。……祐希」




 「…ありがとう」





 「あ、ひとつ訂正しておくけど、お前の兄貴は、悪魔じゃないよ。天使だったんだ」




 「天使……?」




 「そう。こうやって俺たちを引き合わせてくれたじゃないか」





 「あ…」




 「俺にとっては、あいつは天使だよ。人を愛することを教えてくれたし、」





 彼はふっと微笑んだ。もう、諦めを越えた、優しい表情だった。



 「……本当の友にも会わせてくれたしな。人間、完全体になるより不完全な方が楽しいのかもしれない。俺たちはいろいろ喧嘩はあるかもしれないけれど、気持ちを分かち合える。信頼し合える。そんな最高な友こそ、滅多にいないよ」




 おれは再び道路に目をやった。果てしなく続く道路を照らす街灯が、いっそう明るく見えた。



 しかしその明るさも限度があり、その先は(街灯はあるけれど)薄暗くなっていてよく見えない。さらにその向こうは真っ暗で、道があるのかさえ疑わしい。




 でも、確かにそこには道がある。



 おれはその上を歩いていく。

 その途中で何が起こるかは分からないし、どこまで行けるのかは定かではないけれど、おれは新一さんと共に進んでいく。足を怪我して歩けないときも、息の合った二人三脚でスムーズに進むことができる。


 兄は、そう伝えたかったのかもしれない。




 「…新一さん……帰ろう。兄貴に感謝してさ、今夜は一杯やろう」




 「一杯やろうなんて、オヤジくせ……ていうか、お前、まだ未成年だろ」





 「…大丈夫。今の時代は子供のビールがあるから」



 そう言ったところでおれたちは、爆笑してしまった。夜だというのに、怒られないかと気づいたのは数分後だった。



 「……それを言うならノンアルコールビールだろ。祐希、お前は子供のビールなんて不味いもの飲みたいのか」




 「…だってあれ、意外と旨かったぜ? 一時期はまった」




 それから何だかんだ言いながら、おれは新一さんの家に行き、朝方まで飲んだ。と言っても、新一さんの家にはノンアルコールビールも子供のビールもなくて、おれはオレンジジュースを腹一杯飲まされたのだが。





 空も白み始めてきて、おれはしぶしぶ新一さんの家を出た。茜色の空の下で、寝静まっていた住宅街は少しずつ活気づいてきた。




 あーあ、朝帰りしたら母親は何と言うだろうか。怒られるだろうか。それとも嘆かれるだろうか。どちらにしても、覚悟して家に入らなければならない。




 おれは昨晩新一さんといた歩道橋の上で空を見上げた。紅く染まり始めた大きなスクリーンに、星々が居心地悪そうに光っている。


 そのひとつが、流れ星になった。願い事を唱えることはできなかったが、そんなのはどうでもよかった。もうおれは、十分に満たされているのだから。



 小さくありがとうと呟いて、おれはまた、歩きだす。






 長くて寂しい夜が終わり、新しい朝がやってきた。

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