第9話:やさしい偶然、ふたりの距離
佐藤美咲は、東京の雑踏を縫うようにして歩き、ふと足を止めた。見上げた空には、雨上がり特有の淡い光が広がっていた。アスファルトに残る水たまりが、街の喧騒を静かに映し返す。
親友・絵里が営むそのカフェは、美咲にとって“心を預けられる場所”だった。
ガラス扉を開けた瞬間、濃く淹れられたコーヒーの香りと、雨の残り香がふんわりと混じり合い、心をふっと緩める。
「おはよう、美咲。いつもの?」
カウンターの向こうから、絵里の柔らかな声が響く。その声に、美咲は自然と頬を緩めた。
「うん、ありがとう」
いつもの窓際の席。そこには、カフェの看板猫・ミミがすでに陣取っていた。紫葡萄味のおやつを前に、つぶらな黒い瞳がまっすぐこちらを見つめている。
「待ってたの?仕方ないなぁ」
美咲はくすっと笑いながら、おやつの包みを開けてミミに差し出した。ミミは嬉しそうにぱくりと一口で食べ、すぐにもう一粒をおねだりするように前足でトントンと催促した。
その無邪気さに、思わず頬がゆるむ。こういう時間が、今の美咲には何よりの癒しだった。
しばらくして、カランと扉のベルが鳴る。視線を向けると、雨に濡れた傘をたたむ男性の姿があった。
西村悠斗――。
あの高尾山で偶然出会ったときが最初だった。助けを求めていた彼に、思わず手を差し伸べた――ただそれだけのはずなのに、不思議とあの瞬間が、心に焼きついて離れない。
助けを求めていた彼に、思わず手を差し伸べた――ただそれだけのはずなのに、不思議とあの瞬間が、心に焼きついて離れない。
「悠斗さん、こんにちは。ちょっと濡れちゃいましたね。タオル、持ってきます」
思わず立ち上がった自分に、少し驚く。けれど、彼の姿がどこか寂しげに見えて、放っておけなかった。
「あ、ありがとう。ごめんなさい、急に降られて……」
濡れた髪を気にしながら笑う彼に、美咲も思わず微笑み返す。絵里が奥から予備のシャツを持ってきて、それを彼に手渡した。
店のテラスには、簡易的な物干しが設けられていた。美咲は迷いなく彼のシャツを丁寧にかけ、少しずつ乾いていくその様子を見守った。
「ちょっとしたおもてなしですけど…よかったら、どうぞ」
キッチンで準備した軽食と、赤ワインに蜂蜜を落として温めたホットワイン。湯気の立つその香りが、雨の残り香と重なり、どこか懐かしさを誘った。
「美咲さん…本当に、ありがとうございます」
彼の言葉は、まっすぐで、誠実だった。その一言が、美咲の心に静かに染み込んでいく。
ふたりは、窓越しに広がる雨上がりの景色を眺めながら、ゆっくりと食事を楽しんだ。ミミが足元で丸くなりながら、時折小さな鳴き声を上げる。その可愛らしさに、ふたりは目を合わせて笑った。
「市役所で働いてるって聞きました。どんなお仕事されてるんですか?」
自然と出たその問いに、悠斗は少しだけ視線を落としながら、ゆっくりと口を開いた。
「災害対応課です。人を守る仕事…というと、ちょっと大げさかもしれませんけど。でも、誰かの安心に繋がるなら、頑張れるんです」
その言葉に、美咲の心がふわりと揺れた。亡き父もまた、人のために尽くし続けた人だった。彼の背中を見て育った自分を、思い出す。
「私も…デザインで、人の心に何かを残せたらいいなって思ってます」
静かに、でも確かな想いを込めて口にした。自分でも、こんな風に素直になれるとは思っていなかった。
会話の合間、悠斗は少し照れくさそうに、冗談めかして言った。
「……でもね。そんな“人を守る”なんて言ってるくせに、実はこの前――山で足くじいちゃって、助けられたんですよ。ある優しい人に」
その突拍子もない話に、美咲は思わず吹き出してしまい、ワインを少しこぼしてしまう。
「そう。滑って、動けなくなって、どうしようって思ってたら、ちょうど通りがかったその人が手を貸してくれて。冷静に声かけてくれて、応急処置までして……」
照れたように笑う悠斗に、美咲は思わず吹き出した。
その優しさが、ふわりと心を包み込む。言葉以上の何かが、確かに伝わってくる。
ミミがまた足元に戻ってきて、悠斗の足に甘えるようにすり寄る。その姿が、まるで二人を結びつける小さな橋のようだった。
「今日は…救われました。本当に、ありがとう」
「僕のほうこそ。美咲さんと話せて…心がほどけた気がします」
テラスには、再び穏やかな時間が流れる。雨は止み、空には一筋の光が差し始めていた。
まだ始まったばかりの、淡くて小さな物語。
でも、美咲の心には確かに――新しい何かが、芽吹き始めていた。