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第8話:痛みとやさしさのあいだで

朝の空気は、まるで昨日までの苦しみを洗い流してくれるように、澄んで冷たかった。

美咲はそっと目を閉じ、肺の奥までその冷気を吸い込んだ。高尾山の麓。まだ誰も歩いていない登山道に、彼女は一人、静かに立っていた。


失恋。婚約破棄。噂話。

東京の街に置いてきた全ての感情が、靴底にまとわりつく泥のように、まだ心に残っている。

だけど今日は、それらから少しだけ離れてみたかった。


「…少しだけでも、忘れられたらいいのに。」


呟いたその声は、風に溶けていった。

リュックを背負い直し、美咲は山道へと一歩踏み出した。


登山には慣れているはずだった。けれど、今日の足取りはどこか重い。心が不安定なときほど、体もそれに引きずられるようだ。

それでも、美咲は登ることをやめなかった。ひとつひとつ、坂を超えるたびに、胸の痛みが少しずつ削られていくような気がした。


やがて、頂上。

広がる景色は、まるで絵画のように美しかった。青い空、ゆるやかに流れる雲、遠くに霞む東京の街並み――。

「こんなにも、広い世界があるんだ。」

自然の静けさが、美咲の心にそっと寄り添ってくれるようだった。


彼女は岩に腰を下ろし、手作りのおにぎりを取り出した。いつもなら味気ない朝食も、ここでは少しだけ特別に感じられる。

ひと口、またひと口。

噛むごとに、心の棘が抜けていくようだった。


その時だった。

「ガサッ」という音が、近くの茂みから聞こえた。


「……?」


身を固くした美咲がゆっくりと立ち上がると、そこからよろよろと現れたのは――


血に染まり、泥まみれの青年だった。


「えっ……ちょっ、大丈夫ですか!?」


思わず声が出た。彼は今にも倒れそうな足取りで、美咲の方に手を伸ばす。


「……水……ください……」


その声はかすれていて、今にも消え入りそうだった。

名前も、事情も、なにもわからない。けれど、助けなければいけない。

迷うことなく、美咲はリュックから水筒を取り出し、彼の口元へ持っていった。


「はい、ゆっくり飲んで……」


彼がごくりと一口水を飲んだ瞬間、ほんの少しだけ顔色が戻ったように見えた。


「……ありがとう……ございます……」


その言葉に、美咲の胸がじんわりと熱くなった。

彼は名を、西村悠斗と名乗った。気分転換に山へ来たが、途中で足を滑らせて谷に落ちたのだという。

美咲は応急処置キットを取り出し、慣れた手つきで傷の手当てを始めた。


「……どうして、そんなに慣れてるんですか?」


「アウトドア、昔ちょっとだけやってて……。」



ぽつりと漏れた美咲の言葉に、悠斗は穏やかな笑みを浮かべた。

「あなたに助けてもらえて、よかった。」


その笑顔に、不思議な温かさを感じた。

痛みを抱えていたのは、自分だけじゃなかったんだ――。

そう思えた瞬間、美咲の胸の中に、小さな光が灯ったようだった。


「さあ、下山しましょう。ゆっくりでいいです。私が支えますから。」


悠斗の肩にそっと手を添えながら、美咲は歩き出した。

彼を助けたはずなのに、癒されているのは自分のほうだったのかもしれない。


下山の途中、ふたりは言葉少なに並んで歩いた。木漏れ日が揺れるたび、木々の間を吹き抜ける風が心地よかった。悠斗はまだ足をかばいながらだったが、少しずつ表情が和らいできたように見えた。


登山口のベンチに腰掛けたとき、ふと悠斗がポケットから小さなメモ帳を取り出し、美咲に向き直った。


「今日は、本当にありがとうございました。助けてもらっただけじゃなくて……なんだか心まで軽くなった気がします。」


「……私もです。きっと、ひとりだったら下山の途中で泣いてたかも。」


ふたりは顔を見合わせて、少しだけ笑った。


そして、悠斗がふいに口を開いた。


「もしよかったら、またお礼をさせてもらえませんか? 無理にとは言いませんけど……その……ちゃんと元気な姿で、ちゃんと感謝を伝えたいんです。」


言葉を探しながらも真剣なその声に、美咲はほんの少し戸惑いながらも、素直にうなずいた。


「……はい。じゃあ、連絡先……交換しましょうか。」


「えっ、いいんですか?」


「助けた人がちゃんと元気かどうか、見届ける責任くらいはありますから。」


冗談めかして言った美咲の言葉に、悠斗は少し照れくさそうに笑い、スマートフォンを取り出した。


画面に表示された名前を見て、美咲はふわりと微笑んだ。


「じゃあ、また連絡しますね。元気な姿、楽しみにしてます。」


「うん。僕も……次はちゃんと、お礼できるようにしておきます。」


その日、春の風がふたりの間をやさしく吹き抜けた。

過去の痛みが少しずつほどけていくのを感じながら、美咲はスマホを胸元にそっとしまった。


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